2008/05/31

姓と名

ビルマ人には姓がない。例えば、アウンサンスーチーさんの場合は、「アウンサンスーチー」すべてが名で、姓といったものは含まれていない。

そこで、日本に暮らすビルマ人は、外国人登録などの行政手続きの際に少々困った事態に直面する。

なぜなら、たいていどの書類にも姓と名を記せ、と書いてあるからだ。

そこで、うっかり名前の前半部分を姓の欄に、後半部分を名の欄に記入して、後で欧米風に姓と名をひっくり返されて、おかしな名前で登録されてしまった人もいる。

近頃では、役所で手続きするビルマ人が増えてきたため、ビルマ人には姓がないという事実が行政の現場に、周知されるようになったようだ。

先日あるビルマ国籍カチン人が役所に行って書類に名前を記入した。書類を見た職員、相手がビルマ人だと知るや、マニュアルを取り出してビルマ人のページを見て言った。

「ビルマの方ですよね、姓の欄に記入してありますが、ビルマ人は姓の欄には記入しなくてもいいのですよ」

そして、姓の欄に書かれた文字を消して、名前の欄に書くようにと、助言した。

だが、その職員は知らなかったのだ、カチン人はビルマの中で例外的に姓をもつ民族であることを。

そんなわけで、そのカチン人は、職員の親切により日本で姓を登録し損ねたのであった。

(もっとも、カチン人はビルマ本国においてすら、自分たちの重要な文化的な印である姓を蔑ろにされている。つまりビルマ政府による国民登録や住民登録で、カチン人の姓が記載されることは滅多にないのである。)

ソウ・バティンセインの言葉

以下は、ソウ・バティンセイン(Saw Ba Thin Sein)の経歴に付されていた彼の言葉を訳したもの。

ソウ・バティンセイン
KNU議長の残した言葉


わたしはカレン革命が誠実なものであり、正しいものであると信じて働いてきました。カレン民族が不当に弾圧され、虐待される状況に、またカレン人女性が残酷に辱められる状況に、わたしはカレン人のひとりとして我慢することができませんでした。カレン革命がどんな困難に遭おうと、どういう状況に置かれようと、わたしは革命運動を自分の命が尽きるまでやり遂げる気持ちでいます。今やわたしは老齢にありますが、絶望はしません。諦めません。わたしは革命の使命をできるだけ果たしたい。片足を失ったら残りの足で、片手を失ったら残りの手で、できる限り頑張りたい。たとえ自分の手足が動かなくなっても、まだ脳が働く限り、頑張り続けます。最後に脳が半分しか動かなくなっても、その半分の脳で革命をやり遂げます。
2008年5月5日

わたしたちカレン民族をはじめとする非ビルマ民族は、幾世代も抑圧されてきたため、あらゆる点で取り残されてしまいました。迫害のために、自分の運命を自分で切り開く機会が与えられなかったのです。その機会を手に入れるために、カレン民族を含むすべての非ビルマ民族が闘っています。自分の運命を自分で切り開く機会を手に入れること、これはあらゆる民族にとって生得の権利なのです。
2007年2月5日

すべての問題を平和的な方法で解決すること、これがわたしの一番の願いです。わたし自身としては、相手と直接会って議論し、答えを探すことが、問題の解決につながる、と信じています。わたしたちの国の問題にしても、他人のあら探しにうつつを抜かさず、すべての民族が参加し、時間を作ってともに答えを探るのなら、きっと解決する、とわたしは確信しているのです。
2005年9月19日

ビルマ国境ニュースNo.10発行のお知らせ


「ビルマ国境ニュースNo.10」を発行いたしました。

【内容】
1)4月26日在外投票事件の真相!「ある女性の証言」

2)在日チン人難民女性のエッセー「小さなカタツムリのように」

3)入管行政を斬る!「いま入管ははち切れんばかり!(下)」

4)在日カチン人漫画家の一コマ漫画

など全10ページ。このブログでもいずれはダウンロードできるようにしたいですが、とりあえずは手渡しもしくは郵送のみです。

ご希望の方はメールにてご連絡ください。

「ビルマ国境ニュース」は、非ビルマ民族の政治活動を軸にビルマ民主化運動の現状を伝え、その活動と取り巻く状況を批評するニュースレターです。

2008/05/28

それを言うと冗談の言いすぎではなかった

ビルマ国民の間で、魚を食べるのを忌む人々が急増しているという。

これはもちろん、先のサイクロンで多くの水死者が出たことに基づく。つまり、水死者をついばんだ魚など食べられない、というわけだ。

軍事政権がいまだに犠牲者を水面に放置しているという現状が、このような風評を生み出したのに違いない。

いまのところこの風評により被害を受けているのは魚屋さんであるということだが、災害時の悪い噂というものは、どこにどう飛び火して爆発を引き起こすか、知れたものではない。

2008/05/27

日本市民体験者の記録

4月26日在外投票の日、事件の渦中にいた日本市民の記録が

ノッポの日記:4月26日(土)の重要な出来事

で読むことができます。

難民支援を長く続けている筆者のノッポさんは、難民の間ではかなり知られた方です。

2008/05/25

それを言うと冗談の言いすぎだ

ガピイというのは「魚やエビを腐らせて擂りつぶした塩辛に似た食べ物(注)」で、ビルマの人々の食事には欠かせない食品だ。かなり強烈な臭いを発するので、ビルマの人々の「外国人が食べているのを見るととうれしくなってしまう食品」にも指定されている(たいていの日本人にとっては納豆だ。もっとも、ビルマでは納豆も食べる)。

魚とエビが主原料であるから、新鮮で上等な海産物が獲れる土地のガピイはおいしいとされる。今回のサイクロンでもっとも被害を受けた町のひとつ、ラブッタも名産地として知られている。

日本で政治活動を行うあるビルマ人が、酒を飲みながらこんなことを言った。

「もう、ラブッタのガピイは食べられない! 水死体の肉を食べた魚だからね」


(注)『それを言うとマウンターヤの言いすぎだ』(新宿書房、マウンターヤ著・田辺寿夫訳)p12の注より引用。

ソウ・バティンセイン追悼集会

5月22日未明に亡くなったカレン民族同盟(KNU)議長ソウ・バティンセイン氏の追悼集会が、カレン民族同盟日本支部(KNU-Japan)により以下の要領で開催される。

日時:6月1日 午後6時〜9時
場所:コア・いけぶくろ(豊島区民センター)5階
   JR山手線池袋駅東口下車 徒歩約5分
   地図
主催:カレン民族同盟日本支部(KNU-Japan)
連絡先:090−8559−0195

2008/05/23

サイクロンの被害(ミャウンミャ)

在日カレン人から聞いたミャウンミャ(イラワディ・デルタの町)の状況。

ミャウンミャ自体のサイクロン被害は大きなものではなかったが、近隣の村々では甚大で、それらの村から多くの被災者がミャウンミャに流入している。

町の小学校が仮の避難所となっており、ある小学校には6000人もの被災者が寝泊まりしている。

食料、医薬品、飲み水が足りない。衛生状況が悪化しているため、ミャウンミャ住人にも感染症などの心配が生じている。

軍事政権は5月25日から小学校を再開させる予定であり、それまでに被災者たちをどこかに立ち退かせようとしている。

サイクロン・レポート(5月11日)

以下はパテイン(イラワディ管区)在住のカレン人の教会関係者の方からいただいたメールを和訳したもの。発信者の身元が分からないよう若干手を加えてあります。

サイクロンはパテインではひどくありませんでした。しかし、パテイン西部の村々は暴風雨によりかなり破壊されてしまいました。この辺りの村では相当の死者が出ています。被害を聞いたわたしは同僚とともにバスで向かいました。

ラブッタ周辺の村には5月11日に着きました。わたしたちはそこで出来るだけ多くの食料と医薬品を配布し、ビデオで活動を記録しました。それからボートに乗って別の村に行きました。

その村に着くや否や目に入ってきたのは、川面に浮く無数の人々の遺体でした。死んだ家畜も浮かんでいます。腐臭がどこにいってもつきまといます。

村には生存者もいましたが、着る服すらないのです。ほとんどが家を失い、食物にこと欠く人々もいます。

本当にわずかな人々だけが難を逃れることができました。それ以外の人々、わたしたちの仲間、その家族も皆亡くなってしまいました。

わたしは写真を撮って記録しました。

医薬品、食料、避難所、衣服、飲料水が絶望的なほど不足しています。わたしたちは食料を渡し、とても深刻な状態にある者については、パテインの避難所に連れて行きました。(終)

KNU-Japan

カレン民族同盟日本支部(KNU-Japan)のウェブサイト(ビルマ語)をリンクに追加。Art For Freedomという民主化活動を行うメディアの協力によりウェブを運営しているとのこと。

2008/05/22

KNU議長の訃報


カレン人の反軍政組織、カレン民族同盟(Karen National Union)の議長、ソウ・バティンセイン(Saw Ba Thin Sein)が5月22日午前2時、ビルマ国内のKNU解放区内で亡くなった。パドー・マンシャのように暗殺されたわけでなく、病死と伝えられる。

DVBが報じている彼の略歴を以下に訳出する(KNU leader passes away)。

1927年3月11日  イラワディ管区ヒンダタにソウ・バセインとノウ・ティンミャッとの間に生まれる。9人きょうだいのうちの次男。

1946年  ヒンダタのアメリカン・ミッション・スクールの高校を卒業。

1949年  カレン民族革命(つまり民族解放の闘い)に加わる。

1963年  カレン民族同盟(KNU)中央委員会委員。

1970年〜1971年  KNUマゴイ・タヴォイ地区議長。

1978年  KNU教育文化局担当

1983年  KNU事務総長

2000年〜2008年5月  KNU議長

写真は2004年6月にKNU解放区で開催された第3回カレン・ユニティ・セミナーで、筆者が撮影したもの。このセミナーが終わると、病身のバティンセインさんは下の写真(2004年6月撮影)のように運ばれて、ジャングルの中に消えて行った。

これを見ていたあるカレン人、「これがカレンのヘリコプターさ!」


カレン民族同盟は日本にも支部がある。その支部の代表を務めるカレン人にある日本人が言った。

「おかげさまで、先日、子どもが生まれました」

「おめでとうございます。生まれたのは何日ですか?」

「3月11日です」

「それは素晴らしい! カレンの『大統領』ソウ・バティンセインと一緒ですよ!」

とあまり意味のない興奮をするくらいカレン人にとっては重要な人物だ。ボーミャ、マンシャと立て続けに指導者を失っているカレン人が受けた衝撃は大きい。

KNUの日本支部、KNU-Japanはソウ・バティンセイン追悼式典の準備をはじめたとのこと。

果報は死んで待て

チン人のある難民申請者が、渋谷のラーメン屋で働いていると、入管の職員が押し掛けてきて、彼の仮滞在許可証を見るや、「働くことまかりならん」と。

解雇された彼は、さっそく品川の入国管理局に行って入管職員に質問した。

「自分が難民申請をしてもう9ヶ月にもなるが、未だに何の判定も出ていません。それなのに働いてはいけないといわれました。いったいどうすればいいのですか」

入管職員は答えた。

「待ちなさい」

ああ、時はすべてを癒してくれる偉大な癒し手なり! だが、待っている間に餓死してしまったら、時といえども癒しようがないのである。

(詳しくは以前の投稿「もっとリアリズムを」参照)

2008/05/21

OKO-Japan

5月18日、在日カレン人の政治団体、海外カレン機構(日本)Overseas Karen Organization (Japan)の月例会議に出席。サイクロン被災者救援等について議論。

リサイクルセンター

高田馬場駅近くにある新宿区リサイクルセンターとその裏手の新宿区消費生活センターでは、日曜日になるとたいていいくつかのビルマ民主化団体や少数民族団体が会議室を借りて、会合を開いている。

そんなわけでリサイクルセンターではついにビルマ語の後片付けシート(会議室使用後に記入して提出する紙)まで出来てしまった。


扉にはこんな張り紙も。

2008/05/20

U MINGALARのつぶやき

ウ・ミンガラこと西田敦先生のブログ

U MINGALARのつぶやき

をリンクに追加。

齢80にしてブログをはじめたウ・ミンガラが、ビルマ難民を取り巻く不合理な現状に怒る!

ある女性の証言(4)

大使館前は大混乱でした。わたしはもみくちゃにされて、押し潰されそうになったのですが、そのとき、警官が身を挺してわたしを守ってくれました。

わたしの友人も同じような経験をして、危うく踏みつぶされるところを警官が引き上げてくれたのだそうです。

彼女が言うには、後でみんなが「悪い警官、悪い警官」と叫んで非難したとき、自分はどうしてもそう叫ぶ気になれなかったとのことでした。

別の人は、警官や機動隊員の中には涙を流していた人もいたと言います。職務上仕方なくわたしたちを手荒に扱ってただけで、本心はビルマ人たちに同情していたというのです。本当かどうかはわかりませんが。

なんにせよ、警官たちはわたしたち活動家を排除するときは容赦ありませんでした。ある女性は警官に足を蹴られ、首根っこをつかまれました。すると不思議なことに全身の力が抜けてしまったそうです。もしかしたら、彼らは首の神経を圧迫して脱力させる技を身につけているのではないか、というのが、彼女の見解です。

さて、わたしはといえば、3〜4人の警官たちに抱えられて、列の外へと運ばれて行きました。「自分で歩けます」と言っても放してくれません。わたしはバッグを落としたのですが、それを拾うことすら許してくれませんでした。

この日は12人が救急車で病院に運ばれましたが、わたしもその1人でした。もともとは救急車に乗るつもりはなかったのですが、警官たちに道路に叩き付けられて腰を痛めた女性に付き添っていたら、なりゆきで救急車に乗ることになってしまったのです。彼女ほどひどくはなかったのですが、わたしもやはり怪我をしていました。

救急車にはひとりの謎めいた救急隊員が乗っていました。車内で彼はわたしたちにいろいろ署名させました。わたしたちが連れて行かれたのは築地にある聖路加病院でしたが、この謎の救急隊員はまるでわたしたちを監視するかのようにそばを離れないのです。

「どうしてわたしたちのところにいるのですか。忙しくはないのですか」とわたしが聞くと「あなたたちが外人だから親切にしてあげます」と彼は答えました。わたしの疑念は募るばかりです。

1時間ばかり待たされた後、診察が始まったのですが、びっくりしたことにこの救急隊員も診察室に入ってくるのです。そればかりではありません。口まで挟むのです。

わたしが医者に自分の痛みを説明しようとすると、この隊員が「大丈夫、大丈夫、たいしたことありません」と勝手なことを言います。

怪我したときの状況についてわたしが医者に話していると、この隊員は「あなたたちが警官の言うことを聞かないから、そんな目に会うんだよ!」と話の邪魔をします。まるで警官の代弁者のようです。

しかも、医者も医者で、どうもわたしたちの怪我を真剣に見てくれているようではありません。何を言っても「大丈夫、大丈夫」です。

ある女性の足を診察した医者は「あなた、前から足が痛いでしょう」と、まるで怪我の原因が今日の出来事ではないかのような口ぶりです。

別の人の怪我に至っては、「今日のところはヒビは入っていないが、明日ヒビが入るかも」などと言う始末です。

謎の救急隊員といい、医者の対応といい、わたしはどうも釈然としないものを感じたのでした。

そこでわたしたちは診断書をください、と頼みました。すると、忙しいからすぐにはできない、といわれましたが、もしここで引き下がるとうやむやになってしまうのではないかと恐れたわたしたちは、怪我が痛くても我慢して診断書を待つことにしました。

診察中に、ある負傷者のもとに電話が入りました。誰からかはわかりませんが、「医療費は払う必要はないから払わないように」という電話でした。

わたしたちの中には、まだ難民申請中の人もいました。つまり、保険がない人もいたということです。だから、診察が終わって3万円、4万円という額を請求される人もいました。

そこでわたしたちが「こんなお金は持っていないし、払うつもりもありません」というと、病院側の答えは「それはわたしたちとは関係のないことです」というものでした。結局わたしたちは払いませんでした。

その日病院で診察を受けたのは12人だけでしたが、実際には怪我をした人はもっといました。ただ病院に行かなかっただけです。しかも、当日は何ともなかったのに、翌日あるいは数日後に激しい痛みを感じて後から病院に行った人もいます。(終)

2008/05/19

ランボー最後の戦場


ランボーが、どうやら勝手にビルマを最後の戦場と思い定めてしまった模様だ。

それはそれでかまわないし(映画の中だから)、現実に同じようなことをしている人もいる。例えばカレン民族解放軍(KNLA)に加わる日本人がそれだ。戦いたがり屋としか思えないが、人それぞれにいろいろな考え方、命の使い道があるということだろう。

もっとも、ビルマの人々の中にもこうした戦いたがり屋を歓迎する人もいる。

3年前、ヤンゴンでタクシーに乗ったとき、初対面の運転手がいきなりこんな風に言ってきたのにはびっくりした。

「あんた外国人だろ? イラクみたいにアメリカがビルマにやってきて、政府をやっつけてくれねえかな!」

もちろん、アメリカが来るといっても、スタローンではない。名うての戦いたがり屋、アメリカ軍だ。要するに、こんな危ない願望を抱くほど、つまりイギリスと日本の軍隊がかつてビルマでどれだけひどいことをしたかすら忘却してしまうほど、ビルマの国民は軍事政権に追いつめられているというわけだ。とはいえ、現実にアメリカの軍隊がやって来たとしたら、その結果はイラクと同じく悲惨にちがいない。

ビルマの民主化においては、武力によらない解決、死者を出さない解決こそが最良のものだ。実際ほとんどの民主化団体、少数民族組織が平和的解決への道を探っている。

「ムダに生きるか、何かのために死ぬか。お前が決めろ」とは、劇中でランボーが口にする台詞にして、宣伝文句だが、民主化を求める政治家や政治活動家の言葉ではありえない。まともな政治指導者にとって問題となるのは「ムダに国民が死ぬビルマか、何かのために人が生きることのできるビルマか」の二者択一、そして答えはわかりきっている。

もっとリアリズムを(補遺)

こんなふうに「働いてはいけない」と記されている。

(3)活動の制限
収入を伴う事業を運営する活動又は報酬を受ける活動に従事することを禁止します。
You must not engage in activities related to the management of business involving income or activities for which you receive remunaration.



これは「仮滞在」の許可証の場合であるが、「仮放免」の場合は許可証には同様の記載はなく、ただ入管職員から口頭で「働いちゃダメ」と指示されるとのこと。

2008/05/16

もっとリアリズムを

5月14日水曜日の事件。

朝7時30分のこと、中目黒にある串焼きの食品加工場を10名ほどの入管の職員が襲撃した。

当時そこでは12人のビルマ国籍者が働いていたのだが、飛来した入管の職員は全員の滞在資格を調べ、そのうち6名が労働資格を持たないことを、輝く目で発見した。

そして、ただちに雇用者を呼びつけて、この6人をやはりただちに解雇させたのである。

問題は、この6人が難民申請中の身だということだ。

難民申請をすると申請中の滞在を保証する仮放免許可証という紙が申請者に渡される。そしてしばしばその紙には「働いてはいけない」と書いてある。

もっとも、書かれていない場合もある。どうしてある申請者は働いてよくて、別の申請者はダメなのか、その理由は知らされることはない。これがまずおかしなことだ。

次におかしいのは、「働いてはいけない」人が、難民認定の結果がでるまで、2〜3年も待たされるということだ(現在の入管が難民申請者の増加に対応できていないのでこんな事態になっているのだ)。その間どうやって生き延びれば良いのか。

働いてはいけないといいながら、そして何年も結果を待たせながら、入管は申請者を放置し、何の援助も行わないのだ。

だが、生きるためには腹を満たさねばならない。そのためには幾ばくかのお金を手にしなくてはならない。だから、難民申請者は働くのである。仮放免許可証の記載がどうあれ、生活のために働かなくてはならないのである。

それを入管は見逃さないのだ。摘発と称して乗り込んでくるのだ。飛んでくるのだ。そして仮放免の紙に「働くべからず」と書いてあるのをめざとく見つけては、解雇させるのだ。

まったく馬鹿げたことだ。兵糧攻めだ。難民申請者が飢え死にするのを見てるんだ。

いや、そうではない。そこまで入管はずる賢くない。ただ、入管の職員は、人間は食べなければ生きてゆかれぬという事実を知らないだけなのである。人間の現実を知らないのだ。

職場に、現場に、難民法に、入管法に、入管職員の頭の中に、もっとリアリズムを。

「そんなことわかってらい!」とやんちゃに言うのならば、難民申請者の就労を全面的に認めるか、申請者に生活費を支給したまえ。

サイクロン被災者追悼礼拝

大久保にあるビルマ教会(チン人が中心、他にカレン人、カチン人、ビルマ人など)、ミャンマー・クリスチャン・ミッション・センター(MCMC)からのお知らせ。

追悼礼拝のご案内

2008年5月5日
関係者各位

イエス・キリストの御名においてご挨拶申し上げます。

ミャンマー(ビルマ)を襲ったサイクロン「ナルギス」による犠牲者を悼む礼拝集会を下記の要領で開催いたします。ご参加ください。

2008年5月2日夜に襲来したサイクロン、ナルギスは5月3日、4日と吹き荒れ、旧首都ヤンゴンと穀倉地帯イラワディ・デルタを含むミャンマーの南西部を壊滅させました。

食料、飲料水浄化設備と容器、一時避難所の衛生設備、避難所の備品、燃料、基本的な医薬品、医療処置のすべてが絶対的に必要とされています。被災者の中から、これらの必要を満たすために災害中心地の外へと移り住もうとする者が生じている一方、飲み水、食料、避難所もないままデルタ地帯で立ち往生している者もいます。交通網、連絡網が破壊され、また浸水が広がっているため、救援活動は難航し、今後一週間の天気予報で報じられている豪雨がさらにその困難に輪をかけます。

わたしたちは被災者のために祈らなくてはなりません。被災者たちが困難を乗り越えられるよう手を差し伸べなくてはなりません。

ぜひわたしたちとともに祈りにいらしてください。

期日: 2008年5月18日
時間: 午後5時30分より午後9時まで
会場: 東京都北新宿3-10-5 中央栄光教会(Central Gloria Church)
連絡先: ジョセフ・ラルトング牧師 jpnmjoseph01@yahoo.com
ジュリア・マンガイハウ事務局長 haukhek@yahoo.com


海外旅行

在日カレン人の中でも、とびきり暢気な男(ビザなし、パスポートなし)がある日、

「カナダにいる友人のところにちょっと遊びに行きたいんだけど、どうすればいい?」

といきなり電話してきた。

ある女性の証言(3)

大使館員らしき男性や女性職員を取り囲んだりしていたのは、それぞれのグループのリーダーたちで、それ以外のわたしたちは、ただ黙って並んでいました。

すると警察たちがやってきて、わたしたちを道路の邪魔にならないよう壁際に2列に並ばせました。わたしたちは何の抵抗もせず、警察のいう通りにしました。

しばらくすると、大使館前に警察の車がやってきました。機動隊の姿も見えました。マイクから退去するようにとアナウンスする声が聞こえました。車の上の台に何人かの男が立っていて、カメラやビデオでわたしたちの姿を撮影していました。

警察と機動隊員の数がどんどん増えてきて、緊張がじょじょに高まっていきました。ビルマ人の誰かが「みんな、手をつないで!」と呼びかけました。そして、警官と機動隊員が一斉にわたしたちに押し寄せてきました。

先に彼らがわたしたちを壁際に並ばせたことをお話ししましたが、わたしはこれは警官たちがわたしたちが通行人の邪魔にならないよう配慮してくれたのだと考えていました。ですが、それはわたしの勘違いだったと思います。警官たちはわたしたちを壁際に並ばせることでわたしたちの動きを封じたのでした。襲いかかってきた警官たちはわたしたちを壁に押し付けました。見ると壁と人に挟まれているのは女の子ばかりでした。妊娠中の女の子もいました。

「死んじゃう、死んじゃう」「つぶされる!」

みんなが悲鳴を上げていました。2列に並ばされたわたしたちに対し、4列の機動隊員たちが押してくるのです。なす術もありません。

警官と機動隊員たちは次々とビルマ人を排除していきました。3〜4人で1人のビルマ人をまるで人形のように抱えて連れ去っていくのです。

警官も機動隊員も鍛えられた人たちです。ビルマ人の中には日本人より大きな人もいますが、敵うわけはありません。ましてや女性など赤子も同然です。3人の警察が女性を抱えて運んで道路に放り投げていました。彼女は「痛い痛い」と泣き叫びます。それを見ていたビルマ人が「やめろ!」と駆けつけると、たちまち警官たちに取り押さえられてしまいました。

激しいもみ合いの中、わたしは1人の男性が、警官たちにむりやり列から引きはがされていくのも目撃しました。警官たちはその男の人を離れたところに連れて行くと、地面 に引き倒し、2人の警官がその上に馬乗りになって激しく殴っていました。5人ほどの警官たちがその周りを取り囲んで、見えないように隠していました。「死んじゃうよ、死 んじゃうよ!」わたしは叫びました。後から思えば、このとき殴られていた人が、逮捕された人なのかもしれません。

わたしたちの劣勢は明らかでした。みんな警官たちに向かって叫んでいました。「何で日本政府は軍事政権をかばうんだ!」

警官たちはものすごい形相で何か怒鳴り散らします。これにビルマ人側も激しく怒鳴りかえしました。

「同じ人間なのに、どうしてわたしたちだけこんな目に会わせるのか!」

「わたしたちには関係ない!」と警官たち。

「軍事政権がどれだけひどいことをしているかわかるでしょ!」

「関係ない!」「知らない!」

大使館前は凄まじい光景でした。わたしは日本に暮らして20年近くにもなりますが、まさか日本でこんなことが起きるとは思いませんでした。日本の警察がここまでするとは思いませんでした。

ある女性の証言(2)

大使館前にできた列に並んでいると、スーツ姿の男性が大使館から出てきました。大使かもしれませんがわかりません。

もしかしたら、わたしたちの投票を認めるのではないかと思って、誰もが固唾をのんで見守っていましたが、そうはなりませんでした。

また、別のとき、大使館より女性職員が3人出てきて、わたしたちにこう告げました。「大使館に税金を収めていない人には投票権は認めない」

税金というのは、在外ビルマ人がパスポート更新のために大使館に支払わなければならないお金のことです(収入の一割を支払わなければならないといわれている)。世界中どこを探してもこんなバカげた税金はありませんし、結局軍人のポケットマネーになるお金なので、わたしたちは払っていません。ビルマ大使館が「税務署」とビルマ人に呼ばれている理由がわかるかと思います。

活動家たちは女性職員に詰め寄りました。

「わたしたちはそんな税金は払いたくない。軍事政権を利するだけだからだ。でもわたしたちはれっきとしたビルマ国民だ。わたしたちに投票権を与えるべきだ!」

3人の女性職員はよってたかって責められるので、2人がとうとう泣き出してしまいました。この3人の職員は日本人とビルマ人だったと思います。

すると、日本の警官たちが、彼女たちを守ろうとして活動家たちの間に割って入りました。

大使館の中を見ると、明らかにビルマ軍人とわかる男たちが、鋭い目つきでこの様子を注視していました。

わたしは思うのですが、このように女性だけを3人、活動家たちの中に放り出したのは、軍事政権の汚い策略なのです。このようにして危険に見える状況を作り上げることで、日本の警察に介入させるきっかけを与えたのでしょう。

わたしは大使館の塀の中からこっちを睨みつけている軍人たちに向かって叫びました。

「どうして弱い女の人を外に出すの! 男のあんたたちが出てこないのは汚いよ! 責任者が出てこい!」

軍人たちは知らん顔をしていました。

2008/05/11

ある女性の証言(1)

わたしがその日大使館前に行ったのは、午前8時40分頃のことでした。

はじめは大使館前でなく別のところにわたしは知り合いと一緒に立っていました。どこに並べばよいかわからなかったので。

すると、制服を着た警察官がやってきて「投票権は持ってるか」と尋ねました。わたしが「投票権が欲しいから来ました」と答えると、警官は「ここは違うよ、大使館前に行って。ここに立っていてはダメだ」と言いました。

それでわたしたちは、大使館前の列に加わりました。後に警察はわたしたちを乱暴に追い出そうとしたのですが、そもそも大使館前に並ばせたのは警察だったのです。

わたしたちは静かに並んでいました。プラカードもシュプレヒコールもなく、ただビルマのパスポートと国民登録票を手に並んでいました。いつもやるようなデモではありませんでした。

ただし、大使館はわたしたちの投票権を認めてはいませんでした。一部の人にしか通知を送っていなかったのです。この通知がないと投票ができなかったのでした。ですが、わたしたちはれっきとしたビルマ国民です。その証拠となるパスポートなどを持って、静かに並んでいたのでした。

ただ大使館側が何かを言ってくるのを待っていたのです。門扉をこじ開けて大使館に無理矢理入り込もうとするものは一人としていませんでした。

治療費

4月26日病院に運ばれた者は、治療費を払うべきは警察であるとして支払わなかった。後に本当に警察が支払ったという。とはいえ、警察が払う前に自分で支払ってしまった人もいるにはいた。

いずれにせよ、警察は自分たちがやりすぎたことを認めたようなもの、と多くのビルマ人は考えている。

被害状況

12名が怪我をし、救急車で運ばれた。そのなかには妊娠3ヶ月の若い女性もいた。頭を負傷して入院した男性もいた。

当日病院には行かなかったが、打撲やねんざでのちに病院に行った者もいた。

張り切りすぎ

ある日本人の見解。

日本人はもはやデモをあまりしなくなっているから、機動隊は出番もなければ経験もない。だから、今回の強制排除では張り切りってしまったのだ。それで、ついやりすぎたというわけだ。

襲撃の始まり

ある人の証言。

大使館前でビルマ人活動家たちの強制排除がはじまったのは午後2時頃。警察と機動隊員はまず女性に飛びかかって服をはぎ取ろうとした。それを見ていたビルマ人男性が、やめろと怒って殴りかかった。これが襲撃ともみ合いの始まりだった。

2008/05/08

写真数葉




Moe Thauk Kye Journalより4月26・27日の活動を記録した写真800枚以上いただきました。ありがとうございます。

ビルマの人々の声明文

「2008年4月26日在外投票事件」抗議のための連帯のお願い

4月26日、東京品川のビルマ(ミャンマー)大使館前で、静かに並んで投票のときを待っていたわたしたち在日ビルマ国籍者は、日本の警察と機動隊に襲われました。彼らはわたしたちを大使館の前から引き離そうとして、乱暴を働きました。押しつぶし、殴り、羽交い締めにしました。女性の服を剥ごうとしました。1人の有能な指導者が逮捕され、12名が怪我を負い、救急車で病院に運ばれました。なかには妊娠3ヶ月の若い女性もいました。

わたしたちはただビルマ国民として当然の権利を行使しようとしていただけなのでした。自由と人権をないがしろにしているビルマ軍事政権は、自分たちの権力の存続のみを目的とした憲法を制定し、その賛否を問う国民投票を5月10日に行おうとしています。この国民投票に先立ち、軍事政権は各国のビルマ大使館で在外有権者のための投票を実施しました。4月26日と27日が日本での在外投票日でした。

だから、民主化活動家であるわたしたちは、パスポートを手に、拒否の票を投ずる決意を胸に、大使館前に並んでいたのです。

ですが、軍事政権はわたしたちを敷地内に入れようとはしませんでした。軍人たちはあらかじめ投票させて良い人だけを選別していたのでした。民主化を求める者、非ビルマ民族の側に立つ者、難民である者ははじめから排除されていました。

それでもビルマの国民であるわたしたちは投票権を求めて、大使館前に並び続けました。

大使館側はついにわたしたちを追い払おうと決めました。警察と機動隊がやってきて、ただ立っていただけのわたしたちをまるで石ころのように蹴散らしたのでした。わたしたちは暴力を振るわれながら、1946年以来続く非ビルマ民族に対する迫害を、1988年の民主化運動の弾圧を、そして去年のサフラン革命を想起し、わたしたちを痛めつける日本の警察官の手足の一本一本にまぎれもない軍事政権の刻印を見て取りました。

ビルマ民主化を求めるわたしたちの思いが、代表的な民主主義国家である日本政府によって踏みにじられたことは大変ショックなことでした。ですが、それもわたしたちの闘いの一部です。わたしたちははるかに凄まじい暴力を乗り越えてきたのです。

わたしたちが今憂慮しているのは、わたしたち自身のことではありません。日本人の皆さんのことです。このように簡単に不当な暴力を行使してみせる国に暮らす皆さんのことなのです。わたしたちを苦しめるビルマ軍事政権とこの日本との間に横たわる距離の短さが、わたしたちを心配させるのです。暴力によって立つ政府は、いつか顔つきが似てくるものです。

わたしたちは、現在この4月26日「在外投票事件」の記録と証言を集め、日本政府とビルマ大使館に対して抗議を行おうと活動を続けています。日本の皆さんがこの弾圧をきっかけに、ビルマと日本の民主化のため、わたしたちともに立ち上がってくださることを心から願っています。

2008年5月6日

「在外投票事件」の真相究明を求める在日ビルマ国籍者一同

弱みにつけこんで

在日チン人から聞いた話。国民投票の一週間ほど前のこと、そのチン人の母が、ヤンゴンの病院に入院した。

手術を受ける間際になって、政府の役人が病室にやってきて、彼女に事前に投票するように迫った。退院してからでも間に合うから、と言っても頑として聞かない。そんなわけで、彼女はしぶしぶ投票せざるをえなかったのだが、もちろん「賛成」以外に選択肢はない。

彼女が言うには「だって反対だなんて書いたら、手術中に何されるか知れたものではない」と。

逃げ足

在外投票の日、公務執行妨害容疑で国民民主連盟解放区日本支部の幹部の一人が逮捕された。彼の逮捕の知らせを聞いたある人が次のように尋ねた。

「で、Xさんは逃げたでしょう?」 

Xさんは逮捕された幹部とともに以前同じ役職に就いていた人であるが、借金を抱えて逃げ回っているという噂を想起して、思わずこう言ったのである。

2008/05/07

因果応報

因果応報を巡るカレン人キリスト教徒の話ふたつ。

在日カレン人のなかではちょっとした顔の夫婦の間に子どもが生まれた。その子は生まれてほどなくして皮膚病にかかり、頭の毛も抜け落ちるほど。

その夫婦に長いこといじめられてきたあるカレン人、赤ん坊のさまを見てひそかに喜んだ。すると、たちまちそのカレン人の体に異変が起き、痒くてたまらなくなった。

罪もない子どもの不幸を喜んだ自分に神様が罰を下したのだ、と恐れおののき、必死にその赤ん坊のために祈り続けたところ、体のかゆみも治まり、赤ん坊の病気も治ったという。

次の話。

アルコール依存症の若いカレン人と、彼の面倒を見ている年上のカレン人がいた。年上のカレン人は若者を自分の弟のように思って、あれこれ忠告するのだが、いっこうに効果なく、あいかわらず酒浸りの生活を続けるばかり。とうとう業を煮やして、ある晩、酔いしれている若者の足を思わず蹴ってしまった。

数日後、在外投票の日がやってきた。年上のカレン人は投票権を求めて、大勢の活動家たちとともに品川のビルマ大使館前に並んでいたが、やがて警察と機動隊の強制排除がはじまった。彼は、他の民主化活動家とともに激しく抗議し、警官たちに抵抗した。

あっという間に警官たちに取り囲まれた彼の足を、誰かが強く蹴った。それは数日前の夜、まさに彼が若者を蹴った箇所だった。羽交い締めにされながら彼は即座に、神が自分を罰したことを悟ったのだが、付け加えて語るには「警官たちは柔道をやっているだけあって、ローキックはたいしたものだったね」と。

在外投票事件映像

YouTubeよりビデオをいくつか。

election day of myanmar embassy (Japan)
ビルマ語。交渉の様子。

interview at infront of election day of myanmar embassy (1)
interview at infront of election day of myanmar embassy (2)
ビルマ語。警察と機動隊がくる前、パスポートを手に大使館前に静かに並ぶ活動家たち。

japanese police crackdown burmese citizens
警察がどのように振る舞ったかがよくわかる記録。

映像:投票日の暴力1〜4

YouTubeよりMyanmar8888(Violence Voting in Japan)26-4-2008 Part1~4の4本シリーズをリンク。

当日の経過がよくわかります。

映像

日本在住のアラカン人活動家アウンタンテーさんがYouTubeに投稿した映像を4本リンク。

TBSのニュース画像
2008-4-26 TBS NEWS(MYANMAR)ミャンマーニュース
2008-4-27 TBS NEWS(MYANMAR)ミャンマーニュース

現場の映像。2番目のものはなまなましい。
DEMOCRACY IN JAPAN (ミャンマーニュース)
DEMOCRACY IN JAPAN (ミャンマーニュース)PARTⅡ

モータウッチェ・ジャーナル

在日ビルマ人の発行する月刊紙、モータウッチェ・ジャーナル(Moe Thauk Kye Journal)のウェブサイトをリンクに追加(ビルマ語)。ビルマ語書籍を約5000冊所蔵する図書館を高田馬場で運営しています。

図書館と民主化活動はあまり関係ないように思えるが、1988年の民主化運動当時、ビルマ各地で市民の運営する小さな図書館や貸本屋は、学生や活動家たちの情報交換と学びの場となっていたという。

2008/05/06

サイクロン

ビルマのサイクロンの被害が尋常ではない。死者も2万人を超えたという。

在日ビルマ人たちも非常な衝撃を受けている。ヤンゴンやデルタ地帯出身の人々は心配して家族に電話するが、通じない状況だという。すでに各団体でも義援金を募り、支援を開始している。

ひとつ気がかりなのは、在日ビルマ人の多くがヤンゴン出身であることから、それらの義援金がヤンゴンの被災者にしか行き渡らないのではないかということだ。

もちろんそれでも良いのだが、それでは同様に被害の大きいデルタ地帯が抜け落ちる可能性がある。この地域はヤンゴンほど有名ではないが、穀倉地帯としては非常に重要な地帯だ。

しかも、カレン人の居住地域でもある。デルタのカレン人は、タイ・ビルマ国境のカレン人ほどには注目されてはいないが、同じくらいひどい弾圧下に暮らしている。

だから、支援のありようによっては、もしかしたら今後、デルタのカレン人にとって最悪の状況が生まれるかもしれない。

そんな懸念から、デルタ中心の支援ができないかと、デルタ出身の人々と共に話し合う場を設ける予定。

東京新聞

ミャンマー新憲法案賛否 軍政、ひそかに在外投票

2008年4月25日 朝刊

 【バンコク=大場司】ミャンマー軍事政権が、新憲法案への賛否を問う五月十日の国民投票に先立ち、国外で暮らすミャンマー人を対象に在外投票を始 めた。軍政は国連が打診した国際監視団の受け入れを拒否、在外投票の実施も公にしていない。その一方で、軍政は国民に新憲法案への承認を迫る組織的な運動 を推進しており、国民投票が公正に行われるかが強く疑問視される。

 本紙の調べでは、在外投票は各国のミャンマー大使館で期間を設けて実施。ミャンマー人が多く暮らすタイでは今月二十二日から六日間の日程で投票が始まった。約七万人のミャンマー人に投票資格があるという。

 シンガポールでは二十五日から五日間、ラオスでは二十六日から二日間、ベトナムでは二十七日から二日間、投票を行う予定。在外投票の実施は大使館からの電話や口伝えで通知されており、投票には旅券や労働許可証などが要るという。

 軍政はひそかに在外投票を始める一方、国内では国営紙に新憲法案の承認を求める標語や論評を連日掲載。軍政が設立した大衆運動組織「連邦団結発展協会」の会員もフル稼働させ、国民に新憲法承認を迫っている。

 これに対し、自宅軟禁中の民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさん率いる最大野党「国民民主連盟」は、胸の部分に「NO」と書いたTシャツを着るなどして反対運動を展開。だが、軍政は理由も告げずに党員らを拘束しており、反対運動を事実上弾圧している。

 軍政は「自由、公正な国民投票の実施」を国連や東南アジア諸国連合(ASEAN)の加盟各国に約束しながら、国際監視団の受け入れ拒否だけでなく、外国メディアによる国民投票の取材も一切認めない方針だ。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008042502006390.html


毎日新聞

在日ミャンマー人:大使館前で抗議活動…在外投票権求め

ミャンマー大使館前でパスポートを掲げ、抗議活動をするミャンマー人たち=東京都品川区北品川で2008年4月26日午後3時26分、須賀川理撮影
ミャンマー大使館前でパスポートを掲げ、抗議活動をするミャンマー人たち=東京都品川区北品川で2008年4月26日午後3時26分、須賀川理撮影

 ミャンマーの新憲法案の賛否を問う国民投票(5月10日)での投票権を求めて、在日ミャンマー人約150人が26日、東京都品川区のミャンマー大 使館前で抗議活動を行った。警視庁の機動隊ともみ合いになり、東京消防庁によるとミャンマー人とみられる20~50代の男女10人が手や足にけがをするな どして、病院に運ばれた。機動隊員に殴りかかったとして、ミャンマー人とみられる男(41)が公務執行妨害容疑で警視庁品川署員に現行犯逮捕された。

 国民投票を前に日本での在外投票が26日、2日間の日程で始まった。警視庁によると、抗議活動をしたのは、民主化運動などにかかわり在外投票の対 象から外されたミャンマー人らとみられる。抗議は同日朝から始まり、午後、警備の機動隊ともみ合いになったという。【杉本修作】

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080427k0000m040027000c.html

読売新聞

ミャンマー在外投票、大使館前で抗議グループが機動隊ともみ合う

ミャンマー大使館前で警官隊と向き合い、主張を叫ぶ男性ら(26日午後)

 26日午後1時20分ごろ、東京都品川区北品川4の在日ミャンマー大使館前の路上で、ミャンマー人のグループと警視庁の機動隊員がもみ合いになった。

 同庁品川署は自称ミャンマー人の男(41)を公務執行妨害容疑で現行犯逮捕。東京消防庁によると、ミャンマー人の男女8人が腕の打撲などで病院に運ばれた。

 品川署によると、逮捕された男は、もみ合いの際に機動隊員の顔を殴った疑い。

 同大使館ではこの日、軍事政権の新憲法案の是非を問う国民投票の在外投票が行われていた。大使館前には、投票権を与えられなかった在日ミャンマー 人約150人が詰めかけ、抗議していた。同署は、狭い路上で車の通行に支障を来す状態になったため、機動隊員らが移動させようとしたところ、もみ合いに なったとしている。

 集まったミャンマー人には、民主化を求めて国民投票には反対票を投じるつもりだった人が多く、「投票させないのはおかしい」などと訴えていた。

朝日新聞

在外投票権求めたミャンマー人 警察が強制排除

2008年04月27日01時53分

 ミャンマー(ビルマ)の軍事政権が主導する新憲法案の賛否を問う国民投票への投票権を求め、26日朝から東京都品川区のミャンマー大使館前で抗議行動を していた在日ミャンマー人らが、午後に警官隊に強制排除された。その際、1人が公務執行妨害で現行犯逮捕され、東京消防庁によると10人が病院に運ばれ た。

写真

ミャンマー大使館前で警官ともみ合う在日ミャンマー人たち=26日午後1時16分、東京都品川区、筋野健太撮影

 排除されたのは、同国の民主化運動にかかわる在日ミャンマー人ら約150人。大使館が26、27日の在外投票を知らせる対象から民主化運動関係者を除外したため、改めて投票を求めたが、大使館は応じなかった。昼過ぎに警官隊が排除に乗り出し、大使館前の道路を封鎖した。

 新憲法案は軍の権力を維持する内容で、軍政は中身を周知しないまま市民に承認への圧力をかけている。抗議者らは「投票すらさせないのはおかしい」と憤った。

http://www.asahi.com/international/update/0426/TKY200804260267.html

2008/05/04

他者との自己同一化

「確かに、他者との自己同一化、他者と自己を同じ人間として考える態度が、今日では昔より広がっていることは否めない。罪人の打ち首、八つ裂き、車裂きの刑を見物しに行くのが日曜日の娯楽であった時代ははるか昔のこととなった。」

『死にゆく者の孤独』ノルベルト・エリアス

ビルマはこうした「態度」が広がっていない国のひとつだ。軍人たちが非ビルマ民族に対して(大人であろうと子どもであろうと、男性であろうと女性であろうと)行っている蛮行は、この他者との自己同一化の欠如によらずして説明することはできない。

だが、軍事政権に迫害される側の人々(ビルマ民族も非ビルマ民族も)には、そういった態度が身に付いているかというとそうではないのである。

多くのビルマの人々にとっては、自分と異なる民族、自分と異なる信仰を持つ集団、自分と異なる政治的態度をもつ人々が、ときとして自分と同じ他者としてではなく、悪魔や禽獣に近い非人間的存在として立ち現れる瞬間がある。

もっとも、われわれ日本人が北朝鮮人や中国人のことをどのように見なしているかを考えれば、ビルマの人々のことを笑うことはできない。それは、日本人から北朝鮮人や中国人について聞かされた無知な人が、この二つの国の人々が強さと賢さにおいて超人に違いないと逆に結論づけてしまうほどなのである。



2008/05/03

お宮参り

生まれたばかりの子どもがいるビルマ人仏教徒が

「赤ちゃんをお宮参りに連れて行かないと、中学生ぐらいになったら日本人にいじめられると聞いたのですが、本当ですか」

と尋ねてきた。

やさしい入管

2003年10月の「共同宣言」以前、入管と警察は滅多なことでは不法滞在の外国人を捕まえなかったという。幾人かの証言によれば、1990年代はたとえ警察に職務質問されたとしても、パスポートを提示すればすぐに見逃してくれたのだそうだ。

いわゆる「不法滞在外国人の増加」は、外国人ではなく日本人によって生み出されたともいえるのだ。とはいえ、そのツケを支払わされているのは、外国人だけだが。

強制送還されなかった男

2003年10月17日の「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」以前の話。

あるカレン人の若者が祖国にひとり残した母危篤の報を聞き、帰国しようと思い立った。

外国に滞在するビルマ国籍者は、その国の大使館に毎月収入の一割ほどの「税金」を収めなくてはならない。その税金を納めないと、パスポートの更新をしてもらえないのである。このカレン人はそんな税金など払ったことはなかったし、そもそもいったいどれぐらいの額を滞納しているのかも知らなかった。

そこで、彼はビルマ大使館ではなく入国管理局に行ってこう言った。

「わたしは不法滞在者です。ビルマに帰りたいのですが、どうしたらよいでしょうか」

入管の職員は彼にパスポートの提示を求めた。そして、彼がもっていないのを知ると、入管から追い払った。

入国管理局が職務遂行を怠ったおかげで、彼は帰る機会を失い、今もオーバーステイのまま、日本に暮らしている。ビルマにいる母はとっくの昔にこの世を去り、天涯孤独の身の上だ。

2008/05/02

ZWEGAPIN

在日カレン人活動家の発行しているZWEGAPIN誌のウェブサイト(ビルマ語)をリンクに追加。

報告会

4月27日に池袋で行われたシンポジウム「ビルマ(ミャンマー)東部で何が起きているのか?〜紛争・開発・難民 日英若手専門家の報告」の様子。慣れぬカチンの服を着て、慣れぬ司会を務めさせていただきました。