2009/12/31

難民という言葉(1)

難民をビルマ語でいうとドウカディ。ドウカというのは「苦しみ、災難、不幸」という意味で、この語を感嘆詞のように用いて「何たる災難!」といった表現にもなるのだそうだ。

ビルマ人がなかなか難民認定申請に踏み切れなかったのは、ひとつにはこの語の持つネガティブなイメージが原因となっている、というようなことを以前、田辺寿夫さんがお書きになっているのを読んだこともあるし、また実際にビルマの人からも聞いたことがある。

もっとも、日本語の「難民」もその成り立ちは「難+民」だから、ビルマ語のそれとそれほど変わりがない。とはいえ、ビルマ語のドウカが日常的に使われるのに対して、「難」はそれだけでは使われないので、言葉の与えるインパクトからすればビルマ語の「ドウカディ」のほうが強烈そうだ。

語の作りの問題はさておくにしても、そもそも難民という言葉には否定的な印象がつきまとう。今はそうでもないだろうが、昔は難民と聞くと、ちょうどジョージ・ハリスンのバングラデシュ・コンサートのアルバム・ジャケット(旧盤)に出てくるようないわゆる第三世界の痩せた子どもを思い浮かべたものだった。この子どものイメージはあまりに強烈だったため、かつては「難民」というのは色黒で痩せた子に対するあだ名ですらありえた。

ひまつぶし

入管に長期収容されているビルマの男性から、アウンサンスーチーさんの絵1点と、裸の女性を描いたちょっとエッチな絵2点が送られてきた。

2009/12/26

暴力装置

ナルギス・サイクロンの被災者のカレン人に対して救援活動をしたため、政府当局から狙われているあるカレン人女性がいた。

彼女がサイカー(補助席つき自転車タクシー、サイドカーに由来)に乗ってヤンゴン市内を移動していると、急に車が行く手を塞ぎ、車に乗っているビルマ人たちが言いがかりをつけてきた。

すると、サイカーの運転手は彼女にこんなふうに言った。

「絶対に言い返さないで。抵抗すればあの人たちは一斉に襲いかかってきて、ボコボコにされて殺されるよ。集団で殴りかかるから、誰が殺したかなんてわからない。わたしはそんな風に殺された人を何人も知っているんだ。」

宿命

少し変わった性格のカチンの男性がいて、今日本で難民申請中なのだが、その母親が彼についてこんなことを言っていたそうだ。

「夫の兄弟がカチン独立軍で活動していたせいで、夫も政府からひどい目にあった。あの子を妊娠していた頃、カチン人のリーダーを狙った毒殺事件が相次いでいて、わたしたちもまた危うく毒殺されそうになった。わたしたちより先に食べ物に手を付けた人がいて、そのおかげでわたしたちは毒を食べずにすんだの。

あの子がお腹の中にいる時に暗殺されかけたこともあった。自動車事故に見せかけてね。これもビルマ軍事政権が仕掛けたことで、同じように殺された人はたくさんいるけど、わたしたちは何とか助かった。

けれど、精神的にはかなりつらい時期だった。そんな異常なときにお腹の中にいた子だから、きっと変わった性格に生まれついてしまったんだよ」

2009/12/24

急襲とベッド

2005年頃の話。

高田馬場のあるマンションに住む「不法滞在」外国人が一斉に逮捕された。入管職員が朝早く急襲したのだ。

逮捕されたのはほとんどがビルマの人々。何人だったか正確には忘れてしまったが、少なくとも5人はいたのではないか。それはともかく、この奇襲をうまく逃れたカレン人がいた。

彼は周囲が騒がしくなったのを知るやいなや、これは入管に違いないと考え、すぐさま部屋を出て、別の階にある知人女性の部屋に逃げ込んだのである。

その女性は、学生でちゃんとしたビザのある人だ。だから、入管が来ても怖れることはない。ドア口に立つ入管職員に彼女が身分証を提示している間、そのカレン人は彼女のベッドの下に隠れてじっとしていたのだという。

見事な判断力というべきだが、その彼も翌年には職場で逮捕され、約1年間の収容生活を送ることになるのである。

教育

父親が入管に収容された4歳のカレンの男の子。

夜中に急に目を覚まし「入管が来るよ!」と泣き叫ぶ。

あるとき、悪さをしたその子を母親が叱りつけると、「そんなことを言うと入管が来るよ!」と言い返したとか。

2009/12/21

ビルマの国民登録証つづき

登録証に民族と宗教が記載されていることが、どれだけ怖いことか、日本社会で暮らしているとなかなかわからない。

自分の民族や宗教をはっきりと記せるのだから、むしろ誇らしいことではないか、などとも思ってしまう。

確かにそう思わせるようなましな政府もあるかもしれない。だが、ビルマ政府のような民族差別と宗教差別を支配原理としている政府においては、これは逆に作用する。

簡単にいえば、宗教と民族が記されている登録証は、ビルマ人仏教徒とそうでない者を区別するのにもってこいなのである。

そうやって区別さえしてしまえば、ビルマ政府にしてみれば、ビルマ人仏教徒ではないとされた人々を、「反乱分子」として取っ捕まえたり、強制労働に駆り立てたり、あるいは思い切って全員殺害してしまうのはまったく簡単なことである。

その意味では国民登録証は、ビルマのことを真剣に考える人々がいつか起こるに違いないと予測している「民族大虐殺」の下地をなしているのだ。

2009/12/20

ビルマの国民登録証

入管や区役所の手続きのために、ビルマの国民登録証を翻訳することがある。これはピンクの厚紙のカードで、大きさは定期より少し大きいぐらい、そしてラミネートしてある。その裏表に情報が記されている。

国民登録証にはこれより古い型があって、それは新しいものより少し大きく、二つ折りになっている。ぼくはこれは一度しか見たことがない。

聞いたところによると1990年の総選挙の前までは折りたたみ式の国民登録証が使われていたが、選挙の有権者登録に合わせて新しいものに切り替わったのだという。つまり、総選挙以前に国外に逃げた人々は新しい登録証をもっていないということになる。

それはともかく現行の国民登録証の記載事項は次のようなものだ。

表面
[国民登録番号]
[日付]
[顔写真]
[身長] (フィートで)
[血液型]
[身体的特徴] (例えば「左アゴにほくろ」)
[名前]
[父の名前]
[生年月日]
[民族]
[宗教]
[発行者の署名](発行者である入国管理及び国民登録局の職員の署名)

(裏面)

[左親指の指紋]
[国民登録番号]
[職業]
[住所]
[署名]

(裏面下部に以下の注意書き)
注意
(1) 旅行中において携帯すべきこと。
(2) 紛失もしくは破損の場合は、所管の国民警察もしくは郡の入国管理及び国民登録局に届け出ること。

これらの記載事項のうち、非ビルマ民族政治活動家たちが問題視しているのは、登録証に民族と宗教を記さなければならない点である。

2009/12/19

全身ドライバー

チンの若い人を乗せて運転する機会があった。

助手席に座った彼は、こんな話をした。

「ビルマにいた頃、あるドライバーが『車ってのは、全身で運転するものだ』と言ったのを思い出します。その人がいうには、手はハンドル、足はアクセルとブレーキ、目は道路を見て、耳で周囲の音を聞く・・・」

ぼくがハンドルを握りながら、「さすがに鼻はないだろう」と思っていると、彼は付け加えた。

「鼻はエンジンや車内の臭いから、調子の良し悪しを判断するのです」

なるほど、ビルマの町を走る車のほとんどは、日本でなら廃車になっていそうなものばかり。そうした車とうまく付き合うには、確かに五感を研ぎ澄まさねばならないのだ。

2009/12/18

不完全な日本語を話す人は、人間としても不完全なのか

日本語を学んでいるビルマ人難民がこんなことを言った。

「一生懸命日本語を勉強して、言葉遣いを学んで、日本人に失礼のないようにしなくちゃ」

この話を聞いてなんとなく暗い気持ちになった。

大人になって学んだ言語が、母語と同じように話せる人というのはまずいない。いるとしたらよっぽどの能力の持ち主で、たいていの人はそこそこというところで進歩は止まる。

つまり、この発言をした人も、いくら上手でも、およそ「ネイティブ」とはいえない程度の日本語能力に落ち着く可能性が高いのである。

そして、日本人に失礼なことが起きないような状態が、完璧に日本語を操ることで獲得されうるのならば、そうした能力に到達しえない人は、常に日本人に失礼なことをしでかさないか恐れながら生きなければならないともいえるのである。

ぼくが暗い気分になったのは、その人の言葉に、日本語を学ぶことで日本人になろうとする悲しい健気さと、その健気さを必ずや砕いてしまうに違いない日本社会のどうしようもない鈍感さを感じ取ったからであった。

日本語教育がこうした萎縮した人間しか産み出せないとしたら、それはもちろん、日本語教育のあり方に問題があるのだ。

日本語教育とは「悲しいえせ日本人」を作るためのものではないはずだ。それは日本語を国際的に通用する「国際語」に育てる過程のひとつでもあるはずだ。つまり、非日本語話者が日本語を話すために身を開いてきた分だけ、日本人も自らの文化をより開放することで、日本人・非日本人の力関係なしに、同じ日本語話者として、コミュニケートし、ともに文化を創造する場を探り当てる、そのための手段そのものが、日本語教育なのではないかと思う。

大学進学

3人のビルマ難民が来年から大学に進学するといううれしい話。

なんでも、難民を支援している団体の試験に3人が合格したとのこと。そのうち2人は、2004年から知っている古い友人だから、なおさらうれしい。

ちなみに3人とも女性。しかも、少なくとも2人は非ビルマ民族。

イギリス植民地時代にイギリス人は非ビルマ民族、特にカレン人を重用し、イギリス流の教育を受けた多くの教養あるカレン人が育った。そのいっぽう、多数派のビルマ人は常に被支配層として苦しみ続けたという。

ビルマ人から見れば、これはカレン人の裏切りに他ならなかった。すなわちカレン人は教育や地位と引き換えに植民地側についた、というのである。

しかし、カレン人には別の言い分がある。彼らは「自分たちは貧しく、しかもビルマ人に厳しく差別されていた。イギリス人に好意的に扱われたのは、そのつらい生活から逃れるために一生懸命に勉強した結果に過ぎない」というのである。

このどちらが正しいのかは難しい問題だが、この大学進学の話を聞いて、そんなことを思い出した。

自殺の噂

品川入管に収容されていたビルマ難民が強制退去命令が出たことに絶望して自殺した、というニュースを今週の火曜日、つまり12月15日に聞いた。

これは大事件と、別のビルマ人に電話すると、「火曜日は最後まで品川で面会していたが、そんな話は聞かなかった」とのこと。

翌日別のビルマ人から、やはり自殺者が出たという話を聞く。なんでも、家族と再会できないので入管で自殺したそうだ。

これが本当ならばいまごろ難民関係のメーリングリストやメディアは大騒ぎになっているはずだが、そんな様子はない。

もしかしたら、まだ結論を出すのには早いかもしれない。だが、ある人が立てたこんな推測を紹介しておこう。

その人によれば月曜日にある記者会見が行われたのだそうだ。それはあるビルマ難民の自殺を巡るもので、その遺族が匿名で「自殺者は家族と会えないことを苦にして自殺した」と訴えたのだという。

もしかしたらこの記者会見が噂の種になったのかもしれない、というのがその所説である。

2009/12/02

独居と薬

ある在日ビルマ人の高齢者が同居人と折り合いが悪くなって、一人暮らしをしようと決意した。しかし、歳のため働くこともできない。独立するにはどうしたらよいだろうか、そのために日本政府から支援はもらえないだろうか、という相談を受けた。

あるとしたら生活保護しか思い浮かばない。そこで、生活保護に詳しい人に問い合わせると、一人暮らしをしていて、困窮しているという事実がなくては受給は難しいだろうとの答え。

この相談を取り次いでくれたあるビルマ人に、この返答を伝えると、彼はもっともなことにこう言ってみせた。

「そりゃそうですよ。病気になるかもしれないから薬をくださいという人に薬を出すお医者さんがいますか?」

2009/11/30

森を見て木を見ない話(11)

11.付記

1)その後、当時のOKA-Japanメンバーすべてが難民として認定されるか、在留特別許可を得た。本文で取り上げた組織よりも日本政府の方が少なくともまともな情報分析をし、また人道的であったというわけである。また、OKA-Japanは創設以来現在まで在日ビルマ民主化団体、非ビルマ民族団体と協調して活動している。おそらく、担当者がメールに記した情報は間違っていたか、それとも他の組織が考えを改めたかのどちらかである。

2)人権侵害をしている団体だから一緒に働かない、というのはある種のダブルスタンダードを前提としているように見える。ビルマほど重大なものはないにしても日本政府も少なからぬ人権侵害の責任を負っている(例えば死刑執行など)。だが、本文で触れた組織が、日本政府と働かない、あるいはその政府を支えている日本国民とは協力しない、などという態度を取っているとは聞いたことがない。

2009/11/27

森を見て木を見ない話(10)

10.すべての人の命を守る

人権という概念が一般的ではない時代、国、場面においては、何が人権であり、何が人権侵害であるか判定することは重要であり、それを専らにする組織の役割は極めて大きい。しかし、それは人権を守るという行為と同じではない、あるいはその一部でしかないのである。

人権について語る時、「誰かの人権」という形で語ることはできない。人権とはすべての人間に普遍的に備わるものとして構想されている概念であり、その意味では、「誰かの人権」が問題になっている時、それは同時にすべての人間の人権についても問題になっているのである。

それゆえ、人権を守るということは、もっとも単純な言い方をすれば、すべての人の命を守るために働く、ということ以外にはありえない。すべての人の命を守ることなど無理だ、と考える人もいるかもしれない。だが、それは今現在語られている人権がその目標にまで達するまで鍛え上げられていないということを意味するにすぎない。人権は常に発展途上にある思想といえる。

あくまでも「すべての人の命」であって、一部の優れた人、人権を尊重する人の命なのではない。人権侵害をする人、死刑を宣告されるまでの重い罪を犯した人の命まで守ることによってはじめて人権の普遍性が確保されるのである。

そして、もうひとつ重要なのは、人権は人間についていわれる概念であるということだ。これは人権の出発点が個々人の命の状況に根ざしている、ということでもある。なぜなら、命とは抽象的なものではなく、個別的具体的な人間とともに常にあるものだからだ。この個別的具体的な人間、それらの人間のおかれた具体的状況を忘れたとき、人権という概念は急速に希薄化していく。

希薄化した人権。それは声高に叫ぶに適している。ある国家、ある組織が人権を尊重するかしないか、誰の目にも、つまり糾弾される側の目にもはっきりとわかりやすく示すのには、有用である。だが、実際に人権を守ることが問題になる場合、具体的な命が問題になる場合には、そのような薄味の人権はむしろ害である。その国家なり組織の奥にある個々の命に目を注ぎ、それらが絡み合う濃厚な人権状況の中で、どのような方法、思考、手段がすべての人の命を救いうるのかを見いだすことに全力が注がれなければならない。このような場面において必要なのは、人権の判定者ではなく、人権の探求者なのだ。

大きな組織に属し、その組織がもたらす庇護、恩恵に慣れてしまった人は、組織を中心に考えるという悪弊にえてして染まりがちだ。そのような人は、世界を動かしているのが個々の人ではなく、組織であると考えるようになるのである。かの栄光に満ちた組織は、OKA-Japanに誤ったレッテルを貼ったとき、 OKA-JapanやKNF-Japanなどの組織の姿に気を取られたあまり、それら組織が具体的な人々の命によって成り立っていることを忘れてしまった。かの気高い組織の人々は、森を見たが、木を見ることはできなかったのだ。

2009/11/25

森を見て木を見ない話(9)

9.死刑宣告

主催者となった組織は、有名で、偉大で、資金も人材も潤沢だ。人権に関する熱心かつ広範囲に及ぶ活動から、世界中の人々から尊敬を集めている。まさに人権の総本山と呼ぶにふさわしく、人権に関して過誤を犯すことなどないかのような神聖な無謬性すら身にまとっている。だが、このような地球的規模で立派な組織でも、やはり間違いを犯すのだと、このとき知った。その原因はといえば、この組織が適切な情報収集と分析をしなかった点にある。とはいえ、間違いは誰にでもあることだ。ぼくが取り上げようとしている点はそこではない。

ぼくが極めて興味深くまた皮肉だと思ったのは、人権の体現者ともいえるこの立派な組織が、その売り物の人権を用いて、ある小さな集団の構成員の命を危険にさらしたということである。

担当者が用いた理屈はこうである。

前提1 OKA-JapanはKNFの隠れ蓑の団体である。
前提2 KNFは人権侵害団体である。
結論 ゆえにOKA-Japanは人権侵害団体である。すなわち、われわれはこのような人々と同席したくない。

もちろん前提1は誤りである(とぼくは主張している)。前提2に関して、ぼくはその担当者に証拠となる資料を教えてほしいと頼んだが、返事はなかった。だが、これは正しいのではないかと思う。KNFはビルマ軍事政権と長い戦争を続けている。戦争の理由に関して、KNFはあくまでも民族を守るための戦いと語るが、戦争は戦争だ。そして、戦争は人権侵害のもっとも大きなものである。とはいえ、KNF-Japanそのものが人権侵害をしているかどうかはまた別に考察すべき問題ではある。

なんにせよ、前提2の真偽がどうであれ、前提1が偽である以上、この推論において結論が誤りであるのはいうまでもない。

だが、それにもかかわらずこの団体は、ある組織を人権侵害団体として誤認定してしまった。このような神聖な組織に反論の機会もなくそう裁定されることが、 OKA-Japanのメンバーにどのような影響を与えるか、わかっていただろうか? OKA-Japanにとって不本意なこの指定がたとえ内々なものであったとしても、その事実はビルマ人社会にあっという間に広まるということを、予測していただろうか? そして、ほとんどテロリストと名指されるに近いそのレッテルが、彼らの難民認定申請にどのような深刻な影響を及ぼすか、少しでも考えたことはあっただろうか? さらに、このけしからん濡れ衣によって難民と認められるのが遅くなったせいで、その分余計に、収容や病気に怯えながら不安定な状況で日本に暮らさなければならないこと、すなわち、それだけ人権を享受できずに生きなくてはならないことを、知っていただろうか? もっと突き詰めていえば、不確定な情報と噂を証人とする欠席裁判で下されたこの託宣が、送還されれば政府に殺されると主張する難民にとって、実質的な死刑宣告になりうることに気がついていただろうか?

2009/11/23

森を見て木を見ない話(8)

8.人権侵害団体に指定される

ところが、ことはまったく愕然とさせる展開をとった。担当者は先に触れたメールの4時間後に「OKA-Japanの協賛は今回見合わせていただきます」と書かれたメールを送信してきたのである。

担当者はその理由として次の3点を挙げた。

1)新しい団体なので活動実績がなくわからない。

2)KNFとの関係
水掛け祭でOKA-JapanのメンバーがKNFから名前が変わっただけと明言していた。KNFが現地で行っている人権侵害が報告されており、彼らと共同行動することはできない。

3)他の協賛団体からの反対
OKA-JapanがKNFの名前替えであるということは、在日のビルマ人の各団体も知っていることであり、OKA-Japanと共同行動をとることに反対している人がたくさんいる。

1番目の理由に関しては、異論の余地はない。だが、2番目と3番目の理由はどうだ。たしかに、OKA-JapanにはKNF-Japanのメンバーもいるし、また水掛け祭では貸店舗を分け合った。だが、それは2つの団体が同一であることの証明とはならない。いったい誰が、どんな意図でそんなことをいったのか。いかなる誤解、曲解、噂、中傷が飛鳥山公園の桜の花びらとともに人々の間を舞い散ったのか。ぼくはひどく混乱し、また同時に困惑した。そして、自分が知るかぎりの事実を徹夜で書き記し、このひどい誤解が解かれることを願いつつ、担当者に送信した。

2009/11/20

森を見て木を見ない話(7)

7.協賛する理由

こうしたいかにも理不尽な状況のなか、OKA-Japanがあえて協賛する、というのは非常に意義のあることのようにと思えた。なぜなら、それはOKA- Japanが偏狭な民族主義には組しないということをアピールすることでもあるからだ。ロヒンギャに敵対的な団体からとやかくいわれる可能性も考えられたが、少なくともいくつかの有力な民主化団体、少数民族団体が協賛団体に名を連ねていることは励みになった。

また、認知度のゼロに近いOKA-Japanがビルマ人の団体や日本人の有力な支援組織と名前を並べることができるのも、魅力的なことであった。一言でいえば、いい宣伝になった。

この宣伝は重要なことだ。当時のOKA-Japanのメンバーのほとんどは難民認定申請中だった。つまり、これらの人々はいつ不認定となってビルマに送還され、軍事政権に再び迫害されるかわからないという状況にあったのである。この最悪の事態を避けるひとつの方策は、OKA-Japanという政治団体が、軍事政権にとって弾圧の対象になるほどの強い活動を行っていることを、難民審査の場で証明することである。

もちろん写真展の協賛程度では、その証明には十分ではないが、その最初の一歩、しかも望みうるかぎりに歩幅の大きい一歩にはなりえた。

さらに、多くのビルマ民主化組織にそっぽを向かれた形になった写真展の主催者にとっても、できたばかりの小さな団体とはいえ、ひとつでも協賛団体が増えるのは、うれしい話のはずだった。カレン人はその歴史的背景ゆえに非ビルマ民族の中でも特別な地位を占めている。そうした民族の名前が見当たらないというのは、主催者側からしても寂しいことに違いなく、KNA-Japanが協賛しない以上、OKA-Japanがいわばその民族的責任を果たすべきのように思えた。

つまり、どこからどう見てもOKA-Japanが協賛団体となった時に損をするものはいなかった。OKA-Japanにとっても、主催者側にとっても良い話のはずだった。すでにメールの返事にも書いたように、ぼくは「これはなんとしても日曜日の会議で話し合わなくてはならない」と心に決めていた。

2009/11/18

森を見て木を見ない話(6)

6.ビルマの差別問題

ロヒンギャというのは、ビルマから逃れてきた難民の民族のひとつで、イスラムを信仰している。ロヒンギャの人々は、自分たちはビルマ国民としてビルマ軍事政権の迫害に苦しみ、家族や仲間を失ったのだ、と訴える。ところが、ビルマ人をはじめとする他の多くのビルマ諸民族の政治団体は、これを嘘だと主張する。「ロヒンギャはバングラデシュからの出稼ぎであり、ビルマの原住民族ではない。もちろん、難民であることは認めるが、彼らがビルマ人、カレン人、アラカン人などと同じ地位で扱われることは承認できない」というのである(ロヒンギャ難民については、この「平和の翼ジャーナル第6号」が実に適切なやり方で取り上げられている。ぜひとも参照してほしい)。ロヒンギャ人がどのような歴史を持つにせよ、ビルマの人々が取る態度は、許容しがたい民族差別、宗教差別に他ならない(付け加えておくが、ロヒンギャ人に強行姿勢を取る組織に所属する人でも、個人的には「同じビルマ人だよ、関係ないよ」と話す人は多い)。

写真展の主催者は日本人の組織であることはすでに述べた。ロヒンギャであろうとビルマ人であろうと、アラカン人であろうと、日本ではみな外国人、難民である。その意味では日本人として、ある民族を特別扱いするわけにはいかないのは当然のことである。主催者は写真展の開催にあたり、日本にあるすべての「ビルマ人」団体に協賛を呼びかけた。その結果、ロヒンギャ人のある政治組織が協賛を申し出たのであり、これを拒む理由は主催者側にはいささかもなかった。だが、これに国民民主連盟解放区日本支部をはじめとするビルマ民主化団体や少数民族組織は反発した。われわれはこのような人々と同席したくない、と憤激したのである。そして、これらの怒れる組織の中に、KNA-Japanも含まれていた(とはいえ、すべての団体が写真展に協賛しなかったわけではないことも明記しておくべきだろう)。

2009/11/16

森を見て木を見ない話(5)

5.招待状

水掛け祭が終わって4日後の4月10日、カレン情報スペース宛にメールが届いた。カレン情報スペース(KIS)というのは、当時ぼくが在日カレン人と毎月一回都内で開催していた催し物で、カレン人と日本人が集っていろいろな情報を交換し合う広場ができればと思ってはじめたものだった。このKIS宛のメールは次のような内容だった(実際のメールに基づくが、そのままの引用ではない)。

カレン情報スペース様

6月にビルマの現状を記録した写真展を開催します。
在日のたくさんの団体さんとも共同行動を行います。
カレン情報スペース様もぜひ協賛団体としてお誘いさせていただきたいと思いご連絡いたしました。

その翌日に出したぼくの返信は次の通り。

担当者様

写真展の共同行動のお誘いありがとうございます。ぜひとも、協力させていただきます。

ところで、KNA-Japanの他に、新たにカレン海外協会(日本)OKA-Japanというやはり在日カレン人を中心とした民主化グループがこの春に結成されました。日曜日にそちらの団体の会議があるので、協賛の相談をしてみたいと思いますがよろしいでしょうか。

すぐにKISとしての協賛に対する感謝を記したメールが返ってきた。さらに担当者はKNA-Japanの責任者と連絡が取れないと述べ、協賛するかどうかについて代わりに確認してほしいと頼んできたのである。そして、もちろんのことぼくはその頼み事を果たしたが、形式的にしたにすぎない。というのも、そのときぼくはKNA-Japanが、いやそれどころかビルマ民主化団体、少数民族団体のほとんどが、この写真展の協賛を拒否していたことを知っていたからだった。

2009/11/13

森を見て木を見ない話(4)

4.水掛け祭

さて、ここで話を戻すと、このKNF-Japanの親切な申し出のおかげで、OKA-Japanは最初のお披露目のチャンスをつかむことができたのである。

2006年の水掛け祭は4月6日で、場所は例年通り、王子の飛鳥山公園。浮かれたビルマ人と花見客でごった返す中、われわれは生春巻きと軟骨からあげを売った。どのメンバーの顔も生き生きとし、喜びにあふれていた。新しい組織の最初の活動というものはなんとも楽しいものだ。もっとも、この楽しみを維持するのは並大抵のことではないことを後になって知るのだが。

それはともかく、水掛け祭の出店は大成功だった。われわれは日本語で書かれたOKA-Japanの紹介文を配り、新しいグループができたことを大いに宣伝した。さらに、1日の純利益である6万円という金額もなかなかのものだった。カレン人の多く暮らすタイ・ビルマ国境地帯でそれがどれだけの価値を持つか知らない者はいなかった。その国境地帯では、カレンの村人たちがビルマ軍に攻撃され、避難民、孤児となってジャングルの中を逃げ惑っていた。こうしたカレン人避難民を支援すること、われわれはこれをひとつの目的として、OKA-Japanを設立したのだ。

水掛け祭での活動によって、ビルマ人社会で存在を認められるという目標は最低限達成できた。次は、これを日本人に対して行わねばならなかった。日本で暮らす以上、難民問題、ビルマ問題に関わる日本人の協力は欠かせないからである。そして、まさにそれにうってつけの機会が6月に予定されていた。

2009/11/11

森を見て木を見ない話(3)

3.3つのカレン人政治団体

さて、日本のカレン民族政治組織はOKA-Japanを除けば、このKNF-Japanと在日カレン民族協会KNA-Japanの2つがある。どちらも、 OKA-Japanより先にできた団体だ。KNF-Japanはビルマ国境でビルマ政府と戦っているKNFの下部組織で、MさんはKNF日本代表を務めている。KNA-Japanは国際的カレン人組織のKNAの承諾を得て、日本でKNAの名を使っている組織である(つまり、KNAは組織構造的にKNA- Japanを下に置いているわけではなく、またKNA-JapanもKNAの指示によって動いているわけではない。どちらも組織としては独立している)。

すでに2つもあるのに、どうして3つ目が必要なのか、そう思われる方もいるかもしれないが、やはり長くなるのでここでは説明しない。ただ、会の結成時には15人のメンバーが集い、さらに3ヶ月後の6月には会員数が20人になっていたこと、そしてこれは他の2つのカレン人組織それぞれの会員数よりも多かったことを指摘すれば十分だろう(今なおOKA-Japanは日本最大のカレン人政治団体だ)。

もっとも、これには少しトリックがある。OKA-Japanは設立時の方針として、他の組織に所属している人でも積極的に受け入れたのである。だから、OKA-Japanだけにしか所属していないという人はそれほど多くはなかった。

組織のなかには、基本的に他の組織への参加を好まない排他的なメンバーシップをとる組織と、そうでない組織がある。OKA-Japanはその意味ではオープンなメンバーシップでやっていこうと決めていた。だが、それは会員数を増やしたいからという理由によるものではなく、良い組織というものは常に誰でも受け入れ、また会員が組織の外で活躍することを促すものだからである。

だから、OKA-Japanのメンバーはさまざまな背景を持つ人ばかりだった。KNA-Japan、KNF-Japanばかりでなく、国民民主連盟解放地区日本支部などのビルマ人の多い組織に所属している人もいた。後にやめてしまったが、モン民族の人も参加していた。

KNF-Japanは自分たちの会員が他の組織に加わることについて特に反対はしなかった。そんなわけで、KNF-JapanとOKA-Japanとの双方に籍を置いて活動している人は今なおいる。しかし、KNA-Japanにはこのような2重のメンバーシップは受け入れがたいようだった。それで、KNA -JapanのメンバーでOKA-Japanに加わった人は、後にどちらの組織に所属するかの選択を迫られることとなった。KNA-Japanのメンバーとともに3年のあいだ活動し、メンバーではなかったが「スポークスマン」という役職を任されていたぼくもそのひとりであった。

2009/11/09

森を見て木を見ない話(2)

2.あるカレン人組織の誕生

ぼくは在日カレン人による政治団体、海外カレン協会(日本)OKA-Japanの創立者のひとりだ。どうして日本人であるぼくがカレン人の団体の設立にかかわったか、話せば長くなるが、それは今回の話の主題ではない。

主題となる事件が起きたのは、OKA-Japanが結成されて1ヶ月ほど経った2006年4月のことだ。

新しい組織はまず最初に何をなすべきか。なんといっても、日本のビルマ民主化団体、非ビルマ民族政治団体のなかで認知されること、さらに日本人の支援団体の中でカレン人のこういう組織があるということを知ってもらうことが優先されなければならない。もちろん、組織作りやメンバー間の協力関係の育成などやることはいくらでもあるが、どんなに立派な人材と組織があっても、他の組織から相手にされないのではお話しにならない。そういうわけで、イベントなり集会、デモなどに「OKA-Japan」という旗を掲げて積極的に参加することが必要となる。

折りも折り、うってつけのイベントがあった。毎年4月に行われる水掛け祭である。ビルマ民主連盟(LDB)が主催するこのビルマの伝統行事には、多くの民主化団体、非ビルマ民族政治組織が集い、お店を出して伝統料理を売ったり、歌や踊りを披露したりする。

OKA-Japanも参加させてもらおうとさっそく申し込みをしたが、すでに空き場所はなかった。すると、話を聞いたカレン民族連合(KNF- Japan)の代表のMさんが、「自分たちも今年も店を出してカエルのからあげを売るつもりでいるが、こちらは人手も少ないので、店を半分貸すからOKA -Japanで使ってください」と親切にも提案してくれたのである。

2009/11/06

森を見て木を見ない話(1)

1.やや長めの「はじめに」

ぼくがこの物語で行おうとしているのは、特定の団体を非難することではない。その世界的な団体は非常に有益な活動で知られており、ぼくもそれには十分な敬意を払っている。ぼくがしたいのはむしろ、そうした組織的に大きな団体が、規模や歴史の点でその組織ほど十分に保護されていない小さな組織や個人に対して誤りを犯すことがある、という一般的傾向を指摘することである。

また、同時に物語には、ビルマ民主化運動、非ビルマ民族政治運動を語る上で不可欠な要素がいくつも関与している。3年以上前の出来事だが、日本におけるビルマの政治運動がどのように動いているか、そのコンパクトな実例としても読んでいただけることだろう。もちろん、ぼくはビルマの政治運動の当事者ではない。だが、やや特殊な事情から、この出来事の際には渦中にいたといってもよいと思う。そして、その当事者性ゆえに、いくつかの場合で匿名や仮名を用いさせていただかなければならなかった。なぜなら、ぼくが語ることが、つねに客観的で正しいとは限らないからである。できるだけそうであるように努めてはいるにしても、だ。

また、カレン人の政治組織が3つ登場するが、それらの団体に関する記述は、ぼくがもっとも深く関わったOKA-Japanのそれでさえ、2006年当時のものであり、またぼく個人の見解・観察によるものである、ということを明記しておく必要があるだろう。これらそれぞれに個性を持ち、それぞれ立派な活動を行っている団体について、その実情をお知りになりたい方は、ご自分で連絡を取り、直接話を聞くことをお勧めする。ともあれ、誰かがこの物語を読んで、これらのカレン人の団体のひとつにでも悪印象を持ったとしたら、それはぼくの書き方が悪いのである。

同様に、物語で取り上げる匿名の団体に対する見解も、あくまでぼく個人のものであり、OKA-Japanを代表するものでは決してない。現在のOKA- Japanのメンバーの中には、今なお、不安定な人権状況に暮らす者が多数おり、これらの人々の命のためにその団体が果たすべき役割はとてつもなく大きい。

公平を期すためにいえば、ぼくは自分が創立に携わったOKA-Japanで、今なお「国際プログラム担当」という役割をいただいている。これはタイ・ビルマ国境の難民の支援を行う上で、誰かタイに行ける人が必要だったためで、メンバーの誰もビザがなく、海外はおろか東京の外にすら自由に出られなかった時期の名残である。今や、多くのメンバーが喜ばしいことに、何らかの滞在資格を得ている。手間はかかるが、海外旅行も可能になった。OKA-Japanは自立の道を歩きつつあり、それと同時にぼくの役割の重要性も軽減した。それでもメンバーたちはある種の記念のような形で、引き続きぼくがこの役職につくことを許してくれた。とはいえ、これはほとんど名目上のもので、2006年の創立当時のようにぼくが組織の運営にかかわることは現在はない。

さて、件の事件は、当初ぼくを悲憤慷慨させたのであった。だが、同時にどうしてこのようなことが起こるのか、その仕組みについて知りたくもなった。ぼくは長い間考え続け、その結果をこうしてここに公表させていただくわけである。

2009/11/04

身元保証費用

入管に収容された難民認定申請者が仮放免される時に必要なのが保証金。ビルマ難民の場合は現在の相場は30万円だが、50万、100万支払わなくてはならない時代もあった。

この保証金は、申請者の滞在が認められたときに、返ってくる。これを引き出すことができるのは申請者の身元保証人のみ(か、その代理)だ。

保証金はたいていの場合、申請者が用意する。しかし、身元保証人のハンコがなければ、これを取り返すことができない。ここにトラブルの生じる余地がある。

なかには悪い身元保証人がいて、100万なり30万なりの保証金を自分のものにしてしまうのだという。

「第2の上陸」でも書いたが、難民申請者にとって、それまで日本の生活で築きあげてきたものを失うのがいかに簡単であるか、の一例。

2009/11/03

剣とバッグ

日曜日にあるカチン人の結婚式に招かれた。

カチン人だからキリスト教式。カチン人の教会に縁の深い日本人牧師2人ととカチン人牧師が司式。

日本人牧師のひとりはカチン人と結婚した人で、カチン語の名前もある。

指輪交換式と一緒に、カチンバッグと剣を新婦から新郎へと渡す儀式も行われた。牧師によると、剣は家を守ること、カチンバッグは家の豊かさを意味するとのこと。

下の写真は、牧師を前に新郎が剣とバッグをぶら下げている様子。

2009/10/30

江戸川と映画監督

帰りの電車の中で空いている座席を探してふらふらと歩いていたら、よく見る顔のビルマ人が座っているのに気がついた。

挨拶をする仲ではあるが、じっくり話したことはない。電車の中でいろいろ話を聞くことができた。

その人の名はテイティッ(HTAY THIT)さん、ビルマ人の映画監督・画家だ。

彼は去年最初のビデオ作品を公表していて、ぼくも持っている。とはいえ、友人が出ているところしか見てはいないのだが。

現在2作目を撮影中とのことで、年末には編集作業に入れるとのことだった。

第1作は短編映画集だったが、今度は長編映画。ナルギス・ハリケーンを背景に、ビルマの子どもたちの運命を描く、笑いと涙の物語だという。

面白いのが、ビルマの大河、イラワディ川の情景を江戸川で撮影していること。結構感じが出ているのだそうだ。

テイティッさんに関しては「平和の翼ジャーナル」にインタビューが掲載されている。これを読むともっと詳しく彼のことがわかる。参考までにリンクを貼っておこう。

2009/10/29

第2の上陸

入管に収容された難民は時として財産をすべて失うことがある。

例えば、ひとりで暮らしていた場合、家財を整理したり引き取ったりしてくれる人が誰もいないと、大家に勝手に処分されてしまうこともある。

あるカレン人夫婦も同じような目にあった。同時に収容されたため、家に誰もいなくなり、またもちろんのこと家賃を払うものもいなくなってしまった。そして、大家が部屋に入ってその中にあるものをすべて捨ててしまった。その中には難民認定申請にかかわる重要な書類もあったのである。

2人に残されたのは、たまたま持ち歩いていた結婚式の写真1枚だけだった。

収容された後、親族や友人が主のいない部屋にやってきて、大事なものを引き取ってくれることもある。だが、これもまたトラブルのもとである。

ある収容者は、友人に家財の整理と保管を頼んだ。そして数ヶ月後に釈放された彼が見たのは、友人がそれらを我が物顔で使っている光景だった。その友人は彼の布団で寝て、彼の電子レンジで調理していた。

釈放されたばかりで無一文、寝るところもない彼はぐっとこらえて、泊めて欲しいと頼む。すると、その友人が渡したのは別の薄っぺらな布団だったという。

信頼できる親族、友人がいない場合、多くの収容者はほとんどの財産を失い、釈放後、再び一からやり直さなければなくなる。もちろん、銀行預金等の蓄えがあれば、再出発は容易だが、それも金額次第だ。仮放免保証金で消えてなくなる場合だってある。

入管の収容により、振り出しに戻ってしまうこと、裸一貫で日本に逃げてきた当時の状態に戻ってしまうこと。これはいわば「第2の上陸」とでもいうべき現象だ。

在日ビルマ難民の多くはこうした脆弱な生活環境に暮らしている。これらの人々がたとえ日本人と同じように働き、同じような額の収入を得ていたとしても、その状態から無一文に転がり落ちるのは、日本人と比べてはるかに急なのである。

野方警察署

野方警察署にあるビルマ難民が不法滞在で留置され、その友人が面会に行った。

面会することはできるが、日本語で話さなくてはいけない。留置係が脇に座って見張っていて、ビルマ語で会話をすると注意をする。

しかし、そのビルマ人は日本語がほとんどできない。面会に行ったビルマ人友人は非常に苦労して、いいたいことを伝えた。

面会が終わると、留置係の男が「こいつは嘘つきだ、嘘つきだ」と留置されているビルマ人を指差していった。

腹を立てた友人が「わたしの友達をそんなふうにいうのは止めてください」と抗議すると、留置係の男は「こいつ、日本語話せないっていってたのに、面会で話してやがるじゃねえか」と返した。

「彼がそういったのは、十分に話せないという意味でまったく話せないという意味ではありません」

「いや、こいつは嘘つきだ、嘘つきだ」

そう繰り返す留置係に連れられていたそのビルマ人は何を思ったか、彼に対してお辞儀をした。彼のために何か良いことを言ってくれていると勘違いしたのだろう。

そのとき、刑事が入ってきた。すると男は急に口をつぐんだ。

留置所を出るとき、留置係受付でその友人は再び抗議した。受付の女性が答えて曰く「そんなことは知りません」。

2009/10/24

復讐

ビルマ問題について何冊も重要な著作を発表しているジャーナリスト、バーティル・リントナーが、この前来日したとき、こんなことを言っていた。

「ビルマ軍事政権が崩壊するとき、かつてルーマニアのチャウシェスク大統領に起きたような報復行為が、軍事政権高官に対して民衆の側から起こるかもしれない。この復讐を止めさせることができるのは、ただアウンサンスーチーだけだ」

それができるのが本当にアウンサンスーチーさんだけなのか、そしてたとえそうだとしてもそれでいいのか、という点はどうだかわからないが、軍事政権が頑として権力を手放そうとしないのは、抑圧されていた人々からの残虐な報復を怖れてである、というのはよく聞く意見だ。

それどころか、政治活動家の中にはそうした態度をあからさまにする人もいる(滅多にいないが)。

ある在日カレン人の活動家が「あいつら絶対殺してやるよ」と口走ったのを覚えている。「あいつら」というのは彼の暮らしていたヤンゴンのある地区の政府関係者のことである。

今日、あるビルマ人と話していて、彼が「政府は報復が恐ろしいので、絶対に権力を渡さない」というので、ぼくはこんなことを言った。

「もしも政府が変わったら、今日本にいる難民がビルマに帰るかわりに、軍事政権高官たちが日本にやってきて難民申請するかもね」

彼は笑って付け加えた。

「そしたら、成田で捕まえて牛久の入管収容所に送るのではなく、そのまま刑務所に入れてください」

2009/10/22

カルデロンさん一家の話

あるビルマ難民女性がカルデロン・ノリコさんのお母さんとかねてから知り合いだった。

両親の帰国命令が出たころ、そのビルマ人女性が品川入管でノリコさんのお母さんにたまたま会った。

一家の状況に同情していたビルマ人女性はお母さんに3万円を渡した。しかし、そのままでは受け取るまいと思い、食べ物と一緒に紙袋に忍ばせたので、ノリコさんのお母さんがそのお金に気がついたのは帰宅してからのことだった。

お母さんはあわててビルマ人の女性に電話をして、泣きながら感謝してこんなふうに言ったそうだ。

「これで、帰国するまで食事が食べられます!」

入管の規則により就労を禁じられていたカルデロンさん一家が、いかに厳しい生活を送っていたかを物語るエピソードだ。

2009/10/19

いじめ

難民認定申請の末、在留特別許可を得たあるビルマ国籍者が、電話でこんなことを言ってきた。

「今の職場、2人のビルマ人がほかに働いているのですが、わたしのことをいじめるのです。わたしの悪口を日本人の上司に告げ口したりして、本当にやりづらい・・・

そこで考えたのですが、あの2人はちゃんとした就労ビザをもっていないのです。難民認定申請もしていません。もし、これを会社に訴えれば、2人とも辞めさせることができるのではないか、と思って。

よく、駅で警察がオーバーステイの外国人を捕まえようと尋問していますね。あれにわざと捕まってみようか、などと考えるのです。警察たちはわたしを連行して職場にやってくるに決まっています。そうすれば、あの2人はおしまいです。警察はすぐに捕まえることでしょう・・・

どう思いますか、このアイディア・・・?」

2009/10/16

天国と地獄

オーストラリア在住のカレン人活動家、ポールチョウさん夫妻は短い滞在期間の間、入管やNGOを訪問したりしてほとんど暇もなかった。だが、それでも観光らしいこともしたい、という希望があったので、半日ほどだが、東京を案内して回った。8月のことだ。

上野公園をぶらぶら歩いていると、地べたに数十人の男たちが整然と座っているのが目に入った。彼らに向かって女性が演説している。

ぼくはバカなのでうれしくなってしまう。たいていの外国人は、日本にホームレスがいると聞くとびっくりするからだ。

「キリスト教の慈善団体がホームレスたちに食料を分けようとしているのです」と意味なく得意げにぼくがいうと、ポールさんは目を丸くした。

女性の言葉から察するに外国人のようだった。韓国のキリスト教徒はこうした活動に熱心だから、もしかしたら韓国の人かもしれなかった。

はっきりは聞こえなかったが、神様を信じないからあなたたちはこんなふうになったのだ、と説教しているようだった。男たちはじっと黙って座っていた。

ぼくは面白くなっていった。

「あの女性たちはホームレスに食料をあげるのだけど、それ以上にホームレスたちからもらっていることに気がついていない。つまらない話を聞いてもらっているし、こうした施しであの女性たちは天国に一歩近づくのだから。実際感謝すべきは施す側の方なのだ」

ぼくの英語がまずかったのか、ポールさんはわかったようなわからないような返事をした。

ビルマ難民が急増しているので、どこの支援団体も大忙しだ。そして、支援した分だけ実績となるから、組織を発展させる良い機会でもある。

最近、規模を拡大したあるNGOについて、ある非ビルマ民族難民がこんなことを言った。「あれはわれわれのおかげだ」

つまり、支援を求める人がいてはじめて、支援活動も成り立つのだ。当たり前のことだが、支援する者は時々この当たり前の事実を忘れる。

それにしても、支援を求める人を踏み台にして天国に行くくらいならば、地獄に堕ちたほうがまだましだ、というべきであろう。

2009/10/15

ビルマ民族と非ビルマ民族(2)

さて、さきのビルマ民族活動家の反応は、多くのビルマ民族が陥りがちなものである。そして、これはあくまでもぼくの目から見ての話だが、その反応には特に悪意はないのである。つまり、その活動家は単に非ビルマ民族の状況に無知なだけで、非ビルマ民族の発言の背景を理解していないだけなのである。

この無知ほど恐ろしいものはないが、それはさておいて、こうしたビルマ人の態度が非ビルマ民族にどうした反応を引き起こすかについて記そう。

件の発言を聞いた非ビルマ民族は、このビルマ活動家が自分たちのことを理解していないと考えることはまずない。その代わり、ビルマ民族はわかっているのにわかっていない振りをしているのだ、と考える。つまり、ビルマ人の態度に欺瞞と悪意を見て取るのだ。

こうして、非ビルマ民族側がかねてから抱いている「ビルマ民族はたとえ民主化活動家であっても信用できず、いつも自分たちを騙して支配しようとしている」という先入観はさらに強化され、両者の懸隔はさらに広がることとなる。

その辺の事情を理解している非ビルマ民族活動家はもちろんいるにはいるが、やはり非常に少ない。

2009/10/14

ビルマ民族と非ビルマ民族(1)

ビルマ軍事政権とは、基本的にはビルマ民族の支配政権だから、ビルマ軍事政権を批判することは、ときとしてビルマ民族を批判することになる。

ビルマ人の中には、たとえ民主化活動家であっても、政府のことはいくら悪くいっても良いが、ビルマ民族、あるいはそれを作り上げるもの、たとえば習慣や宗教について非難されるのを好まない人がいる。

あるとき、ある非ビルマ民族が「わたしたちを迫害して殺しているのはビルマ人の軍隊です」と発言したところ、ビルマ民族の活動家がこう言って咎めた。

「悪いのはビルマ民族ではなく、ビルマ国軍なのでそこは注意してほしい」

だが、国境の非ビルマ民族にとってビルマ国軍はビルマ民族の軍隊として立ち現れているのであり、それを理解するのは民主化運動にとって重要なことだ。このビルマ民族活動家は言い返す代わりに謙虚に耳を傾けるべきだったのだ。

もちろん、軍事政権とビルマ民族とは区別して考えるべきだが、軍事政権が生まれ、それが今に至るまで維持されるという事態の原因は、ビルマ民族の心性の深みに根ざしている。その辺の事情を理解している活動家はもちろんいるにはいるが、非常に少ない。

もらっときなさい!

2人のカレン人がある難民支援NGOに行った。

2人のうちひとりは、このブログでもお馴染みのKNUの日本代表モウニーさん。面倒見の良い彼は、困っている人を見ると放っておけない。現在難民申請中で、非常に困った事態に陥っている同胞を連れて、難民を助けてくれるNGOに相談にやってきたのだった。

そのNGOの職員は、モウニーさんが連れてきたカレン人に質問をし、状況の緊急性を見抜き、ただちに支援金を渡すべきだと判断した。

ところが、そのカレン人は日本に来たばかり。自分がどうしてこんなところに連れてこられたのかもわからないし、どうして見も知らない日本人が自分にお金をくれるのかもわからない。

「ひょっとしたら怪しいお金では?」と尻込みする始末。ビルマでは、見知らぬ人から親切にされたら警戒しなくてはならないのだ。

だが、支援金がなければ状況はさらに悪くなることを知っているモウニーさん、その人にこんなふうに言って受け取ることを勧めた。

「戦争のとき、日本人はわたしたちカレン人をさんざん苦しめたのに、戦後、ビルマ人だけに賠償金を払って、カレン人には一銭もくれなかった。だから、ここで日本人からお金をもらったって誰ひとり文句は言わないよ! さあ、もらっときなさい!」

保証人の署名

幾人かのビルマ人の仮放免の身元保証人をしている。

身元保証人の役目のひとつに、仮放免許可延長申請書と一時旅行許可書、住所変更届の署名がある。

延長申請書は、たいてい3ヶ月ごとに入管に提出することになっていて、その度に保証人の署名が必要だ。

東京で難民認定申請した人は東京から勝手に出ることができない。埼玉や千葉などに出かける予定のある人はあらかじめ届け出て許可をもらわなければならない。それが一時旅行許可書で、これにも保証人の署名が必要。

住所変更届は、転居した時に提出しなくてはならないもの。

以前、ぼくは署名をするときハンコも押していたが、ハンコは要らないとわかったので今はもうしていない。

また、つい最近まで、オリジナルの文書をコピーしたものに署名をして提出してもよかった。だが、入管が、コピーに署名したものはダメ、と方針を変えたのだそうだ。

かつてはいい加減な人になると、何枚もコピーした許可申請書に署名を頼まれたものだ。ストックができるのでいつでも安心というわけだが、もうそんな風にはいかなくなった。

2009/10/07

戦争の気配

軍事政権がこのまま2010年の選挙を実行するのならば、われわれは再び武器を持って立ち上がるだろう、とは現在停戦中のモン民族のある指導者の言葉。これと同じ意見の非ビルマ民族は多い。

カチン人の武装勢力はすでに2万人の兵力を集め、国境で静かにその時を待っているという。

しかし、さらなる戦争はいかなる角度から見ても状況を好転させはしない。

軍事力の点から見れば、非ビルマ民族の軍がいかに束になってかかろうとも、ビルマ軍を打ち倒すのは至難の業だ。せいぜい悲惨なこう着状態に持ち込むのが関の山だろう。

また戦争が拡大すれば、多くの民間人、子どもが死ぬ。ビルマ政府は非ビルマ民族の絶滅を目論んでいるとよくいわれるが、戦争はそれをかえって加速させるに過ぎない。

さらに、戦争は、非ビルマ民族を国際的にさらに孤立させるであろう。戦争地域で人道支援を行ったり、報道活動を行うのは非常に困難であるし、そもそも武装勢力に協力したいと考える国際機関やNGOはまずないだろう。そして、国際社会の態度の変化は、世界中の非ビルマ民族難民の立場に大きな影響を与えるに違いない。

戦争を目論む人々にはこう考える人々がいる。ビルマ国内での戦争が、アジアの平和を脅かすほどにまで拡大すれば、きっとアメリカが黙っていないに違いない、イラクのようにとまではいわないが、強力な介入を行うに違いない、というのだ。

だが、強国の支援を呼び込むためには、多くの普通の人々の命を犠牲にしてもかまわない、と考えるのは思い上がりだ。他者の命を人質に支援を当てにする北朝鮮の行動様式と、さして変わるところはないのである。

2009/10/05

言っちゃった

入管6階のエレベーター前でもめている。

「だから上の人間に話をさせろっていうんだよ!」

と大声で言うのは60代の男。2人の入管の職員がその両脇に立っている。ひとりの職員が答える。

「まだ、こっちの処理も終わってもいないのにそんなことはできません」

具体的な事情はわからない。推測するに、60代の男性は誰か収容中の外国人の保証人か何かで、その外国人が釈放されるよう手を尽くしているのにもかかわらず、思うようにいかないので怒っているようだった。男は「理屈にあわない」と繰り返していた。

「収容なんかする必要があるのか!」

「出頭を命じた時に来なかったらどうするのですか。わたしたちが家までいっていなかったらどうするのですか」

「そうか、そういう考えで(外国人を)見ているのか! そうやって外国人をどんどん収容しているのか!」

「不法滞在だからそれはしょうがないです。仮放免の手続きもあります」

だが、男はその手続きには心底うんざりしていたようだった。

「いろいろ手続きしたって、結局強制送還してしまうんだろ。あんたらのやっていることは無意味じゃないか!」

それまで冷静に対応していた職員の声がはじめて動揺したように思う。

「その無意味なことをわたしたちは一生懸命やっているのです!」

この言葉をどう受け取るかは、人それぞれだろう。入管職員としての無力な立場に対する悲嘆と見ることもできるし、公務員特有の美学の表明と見ることもできる。「売り言葉に買い言葉」の類いで、それほど深い意味はないのかもしれないし、あるいは、だからこそ真情が吐露された、と捉えるべきなのかもしれない。

多少の「言ってやった」感、つまり若干の自己陶酔の匂いもなきにしもあらずであったことも付け加えておこう。

それはさておき、廊下ではあまり大声で話さないほうがいいと思う。誰が聞いているか知れたものではない。

2009/09/30

脅迫

入管に収容されたすべてのビルマ人が難民認定申請をするわけではない。なかには、強制送還を受け入れ帰国する者もいる。

強制送還される予定のビルマ人が、難民認定申請中のビルマ人知人に自分に面会に来るように求めた。

その知人が面会に来ると彼は次のようにいった。

「俺はこれからビルマに帰国する。すぐに俺に30万円よこせ。さもないとお前が日本で難民認定申請をしていることをビルマ政府に告げ口してやる。そうなれば(ビルマに残してきた)お前の家族は困ったことになるぞ」

新たなビジネス。

2009/09/28

あやしい薬

10年ほど前の話。

カレン人の牧師が日本で暮らす信徒に会うために来日した。

日本暮らしの長いカレン人と一緒に池袋を歩いていると、警察に職務質問されそのまま警察署に連行された。

運が悪いことに、牧師はそのとき、精力剤のような薬を持っていた。その薬は名古屋で売っているもので、その地に住んでいたカレン人が牧師に贈ったものだった。

牧師にそんなに精力が必要か、という問題はさておき、牧師の所持品の中にこの薬を見つけた警察は、麻薬ではないかと疑ったのだった。

同行していたカレン人が警察に事情を説明し、晴れて釈放されるまで3時間かかったという。

この話で面白いのは、一緒にいたカレン人がいわゆる「不法滞在」の状態だったことだ。

警察がこの不法滞在者を見逃した理由はわからない。もしかしたら麻薬担当の捜査員で、不法滞在には関心がなかったのかもしれない。そうだとしても、いまならたちまち逮捕され、取り調べののち入管送りは免れない。

いずれにせよ、2003年10月17日の「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」以前の警察は不法滞在者に対して寛容だったことがこのエピソードばかりでなく他の証言からも知れる。

不法滞在者の増加というと、「不法に滞在する者」の責任ばかり問われるようだが、そのいっぽう、これらの人々を見逃し、利用し、放置してきた国の責任が滅多に問題にされることはないのはどういうことだろうか。

2009/09/26

ありふれた話

あるカレン人の夫婦のうち、妻が今、品川の入管に収容されている。

2人には1歳9ヶ月になる息子がいて、普段からあまりものを食べない子だったが、母親が収容されて以来、ますます小食になって父親を悩ませている。しかも、よく知らないが持病があるそうだ。

妻の代わりに自分を収容してくれ、と夫は入管で頼んだが、もちろん話を聞いてくれる相手ではない。

仕方がないのでこどもを抱えて毎日のように面会に行く。もっとも、妻と面会できるのは1日に1回だけ、しかもたったの10分なのだが。

品川で面会をしたことのある人ならわかると思うが、面会をする人は1階で手続きを済ませると、7階に上がり、狭い待合室で自分の番が来るのを待つ。

どれくらい待つかは混み具合にもよるが、いつかは職員に名前を呼ばれるときがくる。職員からカード・キーを受け取り、奥の廊下へと向かう。廊下の左右には小さな面会室が並んでいて、カード・キーはそのうちのどれかを開くようになっている。

その日すでに面会を終えた父親が、この待合室で待つ知人に用があって、息子を連れて7階に戻る。

待合室に入るやいなや、息子が「お母さん、お母さん」と父親を奥の廊下のほうへと急かした。

2009/09/25

しない理由

これだけ多くのビルマ国籍者が難民認定申請をし、ほとんど毎日のようにビルマ大使館前で抗議の声を上げているにもかかわらず、いまだに入国管理局に収容されてから難民申請をする人が後を断たない。

もちろん、そうした人々に止むに止まれぬ事情のあることはわかっている。自分が難民申請することで、故国の家族に何が害が及ぶのではないか、あるいは年老いた親を故国にひとりぼっちにしたままで亡命などできない、などなど、そうしたジレンマに思い悩んでいるうちに結局、オーバーステイで逮捕・収容されてしまうのである。

しかし、収容中にあわてて難民申請するのと、外から申請するのとでは大違いだ。収容中に申請した場合、収容期間のロスは言わずもがな、仮放免のための保証金・保証人も必要だ(これはなかなか大変)。また収容中の身で審査を受けるというのは、準備の点で著しく不利だ。難民認定申請にはそれなりに証拠資料集めが必要だが、収容所ではそれも思うようにはできないのだ。

そのせいか、収容中に申請した人が1回目の申請で認定されることはまずないように思う。

だから、ビルマに帰ることができない事情がある人は、早めに腹を決めて申請すべきだし、それをするだけの覚悟がないまま、収容されたからあわてて申請し、やれ保証人だ保証金だと頼んでくる人の面倒をどうして見なくてはならないのか。それならば、ずっと以前から申請してるのにもかかわらず、認定されずに収容されてしまった難民のほうを優先すべきではないか。

と、こんなふうなやや厳しい意見を、BRSAの打ち合わせで開陳したら、おそらくバチが当たったのであろう、その同じ日に「申請しない人」に2人立て続けに出くわした。

2人とも、古くから、つまり今のように誰も彼もが難民申請する前からぼくの知っているカレン人のキリスト教徒だ。

そのうちのひとりは久しぶりに会った人で、ぼくはとっくにビルマに帰ったに違いないと思っていた。

「帰れないのなら、申請したほうがいいですよ」

「わたしは本当に帰れないのです。難民認定申請書もすでに書いてあります。しかも2回も書き直しました。ですが、ビルマにいるわたしの妻は重い病にかかっていますし、外国で勉強しているこどもが卒業するまで学費を支えなくてはなりません。そのためには仕事を続けなくてはならないんです。きっと収容されたら申請するでしょう。その時は神様が決めてくださるはずです」

もうひとりのカレン人はたびたび会う人だが、近頃は政治活動の場でも姿を見かけるようになった。そんなわけで、ぼくはデモなどで顔を会わせるたびに申請を勧めていた。

「いつもいうから、うるさいと思うかもしれませんが、日本でこんなふうに政治活動をするのならば、早めに申請したほうがいいですよ」

「ああ、みんなそういいますよ。もちろんわかってます。みんなわたしのことを心配してくれているのです。ですが、わたしには申請をしない理由があるのです。これは自分しか知らないことです。もしわたしが申請をすべきならば、神様がわたしを入管の収容所に入れることでしょう。そうならないということは、まだ申請すべき時ではないのです。その時は神様が決めてくださるはずです」

「それならぼくはもう、申請してくださいとはいわないようにします・・・・・・」

おお、偉大なるかな、神!

だが、いかに偉大な神がいようとも、これらいずれは収容されるかもしれない人々の仮放免許可申請のための保証人となるのは、つねに人間なのである。

2009/09/24

トードゥカター(最後まで守り通せよ)

昨日の記事に書いた合同礼拝のカレン人の歌が非常に素晴らしかったので、何というタイトルか聞いたら、タイトルばかりでなく、歌の内容まで教えてくれた。

しかもカレン語の歌詞を、ビルマ語に翻訳して、さらにそれを日本語に翻訳してくれたのである。

せっかくなので、その大意をここに書き記しておこう。

トードゥカター(最後まで守り通せよ)

カレンの先祖たちは正義を愛した
カレン民族よ
忘れないでくれ

どん欲、嫉妬に陥ることなく
先祖たちは自らの人生を受け入れ
カレン民族のために生きた

祝福の大いなることを信じ
聖書の言葉どおり
蛇のように思慮深く
鷲のように正しく
働くのだ

最後まで守り通せよ
自分の神、自分の民族
自分の伝統を愛せよ

神の栄光のため
自分の民族のため
正しく生きよ

素朴でいい歌だけど、これを日本人が日本語で日本民族のために歌っていたとしたら、ちょっとツライかも。

2009/09/23

ビルマ国民のための合同礼拝

9月20日、荻窪の杉並中通教会で、在日ビルマ国民による合同礼拝が行われた。

カチン、チン、カレンなど、キリスト教徒が多い民族ばかりでなく、それ以外の民族のキリスト教徒、そしてビルマ人ら仏教徒約100名が集い、ビルマ国内で苦しんでいる人々のために祈りが捧げられた。

この礼拝の開催の中心人物はナン・マイトゥンさん。カチン人とカレン人の家族に育った女性で、日本にいる非ビルマ民族活動家の中ではもっとも優れた経験と知性を持つひとりに数えられると思う。

2005年から2006年にかけて、AUN-Japan(在日ビルマ連邦少数民族協議会)の事務局長を務め、その当時ぼくもなぜか日本人ながらAUN-Japanの会計委員だったので、いわば「かつての同僚」だ。

「この礼拝はビルマ国内の人々のためのものです。アウンサンスーチーさんら政治的囚人たち、そして動物のように殺されている多くの国民たちの苦しみのため、宗教・民族を問わず心をひとつにしてじっくり神にお祈りする機会を作りたかったのです」とナン・マイトゥンさんは今回の礼拝の目的を語る。

礼拝の内容はというと、牧師のよるお祈り、説教はもちろんのこと、カレン人、カチン人、チン人のグループによる賛美歌、代表者による長い長いお祈り、参加者によるひとことメッセージなど。

チン人の牧師さんがギターを弾きながら日本語で賛美歌「死んだらどこに行くのか」(確かそんなようなタイトル)を歌ったのには、「死んだらどこにも行かない」が持論のぼくもしんみりさせられた(ちなみに日本人の参加者は数名といったところ)。

参加者の多くが政治活動家ではあったが、礼拝の場ということもあり、表立っては政治活動をしていない人や支援者、あるいは普通の教会信徒も同席していた。また、壇上に立つ牧師、教会関係者のほとんどは、信徒のためにビルマと日本を行き来する人々であった。

そんなわけで、会場で写真を撮る時には十分注意するようにとのアナウンスもあった。

カレン人グループの歌ったカレン語の歌は非常によい歌だった。携帯のカメラで動画撮影していて、YouTubeにでもアップしようかと思っていたのだが、映ってはいけない人がたくさん映っていたので断念(ここに掲載した写真は解像度を低くしているので、問題はなかろう)。

2009/09/22

牛乳

9月21日、チン民族の結婚式に招待される。

伝統的なやり方で行うのは日本でははじめてということで、とても面白かった。

ところで、結婚式やお葬式などで客として招待されるとき、牛乳、紅茶、砂糖を手みやげに持っていくのがチン民族の礼儀とのこと。これはお客に振る舞われるミルクティーとなる。

けれど、たくさんの客が来る時に困るのが牛乳。砂糖や紅茶と違って、せいぜい保って一週間。だから、たくさん余った時は帰り際にお客に持って帰ってもらうのだとか。

来客たちの持って来た牛乳とその裏の紅茶(黄色いパック)

虎の尾

昔、2年も3年も入管に収容されていた難民がいた時代の話(そのまま昔であってくれるかどうか)。

あるカチン人収容者がこんなことを言った。

「ビルマに帰るのも危険、だけど帰国せずに入管に収容され続けるのもつらい。まるで虎のシッポを掴むようなものです」

つまり、掴んでいても、手を離しても危ない、というわけ。

就職難

日本人でも就職するのは難しいのだから、外国人ならなおさら。しかも、入管の収容から釈放されたばかりの人が、新たな仕事口を見つけるのは至難の業。

ある在日ビルマ難民いわく「今、ビルマ人の間では『仕事よりも金(きん)のほうが安い』といわれています」

OKO-Japan月例会議

9月20日夜、海外カレン機構(日本)OKO-Japanの月例会議に出席(高田馬場)。

内容は8月のカレン民族殉難者の日式典の振り返り、ポールチョウさん来日中の活動報告、会計報告など。カレン語のクラス、日本語のクラスなどもはじめる予定とのこと。現在の会員数は42名。


日本のカレン人の組織としては最大だ。

毎年9月を過ぎると現れて、1月のカレン新年祭の準備を呼びかける謎のおじさん、Mr.カレンニューイヤー(命名はぼく)と会議を途中で抜け出して、馬場のシャン料理の店マイソンカーに飲みにいく。

しばらくすると会議を終えたOKO-Japanメンバーが」合流。そこで、カレン人の英雄ソウ・バウジーには妻が3人もいた、などと話していると、店のマスターでありシャン民族のリーダーでもあるサイ・ニュンマウンさん「うちの村には奥さん5人いる人がいたぞ!」。

2009/09/16

赤とんぼ

15日の午後にNHK教育でやっている「日本の話芸」という番組で、桂三枝がやった創作落語「赤とんぼ」は、面白かった。

構成そのものも巧みで、それにも感心させられた。

童謡が主題のこの落語、童謡つながりで『ビルマの竪琴』がオチで大きな役割を果たす。

意外なところでビルマが出てきたのに驚かされたのと、この『ビルマの竪琴』の使い方が最高だったので、思わずここに書き記す、というわけだ。

カレン民族殉難者の日演説(4)

ご存知のようにビルマとイギリスは戦争を3回しています。

第1次英緬戦争、第2次英緬戦争、第3次英緬戦争と呼ばれていますが、この第3次英緬戦争でビルマ王朝は敗北し、1885年にビルマ王国は完全にイギリス領となりました。

イギリスはビルマを植民地としました。つまり、ビルマの歴史にとってイギリスはたいへん大きい存在なのです。

もうひとつ影響力のある存在がどの国かというと、それは日本です。

日本人が直接ビルマを支配した時代はたった3年の期間でしかありません。

ビルマ語でジャパンキッ(日本時代)と呼ばれるこの時期は1942年5月から1945年8月頃までです。

現在ビルマを支配している政府を軍事政権と呼んでいますが、日本時代は日本軍がビルマを支配する日本軍政の時代でした。この軍政はビルマでたいへん悪いこと、ビルマの人々にたいへんひどいことをいくつも行いました。

その日本時代、ビルマで起こったことの中で重大な出来事は、カレン民族とビルマ民族との衝突といわれる数々の事件です。

日本の軍人、飯島大尉はビルマ独立義勇軍(BIA)とともにカレン民族の掃討戦を行っていたわけですが、デルタ地帯で彼が逆に殺されてしまったという事件がありました。

この時期、あの30人志士を率いてビルマに凱旋したBIA創設者、鈴木敬司大佐、ビルマ語名ボ・モウジョウは、カレンの指導者とこの事件について話し合いをしました。

その時にボ・モウジョウに会ったカレン民族の指導者はマン・ソウブという人でした。彼は、鈴木敬司大佐の前にまずひざまずいて「わたしを殺してください。わたしを殺してください」と慈悲を乞うたのでした。

マン・ソウブはカレン民族にとって初期の殉難者であるということができます。

鈴木大佐に対してマン・ソウブが「自分の命を差し出すのでカレン民族に対する怒りを解いてください」と懇願したため、カレン民族がどのような状況にあるのか、カレン民族がどのような気持ちを持っているのかを鈴木大佐は理解したのでした。

このように、日本の高級軍人のなかにも、鈴木大佐のようにカレン人について理解した人もいたのですが、不運なことに鈴木大佐は日本軍大本営から呼び戻され、ビルマを離れて他の場所に行くことになってしまいました。

しかし、この不運ということについていえば、ビルマ今なお不運な状況にあるといわざるを得ません。

ところで、鈴木敬司大佐がボ・モウジョウというビルマ語名を持っていたように、アウンサン将軍も面田紋次(おもたもんじ)という日本語名を持っていました。30人志士はそれぞれ日本語の名前を持っていました。タキン・シュマウン、後のネウィン将軍の名前は高杉晋といいました。

とにかくビルマはいまだに不運な歴史を背負ったまま、今も不運な状況にあります。

2009/09/14

カレン民族殉難者の日演説(3)

象使いはもうどうやっても象を動かすことができなくなり、先に渡りきった象の象使いに向かって声をかけました。象は、どうやら増水した川を渡るを怖がっているようでした。そこで、すでに渡り終えた象を呼び戻して、立ち止まっているほうの象のお尻を押させてなんとか渡りきったのでした。

象使いは「こんなことは生まれてはじめてだ。不吉なことだ」と語ったそうです。

さて、象たちはそのまま進んでいきます。もう午後3時か4時ごろです。雨も降っていますし、暗くなってきました。すると、この土地に生息し、飛ぶことのできない鳥が、地面をうろうろと走り回っています。

これを見て象使いが「もういやだ。これは何かよくないことが起きるぞ。俺はもう帰る」と言い出しました。

この旅についてはすでに多くの人がその前から心配していました。なかには兵士を随行させたほうがいい、といった人もいました。しかし、ソウ・バウジーは聞き入れず、ほかの若者に迷惑をかけたくないと断って出発してしまったのでした。

さて、その村に到着しました。そして、その翌日の朝早く出発する予定だったのですが、雨が激しかったため、その日は出発しませんでした。ですから、村には二晩泊まったことになります。

予定通りに10日は村に泊まり、そして11日に出発していれば、そのときビルマ軍の部隊はまだかなり遠くにいたので、襲撃を受けることはなかったでしょう。しかし天候の関係で、つまり雨がふり、水が出ている状況でもう一日泊まって、出発が12日になったがために、ビルマ軍の攻撃を受けることになってしまったのでした。ソウ・バウジーたちは抵抗し、反撃をしたのですが、結局、殺されてしまいました。(続く)

2009/09/13

カレン民族殉難者の日演説(2)

1950年8月に起きた出来事をお話ししたいと思います。

8月というのは世界でもいろいろなことが起きた月です。8月6日に何が起こったか、8月9日に何が起こったか、これは日本にいる人ならば誰もが知っていることです。また、その間にある8月8日に何が起こったかは、ビルマの人ならばみんな知っていることです。そして8月12日は、カレン民族ならばみんなが知っている日なのです。

まず1950年8月10日の出来事からまずお話しましょう。ソウ・バウジーはこれから重要な用事があるから旅に出る、と言って、ソウ・サンケーら数名の仲間とともに出発しました。出発地はパプンという町でした。

周りの人はソウ・バウジーに旅行を思いとどまらせようとしました。天気も悪いし、雨も降っています、山道をゆくのは大変ですといって、旅を止めさせようとしたのでした。

この旅の行く先と目的について知っている人は2人しかいませんでした。本人とソウ・サンケーだけです。彼らに同行した人にわたしは直接尋ねてみたことがあります。彼らは自分たちがどこに何しに行くのかについてまったく知らなかった、ということでした。

象2頭を連れた旅でした。象の上に2〜3人が乗って旅をしたのでした。目的地はトッコックーという村でした。このトッコックーというのは鳥の名前です。この村はカレン人にとって非常に重要な村なのですが、現在はビルマ軍事政権に寝返ったカレン人たちがこの村を支配しています。

さて、パプンからこの村に行くには川をいくつも渡っていかなければなりませんでした。雨期なので雨が降り、川も増水しているという状況でした。この象2頭のうち、2番目に歩いていた象の象使いからわたしは直接話を聞いたことがあります。それによると、1頭目の象は、ソウ・サンケーが乗っていたのですが、この象はパプンからトッコックー村に行くのに渡らなければいけない川を無事に渡り終えました。しかし、2頭目の象、ソウ・バウジーが乗っていた象がこの川を越えたがらず、歩みを止めてしまったのでした。(続く)

2009/09/10

カレン民族殉難者の日演説(1)

これから何回かに分けてお伝えするのは、8月16日に池袋で行われたカレン民族殉難者の日式典(OKO-Japan主催)において来賓のポールチョウさんが行った演説です。ポールチョウさんはオーストラリアのパース在住のカレン人難民で、カレン人の定住支援活動やオーストラリア政界へのロビー活動を長年続けている方です。OKO-Japanの顧問でもあるポールさんは、今回この式典のために来日しました。なお、通訳はもちろん田辺寿夫さんです。当日の録音をもとにしたものですが、文責は熊切にあります。

カレン殉難者の日:カレン民族同盟(KNU)の創始者である伝説的カレン人指導者ソウ・バウジーがビルマ軍に虐殺された事件に由来する日。

今日、わたしたちがここに集まったのは言うまでもなく、カレン民族の殉難者を偲ぶためです。

では、カレン民族にとっての殉難者とは誰のことでしょうか。殉難者というものが、行い正しい、きちんとした人だったかどうか、ということを考えてみる必要があります。

ソウ・バウジーには妻が3人いました。これは歴史的な事実です。歴史的な事実というものを、人に気兼ねしたり、組織にとって不利益だからという理由で隠蔽してしまう、あるいは言いつのらない、ということがありますが、これは歴史を改ざん、改悪することです。

どの民族にもこの殉難者と呼ばれる人々がいるわけですが、この殉難者が聖人君子であるとは限らないのです。中には酒を飲む人もいるでしょうし、博打打ちもいるでしょうし、女性のお尻を追いかけ回している殉難者だっているでしょう。歴史上こうしたことは起こりうることなのです。

それでもこれらの人々がなぜ殉難者と呼ばれるかといえば、必要があれば自分の命を捧げる、そこまで目的のためには犠牲にする、人のためにそこまでやる、そうした人物であるからこそなのです。

ソウ・バウジーという人は裕福な階層に生まれた人物です。顔もまずまずハンサムな男でした。イギリスに留学し、法学士の資格を取った人でもあります。

最初の妻はイギリス人の女性でした。その女性との間には、息子と娘の2人が生まれました。息子の名前がマイケル、娘はセルマといいます。マイケルさんはすでに故人ですが、セルマさんままだ存命しています。

2番目の妻はカレン民族の女性でした。2人の間にできた娘のティムーさんはまだ健在で、アメリカに住んでいます。最初の妻は、ソウ・バウジーにイギリスに帰るようにいわれて、子どもを連れて帰国しました。その後、ソウ・バウジーはカレン民族のために一生を捧げることになるのです。(続く)

2009/09/07

マサラの工場

マサラというのは現在のビルマ軍事政権の前の軍事政権、ビルマ社会主義計画党政府BSPPのことで「BSPPのビルマ語呼称からそれぞれの語頭の字母を取り出してつなぎ合わせた、ビルマによくある略し方」とのことである(『ビルマ民主化運動1988』田辺寿夫著p138。ここにはこのマサラという言葉に関するいろいろ面白い話が書かれている)。

さて、これからお話しするエピソードはまさに女性差別に他ならないが、ひとつ記録として書き残しておこうと思う。

ある在日カレン人がある既婚女性に面と向かって「あなたはマサラの工場みたいだね」と言った。

つまり当時のマサラの国営工場が何一製品を製造できなかったことをもって、彼女がいまだに子を生していないことをからかったのである。

またこの人はかつてこんな言い回しを教えてくれたことがある。

「ビルマのタバコは短いのが(短くまで吸うと)いい、女性は若いのがいい」

2009/09/02

半可通

ビルマの多くの民族には冠称と呼ばれるものがあって、文字通り「名前に冠する称号」なのだが、これによって、その人がどの民族に属し、男性か女性か、社会的な地位などを表示することができる。

たとえばカレン人の冠称はSAW(男性)とNAW(女性)で、これが名前の前に置かれることでその人がカレン人の男性(もしくは女性)だと分かる仕組みになっている。

とはいえ、このSAWとNAWというのは、カレン人のすべてが用いているわけではない。この冠称を用いるのは、カレン人でもスゴー・カレンと呼ばれる民族で、13以上とも言われるカレンの他の民族集団は別の冠称を用いている。

スゴー・カレンと並ぶもうひとつの大きな民族集団、ポー・カレンの冠称はSA(男性)とNANG(女性)である(ポー・カレンはさらに西と東に分かれるが、この冠称がどちらのだかは忘れた。また男性の年配者にはMAHNという別の冠称もある)。

在日カレン人にポー・カレンでありながらSAWという冠称を持つ人がいる。

その理由を聞いたら、こんなエピソードを話してくれた。

「わたしが中学生の頃のことです。その学校にはビルマ人もおり、また仏教徒ポー・カレンでしばしば見られるようにわたしもビルマ風の名前であったので、わたしは自分の民族の冠称を使わずに、ビルマ民族と同じ冠称MAUNG(若い男性の冠称)を用いていました。するとあるとき、わたしがカレン人であることを知ったビルマ人の学校の先生がこんなことを言い出したのでした。

『カレン人であるきみがMAUNGなど使うことはない。カレン人らしくするがいい』 

そして、先生はわたしの名前の前にSAWを付け、名簿上もそのように変えてしまったのでした。その結果、今もパスポートなどではこのSAWが付いたままなのです。」

2009/08/31

8月8日に生まれて

民主化要求デモがビルマ全土で一斉に行われた日であり、反政府活動においては今なお特別な意味を持つ1988年8月8日にあるカチン人の女の子が生まれた。

彼女の母は、娘が学校に上がるとき、誕生日をごまかした。この記念すべき数字が、ビルマ軍事政権の敵意を引き起こし、娘の命が脅かされるのではないかと恐れたのである。

非ビルマ民族がビルマ民族に対して抱く恐怖の一例として。

2009/08/29

頼まれたもの

3年前にタイ・ビルマ国境に行ったとき、カレン人国内避難民の支援をしているカレン人活動家から、小型の望遠鏡を日本から送ってくれないかと頼まれた。詳しく聞いてみると、銃に付けるスコープのようだ。

彼が言うには、ビルマ軍部隊というのは有象無象の集まりなので、隊長さえ狙撃してしまえば、一気に崩壊してしまうのだそうだ。

部隊を瞬く間に潰走させ、カレンの村人たちを守る。質の良いスコープさえあれば銃弾一発でこれが可能なのだという。

その後、国境からバンコクに戻り、ハイテク製品デパート、パンティップ・プラザに行った。すると、ある店舗で、照準器を扱っているではないか。

ぼくはガラスケース越しにさまざまな太さ・長さのスコープを見つめた。暗視装置の付いたものもある。女性の店員がガラスケースからスコープを取り出し、目 の前に並べてみせた。手に取って、ファインダーを一応覗いてみたりした。

値段を聞くと、高いことは高かったが、買えない値段ではなかった(正確な値段は忘れてしまった)。

ぼくは自分が寄付したスコープでビルマ軍の隊長が射殺される様子をしばらく思い描き、結局何も買わずにその店を後にした。

2009/08/26

カレン殉難者の日式典報告(3)

(スピーチの続き)

2006年12月には、カレン人の状況を日本のみなさんに知ってもらおうとセミナーを開催したのですが、そのときにはポールチョウさんをオーストラリアからお呼びして、講演をしていただきました。その際には、今回と同様、田辺寿夫さんに通訳していただきました。

昨年田辺さんが出版された本『負けるな! 在日ビルマ人』(梨の木舎刊)の218ページでそのセミナーの様子も取り上げていただきました。本当にポールさんと田辺さんにはお世話になっております。感謝を申し上げたいと思います。

最後にOKO-Japanの現状をお話しして終わりにしたいと思います。

現在の会員数は34名です。男性も女性もメンバーに加わっています。20代前半から60代の方まで年齢層は幅広いです。

カレン人にはいろいろなカレン人がいますが、OKO-Japanにはスゴー・カレン、ポー・カレン、そしてブエー・カレンの方がいます。

宗教はキリスト教徒の方もいれば、仏教徒の方もいます。

出身地はといえば、ヤンゴン、デルタ、カレン州とまた広域に渡っています。

独身の人もいれば、既婚者もいます。既婚者でも家族をビルマに残してきた人もいれば、日本で一緒に暮らしている人もいます。

最後に付け加えれば、難民として認定された人もいれば、在留特別許可をもらった人もいます。また現在難民認定申請中の人もいます。

本当にいろいろな背景をもったメンバーがいます。ぼくはカレン人の一番よいところはこうしたいろいろな人がいるというところではないかと思っています。

それぞれ異なる背景をもつ人々が協力し合うということが、カレン人の魅力であるし、こうしたことを日本の人にももっと知ってもらいたいと思っています。

OKO-Japanだけでなく、KNU-Japan、KNL-Japanにもそれぞれ特徴があります。これらのグループの中にもまたいろいろな人がいる、そうした日本の中のカレン人社会の多様性、その面白さをぜひ伝えたいと思っています。どうもありがとうございました。(終わり)

2009/08/25

カレン殉難者の日式典報告(2)

今年のカレン殉難者の日の式典では短いスピーチの時間をいただきました。海外カレン機構(日本)と在日カレン人の紹介になると思うので、以下掲載させていただきます。

海外カレン機構(日本)、OKO-Japanは2006年3月に結成されました。その目標は、ビルマ民主化、そしてカレン人の解放におかれていたのですが、さらに国外のカレン人難民の支援という目的もありました。

そのためにタイの国境で活躍されているシンシア・マウン医師に相談したりなどして活動をはじめました。

結成時のメンバーはぼくを含めて20名でしたが、当時これらのメンバーの中で外国に行けるのは、ぼくともうひとりのメンバーしかいませんでした。そんなわけで、国際プログラム担当をまかされることになり、OKO-Japanの任務としてタイの難民キャンプに行ったりしていました。

でも、今では当時の20名のメンバーすべてが日本での滞在資格を得るということになり、したがって、だれもが自分でタイに行くこともできるようになりました。2006年から2009年までの間に、グループの状況もどんどん変わってきているということです。

こうした支援活動のほかに、デモ活動などに参加するなどの活動も行っていますが、特筆すべき活動はこの「カレン殉難者の日式典」の開催です。

OKO-Japanが日本で開催するのは2006年からはじめて4回目ということになります。このカレン殉難者の日がOKO-Japan、カレン革命の日がKNU-Japan、カレン民族記念日がKNL-Japanが主催するというように、日本にある3つのカレン人グループが3つの重要な記念日を分担している、という状況です。

2009/08/24

カレン殉難者の日式典報告(1)

カレン殉難者の日式典が海外カレン機構(日本)の主催により、8月16日、池袋の豊島区勤労福祉会館で行われた。参加者は80人弱で、ほとんどがカレン人であった。日本人が9名。アラカン人、ビルマ人、モン人あわせて数名。

カレン民族のために亡くなった人々を悼む半旗掲揚

献花

会場の様子。迷彩服の人はKNU-Japanのメンバー。
こういう姿があるとなんだかタイ・ビルマ国境に来たような感じがします。
日本ではあまり意味はないですが。


半旗掲揚、カレン民族歌斉唱、献花などを除けば、主な内容は次の通り。

1)海外カレン機構(日本)の声明

2)カレン民族同盟の声明

3)民主党議員今野東さんからのメッセージ代読

4)オーストラリア在住のカレン人ポールチョウさんのスピーチ

5)参加者全員による歌


このうち4)に関しては、ウー・シュエバこと田辺さんの通訳があるので、いずれご紹介する予定。

また5)の歌は、在日カレン人のサ・タウンウィンさんがその様子をYouTubeにアップしているので、興味のある方はご覧ください。

YouTube- tell me why (Karen in Japan)

2009/08/23

インドのカレン人

カレン殉難者の日のために来日したオーストラリア在住のカレン人活動家、ポールチョウさんから、インドのカレン人についての話を聞いた。

アンダマン諸島のアンダマン島の北部にカレン人が3000人ほど暮らしているのだそうだ。以下は2008年に訪問したポールさんの報告である。

これらのカレン人はもともとこの島に住んでいたのではない。イギリス植民地時代にパテインから移住したのだという。

移住の経緯はといえば、当時アンダマン島では労働者が不足しており、イギリス人宣教師が同じ英領から英領へとキリスト教徒カレン人を連れてきたのだそうだ。

移住の公的な記録は1925年からだが、実際にはそれ以前に移住ははじまっていたらしい。

これらインドのカレン人は、スゴー・カレン、ポー・カレンのキリスト教徒からなり、農業・漁業に従事している。なかには、アンダマン諸島の行政のトップとして働くカレン人もいるとのこと。

カレン人としてのアイデンティティはしっかり保っているが、インド文化の中で暮らしているため、時にサリーを着用したり、額に印をつけたりなどし、中にはインド風に首を横に振って肯定の意を表す者もいる由。

インド政府はビルマ国籍の者に滅多にビザを出さないので、アンダマン島のカレン人を訪問するビルマのカレン人はまれである。また、これらのインド国籍のカレン人も、同胞が迫害されているビルマの地を訪れることはない。

ゆえに、オーストラリア国籍カレン人のポールさんの訪問は、久々のビルマ出身のカレン人との交流ということで、アンダマン島のカレン人は皆大いに喜んだという。

なお、2004年のスマトラ沖地震の津波では、さいわいにも犠牲者は出なかったとのことであった。

2009/08/20

写真は恐怖を写し出す(おまけ)

「写真は恐怖を写し出す」を読んでくださったある方が、ぼくに「入管の職員にでもなりたいのか」と冗談まじりに尋ねた。

これはぼくがあるビルマ国籍の活動家を批判したことを指しているのだが、もちろんぼくは入管の職員になりたくってあんなものを書いたわけではない。

だが、読んでくれた人のなかにはそんな風に誤解した人もあるかもしれない。そんな風にというのは、あたかもぼくがある人物を偽の難民だと告発しているかのように、という意味である。

だが、読んでいただければ分かるように、ぼくはそのようなことは一切言っていない。それどころか、ぼくはその人物がまぎれもない難民であり、ビルマに帰国すれば間違いなく殺害される、と考えている。

むしろぼくがほのめかした、あるいははっきりと言うべきだったのは、難民だからといってまともな政治活動家とは限らない、という単純な事実である。

この点に関しては、当のビルマ難民にも誤解している人がいる。つまり、ある人が在留特別許可ではなくて難民認定されたのは、その人が政治活動家として優れているからだと、考えてしまうビルマ難民もいるのである。

だが、入管はあくまでも難民かどうかを判定するところであって、政治活動家として優れているかどうかを決めるところではない。もちろん、優れた政治家活動家、影響力のある政治活動家は難民である可能性は高いが、そうでなくても難民として認められる理由はいくらでもあるのである。

たとえば、ビルマのいわゆる少数民族が直面している民族的迫害がそれだ。民族を理由にした迫害はその被害者がただ単にある民族に属しているという理由のみで起こりうる。つまり被害者の人格や才能は民族的迫害においては本質的な原因とはならないのである。

それに、優れた政治家のみが難民となるとしたら、ある避けがたい矛盾に直面することとなる。すなわち、優れた政治家のみがビルマで命を狙われるということは、迫害者である軍事政権がその政治家の優れている理由や民主主義の価値というものを深く理解しているということ、民主主義的政治活動の優れた判定者であるということを意味していなくてはならない。だが、ある政府が民主主義というものを心底理解しながらそれを拒絶するということはありえないのである。

軍事政権が民主主義を拒絶するのは、民主主義を理解していないからだ。それを何か恐ろしい脅威とみなしているからだ。軍事政権はこの恐れに突き動かされて、よい活動家であろうと悪い活動家であろうと、糞も味噌も一緒に政治に関わる者を全てを見境なく踏みつぶしつづけているのだ。

2009/08/14

写真は恐怖を写し出す(7)

さて、2009年1月のこと、在日カレン人がカレン民族新年祭を東京で開催することになった。カレン民族新年祭というのはカレン人の伝統行事のひとつで、日本でも毎年開催されている。ターターの団体は1月のある日曜日を開催日として提案したが、他の2グループは別の日曜日を押し、結局多数決で後者の日程に決められた(ターターの団体はメンバーがビザを取ると次々に離れていくので、公称上はともかく人は少ない)。すると、ターターは次のように言い放ったという。

「わたしたちの団体は今年の新年祭には協力しない。お前たちだけでできるならやってみろ」

ターターの読みとしては、いずれ自分の力が必要になって泣きついてくる、あるいは新年祭が失敗に終わり、そのことで自分の存在感をかえってビルマ人社会、そして日本人社会にアピールできる、というものだったと、ある人はいうが、3年前だったらそれも成立したかもしれない。当時は難民として認定されていたのはほとんどターターとその取り巻きのみで、誰もが一目置かざるをえなかったのだ。

だが、時代は変わった。今では他の2グループのメンバーもほとんどが難民ビザ、あるいは特別在留許可を認められていて、かつてのように無力で寄る辺ない存在ではなくなっていた。むしろターターの言葉に他の2団体は「バカにするな、自分たちでやってやれ」と発奮したぐらいなのである。

結果からいえば、新年祭は成功だった。ぼくはその日、別の用事があってここ数年ではじめてカレン新年祭を欠席したのだが、夜、たまたま高田馬場の駅で出会ったカレン人の知人が、興奮気味にいかに多くのカレン人が集まり、楽しく祝い合ったかを話してくれたのを覚えている。しかも、参加者はカレン人ばかりではなかった。ビルマ民主化団体、非ビルマ民族の政治団体の代表たちも会場にやってきて、歌と踊り、そしてカレン料理を満喫したのだという。

いっぽう、ターターは、自分の団体のメンバーたちに新年祭への参加を厳しく禁止していた。そればかりではなく、彼は別の団体に所属するあるカレン人に対し「あなたはカレン人としてふさわしくないから行くな」などという電話をしていたのだそうだ。そのカレン人は迷った末に遅れてやってきたため、電話の内容が明らかになったわけだが、ターターとしてはあらゆる手を使って、この新年祭を失敗に終わらせようと頑張っていたのだった。

だが、このカレン新年祭そのものは、どこの政治団体のものというわけではない。在日カレン人みんなのものだ。しかも、多くのカレン人にとっては、年一度の楽しみといっていいほどの喜ばしいイベントだ。そのようなわけで、ターターとその取り巻きは姿を現さなかったものの、一般メンバーのうち数人は禁止をものともせずやってきて、他のカレン人と一緒に喜びを分かち合わずにはいられなかった。

これらのメンバーは、普段はターターから他のカレン人と話をするなときつく命じられているので、いつも黙っているが、今回はありがたいことにターターたちの監視の目もない。大いに羽根をのばして、はしゃいでいたという。

新年祭も終わりに近づいた頃、毎度のことだが、みんなで記念写真を撮ろうということになった。参加者たちは会場のいっぽうに集まり、並びはじめる。あるカレン人が、隅のほうにいるターターたちのメンバーに気がつき「こっちに来て一緒に写真に入ろうよ!」と呼びかけた。すると、彼らは首を振りながらこう言ったのだそうだ。

「わたしたちが写った写真を議長が見たら命が危ない。それは絶対にダメ!」(了)

2009/08/12

カレン殉難者の日式典のご案内

海外カレン機構(日本)OKO-Japanの主催する第59回カレン殉難者の日式典が以下のとおり行われます。

カレン殉難者の日とは、カレン人の伝説的な指導者であり、1950年8月12日にビルマ軍により虐殺されたソウ・バウジーを追悼する記念日です。ソウ・バウジーはビルマ政府にとってはカレン人「反乱」の首謀者であり、ビルマ国内ではカレン人は彼の名前を口にすることすらできません。

今年の式典では、オーストラリア在住のカレン人指導者ポール・チョウさんによる講演のほか、在日カレン人政治グループによる声明の発表や、歌などが予定されています。

日時:2009年8月16日日曜日
時間:午後2時から午後4時15分
場所:豊島区勤労福祉会館
    池袋駅西口下車 徒歩約10分
    池袋駅南口下車 徒歩約7分

連絡先:cyberbbn@gmail.com

8月9日に行われたOKO-Japan会議にて
殉難者の日式典の準備が行われました。

2009/08/11

8888民主化デモ

第21回目の8888民主化デモが東京で行われた。今回は五反田駅近くの公園から、ビルマ大使館前を抜け、その近くの公園にまでいくというコースで、例年より短め。

とはいえ、参加者は過去最大規模で、50名に満たない日本人参加者をのぞいて、約1200人ものビルマ国籍者の参加があったそうだ。

昨年は850人、一昨年は田辺寿夫さんの著書『負けるな! 在日ビルマ人』によれば、ビルマ人700人、日本人70人というから、年々増加し続けていることになる。


曇り空でかんかん照りではなかったものの、非常に蒸し暑く、汗だくになった。そんなわけで、品川の公園に着く頃には、ビルマ人に比べて根性のないぼくは、民主主義よりもお水をください、という状態になっていたのだった。

2009/08/07

写真は恐怖を写し出す(6)

さて、本題となる話ができる地点にようやくみなさんをお連れすることができた。まずはじめにお断りしておくが、この話の狙いは、あくまでもビルマの人々が心に抱いている恐怖、時には日本人に理解しがたい恐怖を描くことであって、人を非難することではない(それは別の機会にするつもりだから)。

日本で活動するカレン人の政治団体は3つあるが、そのうちひとつの議長を務めるカレン人は悪名高いといっても過言ではない人物だ。彼を仮にターターと呼ばせてもらうことにするが、ターターはいわば弱いものいじめの達人で、組織内で自分に従わない者に対して徹底的に弾圧を行うことで知られている。一度、彼は「反抗的なメンバー」について「この人は汚れた人間であり、カレン民族ではない」などという声明を作り、在日カレン人たちと、在日ビルマ人民主化団体のすべてに送りつけたことがある。念の入ったことに、送った相手には収容中のカレン人も含まれていた。もっとも、受け取った政治活動家の反応はひとしなみに「同じビルマの人間として恥ずかしい」とか「なんでこんなことをするのかまったく不可解」とかいうもので、まともに相手にする者はいなかったが。当時は、サフラン革命の真っ最中で、どの政治団体もひとつになって声を上げようと模索していた時期だった。こんなくだらない声明以外にもっと出すべき声明はあろうに、というのがその時のぼくの感想だ。

とはいえ、こうした強硬な姿勢は、ターターの組織のメンバーに対しては驚くほどの効果を生み出した。彼らの望みといえば、日本で難民として認められることだが、そのカギを握っているのはいまやターターなのだ。なぜなら、うっかり逆鱗に触れて追放されでもしたら、難民審査官の心証がその分悪くなることは確実だし、そうなればビザはとうていおぼつかない。いや、それどころか、ビルマに強制送還されて、政府に殺されてしまうかもしれないのだ。つまり、彼らにしてみればターターは自分たちの生殺与奪権を持つ全権者といってもよかった。ターターもまたこうした状況をよく理解していた。彼はメンバーの畏怖をさらに強めるべく、自分が日本の入管や政府の上層部と特別な関係にあるとしばしばほのめかしさえた。

かくして、恐怖でもってメンバーを支配する恐怖政治が出現する。メンバーはターターの言うことには絶対服従で、彼の前ではそのサンダルの塵を払う資格すらなかった。在日民主化運動関連のイベントでしばしば目撃されるのは、ターターとその家族と取り巻きがまるでロイヤル・ファミリーのようにメンバーたちを従えている光景だ。

なんとも厭わしい状況。だが、まさに同じようなことをビルマ軍事政権がしているのに気がつけば、あるいはこのターターに対して読者のみなさんが感じているかもしれない嫌悪感も和らぐにちがいない。つまり、軍事政権の中で育ち、その中でしか教育を受けたことのない彼は、人を統率するのに軍事政権と同じやり方しか知らないのだ。ターターの場合は極端な例だが、民主化、あるいは民族の解放を叫びながら、軍事政権のメンタリティから抜け出すことのできない政治活動家たちは多い。効力ある民主主義教育・訓練が必要とされるゆえんである。

2009/08/05

日本ビルマ民主化運動記念館設立

ビルマが自由な国になり、誰もが平和に暮らせるようになったら、俺はヤンゴンに日本ビルマ民主化運動記念館を建てようと思っている。

日本大使館の隣にドーンと巨大なヤツを。

記念館は日本で行われたビルマ民主化運動にかかわる文書や記録の保存と展示を目的とし、そこに行けば、日本に逃げてきたビルマの人々がどんな思いで日々、政治活動をしていたかが分かる。

品川のビルマ大使館のデモの様子も見事に再現されている。ジオラマで。

だが、この記念館の目玉はなんといっても、入管の収容所に関する展示だ。詳細な解説と展示品により、当時入管でどのような生活が行われていたかが、誰にでも分かる仕組みだ。

なかでも品川と牛久の入管収容所の実物大の再現は見逃せない。

リアルなビルマの収容者の人形が、入場者たちをお出迎えだ。それらの人形は、退屈そうにしていたり、泣いていたり、病気に苦しんでいたり、手紙を書いていたり、煙草を吸っていたり、ハンストをしていたりする。

面会室に座っているビルマ人もいる。

アクリルの壁越しに対面すれば、まるで本当に収容所で面会している気分(面会室のロックを解くカードは、お土産としてお持ち帰りください)。

しかし、面会時間は限られている。壁の向こうのドアから日本人の入管職員が顔を出して、終わりが来たことを告げるのだ。

俺が今、難民のビルマ人と付き合っているのは、将来、この入管職員役に推薦してほしいからなのだ・・・・・・

2009/08/03

天下太平

日本に暮らすチン民族難民が老いた両親を短期滞在で呼び寄せた。

3ヶ月近く日本に滞在したのち、彼らは次のような結論に達したのだという。

「日本のテレビにはおいしそうな食べ物とお笑いしか映っていない」

これはもちろん、役に建たない巨大な橋やこぎれいな農園を視察する軍人ばかり映し出されるビルマのテレビよりもまし、という意味である。

2009/08/01

写真は恐怖を写し出す(5)

日本から帰国したビルマ国籍者が、まず怖れるのが空港での尋問だ。聞いた話によると、日本から帰ってきたということがわかると、軍情報部だか警察だかに別室に連行されるのだという。そこで、荷物を調べられ、日本のビルマ民主化活動家の写真を何枚も見せられ「こいつを知っているか」「こいつはどうだ」などと尋問されるのだが、もちろんたとえ知っていてもそう答える向こう見ずな愚か者などいやしない。「わたしは日本では日本人しかいない職場(学校)にいたので、ビルマ人とはほとんど付き合いがありませんでした。だから一切存じません」というのが、模範解答のようだ。

もっとも、なかには不運な人もいる。

あるカレン人が不法滞在で捕まって、入管によってビルマに強制送還された。ヤンゴンの空港に到着したとき、彼の手にはひとつのスーツケースがあった。送還される前に、彼の友人が、貯金とアパートに残された所持品を詰め込んで、入管に差し入れてくれたのだ。軍情報部が日本からの帰国者である彼にさっそく目を付けた。小さな部屋に連れて行き、政治活動に関わっていなかったどうか尋問を始めた。彼は実際には政治活動に関係していたが、そのことはおくびにも出さない。

だが、軍人たちはスーツケースを開け、くまなく中を調べ、彼のまったく予期せぬことについに一枚の写真を見つけだした。それは、ある政治的集会で撮られたもので、著名な難民と彼が肩を並べて写っていた。つまり、彼の友人が中身を吟味せず所持品をスーツケースに詰め込んだせいで、本来ならば持ってきてはいけない写真まで紛れ込んでしまったのだ。スーツケースは出発直前に差し入れられたため、入管から成田空港の機内まで拘束されて連れて行かれる彼には、それを開いて中身をあらためる機会などなかった。

彼は軍人たちに嘘つきと罵られ、後頭部を殴りつけられた。だが、拘留が数日間で済んだのは、かなり幸運なことだった。もっとも、彼とその親族がたっぷりと賄賂を渡していなかったら、そんな幸運も訪れなかったことだろう。

2009/07/29

悲惨

軍事政権の合法化を目的とする2008年憲法の承認、そして軍事政権が勝利するとあらかじめ決まっている2010年の選挙、と今後ビルマの状況はますます悪化すると見られている(日本政府は逆の見方をしているが)。

そして、日本に暮らす非ビルマ民族政治活動家が次のように言った。

「わたしたちはこれまで、いずれビルマに帰れる日がやってくるという前提のもと活動してきた。だが、いまやそれも叶わぬ夢となった。わたしたちは日本で死ぬのだ・・・」

2009/07/27

アブダクション

ある在日カチン人の親戚が体験した話。

今年の2月頃、あるカチン人の若者(20歳頃)がヤンゴンの自宅周辺を歩いていた。ちょうど駅の前に来たとき、兵士たちが彼を取り囲み、有無を言わさずトラックの荷台に他の若者とともに押し込み、連れ去った。

兵士たちは若者たちを軍事基地に運び、そこでむりやり兵士になるための同意書に署名させ、軍事教練をはじめた。軍は彼らに自宅に連絡を取ることを許さなかった。

残された家族はといえば、いくら探しても若者の居所はわからない、これはてっきり死んだに違いない、と思って諦めていた。

ところがようやく最近、本人から連絡が入って、新首都ネーピードーで軍務についていることが明らかになった、という次第。

ビルマ国軍についてよく言われる「士気の低さ」の理由が分かる話。

2009/07/25

写真は恐怖を写し出す(4)

いずれにせよ、これまでの話は、あくまでも政治活動をしている人に限られる。政治活動家ではない人、あるいは難民ではない人の写真の扱いは極めて注意を要する。

たとえば日本で学ぶ留学生や日本人と結婚した人のことだが、これらの人々の中には民主化運動に同情的で、背後から支援する人もいる。だが、たとえいくら協力的であっても、民主化活動家や難民と一緒に写った写真を公表することは、危険な結果をもたらす。これらの人々は、永続的にせよ一時的にせよビルマに帰る人々であり、そうした写真によって軍事政権から反政府運動の協力者とみなされることは時として致命的な事態を招きうるのである。

こんな話がある。日本で難民として認められたあるカチン人男性が老いた母を日本に呼び寄せた。母子は十数年ぶりに再会し、3ヶ月の滞在ビザが切れるまでの間、ひさびさに一つ屋根の下に暮らし、時にはあちこち見物に出かけるなどして楽しい日々を過ごしたのだが、この老母、ひとつだけ決してしないことがあった。それは、息子と一緒に写真を撮ることで、彼女が言うには「帰国の際にそんな写真、つまり政治活動をしている難民と写った写真を持っているのが空港でばれたら、どんな目にあうかわからない」のだと。現像しないでデジカメのメモリに入れておけば大丈夫、と息子がいっても、「怖いのでいやだ」と承知しない。「では(と息子が諦めていう)、わたしの写真はいいけど、せめて孫の写真を持って帰ってください」 すると老母は答えて「もし空港でこの写真の子どもは誰だって尋問されたら、わたしはどう答えればいいの? 厄介ごとが起きるに決まってる!」 結局、家族の写真を一枚も持たずに帰国したそうだ。

2009/07/23

謝罪(2)

これはおそらく、「謝罪する」という行為のもつ役割がビルマ社会と日本社会では異なることに起因するのであろう。

われわれにとって「謝罪」とは、物事を潤滑に進めるためのテクニックのようなところがあって、とにかく謝っていれば、物事は日本社会ではそう悪くは進行しない。

そして、これは重要なことだが、謝罪していても、実際に心のうちではどう思っていてもかまわないのである。謝るという行為自体が重要なのだ。

こうした謝罪には同じ文化を共有し、その謝罪の意味を相互に正しく理解しているという暗黙の了解が必要だ。

その点、他民族や他国との間にはそうした暗黙の了解がないので、日本人はあまり謝罪をしたがらない。自分たちの謝罪を相手が、自分たちの期待している通り理解してくれるかどうか分からないからだ。

他の文化圏への謝罪に関してしばしば言われる「一度謝ると、何度も何度も謝らなくてはならなくなる(それでは毅然とした日本ではない)」という言葉は、日本社会が他の文化に対して抱く「理解されないのではないか」という恐怖のひとつの表現なのだ。

それはともかく、ビルマ社会の謝罪観は、日本のいわば社会の潤滑油的な謝罪観とは異なることは確かなようだ。

とはいえ、それが社会的な権威を損なう何かである、という以上のことはわからない(日本人にとっては逆だ。社会的な地位の高い人が日本人に対して真摯に謝れば謝るほど、その人の好感度は上昇するのである)。

ついでだから、謝罪にまつわるエピソードをいくつか。

松岡利勝大臣が自殺したとき、遺書に書かれた言葉を聞いてあるビルマの人が「ビルマでは死んでお詫びするなんて人はいません」と言った。

少し関係ある別の話。

あるカチン人のオーバーステイのインタビューに参考人として同席した時のこと、入管の調査官がそのカチン人に「あなたはオーバーステイしたことを反省していますか」と尋ねた(これは日本の文脈では謝罪を求めるに等しい)。すると、日本人の通訳が困った顔で言った。「すいません。ビルマ語には『反省』にあたる言葉がないのです。質問を言い換えてもらえますか?」

最後に、ビルマ語で「ごめん」は「ソーリーノー」。

借用語(外来語)は、借り手の言語では言い表すことのできないモノや概念を表す語であるのが普通だが、まさかビルマ人がイギリスに植民地にされるまで謝ることを知らなかったはずではあるまい(もちろん、ビルマ語「純正」の謝罪表現もちゃんとある)。

2009/07/21

謝罪(1)

以前、日本の非ビルマ民族政治団体の間で、ごたごたが起きた。当事者のひとりである非ビルマ民族の政治指導者とその問題について話をしたとき、ぼくがこんなことを言ったら彼は一瞬目を丸くした。

「あなたが謝ればいいんじゃない。そうすれば向こうの気も済むし、何しろ謝るのはタダだ」

ぼくは現在、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)で副会長をしているが、この会である問題が生じたとき、会議の場で会長の大瀧さんがこんなことを言った。

「とりあえず、会長としてわたしが相手の会員に謝罪しましょう。それでいいでしょう」

するとビルマ人の役員たちはこんなふうにいって反対した。

「会長は絶対に謝ってはいけないのです。それでは会がまとまらなくなります」

ぼくは大瀧さんに加勢して「日本では会長とか社長というものは謝るのが仕事のようなもので、それで丸く収まるならいいんじゃないか」といったが、彼らは「それはビルマ人のやり方ではない」と頑として聞かないのだった。

今日、麻生首相が両院議員懇談会で謝罪した。それは自民党の議員に向けた謝罪だったが、テレビでは首相の謝罪する様子が何度も映し出された。一国の行政の最高責任者が頭を下げる、これはビルマの人々にとっては奇怪千万な出来事にちがいない。

もちろん、この2つのエピソードをもって、日本人が謝罪することを知る謙虚な民族であり、ビルマ人がその逆で傲慢な民族であるとするのは、早合点である。日本人にもなかなか謝りたがらない方面があるのはつとに知られている。

2009/07/18

写真は恐怖を写し出す(3)

さて、インターネット上、もしくは雑誌などへの写真の掲載は、意図的になされる場合もあるし、本人の知らない間にされてしまう場合もある。後者の場合はともかくとして、自分の写真をわざわざ載せて、それでビルマに帰れないと言い張るのは、とんだ自作自演のように思えるかもしれない。

もちろん、そんなふうに取られても仕方のない場合もあるのだが、そうではなくまともな政治的動機に基づいている場合もある。これは特に非ビルマ民族(いわゆる少数民族)に関わりあることだ。日本の少数民族運動の立役者のひとりであるチン民族の政治活動家、タン・ナンリヤンタンさん(在日チン民族協会[CNC-Japan]会長)の言葉を引用しよう。

非ビルマ民族はビルマ独立のため、そして民主化のためにビルマ人に負けぬほど犠牲を払ってきた。だが、これらの努力と献身はビルマ人の陰に隠れ、埋もれてしまっている。わたしたちはビルマの歴史から抹殺されてしまっているのだ。それは軍事政権が意図的に歴史を歪めているせいであり、またわれわれ自身の歴史的記録がビルマ国内で公表を禁じられているからでもある。それが原因となって、非ビルマ民族の存在は国際社会や学問の世界でいまなお認められていないのだ。それゆえ、ビルマ国外にいるわたしたち非ビルマ民族は、自分たちの参加する活動すべての記録を取り、公表し、「そこにわたしたちがいた」という歴史を作ることを義務としなくてはならない。

このような理由から、タン・ナンリヤンタンさんによれば非ビルマ民族にとってはいかなる写真も重要であり、必要に応じて公表すべきものとなるわけだが、写真の公表に関するこうした姿勢には批判もある。日本にいる活動家の写真をインターネットを通じて公表することは、本人のみならずビルマにいる家族や親族の命を危険にさらすことであるから、極力避けるべきである、というのである。もちろんこれにももっともな理由があり、特に難民保護の立場からは重要である。政治的なビジョンか、難民保護か、どちらを取るかは非常に難しい問題だが、今ここで論じる問題ではない。

2009/07/15

ある相談

あるビルマ国籍者が、別のビルマ国籍者に大金を貸していたが、いつまでたっても返済しないばかりか、近頃は電話にも出なくなったのに業を煮やしていた。そこで、相談があるといって電話をかけてきて言った。

「あの人(借り手)はいま難民認定申請中ですよね。だから、入管に言ってやろうかと思っているのです。この人は人からお金を借りたまま返さない悪い人だって。もしそんなことを入管が知ったら、絶対ビザなど出さないですよね。どう思います?」

まず言えるのは、この手の情報に左右されるほど、日本の難民認定体制はいい加減なものではない、といことだ。いろいろ問題はあるが、そこまで悪くはない、とぼくは思っている。

そして逆に言えば、ビルマ政府とは、こうした悪意ある告げ口が効果を生む政府なのである。

しかし、それにしても、ビザが出なければ、つまり就労許可がなければ、返ってくるものも返ってこないのでは、と思うのだが。

2009/07/13

Pro Et Contra

現在、ビルマ軍と民主カレン仏教徒軍(DKBA)の大攻勢にさらされ、第7旅団基地という重要拠点を奪われたカレン民族同盟(KNU)だが、ある非ビルマ民族政治家によれば、これはけっして敗北とはいえない、とのこと。その理由は次の3点だ。

1)カレン軍は何も失っていないに等しい。

たしかに第7旅団支配地域は重要だが、実際にあるのはジャングルばかりで、失ったところでたいしたダメージはない。いっぽう、戦わずして退却することによって、KNU側は兵力を温存できる(陣地は後で回復することもできようが、兵はそうはいかない)。

2)退却自体が敵に不利である。

敵軍はカレン軍を追求するが、ジャングルでの移動にかけてはカレン人のほうが何枚も上手だ。ジャングルを堂々巡りしているうちに消耗するのはビルマ軍側ばかりなのである。

3)ゲリラ戦法への転換。

敵軍がかつての領域内に入り込んできたことにより、カレン軍はもっとも得意な作戦、つまりゲリラ戦に持ち込むできる。

なお、同様な記事をDVBが報じているのでリンクを以下に掲載しよう。

1)Loss of Karen bases a ‘strategic’ move by KNU

2)Karen armed group to fight ‘with guerilla warfare’

確かにそうかもしれない。だが、これが次に述べる2つの巨大な損失を補うものかどうかはわからない。

1)今回の侵攻により、膨大なカレン人難民が発生している(上の1によれば8万人)。

2)第7旅団の支配地域にあったボーミャ将軍の墓が奪われたという事実が世界中のカレン人に与える精神的ダメージ。

カレン人が英雄の遺体をビルマ政府に奪われるのはこれが最初ではない。1950年、ビルマ軍はKNUの創立者ソウ・バウジーを殺害すると、カレン人の崇拝の対象とならないように、その遺体を海に投げ捨てた、という。ビルマ政府がボーミャの遺体に同じことをしないと誰が言い切れるだろうか。

2009/07/10

写真は恐怖を写し出す(2)

写真をバシャバシャ撮っている人の中には、それぞれの政治団体の記録部の人や、在日ビルマ人ジャーナリストがいる。これらの人が撮った写真は、インターネットのウェブサイトや雑誌に掲載され、世界中の人々(その中にはビルマ軍事政権も含まれる)の目に触れることとなる。

このような写真の中に自分の姿が写っている人は、結果として自分の難民性を証明するもう一つの理由を手に入れる。つまり、その人は、入管の難民審査官に対して、次にように主張するのだ。自分の政治活動をしている姿がインターネット上に流布しており、軍事政権がそれをチェックしている可能性が極めて高い。ゆえに、軍事政権に逮捕される恐れがあり、わたしはビルマに帰ることができません、と。

軍事政権がそんな写真までチェックしているはずがない、と思う人もいるかもしれない。また、チェックしていたとしても、その写真に写った人を特定することなどできるのか、と疑問に思う人もいるだろう。だが、軍事政権にとって写真は政治活動家を逮捕するための重要な手段であることを考えれば、まんざら否定はできない。

軍事政権は反政府デモが起きると、必ず何枚も写真を撮り、後日その写真を元に聞き込みを行い、デモ参加者を特定するのである。次はあるカレン人女性の証言で、1988年の民主化運動の後、軍が権力を握った日の出来事だ。

軍事クーデターの起きた日、人々がわたしの家の前の通りに集まって不満をいい、騒いでいました。そのとき、こちらに軍情報部の車がやってきたので、みんなは退散しました。わたしも逃げて家へと戻りましたが、すぐには家にはあがらず、門のそばに立ってことの成り行きを見ていました。すると、3人の軍情報部員がわたしのところにやってきました。彼らは、手に持っている写真を見せました。それはデモの写真で、そこに写っているわたしを指差して、「これはお前だろう」と聞きました。わたしは怯えながら、はいと答えました。彼らはわたしの家はどこかと尋ねました。わたしはどうしても嘘をつくことが出来ず、自分の家を指差しました。すると彼らは即座にわたしを引っ立てて、家に押し入り、捜索を始めました。

これは何も特別な経験ではない。デモの時に撮られた写真によって、当局から尋問されたり、脅かされたり、逮捕されたりした経験を持つ人は多い。

2009/07/08

英雄たち

以下に書き記す話が真実かどうかは知らないが、非ビルマ民族がビルマ人をどのように見ているかについては、真実を伝えていると思われる。

1988年9月、軍が権力を握ると、ビルマ人の学生活動家たちは、弾圧を避けるためにタイ・ビルマ国境へ逃げた。

これらの学生たちは、そこではじめてカレン人の反政府軍に出会うこととなり、いっぽうカレン人側も喜んで彼らを受け入れ、できるかぎりの庇護をあたえた。

「このように援助することでわたしたちは民主化活動を救ったのだ」と国境のカレン人たちが今なお胸を張る出来事であるが、これについてビルマ人側はこんなふうに言っているそうだ。

「カレン人たちは、十分な食事や衣服を与えず、わたしたちを粗末に扱った」

だが、カレン人側にも言い分はある。これらの学生活動家は都会育ちの苦労知らず。ジャングルでかつかつの生活をしているカレン人がいくら精一杯もてなしても、そもそも満足するはずがないのだ。

これらの学生たちの中には、やがてカレン人とともに銃を持って闘う人々も現れた。

西山孝純氏の『カレン民族解放軍のなかで』を読むと、こうしたビルマ人学生兵士たちが少なくとも当初は軟弱で、あまり使い物にならなかったことがわかる。

なんにせよ、学生兵士たちはカレン人と協力してビルマ軍と闘い、約400人が戦死したという。

最近、これらの戦死者を「少数民族を守り、ビルマ軍と戦った英雄」として祭り上げようとする動きが、ビルマ人民主化活動家の中であるのだそうだ。

この話をぼくにしてくれた非ビルマ民族の活動家が苦々しげに言った。

「ビルマ人がまた歴史を歪めてようとしてるってわけだ」

2009/07/07

胸の高鳴り

7月5日(日)

KNU-Japanの月例会議に呼ばれる。時間の都合で、6時から6時半までの30分のみの参加。

日本人ゲストが4名いて、代表のモウニーさんがはじめに日本語で現在のKNUの状況、国境の現状についてさまざまな資料をもとに話してくれる。

ビルマ軍がミサイルを配備しているらしく、射程内のカレン人はビクビクして暮らしている、という内容を、モウニーさんが「みんなドキドキしている」と表現したので、つい笑ってしまう。

日本人ジャーナリストの方が来ていて、7月8日に上野でタイ・ビルマ国境取材の報告会をするとのこと。

2009/07/03

写真は恐怖を写し出す(1)

まずはビルマの人々と写真を巡るエピソードを積み重ねていくつもりで、それは、そうすれば、最後にぼくが配置しようと思っているある悲喜劇についても読者の理解が容易になるのではないかと思うからだ。

ビルマの人々はデモや集会でよく写真を撮る。それも、周りを撮るばかりでなく、誰かにカメラを渡して、自分を撮ってもらっている。それこそぼくのような日本人がこうした集まりでブラブラしていれば、何人もの人々から「撮ってくれ」と声がかかることになる。

これは決してビルマの人々が写真に撮られるのが好きだからではない。入国管理局への提出書類に使うためにそうしているのだ。

つまり、難民認定申請中の人々はこれらの写真で、自分たちがこうしたデモや集会に熱心に参加している政治活動家だ、ということを証明しようとしているのである。

撮影された写真は、A4の紙に2枚ずつ貼付けられて提出されるのが普通のようだ。写真の上か下に説明が書かれている。例えばこんなようなものだ。

「2009年○月○日、品川、ビルマ大使館前。アウンサンスーチーさんらすべての政治囚の釈放を求めるデモに参加」

あるいは

「2009年○月○日、池袋、アメリカより招かれた政治指導者の集会に参加。わたしは○○の代表として壇上に立ち、挨拶の言葉を述べました」

そして、写真の中の自分の顔をサインペンで丸く囲み、矢印で示して「本人」と書く。デモの写真が多いので、そうしないとどこに写っているのかわからないのである。

熱心に政治活動をする人は、参加する集会やデモの数も多いから、写真も山のようになる。ぼくはこうした写真の説明を日本語で書く仕事をよく頼まれるが、写真のシートの束をどさりと目の前に置かれると、逃げ出したくなる。

入管の職員も、あまりに大量の写真資料を提出されると手に余るらしく、「こんなに提出しても見ませんよ」などとイヤミを言うこともある。入管職員とぼくとはあまり共通点がないが、写真の束に関しては奇しくも意見が一致する。

2009/07/01

KNU エインマシーブー

6月28日、午後のBRSAのミーティングののち、海外カレン機構(日本)OKO-Japanの月例会議へ。場所は高田馬場。

OKO-Japanは在日カレン人の政治団体で、ぼく自身創設に関わり、また現在も役員を務めている。しかし、何人かの会員の間にごたごたがあり、しばらく離れていた。

今回は会長の要請で参加し、新たな会員に向けて難民と日本社会のことなど話す。また、会長より、これまでのぼくの扱いについて謝罪を受ける。もっともこの会長はそれについて何の責任もないのだが、いずれにせよ、謝罪のできる組織、民族は強い。

会議の内容は、8月のカレン民族殉難者の日式典準備、国境支援などについて。

現在のKNUの苦境について、ある人が「KNUエインマシーブー(KNUはホームレスだ)」と言っていたのが印象的だった。

下はOKO-Japanのメンバーたち。


隣の会議室をのぞいてみると在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN-Japan)の集会。モン民族の指導者、新モン州党のナイフンサー(ナイハンター)氏が演説をしている。

日本ではあまり知られていないが、このナイフンサーさん、非ビルマ民族の政治指導者としては随一とのこと。日本にいる間に話が聞ければよいと思う。

2009/06/29

入管の新方針について記事

本ブログで取り上げたビルマ人再申請者に対する入管の新方針について、共同通信記者の原真さんが記事にされました(取材に協力させていただきました)。

原さんは入管問題、難民問題等に関して取材を続けられている方です。

以下、原さんのref-netへの投稿より転載いたします。

2009年06月29日
◎法務省が事情聴取を省略/2回以上の難民申請で

 法務省が5月から、難民認定を2回以上申請した外国人について、申請内容が前回と同一などと判断した場合、事情聴取を省略し書面だけで審査する方針に転換していたことが29日、分かった。申請者の急増を受け、手続きを速めるための措置だが、難民支援者からは「不十分な審査で不認定とされかねない」と懸念する声が出ている。

 同省によると、先月初旬から/(1)/申請内容が前回までと同じで、新たな事実がない/(2)/一見して、母国で迫害を受ける恐れがない—などと判断した場合、従来必ず実施していた担当官による事情聴取を行わないことにした。

 ミャンマーの政情不安などの影響で、難民申請者は昨年1599人と前年から倍増。申請から不認定に対する異議審査の結論が出るまでの期間も2年余りと、法務省の目標の半年を大きく超えている。

 同省難民認定室は「申請者が膨大なので、事情聴取の必要性を判断することにした。ずさんな処分をするつもりはなく、申請内容に新しいことがあれば事情聴取を行う」と話している。

 入管難民法は複数回の難民申請を妨げておらず、再申請で難民と認定された例もある。一方、在留期間を過ぎて日本に滞在しようとする外国人が再申請を乱用しているとの指摘もある。

2009/06/27

入管の新たな動き(続報)

先日入管の新方針について書いたが、入管がそれについて再申請者に配布した文書(A41枚)を手に入れたので、以下書き写す(下線の引いてある部分は太字イタリックで表記)。

問題となるのは4番目の項目で、インタビューなしで結果を出す場合があるというところ。

2回目とはいえども申請者は申請者。これでは1回目の申請者に比べて2回目の申請者を軽んじているととられても仕方がないし、審査の公平性についても問題がありそうだ。


2回目以降の難民認定申請をされている方へ

○迫害を受けるおそれに係る立証責任は、申請者にあります。

○迫害を受けるおそれ等について、既に難民認定再申請書に記載されていること以外にあなたが申し述べたいことがあれば、その全てを書面に記載し、2009年○月○日(曜日)までに提出してください。

○迫害を受けるおそれ等について、既に提出している資料等以外にあなたが提出したい資料等があれば、2009年○月○日(曜日)までに提出してください。

○申請書及び提出された資料等により審理を行いますので、面接による事情聴取(インタービュー)を実施しないで、処分の結果を出す場合があります。

○上記の日時までに資料等の提出がない場合は、正当な理由がある場合又は特別の事情があると認められる場合を除き、申請書及び既に提出されている資料等によって処分の結果を出す場合があります。

(以上)

2009/06/25

入管の新たな動き

ここのところ入管の動きが不穏だ。

まず牛久のほうでは、ビルマ人収容者の仮放免許可申請が2件続けて不許可になった。これはここ数年無かったことだ。

品川入管でもビルマ人難民申請者に対して変わった動きが報告されている。品川入管では連日のように再申請者(最初の申請で不認定となって2度目の申請をしている人)でまだ審査のはじまっていない人に出頭を命じ、15名ほどをまとめて一室に集め、こんなことを話しているのだと言う。

「再申請した人は、口頭審査なしで申請書のみで審査されることがあるので、いついつまでに必要な書類を提出するように」

つまり、再申請をした人のうちには難民認定審査の重要な柱である口頭審査を受けずに結果を出される人があるということだ。

その理由については、ある人が聞いた所によると、通訳者の問題があるとのこと。通訳者の問題といってもいろいろあるが、ひとつには通訳者の不足があり、もうひとつには通訳者と申請者とのあいだで通訳を巡って問題が発生しているのだそうだ。

これが本当かどうかはさておき、口頭審査を省略することで、審査のスピードアップをはかるという理由もあるのかもしれない。

問題なのは、この方針変更が再申請者にどんな影響を与えるかだが、否定的な見方をする人が多い。文書では書ききれない事柄を口頭で伝える機会が失われるのは、再申請者にとって大きな不利益であるというのだ。

再申請者の立場はともかく、日本人としていえば、審査には十分時間を尽くすべきだし、もし効率化のためならば、口頭審査を削るよりも前に、入管の体制を変える、もしくは難民審査のあり方を変えるほうが先決ではないかと思う。

いずれにせよ、今の段階では何も分からないのだが。

2009/06/24

KNUの行方(2)

しかし、武器を持って闘う(カレン人にいわせれば戦闘ではなく防衛であるが)ことばかりが、抵抗活動ではない。

KNUの弱点のひとつは国際社会に対するアピールが完全に欠如していることだ。ビルマでも有数の組織なのにろくなウェブサイトひとつない、という事実がこれを物語っている。

他 を恃まないプライドの高さと、それと表裏一体の排他的性格は、カレン人、特にキリスト教徒カレン人に多く見られるが、KNUにもやはりそんなところがある のかもしれない。いずれにせよ、結果としてKNUは国際政治の世界では存在感をまったく失ってしまった(持っていたことがあったのかは知らないが)。

だ が、この国際社会にKNUの新たな活路がある、と思う。活動の場を世界に広げ、国際社会の中でカレン人の代表として語り、ビルマ軍事政権への圧力を呼びか ける非 武装政治組織へと方針転換するのである。もちろん国際的なロビー活動はKNUも他の少数民族とともに行ってきたが、これからはそれに全力を傾けるというこ とになる。

このような方向転換をしない限り、KNUのこれからは非常に危ういように思う。

今回のビルマ軍の攻勢は大きな痛手だが、決して敗北ではない。いやそれどころか、KNUの変化次第によっては、ビルマの解放へのターニングポイントになるかもしれない。

2009/06/22

KNUの行方(1)

いくつかのニュースでも報じられているように、ビルマ軍がカレン民族同盟(KNU)に大攻勢をかけている。伝え聞くところでは、KNU側は重要拠点を次々と失っているという。国内避難民も増加し、4千人もの難民がタイ側に逃げようと国境で待機しているとのこと。

これは計り知れない打撃だが、ある人の言うところではKNU側には人的被害はほとんど出ていないそうだ。ビルマ軍が地雷で多数の死者を出しているのに対し、KNU側には1人も死者は出ていない、と言う人もいる。

これをKNU(およびカレン民族解放軍、KNLA)が自らの戦闘能力を誇示するために流しているプロパガンダと見る人もいるかもしれないが、そうではないと思う。むしろ逆で、KNUはもはやまともに戦えないほど弱体化していて、ただ逃げるほかない、ということだろう。

KNUの弱体化はずっと以前から進行していたことだが、ここ数年は特に人材流出がその拍車をかけていた。その原因はアメリカ、カナダ、オーストラリアへの再定住プログラムだ。

この再定住プログラムを通じて、難民キャンプから毎年何千もの家族が国境を後にしているが、そのなかにはKNU幹部候補も含まれているのである。

ぼくはこうした将来の幹部までが国境での抵抗活動を見限るのを見て、軍事組織としてのKNU(KNLA)の先行きは暗いと常々考えていた。

2009/06/21

ブラックリスト(2)

それは友人のカレン人が話してくれた話だ。

日本で長い間働いてビルマに帰国したカレン人がいて、その親戚が日本を訪問したのだという。その人が日本のカレン人と話している際にぼくの名前を出して、政府のブラックリストに載っている、とかいったのだそうだ。

帰国したカレン人はぼくの友人であるが、その親戚は知らない。どうしてその人がぼくの名前を知っているのかも分からないし、何を根拠にそんなことを言ったのかも分からない。

こうした得体の知れない話は、ビルマの人々とつきあうとよくあることだ。

一昨年の話だが、ブローカーまがいのことをして金を儲けているカレン人女性が、ぼくのおかげで大損をした、などと触れ回っているのを聞いて不愉快な思いをしたことがある。もちろん、その女性には会ったこともない。

何らかの誤解があるのかもしれないし、誰かが何かを仕組んだのかもしれない。

いずれにせよ、この手の話を真に受けるのは大いに危険だ。おそらく、ぼくの名前は何らかのリストに載っているのかもしれないが、それが軍事政権のものだと言い切るだけの証拠はない。

ビルマ政府のブラックリストに載っているかどうかを確かめるのに一番良い方法は、実際に大使館に行ってビザを申請してみることだ。とはいえ、申請料の三千円が惜しいので、まだ試してはいない。

2009/06/20

ブラックリスト(1)

日本でビルマ難民支援を10年続けている日本人のAさんは、ビルマのビザが出ない。

団体ツアーにまぎれて申請すれば大丈夫かも、と考えたが、それでもダメだった。彼の名前は、ビルマ軍事政権のブラックリストに載っているのだ。

カレン人の取材を続けているジャーナリストも、ビルマ難民のために働いている弁護士も、この「ブラックリスト」に載っているという話だ。

また、ビルマを頻繁に訪れる仕事をしている人や、配偶者がビルマ国籍の人にとって、もしも、ひょんなことでビルマ政府に睨まれて、ブラックリストに載ったりしたらそれこそ一大事だ。

だから、これらの日本人はビルマ難民のために働いたり、民主化活動を支援したとしても、自分の名前が表に出ないようにつねに細心の注意を払っている。

いっぽう、活動家やジャーナリストでも、ビルマを訪問するという選択肢を残したい人は、人前に出たり、記事を書いたりする時は偽名を使うことがある。

ある人が偽名を使っているのをはじめて知ったとき、ぼくは自分もこれは考えなくてはならぬ、しかもその「活動名」はかっこ良くなくてはならぬ、と一生懸命に思案したものだが、そもそもがブラックリストに載るほど有名でもないので、時間の無駄であった。

とはいえ最近、気味の悪い話を聞いた。

バーマ・シェイブ

バーマ・シェイブ(Burma-Shave)というのは1920年代から60年代頃までアメリカで販売されていたシェイビング・クリームのことで、アメリカの広大な大地を横切るハイウェイを利用した伝説的な宣伝方法で有名だ。

その宣伝方法がどんなものかというと、ハイウェイの路肩に一定の距離をおいて看板が立っている。その看板には短い句が記されていて、その次に現れる看板には続きとなる別の句が記されている。

これらの句は全体として気の利いた内容の短い韻文となっており、ドライバーは運転しながら次から次へと興味深く読み進んでいき、最後の6枚目で「Burma-Shave」という商品名を知ることになる。

例えばこんなものだ。

[The poorest guy]   「人類」
[In the]         「で」
[Human race]     「一番貧しい男」
[Can have a]      「でも」
[Million dollar face] 「顔は百万長者」
[Burma Shave]    「バーマ・シェイブ」

[If you have]     「2つのアゴが」
[A double chin]   「あるのなら」
[You've two]     「使い始める」
[Good reasons]   「理由も」
[To begin using]  「ふたつ」
[Burma-Shave]   「バーマ・シェイブ」

http://burma-shave.org/より。以下の例も同様)

このバーマ・シェイブについて知ったのは映画「世界最速のインディアン(2005)」に出てきたからだが、それ以来、このBurmaがビルマと関係あるのかどうか気になっていた。

そこで、インターネットで調べてみたのだが、関係ないわけではないようだ。

つまりBurma-Shaveを販売していたのはBurma Vitaという会社で、このBurma Vitaというのも商品名であり、ビルマ産の原料を用いた軟膏だそうだ。軟膏のほうが商品として先発していたため、シェービング・クリームにはビルマ由来の原料は用いられていないにも関わらず、Burma-Shaveと付けられたのだという。
http://findarticles.com/p/articles/mi_g1epc/is_tov/ai_2419100188/

とはいえ、この軟膏に用いられたビルマ産の原料が何なのか、あるいは何のための軟膏かは分からない。

最後にもうひとつ宣伝文句を引用しよう。

[Regardless of]   政治信条に
[Political views]  関わりなく
[All good parties] よい政党がみんな
[Always]       選ぶのは
[Choose]       いつだって
[Burma-Shave]   バーマ・シェイブ

「バーマ・シェイブ」を「アウンサンスーチー」に変えれば、今の民主化運動の現状となる。

2009/06/19

疑問

日本語のつたないビルマの人に限って、かけてくる電話がザーザーいったり、ブチブチ切れたりするのはどういうわけなのか。

2009/06/17

携帯電話

ビルマでは携帯電話を手に入れるのに20万円以上かかるのだという。だからといって、特別な携帯ではない。タイでなら1万円もしないで買えるような機種だ。

このバカ高さには、いくつかの理由が考えられる。

通信のインフラがあまりにも未整備なため、その運営にはかなりのコストがかかるのかもしれない。

また政府が通信を管理できる規模に押さえておくために、あえて携帯電話の所持に厳しいハードルを課しているのかもしれない。なんといってもビルマは戦時下にあるのだ。

しかしもっともありそうな理由は、携帯電話事業が軍人たちの利権となっているというものだ。20数万のうちかなりの金額が軍人たちの懐に流れ込んでいるのであろう。

2007年頃、あるビルマ人の老人がはじめてタイに行って、露店のおばさんまでが携帯を持っているのを見て仰天したという話が伝わっている。

2009/06/16

地獄

あるカレン人が別のカレン人をかねてから軍事政権のスパイだと疑っていた。

そのカレン人がある日、夢を見た。

彼は巨大なビルの中にいる。そのビルの警備員は彼を追い出そうとしたが、彼は自分は招かれているのだと言い張り、なんとか入れてもらったのだ。

錯綜した通路をさまよったのち、彼はどうやら目的地にたどり着いたように感じる。彼はためらわずに目の前のドアをあける。

立派な会議室だ。だが、驚くべきことにその真ん中には巨大な鍋が置かれており、油が煮えたぎっている。

もっと驚いたことに、その油の中で会議が行われているのだ。人々は平気な顔で議論をしていて、まるでお湯にでもつかっているかのようだ。

「てんぷらだ!」と彼は恐れおののく。

その油の中には、彼がスパイだと疑っている人物もいて、やはり楽しそうに話している。

何の根拠もなくある人物をスパイだと言いふらすのは文句なく愚かな行為であり、不愉快きわまりない。だが、この夢の話には、あまりのしょうもなさに笑ってしまった。

2009/06/15

解放区

NLD-LAとはNational League for Democracy Liberated Areaの略で、日本語ではたいてい国民民主連盟解放区と訳されている。

非ビルマ民族諸団体から成るUNLD-LA(United Nationalities League for Democracy Liberated Area)は、統一諸民族民主連盟解放区とでもしたらいいかもしれない。

この解放区というのは、もちろんビルマ軍事政権から解放されている、という意味だ。

ところで、UNLD-LAは日本では確か代表が1人いた程度だと思うが、NLD-LAのほうにはNLD-LA JBつまり国民民主連盟解放区日本支部があり、非常に活発に活動している。

だが、国民民主連盟解放区日本支部とは、日本がビルマ軍事政権の支配から解放された地域のひとつであるかのような、おかしな名称だ。

とはいえ、これは屁理屈というもので、実際にはこの「解放区」という言葉は、そもそもタイ・ビルマ国境のビルマ軍事政権の支配の及ばない地域を指し、そこで活動しているNLDとUNLDを、ビルマ国内のNLD、UNLDと区別するために、「解放区」と後ろに続けたのだ。

その後、NLD-LAの活動が世界中に広がったため、世界のあちこちで「解放区」が設置されることとなったわけだ。

これを理不尽だと感じたせいか分からないが、この「解放区」という言葉ではなく「亡命」という言葉を用いる団体もある。アラカン人の組織、アラカン民主連盟(ALD)がそれで、国内のALDに対して国外の組織をALD (Exile)と呼んでいる。

「解放区」がもはや具体的な地域ではなく、単に国外の組織であるということの印でしかないことを考えれば、「亡命」としたほうが理にかなっている。

ところで、NLD-LAを、NLDロサンジェルス支部と読んだ難民認定申請者がいたこともついでだから書いておこう。

2009/06/01

発見

あるフォトジャーナリストが、ビルマの奥地を旅し、珍しい少数民族を発見した、と報告していた。

2009/05/29

ある楽しみ

品川入管で、自分が保証人をしている被収容者の仮放免のための保証金を払うとき、そこで払うのではなく、わざわざ田町駅前のUFJ銀行内にある日本銀行まで行って支払わなくてはならない。

電車で行ってもいいのだが、同行している被収容者の身内や友人の一刻も早く支払って釈放してあげたいという気持ちを考慮して、タクシーで行くことになる(もちろんタクシー代はあっち持ちだ)。

タクシー料金は1300円から1500円。銀行で保証金を支払い、領収書をもらうと、すぐにまたタクシーに乗って入管に戻らなくてはならない。その領収書を提出してようやく仮放免の手続きがはじまるからだ。

田町から品川にタクシーで戻るとき、あるタクシーは品川と田町間の線路下の非常に低いトンネルをくぐる道をとる。そのトンネルは高さは2メートルもないので、いまにも車の天井をこすりそうでヒヤヒヤする。テレビにも幾度も取り上げられているちょっとした名所だ。

保証金の支払いのためにわざわざ遠くに行ってまた入管に戻るというのは嘆かわしい作業だ。だが、帰りにこのトンネルを通れた時は少しだけそれも軽減されると行ってもよかろう。

(とはいえ、品川はまだましだ。牛久の場合は保証金を納める銀行に行くのに入管からタクシーで片道3000円近くかかる)。

2009/05/27

ザイタンクンアさん追悼礼拝(おまけ)

チン人とはいっても、みんなが同じ言語を話しているわけではなく、互いに理解できないいくつもの言語がある。

ザイタンクンアさんとそのご遺族の言語はミゾのチン語で、在日チン人の多くが話しているティディムのチン語やハカーのチン語とは異なる。

追悼礼拝の後にザイタンクンアさんのご遺族と話す機会があったのだが、そのとき通訳してくれたチンのTさんはミゾのチン語が得意ではなく、次のようなやり方で通訳してくれた。

日本語を話すと、Tさんがハカーのチン語に通訳。

ご遺族の方はハカーのチン語は話せないが聞けば理解できる。それで話を理解し、返答をミゾのチン語で行う。

Tさんはミゾのチン語は流暢に話せないが、聞けばだいたい理解できる。その理解をもとに返答が日本語に通訳される。

多言語社会のコミュニケーションの取り方の一例。

2009/05/25

ザイタンクンアさん追悼礼拝(4)

追悼礼拝では、ザイタンクンアさんのご遺族が参列者に対して感謝の言葉を述べられた。

細かく記すわけにはいかないが、残された4歳の息子さんの話になると、多くの出席者から嗚咽が漏れた。

ザイタンクンアさんは息子さんが生後5ヶ月の時にビルマから日本へ逃げ出さなくてはならなかったため、息子は父親と会ったことがない。だが、電話ではいつも会話をしていて、父親の声はすぐに聞き分けることができた。

あるとき電話で、父親が日本に呼んであげると行ったため、いつもお父さんが日本に呼んでくれると言って楽しみにしていた。

皮肉にもその父親が亡くなってから、日本に来ることができたが、父親の死を理解できないのか、いまなお「お父さんはどこ」と探している、という。

2009/05/22

ザイタンクンアさん追悼礼拝(3)

特定活動ビザと定住者ビザの違い

渡辺先生の話を理解するのに必要なポイントは、特定活動ビザと定住者ビザという2つの在留資格の違いである。この点について、複数の専門家から聞いた話を以下に要約する。

1)ビルマ難民が在留特別許可を得る場合、その在留資格は「特定活動」か「定住者」のいずれかである。

2)定住者ビザの基準のひとつが、10年以上日本で安定した生活を営んでいること。

3)したがって入管が「安定した生活を営んでいない」と判断した場合、特定活動ビザとなる。

4)家族を呼び寄せる時に特定活動ビザのほうが定住者ビザよりも手続きが煩雑。

5)公団への入居、借金などの点で特定活動ビザには制限がある。

6)特定活動ビザの内容がはっきりしていないため、定住者ビザに比べて就職の際に敬遠されやすい。これは家を借りる時にも同じ。

つまり日本で生活する上では、特定活動ビザよりも定住者ビザのほうが有利なのである。

2009/05/20

ザイタンクンアさん追悼礼拝(2)

追悼礼拝での渡辺彰悟弁護士(ビルマ難民弁護団)の言葉もまた興味深く、次はその要約である。

「ザイタンクンアさんの死に関してビルマ難民弁護団で議論を行ったが、そこで取り上げられたのは在留資格のひとつである『特定活動』という資格の問題点であった。

「ビルマ難民の中には、認定された難民ではなく、この特定活動で在留資格を得ている人がたくさんいる。ザイタンクンアさんもその1人であった。

「現在の難民の困難の根本原因はもちろんビルマ軍事政権によるものであるが、日本での滞在に関していえば、これは日本の問題でもある。

「弁護団の議論の結論としては、ビルマ難民にこの特定活動という在留資格を出すのを入管に止めさせるよう取り組む、ということになった。

「特定活動という資格を『定住者』という資格に変更するように入管に申し入れを行い、もしこれを入管がこれを認めなければ、さらに裁判でもなんでもやってやろう、このようにしてザイタンクンアさんの死に応えていきたい、と弁護団は考えている。」

2009/05/18

ザイタンクンアさん追悼礼拝(1)

5月17日、午後7時より、大久保の教会、MCMC(ミャンマー・クリスチャン・ミッション・センター)でザイタンクンアさんの追悼礼拝が行われた。

MCMCは在日ビルマ人、特にチン人が運営している教会組織で、ザイタンクンアさんも教会員の1人であった。

追悼礼拝なので、ザイタンクンアさんのスライドショーが流されたり、MCMCメンバーが前に出て葬送歌を歌ったりした。

在日ビルマ難民を長く取材してくださっているTBSの李記者もクルーを連れて取材されていた。

以下、牧師さんのメッセージ、渡部彰悟弁護士の言葉、遺族の感謝の言葉を紹介したい。

牧師さんのメッセージはあくまでも要約で、後ろに座っていたチン人の友人が途中から通訳してくれたものをもとにしている。

「わたしたちは彼の魂を引き止めてはいけない。わたしたちの魂もやはりいずれ元来た場所に戻るのだから。だから主は『わたしは道である』と言われるのである。イエス・キリストのみが永遠の命へと導いてくださる。

「ひとりひとりがザイタンクンアさんの死から学ぼうではないか。遺族たちは嘆き悲しんでいる。だが、死とは誰もが通らなければならない道なのだ。

「自分たちの名前が天国において刻まれるよう自分の生き方を見つめ直そう。わたしたちの名前はいずれ消え去るが、神のうちに刻まれる名前は決して消えないのである」

心うたれるメッセージだが、同時に興味深いのは、「彼の魂を引き止めるな」という言葉に表れているように、この礼拝では死者の魂を送り出すことがしばしば強調されていたことだ。葬送歌の内容も「魂が元来たところに帰ることに何の不満があろう」というものだった。

日本のいわゆる「鎮魂(たましずめ)」とはまた違った感じで、面白かった。

2009/05/15

アウンサンスーチーさんの起訴に関して

5月14日のスーチーさんの起訴を巡ってしばらくの間、品川のビルマ大使館前も騒然としそうだが、それはともかく、スーチーさんの起訴の理由については二つの説があるようだ。

もちろん理由といっても、外国人を無許可で宿泊させたことであるのはもちろんだが、それがスーチーさんの自宅軟禁の条件に違反しているから、とする説と、その辺ははっきりさせずにただ泊めたことが原因だとする説がある。

どちらであってもかまわないが、少なくとも後者に関していえば、ビルマではそもそも誰であっても、外国人であろうとなかろうと他人を無許可で、つまりその地区の平和開発評議会に連絡せずに民家に泊めてはいけないのである。

その理由はおそらく住民管理と治安維持のため、平たくいえば地下で活動する民主化活動家、民族活動家、得体の知れぬ外国人、国外のメディアが勝手に動き回らないようにするためであろう。

ここでどうして住民管理が問題になるかといえば、大規模な民主化デモや時たま起こる爆弾テロを封じ込めるには、すべての住民の動向を把握するのが一番だ、というのがビルマ当局の考え方だからだ。

ところで、ビルマに行ったことのある人には、ホテルではなく、友人宅に泊まったことがあるぞ、という人もいるかもしれない。その場合に、実際にはその受け入れ先が報告していたのかもしれないし、あるいはバレなければよい、ということなのかもしれない。

4年前の10月、デルタ地域の民家で一泊した時は、外国人が泊まることは当局に報告してあるから大丈夫、とその家のカレン人が言っていた。

この時の旅では無許可でヤンゴンのカレン人の家に泊まったこともある。帰国する前日のことだ。

日本で働いていたことのあるカレン人が、ぼくに家に泊まっていけというのだ。日本にいる間から、彼の新宿の家に泊まっていたほどの間柄だから、不安はなかったが、外国人が勝手にホテル以外のところに泊まってはいけないということを知っていたので、そのことについて聞くと、

「夜だけいて、朝はさっさと出て空港に行けば大丈夫だ」

という。帰る前日だからちょっとぐらいいいだろうと、彼の家で夜を過ごすことにしたのだった。

その夜は別のカレン人の友人を呼んで、夜遅くまで酒を飲んだ。客たちが帰って、その友人と2人で話しながら、テレビを見ていると、不意に外でノックする音がした。

彼はぼくに陰に隠れてじっとしているようにというと、外に出て行って誰かとしばらくやり取りしてから戻ってきた。

もう大丈夫か、とぼくが小声で聞くと、彼はうなずく。彼が言うには近所で火事が起こったため政府関係者が一軒一軒尋問して回っているのだという。

この火事が本当にあったのかどうかは知らない。少なくとも彼に家にいる間、そんな物音を聞きはしなかった。

ビルマでは、当局が真夜中にやってきて尋問するのはざらにある。これもおそらくその類いだったのだろうが、このときもしぼくの存在がばれていたら、もしかしたら少し面倒くさい事態になり、友人は多少の出費を強いられたかもしれない(つまり賄賂でことを済ますということだ)。

スーチーさんの起訴の真の原因に関しては、自宅軟禁の延長と2010年の選挙での影響力の排除を目論んだものであるとの見方が強い。

これはもちろん正しい見方だろうが、もうひとつヤンゴンの住民管理上の要請という理由もあるように思う。

なぜなら、スーチーさんは間違いなくビルマでもっとも有名でもっとも影響力の大きい人物だが、それほど人が外国人を無許可で家に泊めた(これが事実であるかは別にして)という事態は、ヤンゴンの住民管理法を根底から揺るがすからだ。

ヤンゴンの市民は、無許可で他人を泊めることにいかなるためらいも感じなくなるだろう。夜中の人々の動きが活発化し、それはたちまち小規模な政治的集会へと発展し、やがてある白昼、爆発的なデモがヤンゴン中を吹き荒れるだろう。これは、ビルマ軍事政権の存続にも関わるのである。

もちろん、これは軍事政権がヤンゴン市民に抱いている懸念、より適切には恐怖であり、実際にこれが起こりうるかどうかとはまた別の話だ。また、スーチーさんが今回の「侵入事件」で、こうしたことを念頭に置き、ヤンゴン市民を刺激しようとしてた、などということもありえない。

だが、軍事政権の目から見れば、スーチーさんはあたかも当局の住民管理法に逆らうことで当局を挑発し、そうすることでヤンゴン市民に蜂起を呼びかけているかのように映ったのである(独裁者とは臆病なものだ)。

ゆえに、軍事政権がスーチーさんを起訴するのは当然なのだ。

とはいえ、だからといって、この起訴はいかなる意味でも正当化されえないのはもちろんのことだ。

ビルマ政府に同情的な人は、そもそもスーチーさんが法を破ったのだから当然のこと(もっとも、スーチーさんはそのアメリカ人を自宅には入れなかったという)、と考えるかもしれない。

だが、そもそも、田舎からやってきた両親を勝手に家に泊めたり、友人たちと気ままに家に集まって朝まで楽しむことも許すこともできないほど、国民にビクビクしているこの臆病きわまりない政府こそ、おかしいのだ。

2009/05/13

NDF33周年記念式典(2)

ついでだから、NDF(民族民主戦線)33周年記念式典で配布された声明の内容を紹介しようと思う。

タイトルは「NDF設立33周年NDF声明(National Democratic Front Statement on 33rd Anniversary NDF Foundation)」。

原文はNDFのウェブサイトndf-burma.orgにあるはずだが、どういうわけか繋がらないので、BURMA DIGESTに掲載されているものを参照してほしい(Statement on 33rd Anniversary of NDF Foundation)。

主な内容は次の通り。

1)NDFは2008年の憲法に基づく2010年の選挙を決して受け入れない。

2)武装解除への危機感
国境地域の非ビルマ民族の人権がいまなお政治的に保障されていないのにもかかわらず、SPDC軍事政権が、停戦中の非ビルマ民族組織の軍事力を低め、国境警備隊に変えてしまうため、これらの組織に圧力を加えて不当にも武装解除させようとしていることに、NDFは声明で注意を喚起している。

3)NDFは、軍事政権と反対勢力が対話により問題解決を図るべきだとする国民民主連盟(NLD)のShwegondaing Declaration(シュエゴンダイン宣言2009/4/29)を支持する。NDFは軍事政権に対して、全国的な停戦、すべての政治囚の釈放、国内のすべての政治組織との対話に取り組むことを呼びかける。

4)「協調は勝利をもたらす(Victory through Alliance)」
声明の末尾を飾る言葉。

2009/05/12

NDF33周年記念式典(1)

5月10日の日曜日、NDF(民族民主戦線)の結成33周年を記念する式典が、大塚で開かれた。

NDFは、当日配られた資料によれば次の8つの非ビルマ民族組織から構成される軍事連盟である。

   1) アラカン解放党 ARAKAN LIBERATION PARTY
   2) チン民族戦線 CHIN NATIONAL FRONT
   3) カレン民族同盟 KAREN NATIONAL UNION
   4) ラフ民主同盟 LAHU DEMOCRATIC UNION
   5) 新モン州党 NEW MON STATE PARTY
   6) パオ人民解放機構 PA-O PEOPLE'S LIBERATION ORGANIZATION
   7) パラウン州解放戦線
   8) ワ民族機構

NDF日本支部ができたのは2001年4月。パラウン民族のマイチョーウーさんがずっと代表を務めている。彼はまた在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN-JAPAN)の創立者の1人であり、日本の非ビルマ民族運動をずっとリードしてきた人だ。

マイチョーウーさんによれば、今回の式典は日本ではじめてだが、日本人ばかりでなく、ビルマ人にもあまり知られていないNDFについて、ぜひとも知ってほしいと思って開催したそうだ。

「33年もの長きにわたり、互いに協力しながら闘ってきた非ビルマ民族の気持ちを知ってほしい」とのこと。

会場にいた日本人はわずかだったが、少なくとも140人の在日ビルマ民主化活動家が参加し、まずは成功というところだと思う。

議長席に座るのは、左からカレン民族同盟日本代表、
AUN-JAPAN議長(アラカン人)、新モン州党日本代表。

会場に集まったカレン人の活動家たち。

NDF日本代表のマイチョーウーさん

2009/05/10

ザイタンクンアさんの遺体(2)

葬礼に関する打ち合わせが終わると、斎場の職員はぼくたちを霊安室に案内してくれた。

ザイタンクンアさんの棺が冷却装置から引き出され、白いクッションに囲まれた彼の黒ずんだ顔があらわになると、チンの人々は一斉に嘆き声をあげた。

在日チン民族協会(CNC-Japan)の会長であるタンさんは、まるで何かを押しとどめるかのように、広げた手をザイタンクンアさんの頭の上に伸ばし、声を出してチンの言葉で祈り続けていた。

その祈りの中に、ぼくは自分の名前を聞き取ったので、霊安室を出た後、タンさんに何と言っていたのか尋ねてみた。以下がその答えである。

「遺 体のそばにいる彼の霊が、われわれ生者に害をなさないよう、語りかけていたのだ。彼は家族のことを心配しているに違いないから、その気がかりから解放して やらなければならない。だから、われわれここにいる者がしっかり面倒を見るので安心しなさい、安らかに眠りなさい、と言い聞かせたのだ。

これは、キリスト教の信仰ではなく、チン人の伝統的な信仰に基づいている。

ま た、われわれはCNC-Japanとして、ザイタンクンアさんに対して『あなたはもう亡くなったので、わたしたちはあなたをもうメンバーとして認めませ ん』という公式文書すら出すつもりですらいる。なぜなら、さもなければ彼は死んでもなお自分が生者の世界に所属していると信じ続けてしまうからだ。

CNC-Japanの会長であり、また日本のチン人コミュニティのリーダーでもあるわたしにとって、彼の魂の行方に責任を持つのは当然のことだ」

以前、カレン人の難民が亡くなった時も、その人が所属していた政治組織がこれ似たような公式声明を準備したとか、しなかったとか聞いたことがあるから、これはチン人だけの習慣ではないようだ。あるいはビルマ民族にも同じような習慣があるかもしれない。

もちろんわれわれ日本人の多くも死者の霊を恐れ、またその安らかな行く末を祈るが、だからといって公的な「絶縁状」を出すまでにはいたらない。われわれにとって死者に対するそうした扱いは、かえって敬慕に欠けるような印象を与える。

なんにせよ、チンの人々が死者をあえて突き放す象徴的行為と、遺骨をそばに置くのを恐れる心理には、関係があるにちがいない。

さて、タンさんは祈り終わると、同行しているチンの若い女性とぼくに、ザイタンクンアさんの遺体の写真を撮るように求めた。チンの女性は平気でフラッシュを焚いて写真を撮り、タンさんたちも棺を囲んでまるで記念写真のようだ。

ぼくとしては、死んだ人の写真を撮るのはそれこそ「敬慕に欠ける」ような気がして、おそるおそるシャッターを押す感じだ。

これもまたチンの人々と日本人の感覚の違いの一例といえるかもしれないが、そうとばかりも言い切れない。

な ぜなら、たとえ遺体であろうとも、同じ民族の仲間の姿をしっかりと記録に残す、というのは、ビルマ軍事政権によって文化と言語を育む権利を奪われてきた、 いいかえれば伝統と歴史を奪われてきた非ビルマ民族にとって、自分たちの歴史を作るという意味で重要な意味を持つからだ。

それに、ビルマ政府から見捨てられた1人の難民の生涯を、同じ境遇の難民以外に誰が記録し、歴史の一部として後世に伝えることができようか。

そんなことを考えると、死に顔を写真に撮ってくれという頼みも拒否することはできないのだ。気分はあまり良くないが。

2009/05/09

在留を認められるまでの期間

先日、友人のカレン人が在留特別許可を得た。彼が日本での在留を認められるまで、どれだけ時間がかかったかを、簡単に記録しておく。

彼の難民認定申請を一緒に準備しはじめたのが、2006年の5月頃。難民認定申請書の作成・翻訳を進め、6月頃に提出する予定だったが、その直前に不法滞在のため逮捕されてしまう。

結局、品川に収容されている間に難民認定申請を行い、その後牛久の収容所に移される。収容中の1次審査で認められず、その後の異議申立てでも不認定となる。

仮放免申請が認められ釈放されたのが、2007年5月。1年近くの収容であった。

その後、再申請を行い、1次審査で再び不認定。次いで異議申立てでも不認定となったが、人道的配慮により特別在留許可が認められる。2009年4月末のことである。

彼自身、申請の準備をはじめたのが2006年4月であるから、それから数えると丸3年かかったことになる。また収容されてすぐに申請しているはずだから、申請した時から計算しても3年近くかかったことになる。

長い。だが、入管に収容されてから申請した場合ならたいていこんなものだ。

このカレンの友人と祝い酒を飲みながら、この3年間の苦労について話していると、同席していた初対面のビルマ人が、自分は2001年に申請して、今年ようやく難民として認められた、と語った。

2009/05/06

ザイタンクンアさんの遺体(1)

ザイタンクンアさんの葬儀費用に関する手続きのため、5月1日、市川市役所と葬儀会場となる市川市斎場に行った。手続きといっても、彼が依頼していた弁護士事務所の方がすべてやってくれたので、こちらはただ黙って見ているだけなのだった。

斎場では興味深い出来事が起きた。

チン人にとってそもそも火葬というのは文化的に受け入れがたいことだ。これはチン人がキリスト教徒であることによるらしいのだが、キリスト教受容以前にも火葬の風習がないとすれば、おそらくより正確には非仏教徒であることによるのかもしれない。

いずれにせよ、チン人の伝統的な遺体処理法は土葬である。それゆえ、遺族としては、遺体をビルマまで運びたいところなのだが、それは不可能。火葬して、遺骨を持ち帰るほかはない。

遺骨は彼の家族がやってきて、ビルマに持ち運ぶことが決まっていたのだが、そこで問題となったのが、来日した家族が帰国するまでの間、どこに遺骨を保管するかだ。

チンの人々は、遺骨を家に置くことはできない、というのである。

日本人にとってこれはやや奇異なことだ。われわれの文化ではむしろ遺骨は亡くなった本人の代わりとして認知されており、納骨されるまでのあいだ住まいに安置しておくことに何の抵抗も感じない。

ところが、チンの人にとってそれはひどく抵抗のあることのようだった。

チンの牧師さんも同行していたので、それならば教会でしばらく預かっていればよいのでは、と思ったら、それもダメ。

この牧師さんは、信徒のために力を出し惜しみするようなケチな牧師ではない。そもそもザイタンクンアさんのためにもっとも奔走したのは彼だ。

だから、これはチン人の死に対する見方に関係するのだろうと思う。遺骨といえども、それを寝起きする場所、生活の場に置くことは、チン人の死観が許さないのだ。

結局、遺骨は斎場側が預かってくれることになったのだが、これは斎場にとっては非常に異例なことらしく、必ず引き取りにくる、という旨誓約する必要があるほどだった。

2009/05/03

ザイタンクンアさんの死

在日チン民族の難民、ザイタンクンアさんは4月23日、ヤンゴンに残した妻に電話をして、今日が俺の最後の日だ、俺はもうすぐ死ぬ、と告げた。「4歳になる息子のことを考えて」と妻が必死に懇願すると、彼は、もうしない、と言った。

だが、その翌日、彼は再び考えを変え、幾人かの友人に死の決意を伝えると、市川の自宅から姿を消した。そして、知人たちの懸命の捜索もむなしく、4月26日の朝、市川市内の線路で遺体となって発見された。

彼はふさぎ込みがちだったという人もいれば、近頃、体調を崩していたという人もいる。また失業したばかりで、将来について思い悩んでいたともいうし、妻と息子を日本に呼び寄せることができないのを悲しんでいたともいう。いずれにせよ、ザイタンクンアさんがどうして死を選んだのかは、今となっては誰にもわからない。

ただひとつわかっているのは、彼の自殺をくい止める手だてはいくらでもあったということだ。専門的なカウンセリングがあれば彼の精神的な問題も解決されたかもしれない。あるいは、そばに家族が、いやそうでなくても常にそばにいてくれる人がいれば、彼が人知れず家を飛び出すのを阻止できたかもしれない。将来に希望がもてる状況にいれば、そもそも死のうだなんて思わなかったかもしれない。

ザイタンクンアさんは2008年に日本政府より在留特別許可を得て、少なくとも命の安全は保障された状態にあった。だが、彼の死が物語るのは、それだけがすべてではないということだ。

難民がこの日本で人間らしく生きるためには何が必要なのか。わたしたち、つまり日本人とビルマ国籍の難民たちは、すでに遅きに失したこの問いかけにともに真剣に取り組むべき時にきている。

《以下は在日チン民族協会からの葬儀案内》

在日ビルマ国籍者難民を支援くださっている皆様へ

故ザイタンクンア葬儀のご案内

わたしたち在日チン民族協会(CNC-Japan)の会員であるザイタンクンア(ZAITHANKUNGA)が、2009年4月26日未明、永眠いたしました。よって故人の葬儀を下記の通り執りおこないます。

2009年5月3日(日曜日)
午後1時30分より2時30分まで
場所:市川市斎場 市川市大野町4-2610-1、047-338-2941
JR武蔵野線市川大野駅よりタクシーで10分

在日チン民族協会会長
タン・ナンリヤンタン

在日チン民族協会
住所:135-0007 東京都江東区新大橋1-11-13 米沢ビル4階
eメール:cnc_jp@yahoo.com ウェブサイト:www.cncjp.org

2009/04/30

本当に「長井さんのおかげ」か(3)

田中龍作記者による記事「長井さんのおかげ」在日ビルマ人在留特別許可急増[JAN JAN]についてこれまでくどくどと論じてきたわけだが、最後にひとつだけ付け加えたいことがある。

それは、たとえ法務省がビルマ人に対する在留特別許可(難民認定ではなく)を人道的配慮から急増させていることをプラスに評価するとしても(急増しているわけでもなく、またそれほど人道的でもないというのがぼくの結論だが)、それが長井さんの死のおかげだとは断じて言えないということだ。

その好転は、むしろ、
入管での長期の収容生活や厳しい難民審査を耐え抜いた数多くのビルマ国籍難民認定申請者たちの不屈の精神、日本人の弁護士と支援者たちの献身、そして不備のある法体制の中なんとか人間的であり続けようとする入管の(一部の)職員たちの労苦にこそよるものなのだ。

そして、それでも長井さんの死が法務省の態度に影響していると主張するのなら、ぼくは彼の死とともに、入管での長い収容の後に死んだ人々や、あのサフラン革命の弾圧で殺された僧侶たち、市民たち、あるいはビルマのあらゆる辺境で軍事作戦の犠牲となっている非ビルマ民族の子どもから老人までのあらゆる人々の死もまた、同じような、いやそれ以上の影響力を持っていることを指摘したい。

なぜなら、これらの悲惨な死の総体こそが、難民性の根拠となる迫害の事実そのものなのであるから。


「『ナガイサン・イェ・チェズージャウン(長井さんのおかげです)』は今、在日ビルマ人の流行り言葉となっている。 」と記事は締めくくる。


ぼくはこんな言葉は聞いたことがない。もっとも、だからといってそれが記事の真偽に関わるわけではないが。


だが、なんにせよ、これはあくまでも心優しきビルマ難民の日本人に対するリップサービスとして受け取っておいたほうがよさそうだ。まともな政治活動家が、そのようなことが本気で言えるはずがないのだ。それは、ビルマで殺された数知れぬ人々の死を蔑ろにするに等しいからだ。


だから、もし仮にこんな言葉を大真面目に口にする難民がいたら、われわれ日本人としては、軽率にも得意がったりせずに、逆に眉をひそめるかたしなめるかしたほうがよい。


政治家や政治活動家が人の死を軽々しく称揚するとき何が起きるか、それはわれわれの重々承知するところなのだ。

2009/04/29

大麻

海外在住の友人が大麻を常用しているのを知り、少々興味がわいたので、麻薬汚染で知られるビルマ北部出身のカチンの人に大麻について尋ねたら、「ああ、あのどこにでも生えていて、中学生がやるヤツね」という答えが返ってきた。

カチン州やシャン州北部で大量に生産されているのは、アヘンの原材料となるケシ。現地には、これを薬として子どもに服用させる村人もいるとのこと。

2009/04/27

NDF33周年記念式典

NDF(National Democratic Front - Burma)は「民族民主戦線」とも「国民民主戦線」とも訳せるが、一番正確には「ビルマ諸民族民主戦線」とでもしたらよいかもしれない。

というのも「民族民主戦線」だとひとつの民族のための組織のようだし、「国民」とするとこの団体の掲げる「民族解放の闘い」という目標からずれてしまう。

やや説明臭いが「ビルマ諸民族」(あるいはビルマ少数民族)としたほうが、カレン、チン、アラカン、モンなどの9つの非ビルマ民族の諸組織からなる軍事同盟体であるNDFの性質をよく表しているように思う。

NDFは1976年5月10日にタイ国境で結成された。1976年というのは重要だ。なぜなら、それは1988年より10年以上も前だからだ。日本ではビルマでの反政府活動というとどうしても1988年の民主化活動の全国的な盛り上がりや、スーチーさんの登場、政府による残酷な弾圧ばかり取りざたされるが、非ビルマ民族はそのずっと以前から、軍事政権と闘ってきたのだ。

それはともかくNDFの結成33周年を記念する式典を日本ではじめて開催する、という案内をNDFの日本代表を務めるマイチョーウーさんからいただいた。

日時:2009年5月10日午後6時〜午後9時
場所:南大塚地域文化創造館(南大塚ホール)第1会議室
連絡先:03-5960-4440
vedanjp@yahoo.com

マイチョーウーさんはパラウン民族の政治活動家で、現在の日本の非ビルマ民族の政治運動の中心人物の1人だ。同じくNDFに所属するカレン民族同盟(KNU)とモンのグループも協力している。式典には他の民主化組織も多数参加する予定。日本人も参加歓迎とのこと。

2009/04/22

本当に「長井さんのおかげか」(2)

田中龍作記者によるビルマ難民問題に関する記事へのコメントの続き(「長井さんのおかげ」在日ビルマ人在留特別許可急増[JAN JAN])。 前回は、この記事の主張する「在留の特別許可を受けた在日ビルマ人の数が急増している」という事実が本当にあるのか、という点に関して論じた。

要点をいえば次のようなものだ。

確かに統計上は急増はしているといえる。だが、その「急増」の理由が、記事で主張されているように入管が「送還は人道にもとると判断した」からであるとは、簡単には言えないのではないか?

つまり、ここ数年の難民申請者数の傾向と、審査にかかる時間を考慮すると、その急増の背景には、単なる申請者の増加という要因も無視できないからだ。要するに申請者が増えたから在留特別許可も増えたに過ぎないということだ。

この認識は重要だ。なぜなら記事の論の運びは次のようなものになっているからだ。

「ビルマ人在留特別許可者が急増」
       ↓
「入管が人道的な判断をするようになった」
       ↓
「その背景には2007年の長井さんの非業の死がある」
       ↓
「長井さん、ありがとう!」

ところが、数字を見るかぎり、この「急増」を入管の態度変更にそのまま結びつけるのはやや早計のように思える、というのがここでの結論であるから、この論の成り立ち自体、アヤシくなってくるのだ。

しかも、増加しているのは難民認定ではなく在留特別許可だ(記者が記事中でこの区別を認識しているのかどうかは分からないが)。

認定難民と在留特別許可者がどのように違うかというのは、いろいろな側面から論じることができるだろうが、重要な違いのひとつは認定難民が難民条約という国際的な枠組みの中で規定される地位であるのに対し、在留特別許可は、人道的に在留を認めるべきだ、と日本政府が個別に判断して与えるドメスティックな地位であるということだ。

とすると、在留特別許可の増加は、やはり日本政府がビルマ難民に対して人道的に配慮をはじめた結果なのではないか、と考える人もいるかもしれない。

だが、実際はその逆である。その理由を次に挙げる。

1)在留特別許可は、申請者の難民性の否定を前提としている。

在留特別許可は、通常、難民不認定の通知の直後に行われる。つまり「あなたは難民ではないですが、人道的な理由から滞在を認めますよ」ということだ。しかし、もし法務省がビルマ問題について人道的見地から取り組んでいるのならば、その認識はなによりも難民性の認定そのものに表れるべきではないのか。

これがもし、他の難民条約署名国ではビルマからの難民についてその難民性を高く評価していない、というような状況があり、これに対して日本政府が「難民とは認められないが、我が国独自の判断でビルマ難民の滞在を認めよう」という理由で、在留特別許可を増やすのならば、話は分かる。しかし、世界のビルマ難民の受け入れ状況を見るかぎり、事態はその反対のようである。

2)法務省のいう「人道配慮」の基準が明らかではない。

難民条約には誰が難民なのかということについての規定があるが、日本の法務省の下す「人道配慮」にはそのような明文化された規定はないようだ。要するに「人道」とはいうものの、あくまでもこれは法務省のいう「人道」なのであって、その人道配慮は、基本的人権なり、普遍的人間性に基礎をおくものではなく、むしろ法務省のさじ加減ひとつで変わりうる「法務省的配慮」である可能性が高い。

だから、法務省が予告なく態度を変えて、ビルマ国籍者の在留特別許可が急にゼロになる可能性もありうるのだ(ビルマで2010年に行われる選挙以後、それはありうるだろう)。

別の見方をするならば、在留特別許可のこのような恣意性こそが、その「乱発」に通じているともいえる。法務省としては認定難民を増やしたくはないのだ。そして、認定難民は国際的な枠組みの中で規定されているため、一度認定数を大幅に増やしてしまったら、難民条約署名国の立場からしても、また役所的前例主義からしても、減らすのは難しい(現在のところ認定数50前後を維持しようとしているように見える)。その点、在留特別許可制度は、便利だ。自分の国のなかですべて処理できるからだ。

だから、在留特別許可の急増とは、国際的な問題である難民問題を国内問題として処理するための法務省の作戦であるとする見方も成り立ちうる。

とすると記事の主張する「ミャンマーへの送還は人道にもとる、と当局が判断した」という点についても、それが本当かどうかはかなり疑わしくなってくる。

これまでの入管の態度を観察していると、法務省としてはむしろビルマ人難民申請者を全員帰してしまいたいようにすら思える(かつてほどではないにせよ、収容中の難民認定申請者がまず直面するのが、入管職員による「帰れ」攻撃だ)。

だが、そのいっぽう法務省は実際にはビルマ人を送還できない状況があることも理解している。かといって、難民認定を増やすわけにもいかない。こうした状況における窮余の策として法務省は在留特別許可制度を乱用しているに過ぎないのであり、その口ぶりとは裏腹に「人道」とはたいして関係がないのだ。

もちろん、ビルマ国籍者の難民認定申請者を強制送還しない、というのはひとつの人道的配慮、ある程度は評価できる配慮、である。だが、ぼくの知るかぎり2003年頃から入国管理局が帰国を拒否するビルマ難民認定申請者を強制送還していないということを考慮すれば、この配慮は、長井さんの死とはまったく無関係だ。

それゆえ、入管の判断の変化には「内外にビルマ軍事政権の非道さを訴えた長井健司さんの死が、大きく影響している」という記事の主張にも疑問符をつけざるをえないのである。

2009/04/21

先生いろいろ

金正日ほど有名ではないがビルマの独裁政権のトップはタンシュエという軍人で、現在76歳という高齢。

あるビルマの人に、いずれ彼が死亡したらビルマの政治も変わるのではないか、と尋ねたらこんな答えが返ってきた。

「先生が死んだら、生徒が先生になるのです」

ところで、この「先生」という言葉、ビルマ人に限らず入管の収容者が、収容所の職員に呼びかける時に使う。「先生、お願いします」とか「先生、ちょっと待ってください」とかいうように。

収容経験のあるカチン人のひとりが「20代の職員が、先生だなんて呼ばれていい気になりやがって」と憤慨していたが、「触らぬ神に祟りなし」という収容者の圧倒的に弱い立場、あるいは「慇懃無礼」にも似た収容者のやり場のない怒りも読み取れる表現だ。

ビルマ語では「先生」を「サヤー」といい、名前の前につけて「〜〜先生」という表現を作る。この「サヤー(女性にはサヤマ)」に関して、田辺寿夫さんが「敬して遠ざける感じの目上の人によく使う」と書いていることも付け加えておこう(『それを言うとマウンターヤの言いすぎだ』p. 54)。

2009/04/20

NLDダイアリーその後

今年の1月4日に取り上げたNLDダイアリーだが、先日品川入管の面会待合室で、このダイアリーの制作者にたまたま出会った。ミンミンテインという方で、在日民主化活動家とともに『アリンエイン』というビルマ語の月刊誌を発行している。

このダイアリーについて、「紙質はよくないからタイあたりで作ったのでは」などと書いたが、正真正銘の日本製とのこと。失礼いたしました。

このダイアリーには茶色のビニール製の表紙がついていて、表にはただ「2009 DIARY」とだけ書いてある。ずいぶん素っ気ないなと思っていたら、ミンミンテインさんがこんな話をしてくれた。

「この表紙は、知り合いを通じてビルマで頼んでつくってもらったもの。日本でこうした表紙を作ると高くなってしまうから、わざわざビルマで作った。頼んだ段階では表紙に『NLD』という金文字が入る予定だったけど、いざお金を払って作る段になると、怖がって印刷してくれなかったんだ」

なお、アリンエインのウェブサイト(ビルマ語)はこちら。

2009/04/15

本当に「長井さんのおかげ」か(1)

インターネット新聞『JANJAN』に掲載された田中龍作記者の記事、「『長井さんのおかげ』在日ビルマ人在留特別許可急増」(4月14日)は、先日吉祥寺で開かれたビルマの水かけ祭を取材したもので、こうした記事を通じて在日ビルマ難民の姿が知られるのは非常によいことだと思うのだが、その内容には極めてアヤシイところがある。

記事の内容はといえば、その冒頭に置かれた要約に尽くされているので、それをまず引用しよう。

「ビ ルマ民主化同盟の主催でビルマの正月を祝う「水掛祭り」が井の頭公園で開かれた。在留の特別許可を受けた在日ビルマ人の数は最近、急増している。ミャン マーへの送還は人道にもとる、と当局が判断したためだ。内外にビルマ軍事政権の非道さを訴えた長井健司さんの死が、大きく影響しているものと見られてい る。「ナガイサン・イェ・チェズージャウン(長井さんのおかげです)」は今、在日ビルマ人の流行り言葉となっている。」

この短い文章の中で、ぼくがアヤシイなと思うのは3箇所、そしてアヤシイかどうかは別としてヒドイと思う箇所はひとつ。

まずアヤシイ3点を並べてみよう。

1)本当に「在留の特別許可を受けた在日ビルマ人の数は最近、急増している」のか。

2)本当に「ミャンマーへの送還は人道にもとる、と当局が判断したため」なのか。

3)そしてその判断には「内外にビルマ軍事政権の非道さを訴えた長井健司さんの死が、大きく影響している」のか。

まず(1)について。

記事にはこのようにある。

「在留特別許可認定を受けた在日ビルマ人は2007年は33人だったが、2008年は382人と急増した(法務省入国管理局統計)。」

これだけみると、なるほどそうかな、と思う。だが、記者が「法務省入国管理局統計」として依拠したのは「平成20年における難民認定者数等につい て」(2009年1月30日法務省入国管理局発表)だと思われるが、この文書に直接あたってみてすぐ分かるのは、この引用文自体に不注意な誤りが含まれて いることだ。記者は比較の仕方を誤っているのである。

すなわち、2008年の382名とは、難民認定されたビルマ国籍者38名と「人道的な理由により在留を許可された(以後これを在留特別許可と呼ぶ)」ビル マ国籍者344名の合計なのだが、これと比較するならば2007年の難民認定されたビルマ国籍者35名と在留特別許可を受けたビルマ国籍者69名の合計、 104名を示さなければならない(これは前年の統計を見ればすぐ分かる)。だが、記者の挙げる数字はそれとは一致しない。

33名という数字の根拠は分からないが、ともあれ、法務省発表に依拠するかぎり、先の引用文は次のように訂正されなくてはならない。

「*(訂正)難民認定もしくは在留特別許可認定を受けた在日ビルマ人は2007年は104人だったが、2008年は382人と急増した(法務省入国管理局統計)。」

104人から382人。数字は間違ってはいたものの、なるほどそれでも急増の部類に入りそうだ。だが、この急増をそのまま記者の言う通りに、つまり法務省がビルマ難民を人道的に受け入れはじめたことの表れと解釈していいものなのだろうか。

2008年の難民認定申請数は1599件(うち979件がビルマ国籍者)だが、そのすべてが2008年のうちに処理されたわけではない。2008年の処理件数というものも公表されていて、それを見ると918件となっている。すなわち、700件弱の申請が2008年のうちに処理されず次年度に持ち越されることとなる。

ここで、2007年の統計も見てみると、申請数は816件(うち500件がビルマ国籍者)、処理数は548件、すなわち268件が2007年のうちに処理されなかった件数となる。

とすると、この268件の一部は2008年の処理件数に含まれている可能性が高い。一部というのは、2007年の未処理申請のすべてが2008年に処理されるという可能性はまったくないからである。

アムネスティ・インターナショナルによれば、難民認定審査には約2年かかるという(1次審査までで平均472日、約16ヶ月、異議申立てを含めると平均766日、約25ヶ月)。

つまり、2007年に提出された申請の審査が終わるのは2009年だというのである。すると、次のような疑問が生じてくる。すなわち、2008年に処理された816件の申請とは、いったいいつの申請なのか、ということである。

第1次審査期間の平均が16ヶ月であるということを考えれば、その816件には2年前の2006年に提出された申請が大部分を占め、いっぽう2008年の申請はほとんど含まれない可能性が高い。

この816件の処理件数には、40の難民認定、87件の取り下げ、791件の不認定が含まれるが、ようするに、40の難民認定は2006年か2007年の申請者なのである。

さらに2008年の難民認定者数57名のうち残りの17名は、異議申立ての後に認定された者であり、異議申立てを含む審査期間が25ヶ月であることを考えると、この17名のほとんどが2006年以前の申請者であろう。

また在留特別許可も異議申立て却下の後に出されるものであるから、360人の在留特別許可者もそのほとんどが2006年の申請者と見ていい。

ところで、2006年は日本の難民制度史上特異な年だ。つまり、その年以前までは3〜400件だった難民認定申請数が一気に3倍の954件に激増した年だからである。そして、その激増の要因は、ほぼビルマ国籍者の難民認定申請者の増加にあるとみなしてよい(ビルマ国籍者難民認定申請者の推移:2002年38人、2003年111人、2004年138人、2005年、212人、2006年626人。つまり、2006年はまた在日ビルマ難民史にとっても特異な年でもあるのだ)。

とすると、こういうことはいえないだろうか。2008年にビルマ国籍者の難民認定者と在留特別許可者が増えたのは、ただ単に2006年のビルマ国籍者の難民認定申請者が激増したことの反映に過ぎないのではないか、この急増をもって、日本政府がビルマ難民に特別な配慮をしていると結論づけるには、まだ早すぎるのではないか、と。

これがかの「急増」に対する別の解釈の可能性であるが、さらにこの「急増」の質を見極めることが肝要だ。すなわち、急増しているのは難民認定者ではなく、あくまでも在留特別許可者なのである。

上に上げた数字から分かるように、2007年と2008年のビルマ国籍者の難民認定者の数はほとんど変わっていない(2007年35名、2008年38名)。要するに増えているのは在留特別許可者(2007年69名、2008年344名)なのであるが、この在留特別許可者とは、日本政府により「人道的配慮」により在留を許可されたものであり、難民条約上の難民とは異なる。これは難民認定申請者にとっては不本意な決定である。

とはいえ、もちろんこうした在留特別許可であってもないよりはましであるが、申請者数が激増するなか、在留特別許可を乱発し、難民認定数を据え置きにするという現状は、比率上、難民認定数が激減しているということも意味しているのである(2007年のビルマ国籍者申請者数に占める認定難民のパーセンテージは7%だが、2008年では4%に満たない)。