2009/01/30

ビルマ連邦記念日祝典

ビルマ連邦の成立を祝うビルマ諸民族の祝典「ビルマ連邦記念日祝典」が、在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN-JAPAN)により下記の要領で開催される。参加費無料、誰でも参加できる。

日時:2009年2月8日 正午〜8時
場所:南大塚ホール(大塚)

内容:
第1部 ビルマ連邦記念日式典(来賓として来日する少数民族指導者による講演・討論)
第2部 少数民族の文化の紹介(踊り、歌など)

ビルマ連邦記念日は、1947年にアウンサン将軍と少数民族の指導者たちが、さまざまな民族が協力して平和に暮らせる連邦制国家をつくるための協定、パンロン協定を結んだことを記念する日である。

2009/01/28

縦割り行政

あるカチン人が難民と認められず、妻と二人の幼児を残して収容された。妻は大急ぎで日本人の身元保証人を見つけて、夫の仮放免許可申請を出した。

認められないからといって帰国することはできない。だから、もう一度申請するための準備を妻は進めていて、その際に手伝ってほしいと、ぼくに頼んできた。そこで、ぼくはこんな助言をした。

「再申請するのなら、焦ってしてはいけない。ちゃんと夫が釈放されてから二人で話し合ってしっかり準備した方がいい」

これに彼女は納得してくれたようだったが、ある日大慌てで電話をかけてきた。

「再申請を出さなければ、夫は釈放されない、と入管にいわれました!」

本当にそんなことがあるのかと思ったが、そう言われたのなら仕方がない。この電話がかかってきたのが月曜日だったので、「では木曜日に再申請の打ち合わせをしよう」とぼくは約束した。

だが、この約束は果たされることはなかった。なぜなら、その木曜日に、彼女の夫は釈放されたのだから。

おそらく彼女に再申請を急かしたのは難民審査を担当する部門だと思うが、どういう意図があってこんなデマカセを言ったのかはわからない。ただ再申請を早く出させたかったので嘘を言ったのかもしれないし、あるいはただ単に本当にそう思っていたのかもしれない。

いずれにせよ、仮放免を扱うのは別の部署の仕事である。これこそウ・ミンガラーの指摘する縦割り行政の弊害であり、われわれはささやかながらそれに振り回された、というわけだ。

参照:U MINGALARのつぶやき (256)難民認定申請中の逮捕

2009/01/26

第61回カチン州の日(第3回 論評) 

新たな文化、創造しはじめた在日カチン人
この2年ほどの間に在日カチン人の多くが難民として日本での在留を認められたが、その分、政治運動としての必死さがなくなって、活動にあまり人が集まらなくなっている、などと言う話(もっとも同じことはビルマ人など他の民族の団体にも起きている)を聞いていたので、今年の「カチン州の日」はどうなることかと思っていたが、ふたを開けてみれば今まで以上に充実したプログラムとなっていた。

とはいえ、規模が大きくなった、とか、人が増えた、とか、やたらと派手になった、とかそんな意味の充実ではない。その点では去年とたいして変わりはない。また、プログラムの見た目もさしたる変化はない。演説にせよ、ビデオ・レポートにせよ、歌や踊りにせよ、去年の祝典にもあった。

ただ、それら個々の演目の洗練度、あるいは深みというものが格段に上回っているように思えた。たとえば、上映されたビデオにしても、しっかりした日本語字幕、ナレーションがつくなどして、通訳・司会をされていた田辺さんを感動させていた。

カチン人の団結を説く「決裂しないで」、カチン人の迫害をうたう「近代奴隷人生」、日本語を織り交ぜた「J&J(カチンと日本)」など、去年には聞いたことがない新作オリジナル・ソングも披露されたが、これも音楽好きのカチン人が本領を発揮したという感じだ。

豊島公会堂で祝典を開くのは今年で3回目だから、もちろんその分、プログラムや運営の質が向上するのは当然だが、この充実ぶりはそれだけではないように思う。

おそらくこれは、日本にいるカチン人たちの活動が、日本社会の中で難民としての地位を確立するという第1段階から、在日カチン人として新たな文化を創造していくという新たな段階に入ったからではないだろうか。

軍事政権のもと文化的発展を押さえ込まれてきたカチン人が、日本で堂々と自らの文化を育みはじめる、これは日本人としてはとてもうれしいことだ。

2009/01/23

第61回カチン州の日(第2回 演説記録)

祝典のために来日したマコウ・クンサー氏の演説要約

マコウ・クンサー氏
カチン人弁護士。反政府活動により10年間投獄される。法律家としての立場から、カチン州憲法、連邦憲法起草作業に関わる。カチン民族機構外務副局長、ビルマ連邦少数民族評議会(ENC)事務局長。現在は難民としてイギリスに暮らす。

第2時世界大戦末期の1945年、イギリスは『ビルマ白書』を公表して、今後のビルマ統治の方針を明らかにしました。

そこでは、3〜4年のイギリス統治を経て、ビルマ人の住むビルマ本土は自治領として独立、それ以外の民族の住む山岳地域についてはイギリス政府と各民族との話し合いで決める、とされていました。

その当時のカチン人たちがどうであったかというと、カチン人たちは反ファシスト(日本)との闘いで大きな役割を果たしながら、独立への道を模索していました。

アウンサンをはじめとする当時のビルマ人たちは、この『ビルマ白書』に反発しました。彼らは非ビルマ民族とともに連邦国家として独立したいと考えていたのでした。

ですが、イギリス政府は、カチン人をイギリス支配下に置きたがり、ビルマ人とともに独立することには反対していました。

当時の状況を要約するとこうなります。

1)カチン人は自治を求めていました。

2)イギリス人はカチン支配の継続を求めていました。

3)ビルマ人はカチン人とともに独立して連邦制国家樹立を求めていました。

ビルマ人たちはこのように思っていたのですが、いっぽうカチン人はビルマ人に根強い不信感を抱いていました。

そこで1946年11月、アウンサンがカチン州にやってきて、カチン人指導者たちと話し合い、協力を求めました。

アウンサンは、民族的自己決定権、権利の平等、連邦制の実現などを約束し、カチン人たちは彼を信頼しました。

ただ、カチン州の設置については今後の問題として残されました。バモーなどの町にはカチン人以外の住民もいることから、これをカチン州に含めるかどうかどうか、という境界画定の問題があったからです。

この問題はのちに、いわゆる1947年憲法を定めた制憲議会で議論され、現在のカチン州の境界が画定されました。これに対し、カチン人は今後連邦から離脱はしない、という旨の宣言を行いました。これは、シャン人のシャン州が連邦成立10年後に連邦からの離脱の権利を有していたのに対応しています。

このようにして、カチン人も満足のいく形で連邦制の基礎が固まっていったのですが、1947年7月のアウンサンらの暗殺により、連邦制は変質していくことになってしまいました。

連邦制とは名ばかりの、ビルマ人中心の政府となってしまったのでした。

独立から10年後、シャン人たちは連邦からの離脱権を結局は行使はしなかったのですが、ビルマ軍人たちは少数民族たちにより、連邦が崩壊の危機にさらされている、との認識を抱くようになっていました。

この危機感からネウィン政権が成立し、現在まで続く軍事政権が誕生したのです。

1974年に新たな憲法が制定されましたが、これは中央集権をさらに押し進め、カチン人ら非ビルマ民族の権利をまったく認めないものでした。

そして、2008年の憲法が登場しました。これは非ビルマ民族にとって最悪の憲法です。カチン州の名すらなくすことのできる憲法であり、わたしたちの文化・言語が危機にさらされているのです。

現在わたしたちは、ビルマ人を含んだ他の民族と協力してこの憲法に反対しています。そして、この協力関係を維持しながら、真の連邦国家というものを実現していきたいと考えています。

(通訳は田辺寿夫さん。文責は熊切)

2009/01/21

第61回カチン州の日(第1回)

1月18日に開催された第61回カチン州の日レポート。第1回は写真(第2回は演説要約、第3回は論評)。

在日カチン人、非ビルマ民族団体、ビルマ民主化団体、日本人など約400人の参加があった。

プログラムは2部に分かれ、第1部は、カチン民族の6つの構成民族の紹介、カチン州の日の由来、カチン民族機構声明の読み上げ、来賓であるカチン人政治指導者による演説など。

第2部は、カチン州の現状や歴史をうたった歌、寸劇、ファッション・ショーなど。

参加者全員に、カレンダー、パンフレット、KNO-Japan手作りのお弁当が配布された。

カチン民族の衣装で登場

第2部の歌と踊りより。
「決裂しないで」を歌うカチンの子どもたち

「米篩いの踊り」を披露するカチンの女性たち

カチン人に対するビルマ軍の迫害を描写した寸劇
背後に見えるのはカチン民族伝統のモニュメント「マナウ柱」

カチン民族と日本との友好をうたったオリジナル・ソング
「J&J」(ジンポー[カチン]&ジャパン)
若い女性が着ているのは、カチン民族伝統の意匠で作られた和服。

2009/01/19

シャン民族の日祝典(Shan National Day)

第62回シャン民族の日が以下の要領で開催される。

2009年2月1日(日)午前10時〜12時
東京都豊島区 豊島区民センター6階

主催:在日シャン民族民主主義会(SND-Japan)

これは政治集会でやや堅苦しいが、この式典の直後、つまり2月1日午後にシャン民族のお祭りが別会場で例年通り豪勢に開催されるとのこと。

ちなみにSND-Japanのウェブサイトはこちら(ただしビルマ語)。

2009/01/16

第61回カチン州の日式典

第61回カチン州の日祝典が以下の要領で開催されます(今年もぼくも少し手伝います)。

日付:2009年1月18日(日曜日)

時間:午後6時より午後9時30分まで

主な内容:
1)カチン州の現状を記録したビデオ上映(製作:ジャーナリスト瀬川正仁氏)

2)著名なカチン人指導者による演説

3)カチン人の伝統舞踊、歌

場所:みらい座いけぶくろ豊島公会堂
(東京都豊島区東池袋1-19-1)
電話03-3984-7601、ファックス03-3984-0865
JR山手線池袋駅東口下車 徒歩約5分

主催:カチン民族機構(日本) KNO-Japan

連絡先:090-4076-6579

【カチン州の日】
カチン州の日とは、1947年、植民地支配を抜け出して連邦国家ビルマが誕生し、その連邦州のひとつとしてカチン州が設けられたことを記念する日です。

現在は、ビルマ軍事政権によるカチン人への人権侵害、環境破壊、HIVや麻薬の蔓延に苦しむカチン州ですが、カチン人の地の解放と発展を願う在日カチン人政治活動家により毎年日本でも祝典が開催されています。

【カチン民族機構(日本)】
カチン民族機構Kachin National Organization, KNOは、政府と停戦協定を結んだカチン解放軍・カチン解放機構に代わって、カチン人の反軍政活動を担うべく結成された国際組織です(本部はロンドン)。その支部であるKNO-Japanは、2003年に在日カチン人政治活動家・難民によって創設された政治団体(2007年12月よりKNO-Japanと改称)であり、国境のカチン人支援、日本でのロビー活動、各報告書の出版など活発な活動を展開しています。

2009/01/13

ブラック・イズ・ビューティフル

ビルマの国境地帯でよくいわれるのが、ホワイト・エリア、グレー・エリア、ブラック・エリアという3区分だ。

ホワイト・エリアとは、戦争のない地域、ブラック・エリアとはビルマ軍と非ビルマ民族軍の交戦地域、グレー・エリアとはその中間をさす。

ビルマではホワイト・エリア以外まず外国人は訪れることはできない。また、ホワイト・エリア、つまりヤンゴンやマンダレーの大都市の住民たちも訪れることはない。

ブラック・エリアのうち、最大のものがタイ・ビルマ国境に位置するカレン州で、カレン人を激しく弾圧するビルマ軍に対してカレン民族同盟(KNU)とカレン民族解放軍(KNLA)が粘り強く抵抗を続けている地域だ。

タイ・ビルマ国境で、あるカレン人の活動家と話していたときのことだ。カレン州の地図を前にして、彼はカレン人国内避難民の急増について訴えていた。

あまりの惨状に驚きながら、ぼくは地図を指して、何の気なしに言った。「すると、ここ全部がブラック・エリアというわけだな」

すると、そのカレン人、何を抜かすという顔つきで「ブラック・エリア? 俺たちから見れば、KNU統治地域こそホワイト・エリアで、それ以外はみんなブラックさ」

2009/01/09

おむつのサイズ

子育てというものは大変なものだが、難民申請中の家族の場合、国民健康保険に加入できない分さらに大変だ。ちょっとした風邪で病院に連れて行くだけで、全額負担で1万円近くを支払わなくてはならない。

そのため、市販の薬を使ったりして、できるだけ切り詰めることとなる。

あるカチン人の母親が、息子を一ヶ月健診に連れて行ったところ、医師に「この赤ちゃん、大きく育っているのは結構ですが、おむつのサイズが合っていませんよ」と指摘されて少々気まずい思いをした。

つまり、MサイズのおむつよりSサイズのおむつの方が枚数が多く入っているので、このお母さん、がんばって使っていたのだ。

いや、むしろ、赤ちゃんの方が小さめのおむつでがんばっていた、というべきか。

2009/01/08

捕まらぬよう

背広を着る。

信号を無視して横断しない。

雨のときはちゃんと傘をさす。

自転車には乗らない。

どこに行くにもタクシーを使う。

目立つようなことはせず、できるだけひっそりと、できるだけサラリーマンに見えるよう。

オーバーステイ中のあるビルマ人男性が語る、捕まらぬための心得。

しかし、そう言う張本人、先日ついに難民認定申請を行った。

2009/01/07

ロンジーの中

4・5年ほど前のこと、日本で難民認定申請をし、反政府活動をするビルマ人やカレン人を評して、あるカレン人が次のように言った。

「あの人たちはロンジー(男性用腰巻き)に隠れて、拳を振り上げているようなものだ」

つまり、ビルマ国外の守られた場所から民主化を叫んでも屁の突っ張りにもならない、と嘲笑したわけだ。

ところで、その言った張本人、先日ついに難民認定申請を行った。

2009/01/05

MAE LA CAMP by Google Earth

4万人近くもの難民がひしめき合うタイ最大の難民キャンプ、メラ・キャンプの全容をGoogle Earthでかなり明瞭に見ることができる。位置情報は以下の通り。

緯度 17° 7'17.51"N
経度 98°23'18.46"E

2009/01/04

NLDダイアリー

NLD解放区日本支部のメンバーのフラティントゥンさんから、NLD特製の2009年版スケジュール帳をいただく。

ビルマの団体はよく自分たちの団体のカレンダーを作成し、年頭に配布したりするけど、スケジュール帳というのははじめてだ。2〜3年前から始めたとのこと。1500円で会員に販売したそうだ。

スケジュール帳としてもちょっと変わっていて、ビルマの記念日だけでなく、スーチーさんの誕生日(下の写真)、NLD日本支部の結成記念日などがマークされている。月ごとのカレンダーの後には、見開き10日ごとのスケジュール・メモとなっている。どうして1週間ごとではないのかはわからない。


スーチーさんらNLD指導者の写真はもちろんのこと、日本支部の幹部の集合写真が掲載されているページもある。

紙質はそれほど良くはないから、印刷した場所はタイあたりかもしれない。

4月の部分(下の写真)を見ていて休日が続くのでうれしくなったが、よく考えてみればこれは、水掛け祭り、つまりビルマの休日だった。ぬか喜び。

2009/01/02

ビルマの恐怖

在日ビルマ難民の社会を激震させずにはおかない「ある衝撃の事実」が存在し、他言無用と釘を刺しながらそれを教えてくれるビルマ人があった。しかし、その真偽のほどについてはぼく自身何とも判定することはできなかった。

1週間経ち、その「衝撃の事実」についてぼくがとうに忘れた頃になって、その人から電話がかかってきた。

「すいません。絶対、他の人には言わないでくださいってもう一度言いたくって。ビルマに残してきた家族と親類がどんな目にあうか不安で、不安で・・・・・・」

どんな気持ちでこの人は一週間を過ごしてきたことだろうか・・・・・・かえって滑稽なほどだ。

だが、ビルマの人々は本当に軍事政権が恐ろしいのだ。些細な例であるが、ビルマを覆う恐怖を理解する一例にはなるかと思う。

2009/01/01

民族大量虐殺

ほとんどのカレン人の母語はカレン語(のうちのどれか)であるから、生育環境によっては、ビルマ語がそれほど得意でないものもいる。

いや、ビルマ語が話されている環境で育ったとしても、ビルマ民族に対する嫌悪感・恐怖感から、ビルマ語の習得に熱心でない人もいる。

その背景にはビルマ人によるカレン人への迫害がある。その熾烈さ、残虐さはもはや民族絶滅作戦といっても良い程度にも達している。

あるカレン人が日本で難民認定申請を行い、ビルマ語で申請書を提出した。

もちろんのこと、彼は自分が難民となった背景として、「ビルマ軍事政権がカレン人を大量虐殺している」ことに触れずにはいなかった。だが、ビルマ語があまり上手ではない彼は「大量虐殺」をビルマ語でなんというか知らなかったのだ。

彼がどれくらい頭を悩ませたかは知らない。ともあれ「ルータップエー」、結局彼はそう申請書に書いた。文字通り訳せば「人・殺し・祭」と。