2009/05/29

ある楽しみ

品川入管で、自分が保証人をしている被収容者の仮放免のための保証金を払うとき、そこで払うのではなく、わざわざ田町駅前のUFJ銀行内にある日本銀行まで行って支払わなくてはならない。

電車で行ってもいいのだが、同行している被収容者の身内や友人の一刻も早く支払って釈放してあげたいという気持ちを考慮して、タクシーで行くことになる(もちろんタクシー代はあっち持ちだ)。

タクシー料金は1300円から1500円。銀行で保証金を支払い、領収書をもらうと、すぐにまたタクシーに乗って入管に戻らなくてはならない。その領収書を提出してようやく仮放免の手続きがはじまるからだ。

田町から品川にタクシーで戻るとき、あるタクシーは品川と田町間の線路下の非常に低いトンネルをくぐる道をとる。そのトンネルは高さは2メートルもないので、いまにも車の天井をこすりそうでヒヤヒヤする。テレビにも幾度も取り上げられているちょっとした名所だ。

保証金の支払いのためにわざわざ遠くに行ってまた入管に戻るというのは嘆かわしい作業だ。だが、帰りにこのトンネルを通れた時は少しだけそれも軽減されると行ってもよかろう。

(とはいえ、品川はまだましだ。牛久の場合は保証金を納める銀行に行くのに入管からタクシーで片道3000円近くかかる)。

2009/05/27

ザイタンクンアさん追悼礼拝(おまけ)

チン人とはいっても、みんなが同じ言語を話しているわけではなく、互いに理解できないいくつもの言語がある。

ザイタンクンアさんとそのご遺族の言語はミゾのチン語で、在日チン人の多くが話しているティディムのチン語やハカーのチン語とは異なる。

追悼礼拝の後にザイタンクンアさんのご遺族と話す機会があったのだが、そのとき通訳してくれたチンのTさんはミゾのチン語が得意ではなく、次のようなやり方で通訳してくれた。

日本語を話すと、Tさんがハカーのチン語に通訳。

ご遺族の方はハカーのチン語は話せないが聞けば理解できる。それで話を理解し、返答をミゾのチン語で行う。

Tさんはミゾのチン語は流暢に話せないが、聞けばだいたい理解できる。その理解をもとに返答が日本語に通訳される。

多言語社会のコミュニケーションの取り方の一例。

2009/05/25

ザイタンクンアさん追悼礼拝(4)

追悼礼拝では、ザイタンクンアさんのご遺族が参列者に対して感謝の言葉を述べられた。

細かく記すわけにはいかないが、残された4歳の息子さんの話になると、多くの出席者から嗚咽が漏れた。

ザイタンクンアさんは息子さんが生後5ヶ月の時にビルマから日本へ逃げ出さなくてはならなかったため、息子は父親と会ったことがない。だが、電話ではいつも会話をしていて、父親の声はすぐに聞き分けることができた。

あるとき電話で、父親が日本に呼んであげると行ったため、いつもお父さんが日本に呼んでくれると言って楽しみにしていた。

皮肉にもその父親が亡くなってから、日本に来ることができたが、父親の死を理解できないのか、いまなお「お父さんはどこ」と探している、という。

2009/05/22

ザイタンクンアさん追悼礼拝(3)

特定活動ビザと定住者ビザの違い

渡辺先生の話を理解するのに必要なポイントは、特定活動ビザと定住者ビザという2つの在留資格の違いである。この点について、複数の専門家から聞いた話を以下に要約する。

1)ビルマ難民が在留特別許可を得る場合、その在留資格は「特定活動」か「定住者」のいずれかである。

2)定住者ビザの基準のひとつが、10年以上日本で安定した生活を営んでいること。

3)したがって入管が「安定した生活を営んでいない」と判断した場合、特定活動ビザとなる。

4)家族を呼び寄せる時に特定活動ビザのほうが定住者ビザよりも手続きが煩雑。

5)公団への入居、借金などの点で特定活動ビザには制限がある。

6)特定活動ビザの内容がはっきりしていないため、定住者ビザに比べて就職の際に敬遠されやすい。これは家を借りる時にも同じ。

つまり日本で生活する上では、特定活動ビザよりも定住者ビザのほうが有利なのである。

2009/05/20

ザイタンクンアさん追悼礼拝(2)

追悼礼拝での渡辺彰悟弁護士(ビルマ難民弁護団)の言葉もまた興味深く、次はその要約である。

「ザイタンクンアさんの死に関してビルマ難民弁護団で議論を行ったが、そこで取り上げられたのは在留資格のひとつである『特定活動』という資格の問題点であった。

「ビルマ難民の中には、認定された難民ではなく、この特定活動で在留資格を得ている人がたくさんいる。ザイタンクンアさんもその1人であった。

「現在の難民の困難の根本原因はもちろんビルマ軍事政権によるものであるが、日本での滞在に関していえば、これは日本の問題でもある。

「弁護団の議論の結論としては、ビルマ難民にこの特定活動という在留資格を出すのを入管に止めさせるよう取り組む、ということになった。

「特定活動という資格を『定住者』という資格に変更するように入管に申し入れを行い、もしこれを入管がこれを認めなければ、さらに裁判でもなんでもやってやろう、このようにしてザイタンクンアさんの死に応えていきたい、と弁護団は考えている。」

2009/05/18

ザイタンクンアさん追悼礼拝(1)

5月17日、午後7時より、大久保の教会、MCMC(ミャンマー・クリスチャン・ミッション・センター)でザイタンクンアさんの追悼礼拝が行われた。

MCMCは在日ビルマ人、特にチン人が運営している教会組織で、ザイタンクンアさんも教会員の1人であった。

追悼礼拝なので、ザイタンクンアさんのスライドショーが流されたり、MCMCメンバーが前に出て葬送歌を歌ったりした。

在日ビルマ難民を長く取材してくださっているTBSの李記者もクルーを連れて取材されていた。

以下、牧師さんのメッセージ、渡部彰悟弁護士の言葉、遺族の感謝の言葉を紹介したい。

牧師さんのメッセージはあくまでも要約で、後ろに座っていたチン人の友人が途中から通訳してくれたものをもとにしている。

「わたしたちは彼の魂を引き止めてはいけない。わたしたちの魂もやはりいずれ元来た場所に戻るのだから。だから主は『わたしは道である』と言われるのである。イエス・キリストのみが永遠の命へと導いてくださる。

「ひとりひとりがザイタンクンアさんの死から学ぼうではないか。遺族たちは嘆き悲しんでいる。だが、死とは誰もが通らなければならない道なのだ。

「自分たちの名前が天国において刻まれるよう自分の生き方を見つめ直そう。わたしたちの名前はいずれ消え去るが、神のうちに刻まれる名前は決して消えないのである」

心うたれるメッセージだが、同時に興味深いのは、「彼の魂を引き止めるな」という言葉に表れているように、この礼拝では死者の魂を送り出すことがしばしば強調されていたことだ。葬送歌の内容も「魂が元来たところに帰ることに何の不満があろう」というものだった。

日本のいわゆる「鎮魂(たましずめ)」とはまた違った感じで、面白かった。

2009/05/15

アウンサンスーチーさんの起訴に関して

5月14日のスーチーさんの起訴を巡ってしばらくの間、品川のビルマ大使館前も騒然としそうだが、それはともかく、スーチーさんの起訴の理由については二つの説があるようだ。

もちろん理由といっても、外国人を無許可で宿泊させたことであるのはもちろんだが、それがスーチーさんの自宅軟禁の条件に違反しているから、とする説と、その辺ははっきりさせずにただ泊めたことが原因だとする説がある。

どちらであってもかまわないが、少なくとも後者に関していえば、ビルマではそもそも誰であっても、外国人であろうとなかろうと他人を無許可で、つまりその地区の平和開発評議会に連絡せずに民家に泊めてはいけないのである。

その理由はおそらく住民管理と治安維持のため、平たくいえば地下で活動する民主化活動家、民族活動家、得体の知れぬ外国人、国外のメディアが勝手に動き回らないようにするためであろう。

ここでどうして住民管理が問題になるかといえば、大規模な民主化デモや時たま起こる爆弾テロを封じ込めるには、すべての住民の動向を把握するのが一番だ、というのがビルマ当局の考え方だからだ。

ところで、ビルマに行ったことのある人には、ホテルではなく、友人宅に泊まったことがあるぞ、という人もいるかもしれない。その場合に、実際にはその受け入れ先が報告していたのかもしれないし、あるいはバレなければよい、ということなのかもしれない。

4年前の10月、デルタ地域の民家で一泊した時は、外国人が泊まることは当局に報告してあるから大丈夫、とその家のカレン人が言っていた。

この時の旅では無許可でヤンゴンのカレン人の家に泊まったこともある。帰国する前日のことだ。

日本で働いていたことのあるカレン人が、ぼくに家に泊まっていけというのだ。日本にいる間から、彼の新宿の家に泊まっていたほどの間柄だから、不安はなかったが、外国人が勝手にホテル以外のところに泊まってはいけないということを知っていたので、そのことについて聞くと、

「夜だけいて、朝はさっさと出て空港に行けば大丈夫だ」

という。帰る前日だからちょっとぐらいいいだろうと、彼の家で夜を過ごすことにしたのだった。

その夜は別のカレン人の友人を呼んで、夜遅くまで酒を飲んだ。客たちが帰って、その友人と2人で話しながら、テレビを見ていると、不意に外でノックする音がした。

彼はぼくに陰に隠れてじっとしているようにというと、外に出て行って誰かとしばらくやり取りしてから戻ってきた。

もう大丈夫か、とぼくが小声で聞くと、彼はうなずく。彼が言うには近所で火事が起こったため政府関係者が一軒一軒尋問して回っているのだという。

この火事が本当にあったのかどうかは知らない。少なくとも彼に家にいる間、そんな物音を聞きはしなかった。

ビルマでは、当局が真夜中にやってきて尋問するのはざらにある。これもおそらくその類いだったのだろうが、このときもしぼくの存在がばれていたら、もしかしたら少し面倒くさい事態になり、友人は多少の出費を強いられたかもしれない(つまり賄賂でことを済ますということだ)。

スーチーさんの起訴の真の原因に関しては、自宅軟禁の延長と2010年の選挙での影響力の排除を目論んだものであるとの見方が強い。

これはもちろん正しい見方だろうが、もうひとつヤンゴンの住民管理上の要請という理由もあるように思う。

なぜなら、スーチーさんは間違いなくビルマでもっとも有名でもっとも影響力の大きい人物だが、それほど人が外国人を無許可で家に泊めた(これが事実であるかは別にして)という事態は、ヤンゴンの住民管理法を根底から揺るがすからだ。

ヤンゴンの市民は、無許可で他人を泊めることにいかなるためらいも感じなくなるだろう。夜中の人々の動きが活発化し、それはたちまち小規模な政治的集会へと発展し、やがてある白昼、爆発的なデモがヤンゴン中を吹き荒れるだろう。これは、ビルマ軍事政権の存続にも関わるのである。

もちろん、これは軍事政権がヤンゴン市民に抱いている懸念、より適切には恐怖であり、実際にこれが起こりうるかどうかとはまた別の話だ。また、スーチーさんが今回の「侵入事件」で、こうしたことを念頭に置き、ヤンゴン市民を刺激しようとしてた、などということもありえない。

だが、軍事政権の目から見れば、スーチーさんはあたかも当局の住民管理法に逆らうことで当局を挑発し、そうすることでヤンゴン市民に蜂起を呼びかけているかのように映ったのである(独裁者とは臆病なものだ)。

ゆえに、軍事政権がスーチーさんを起訴するのは当然なのだ。

とはいえ、だからといって、この起訴はいかなる意味でも正当化されえないのはもちろんのことだ。

ビルマ政府に同情的な人は、そもそもスーチーさんが法を破ったのだから当然のこと(もっとも、スーチーさんはそのアメリカ人を自宅には入れなかったという)、と考えるかもしれない。

だが、そもそも、田舎からやってきた両親を勝手に家に泊めたり、友人たちと気ままに家に集まって朝まで楽しむことも許すこともできないほど、国民にビクビクしているこの臆病きわまりない政府こそ、おかしいのだ。

2009/05/13

NDF33周年記念式典(2)

ついでだから、NDF(民族民主戦線)33周年記念式典で配布された声明の内容を紹介しようと思う。

タイトルは「NDF設立33周年NDF声明(National Democratic Front Statement on 33rd Anniversary NDF Foundation)」。

原文はNDFのウェブサイトndf-burma.orgにあるはずだが、どういうわけか繋がらないので、BURMA DIGESTに掲載されているものを参照してほしい(Statement on 33rd Anniversary of NDF Foundation)。

主な内容は次の通り。

1)NDFは2008年の憲法に基づく2010年の選挙を決して受け入れない。

2)武装解除への危機感
国境地域の非ビルマ民族の人権がいまなお政治的に保障されていないのにもかかわらず、SPDC軍事政権が、停戦中の非ビルマ民族組織の軍事力を低め、国境警備隊に変えてしまうため、これらの組織に圧力を加えて不当にも武装解除させようとしていることに、NDFは声明で注意を喚起している。

3)NDFは、軍事政権と反対勢力が対話により問題解決を図るべきだとする国民民主連盟(NLD)のShwegondaing Declaration(シュエゴンダイン宣言2009/4/29)を支持する。NDFは軍事政権に対して、全国的な停戦、すべての政治囚の釈放、国内のすべての政治組織との対話に取り組むことを呼びかける。

4)「協調は勝利をもたらす(Victory through Alliance)」
声明の末尾を飾る言葉。

2009/05/12

NDF33周年記念式典(1)

5月10日の日曜日、NDF(民族民主戦線)の結成33周年を記念する式典が、大塚で開かれた。

NDFは、当日配られた資料によれば次の8つの非ビルマ民族組織から構成される軍事連盟である。

   1) アラカン解放党 ARAKAN LIBERATION PARTY
   2) チン民族戦線 CHIN NATIONAL FRONT
   3) カレン民族同盟 KAREN NATIONAL UNION
   4) ラフ民主同盟 LAHU DEMOCRATIC UNION
   5) 新モン州党 NEW MON STATE PARTY
   6) パオ人民解放機構 PA-O PEOPLE'S LIBERATION ORGANIZATION
   7) パラウン州解放戦線
   8) ワ民族機構

NDF日本支部ができたのは2001年4月。パラウン民族のマイチョーウーさんがずっと代表を務めている。彼はまた在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN-JAPAN)の創立者の1人であり、日本の非ビルマ民族運動をずっとリードしてきた人だ。

マイチョーウーさんによれば、今回の式典は日本ではじめてだが、日本人ばかりでなく、ビルマ人にもあまり知られていないNDFについて、ぜひとも知ってほしいと思って開催したそうだ。

「33年もの長きにわたり、互いに協力しながら闘ってきた非ビルマ民族の気持ちを知ってほしい」とのこと。

会場にいた日本人はわずかだったが、少なくとも140人の在日ビルマ民主化活動家が参加し、まずは成功というところだと思う。

議長席に座るのは、左からカレン民族同盟日本代表、
AUN-JAPAN議長(アラカン人)、新モン州党日本代表。

会場に集まったカレン人の活動家たち。

NDF日本代表のマイチョーウーさん

2009/05/10

ザイタンクンアさんの遺体(2)

葬礼に関する打ち合わせが終わると、斎場の職員はぼくたちを霊安室に案内してくれた。

ザイタンクンアさんの棺が冷却装置から引き出され、白いクッションに囲まれた彼の黒ずんだ顔があらわになると、チンの人々は一斉に嘆き声をあげた。

在日チン民族協会(CNC-Japan)の会長であるタンさんは、まるで何かを押しとどめるかのように、広げた手をザイタンクンアさんの頭の上に伸ばし、声を出してチンの言葉で祈り続けていた。

その祈りの中に、ぼくは自分の名前を聞き取ったので、霊安室を出た後、タンさんに何と言っていたのか尋ねてみた。以下がその答えである。

「遺 体のそばにいる彼の霊が、われわれ生者に害をなさないよう、語りかけていたのだ。彼は家族のことを心配しているに違いないから、その気がかりから解放して やらなければならない。だから、われわれここにいる者がしっかり面倒を見るので安心しなさい、安らかに眠りなさい、と言い聞かせたのだ。

これは、キリスト教の信仰ではなく、チン人の伝統的な信仰に基づいている。

ま た、われわれはCNC-Japanとして、ザイタンクンアさんに対して『あなたはもう亡くなったので、わたしたちはあなたをもうメンバーとして認めませ ん』という公式文書すら出すつもりですらいる。なぜなら、さもなければ彼は死んでもなお自分が生者の世界に所属していると信じ続けてしまうからだ。

CNC-Japanの会長であり、また日本のチン人コミュニティのリーダーでもあるわたしにとって、彼の魂の行方に責任を持つのは当然のことだ」

以前、カレン人の難民が亡くなった時も、その人が所属していた政治組織がこれ似たような公式声明を準備したとか、しなかったとか聞いたことがあるから、これはチン人だけの習慣ではないようだ。あるいはビルマ民族にも同じような習慣があるかもしれない。

もちろんわれわれ日本人の多くも死者の霊を恐れ、またその安らかな行く末を祈るが、だからといって公的な「絶縁状」を出すまでにはいたらない。われわれにとって死者に対するそうした扱いは、かえって敬慕に欠けるような印象を与える。

なんにせよ、チンの人々が死者をあえて突き放す象徴的行為と、遺骨をそばに置くのを恐れる心理には、関係があるにちがいない。

さて、タンさんは祈り終わると、同行しているチンの若い女性とぼくに、ザイタンクンアさんの遺体の写真を撮るように求めた。チンの女性は平気でフラッシュを焚いて写真を撮り、タンさんたちも棺を囲んでまるで記念写真のようだ。

ぼくとしては、死んだ人の写真を撮るのはそれこそ「敬慕に欠ける」ような気がして、おそるおそるシャッターを押す感じだ。

これもまたチンの人々と日本人の感覚の違いの一例といえるかもしれないが、そうとばかりも言い切れない。

な ぜなら、たとえ遺体であろうとも、同じ民族の仲間の姿をしっかりと記録に残す、というのは、ビルマ軍事政権によって文化と言語を育む権利を奪われてきた、 いいかえれば伝統と歴史を奪われてきた非ビルマ民族にとって、自分たちの歴史を作るという意味で重要な意味を持つからだ。

それに、ビルマ政府から見捨てられた1人の難民の生涯を、同じ境遇の難民以外に誰が記録し、歴史の一部として後世に伝えることができようか。

そんなことを考えると、死に顔を写真に撮ってくれという頼みも拒否することはできないのだ。気分はあまり良くないが。

2009/05/09

在留を認められるまでの期間

先日、友人のカレン人が在留特別許可を得た。彼が日本での在留を認められるまで、どれだけ時間がかかったかを、簡単に記録しておく。

彼の難民認定申請を一緒に準備しはじめたのが、2006年の5月頃。難民認定申請書の作成・翻訳を進め、6月頃に提出する予定だったが、その直前に不法滞在のため逮捕されてしまう。

結局、品川に収容されている間に難民認定申請を行い、その後牛久の収容所に移される。収容中の1次審査で認められず、その後の異議申立てでも不認定となる。

仮放免申請が認められ釈放されたのが、2007年5月。1年近くの収容であった。

その後、再申請を行い、1次審査で再び不認定。次いで異議申立てでも不認定となったが、人道的配慮により特別在留許可が認められる。2009年4月末のことである。

彼自身、申請の準備をはじめたのが2006年4月であるから、それから数えると丸3年かかったことになる。また収容されてすぐに申請しているはずだから、申請した時から計算しても3年近くかかったことになる。

長い。だが、入管に収容されてから申請した場合ならたいていこんなものだ。

このカレンの友人と祝い酒を飲みながら、この3年間の苦労について話していると、同席していた初対面のビルマ人が、自分は2001年に申請して、今年ようやく難民として認められた、と語った。

2009/05/06

ザイタンクンアさんの遺体(1)

ザイタンクンアさんの葬儀費用に関する手続きのため、5月1日、市川市役所と葬儀会場となる市川市斎場に行った。手続きといっても、彼が依頼していた弁護士事務所の方がすべてやってくれたので、こちらはただ黙って見ているだけなのだった。

斎場では興味深い出来事が起きた。

チン人にとってそもそも火葬というのは文化的に受け入れがたいことだ。これはチン人がキリスト教徒であることによるらしいのだが、キリスト教受容以前にも火葬の風習がないとすれば、おそらくより正確には非仏教徒であることによるのかもしれない。

いずれにせよ、チン人の伝統的な遺体処理法は土葬である。それゆえ、遺族としては、遺体をビルマまで運びたいところなのだが、それは不可能。火葬して、遺骨を持ち帰るほかはない。

遺骨は彼の家族がやってきて、ビルマに持ち運ぶことが決まっていたのだが、そこで問題となったのが、来日した家族が帰国するまでの間、どこに遺骨を保管するかだ。

チンの人々は、遺骨を家に置くことはできない、というのである。

日本人にとってこれはやや奇異なことだ。われわれの文化ではむしろ遺骨は亡くなった本人の代わりとして認知されており、納骨されるまでのあいだ住まいに安置しておくことに何の抵抗も感じない。

ところが、チンの人にとってそれはひどく抵抗のあることのようだった。

チンの牧師さんも同行していたので、それならば教会でしばらく預かっていればよいのでは、と思ったら、それもダメ。

この牧師さんは、信徒のために力を出し惜しみするようなケチな牧師ではない。そもそもザイタンクンアさんのためにもっとも奔走したのは彼だ。

だから、これはチン人の死に対する見方に関係するのだろうと思う。遺骨といえども、それを寝起きする場所、生活の場に置くことは、チン人の死観が許さないのだ。

結局、遺骨は斎場側が預かってくれることになったのだが、これは斎場にとっては非常に異例なことらしく、必ず引き取りにくる、という旨誓約する必要があるほどだった。

2009/05/03

ザイタンクンアさんの死

在日チン民族の難民、ザイタンクンアさんは4月23日、ヤンゴンに残した妻に電話をして、今日が俺の最後の日だ、俺はもうすぐ死ぬ、と告げた。「4歳になる息子のことを考えて」と妻が必死に懇願すると、彼は、もうしない、と言った。

だが、その翌日、彼は再び考えを変え、幾人かの友人に死の決意を伝えると、市川の自宅から姿を消した。そして、知人たちの懸命の捜索もむなしく、4月26日の朝、市川市内の線路で遺体となって発見された。

彼はふさぎ込みがちだったという人もいれば、近頃、体調を崩していたという人もいる。また失業したばかりで、将来について思い悩んでいたともいうし、妻と息子を日本に呼び寄せることができないのを悲しんでいたともいう。いずれにせよ、ザイタンクンアさんがどうして死を選んだのかは、今となっては誰にもわからない。

ただひとつわかっているのは、彼の自殺をくい止める手だてはいくらでもあったということだ。専門的なカウンセリングがあれば彼の精神的な問題も解決されたかもしれない。あるいは、そばに家族が、いやそうでなくても常にそばにいてくれる人がいれば、彼が人知れず家を飛び出すのを阻止できたかもしれない。将来に希望がもてる状況にいれば、そもそも死のうだなんて思わなかったかもしれない。

ザイタンクンアさんは2008年に日本政府より在留特別許可を得て、少なくとも命の安全は保障された状態にあった。だが、彼の死が物語るのは、それだけがすべてではないということだ。

難民がこの日本で人間らしく生きるためには何が必要なのか。わたしたち、つまり日本人とビルマ国籍の難民たちは、すでに遅きに失したこの問いかけにともに真剣に取り組むべき時にきている。

《以下は在日チン民族協会からの葬儀案内》

在日ビルマ国籍者難民を支援くださっている皆様へ

故ザイタンクンア葬儀のご案内

わたしたち在日チン民族協会(CNC-Japan)の会員であるザイタンクンア(ZAITHANKUNGA)が、2009年4月26日未明、永眠いたしました。よって故人の葬儀を下記の通り執りおこないます。

2009年5月3日(日曜日)
午後1時30分より2時30分まで
場所:市川市斎場 市川市大野町4-2610-1、047-338-2941
JR武蔵野線市川大野駅よりタクシーで10分

在日チン民族協会会長
タン・ナンリヤンタン

在日チン民族協会
住所:135-0007 東京都江東区新大橋1-11-13 米沢ビル4階
eメール:cnc_jp@yahoo.com ウェブサイト:www.cncjp.org