2009/07/29

悲惨

軍事政権の合法化を目的とする2008年憲法の承認、そして軍事政権が勝利するとあらかじめ決まっている2010年の選挙、と今後ビルマの状況はますます悪化すると見られている(日本政府は逆の見方をしているが)。

そして、日本に暮らす非ビルマ民族政治活動家が次のように言った。

「わたしたちはこれまで、いずれビルマに帰れる日がやってくるという前提のもと活動してきた。だが、いまやそれも叶わぬ夢となった。わたしたちは日本で死ぬのだ・・・」

2009/07/27

アブダクション

ある在日カチン人の親戚が体験した話。

今年の2月頃、あるカチン人の若者(20歳頃)がヤンゴンの自宅周辺を歩いていた。ちょうど駅の前に来たとき、兵士たちが彼を取り囲み、有無を言わさずトラックの荷台に他の若者とともに押し込み、連れ去った。

兵士たちは若者たちを軍事基地に運び、そこでむりやり兵士になるための同意書に署名させ、軍事教練をはじめた。軍は彼らに自宅に連絡を取ることを許さなかった。

残された家族はといえば、いくら探しても若者の居所はわからない、これはてっきり死んだに違いない、と思って諦めていた。

ところがようやく最近、本人から連絡が入って、新首都ネーピードーで軍務についていることが明らかになった、という次第。

ビルマ国軍についてよく言われる「士気の低さ」の理由が分かる話。

2009/07/25

写真は恐怖を写し出す(4)

いずれにせよ、これまでの話は、あくまでも政治活動をしている人に限られる。政治活動家ではない人、あるいは難民ではない人の写真の扱いは極めて注意を要する。

たとえば日本で学ぶ留学生や日本人と結婚した人のことだが、これらの人々の中には民主化運動に同情的で、背後から支援する人もいる。だが、たとえいくら協力的であっても、民主化活動家や難民と一緒に写った写真を公表することは、危険な結果をもたらす。これらの人々は、永続的にせよ一時的にせよビルマに帰る人々であり、そうした写真によって軍事政権から反政府運動の協力者とみなされることは時として致命的な事態を招きうるのである。

こんな話がある。日本で難民として認められたあるカチン人男性が老いた母を日本に呼び寄せた。母子は十数年ぶりに再会し、3ヶ月の滞在ビザが切れるまでの間、ひさびさに一つ屋根の下に暮らし、時にはあちこち見物に出かけるなどして楽しい日々を過ごしたのだが、この老母、ひとつだけ決してしないことがあった。それは、息子と一緒に写真を撮ることで、彼女が言うには「帰国の際にそんな写真、つまり政治活動をしている難民と写った写真を持っているのが空港でばれたら、どんな目にあうかわからない」のだと。現像しないでデジカメのメモリに入れておけば大丈夫、と息子がいっても、「怖いのでいやだ」と承知しない。「では(と息子が諦めていう)、わたしの写真はいいけど、せめて孫の写真を持って帰ってください」 すると老母は答えて「もし空港でこの写真の子どもは誰だって尋問されたら、わたしはどう答えればいいの? 厄介ごとが起きるに決まってる!」 結局、家族の写真を一枚も持たずに帰国したそうだ。

2009/07/23

謝罪(2)

これはおそらく、「謝罪する」という行為のもつ役割がビルマ社会と日本社会では異なることに起因するのであろう。

われわれにとって「謝罪」とは、物事を潤滑に進めるためのテクニックのようなところがあって、とにかく謝っていれば、物事は日本社会ではそう悪くは進行しない。

そして、これは重要なことだが、謝罪していても、実際に心のうちではどう思っていてもかまわないのである。謝るという行為自体が重要なのだ。

こうした謝罪には同じ文化を共有し、その謝罪の意味を相互に正しく理解しているという暗黙の了解が必要だ。

その点、他民族や他国との間にはそうした暗黙の了解がないので、日本人はあまり謝罪をしたがらない。自分たちの謝罪を相手が、自分たちの期待している通り理解してくれるかどうか分からないからだ。

他の文化圏への謝罪に関してしばしば言われる「一度謝ると、何度も何度も謝らなくてはならなくなる(それでは毅然とした日本ではない)」という言葉は、日本社会が他の文化に対して抱く「理解されないのではないか」という恐怖のひとつの表現なのだ。

それはともかく、ビルマ社会の謝罪観は、日本のいわば社会の潤滑油的な謝罪観とは異なることは確かなようだ。

とはいえ、それが社会的な権威を損なう何かである、という以上のことはわからない(日本人にとっては逆だ。社会的な地位の高い人が日本人に対して真摯に謝れば謝るほど、その人の好感度は上昇するのである)。

ついでだから、謝罪にまつわるエピソードをいくつか。

松岡利勝大臣が自殺したとき、遺書に書かれた言葉を聞いてあるビルマの人が「ビルマでは死んでお詫びするなんて人はいません」と言った。

少し関係ある別の話。

あるカチン人のオーバーステイのインタビューに参考人として同席した時のこと、入管の調査官がそのカチン人に「あなたはオーバーステイしたことを反省していますか」と尋ねた(これは日本の文脈では謝罪を求めるに等しい)。すると、日本人の通訳が困った顔で言った。「すいません。ビルマ語には『反省』にあたる言葉がないのです。質問を言い換えてもらえますか?」

最後に、ビルマ語で「ごめん」は「ソーリーノー」。

借用語(外来語)は、借り手の言語では言い表すことのできないモノや概念を表す語であるのが普通だが、まさかビルマ人がイギリスに植民地にされるまで謝ることを知らなかったはずではあるまい(もちろん、ビルマ語「純正」の謝罪表現もちゃんとある)。

2009/07/21

謝罪(1)

以前、日本の非ビルマ民族政治団体の間で、ごたごたが起きた。当事者のひとりである非ビルマ民族の政治指導者とその問題について話をしたとき、ぼくがこんなことを言ったら彼は一瞬目を丸くした。

「あなたが謝ればいいんじゃない。そうすれば向こうの気も済むし、何しろ謝るのはタダだ」

ぼくは現在、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)で副会長をしているが、この会である問題が生じたとき、会議の場で会長の大瀧さんがこんなことを言った。

「とりあえず、会長としてわたしが相手の会員に謝罪しましょう。それでいいでしょう」

するとビルマ人の役員たちはこんなふうにいって反対した。

「会長は絶対に謝ってはいけないのです。それでは会がまとまらなくなります」

ぼくは大瀧さんに加勢して「日本では会長とか社長というものは謝るのが仕事のようなもので、それで丸く収まるならいいんじゃないか」といったが、彼らは「それはビルマ人のやり方ではない」と頑として聞かないのだった。

今日、麻生首相が両院議員懇談会で謝罪した。それは自民党の議員に向けた謝罪だったが、テレビでは首相の謝罪する様子が何度も映し出された。一国の行政の最高責任者が頭を下げる、これはビルマの人々にとっては奇怪千万な出来事にちがいない。

もちろん、この2つのエピソードをもって、日本人が謝罪することを知る謙虚な民族であり、ビルマ人がその逆で傲慢な民族であるとするのは、早合点である。日本人にもなかなか謝りたがらない方面があるのはつとに知られている。

2009/07/18

写真は恐怖を写し出す(3)

さて、インターネット上、もしくは雑誌などへの写真の掲載は、意図的になされる場合もあるし、本人の知らない間にされてしまう場合もある。後者の場合はともかくとして、自分の写真をわざわざ載せて、それでビルマに帰れないと言い張るのは、とんだ自作自演のように思えるかもしれない。

もちろん、そんなふうに取られても仕方のない場合もあるのだが、そうではなくまともな政治的動機に基づいている場合もある。これは特に非ビルマ民族(いわゆる少数民族)に関わりあることだ。日本の少数民族運動の立役者のひとりであるチン民族の政治活動家、タン・ナンリヤンタンさん(在日チン民族協会[CNC-Japan]会長)の言葉を引用しよう。

非ビルマ民族はビルマ独立のため、そして民主化のためにビルマ人に負けぬほど犠牲を払ってきた。だが、これらの努力と献身はビルマ人の陰に隠れ、埋もれてしまっている。わたしたちはビルマの歴史から抹殺されてしまっているのだ。それは軍事政権が意図的に歴史を歪めているせいであり、またわれわれ自身の歴史的記録がビルマ国内で公表を禁じられているからでもある。それが原因となって、非ビルマ民族の存在は国際社会や学問の世界でいまなお認められていないのだ。それゆえ、ビルマ国外にいるわたしたち非ビルマ民族は、自分たちの参加する活動すべての記録を取り、公表し、「そこにわたしたちがいた」という歴史を作ることを義務としなくてはならない。

このような理由から、タン・ナンリヤンタンさんによれば非ビルマ民族にとってはいかなる写真も重要であり、必要に応じて公表すべきものとなるわけだが、写真の公表に関するこうした姿勢には批判もある。日本にいる活動家の写真をインターネットを通じて公表することは、本人のみならずビルマにいる家族や親族の命を危険にさらすことであるから、極力避けるべきである、というのである。もちろんこれにももっともな理由があり、特に難民保護の立場からは重要である。政治的なビジョンか、難民保護か、どちらを取るかは非常に難しい問題だが、今ここで論じる問題ではない。

2009/07/15

ある相談

あるビルマ国籍者が、別のビルマ国籍者に大金を貸していたが、いつまでたっても返済しないばかりか、近頃は電話にも出なくなったのに業を煮やしていた。そこで、相談があるといって電話をかけてきて言った。

「あの人(借り手)はいま難民認定申請中ですよね。だから、入管に言ってやろうかと思っているのです。この人は人からお金を借りたまま返さない悪い人だって。もしそんなことを入管が知ったら、絶対ビザなど出さないですよね。どう思います?」

まず言えるのは、この手の情報に左右されるほど、日本の難民認定体制はいい加減なものではない、といことだ。いろいろ問題はあるが、そこまで悪くはない、とぼくは思っている。

そして逆に言えば、ビルマ政府とは、こうした悪意ある告げ口が効果を生む政府なのである。

しかし、それにしても、ビザが出なければ、つまり就労許可がなければ、返ってくるものも返ってこないのでは、と思うのだが。

2009/07/13

Pro Et Contra

現在、ビルマ軍と民主カレン仏教徒軍(DKBA)の大攻勢にさらされ、第7旅団基地という重要拠点を奪われたカレン民族同盟(KNU)だが、ある非ビルマ民族政治家によれば、これはけっして敗北とはいえない、とのこと。その理由は次の3点だ。

1)カレン軍は何も失っていないに等しい。

たしかに第7旅団支配地域は重要だが、実際にあるのはジャングルばかりで、失ったところでたいしたダメージはない。いっぽう、戦わずして退却することによって、KNU側は兵力を温存できる(陣地は後で回復することもできようが、兵はそうはいかない)。

2)退却自体が敵に不利である。

敵軍はカレン軍を追求するが、ジャングルでの移動にかけてはカレン人のほうが何枚も上手だ。ジャングルを堂々巡りしているうちに消耗するのはビルマ軍側ばかりなのである。

3)ゲリラ戦法への転換。

敵軍がかつての領域内に入り込んできたことにより、カレン軍はもっとも得意な作戦、つまりゲリラ戦に持ち込むできる。

なお、同様な記事をDVBが報じているのでリンクを以下に掲載しよう。

1)Loss of Karen bases a ‘strategic’ move by KNU

2)Karen armed group to fight ‘with guerilla warfare’

確かにそうかもしれない。だが、これが次に述べる2つの巨大な損失を補うものかどうかはわからない。

1)今回の侵攻により、膨大なカレン人難民が発生している(上の1によれば8万人)。

2)第7旅団の支配地域にあったボーミャ将軍の墓が奪われたという事実が世界中のカレン人に与える精神的ダメージ。

カレン人が英雄の遺体をビルマ政府に奪われるのはこれが最初ではない。1950年、ビルマ軍はKNUの創立者ソウ・バウジーを殺害すると、カレン人の崇拝の対象とならないように、その遺体を海に投げ捨てた、という。ビルマ政府がボーミャの遺体に同じことをしないと誰が言い切れるだろうか。

2009/07/10

写真は恐怖を写し出す(2)

写真をバシャバシャ撮っている人の中には、それぞれの政治団体の記録部の人や、在日ビルマ人ジャーナリストがいる。これらの人が撮った写真は、インターネットのウェブサイトや雑誌に掲載され、世界中の人々(その中にはビルマ軍事政権も含まれる)の目に触れることとなる。

このような写真の中に自分の姿が写っている人は、結果として自分の難民性を証明するもう一つの理由を手に入れる。つまり、その人は、入管の難民審査官に対して、次にように主張するのだ。自分の政治活動をしている姿がインターネット上に流布しており、軍事政権がそれをチェックしている可能性が極めて高い。ゆえに、軍事政権に逮捕される恐れがあり、わたしはビルマに帰ることができません、と。

軍事政権がそんな写真までチェックしているはずがない、と思う人もいるかもしれない。また、チェックしていたとしても、その写真に写った人を特定することなどできるのか、と疑問に思う人もいるだろう。だが、軍事政権にとって写真は政治活動家を逮捕するための重要な手段であることを考えれば、まんざら否定はできない。

軍事政権は反政府デモが起きると、必ず何枚も写真を撮り、後日その写真を元に聞き込みを行い、デモ参加者を特定するのである。次はあるカレン人女性の証言で、1988年の民主化運動の後、軍が権力を握った日の出来事だ。

軍事クーデターの起きた日、人々がわたしの家の前の通りに集まって不満をいい、騒いでいました。そのとき、こちらに軍情報部の車がやってきたので、みんなは退散しました。わたしも逃げて家へと戻りましたが、すぐには家にはあがらず、門のそばに立ってことの成り行きを見ていました。すると、3人の軍情報部員がわたしのところにやってきました。彼らは、手に持っている写真を見せました。それはデモの写真で、そこに写っているわたしを指差して、「これはお前だろう」と聞きました。わたしは怯えながら、はいと答えました。彼らはわたしの家はどこかと尋ねました。わたしはどうしても嘘をつくことが出来ず、自分の家を指差しました。すると彼らは即座にわたしを引っ立てて、家に押し入り、捜索を始めました。

これは何も特別な経験ではない。デモの時に撮られた写真によって、当局から尋問されたり、脅かされたり、逮捕されたりした経験を持つ人は多い。

2009/07/08

英雄たち

以下に書き記す話が真実かどうかは知らないが、非ビルマ民族がビルマ人をどのように見ているかについては、真実を伝えていると思われる。

1988年9月、軍が権力を握ると、ビルマ人の学生活動家たちは、弾圧を避けるためにタイ・ビルマ国境へ逃げた。

これらの学生たちは、そこではじめてカレン人の反政府軍に出会うこととなり、いっぽうカレン人側も喜んで彼らを受け入れ、できるかぎりの庇護をあたえた。

「このように援助することでわたしたちは民主化活動を救ったのだ」と国境のカレン人たちが今なお胸を張る出来事であるが、これについてビルマ人側はこんなふうに言っているそうだ。

「カレン人たちは、十分な食事や衣服を与えず、わたしたちを粗末に扱った」

だが、カレン人側にも言い分はある。これらの学生活動家は都会育ちの苦労知らず。ジャングルでかつかつの生活をしているカレン人がいくら精一杯もてなしても、そもそも満足するはずがないのだ。

これらの学生たちの中には、やがてカレン人とともに銃を持って闘う人々も現れた。

西山孝純氏の『カレン民族解放軍のなかで』を読むと、こうしたビルマ人学生兵士たちが少なくとも当初は軟弱で、あまり使い物にならなかったことがわかる。

なんにせよ、学生兵士たちはカレン人と協力してビルマ軍と闘い、約400人が戦死したという。

最近、これらの戦死者を「少数民族を守り、ビルマ軍と戦った英雄」として祭り上げようとする動きが、ビルマ人民主化活動家の中であるのだそうだ。

この話をぼくにしてくれた非ビルマ民族の活動家が苦々しげに言った。

「ビルマ人がまた歴史を歪めてようとしてるってわけだ」

2009/07/07

胸の高鳴り

7月5日(日)

KNU-Japanの月例会議に呼ばれる。時間の都合で、6時から6時半までの30分のみの参加。

日本人ゲストが4名いて、代表のモウニーさんがはじめに日本語で現在のKNUの状況、国境の現状についてさまざまな資料をもとに話してくれる。

ビルマ軍がミサイルを配備しているらしく、射程内のカレン人はビクビクして暮らしている、という内容を、モウニーさんが「みんなドキドキしている」と表現したので、つい笑ってしまう。

日本人ジャーナリストの方が来ていて、7月8日に上野でタイ・ビルマ国境取材の報告会をするとのこと。

2009/07/03

写真は恐怖を写し出す(1)

まずはビルマの人々と写真を巡るエピソードを積み重ねていくつもりで、それは、そうすれば、最後にぼくが配置しようと思っているある悲喜劇についても読者の理解が容易になるのではないかと思うからだ。

ビルマの人々はデモや集会でよく写真を撮る。それも、周りを撮るばかりでなく、誰かにカメラを渡して、自分を撮ってもらっている。それこそぼくのような日本人がこうした集まりでブラブラしていれば、何人もの人々から「撮ってくれ」と声がかかることになる。

これは決してビルマの人々が写真に撮られるのが好きだからではない。入国管理局への提出書類に使うためにそうしているのだ。

つまり、難民認定申請中の人々はこれらの写真で、自分たちがこうしたデモや集会に熱心に参加している政治活動家だ、ということを証明しようとしているのである。

撮影された写真は、A4の紙に2枚ずつ貼付けられて提出されるのが普通のようだ。写真の上か下に説明が書かれている。例えばこんなようなものだ。

「2009年○月○日、品川、ビルマ大使館前。アウンサンスーチーさんらすべての政治囚の釈放を求めるデモに参加」

あるいは

「2009年○月○日、池袋、アメリカより招かれた政治指導者の集会に参加。わたしは○○の代表として壇上に立ち、挨拶の言葉を述べました」

そして、写真の中の自分の顔をサインペンで丸く囲み、矢印で示して「本人」と書く。デモの写真が多いので、そうしないとどこに写っているのかわからないのである。

熱心に政治活動をする人は、参加する集会やデモの数も多いから、写真も山のようになる。ぼくはこうした写真の説明を日本語で書く仕事をよく頼まれるが、写真のシートの束をどさりと目の前に置かれると、逃げ出したくなる。

入管の職員も、あまりに大量の写真資料を提出されると手に余るらしく、「こんなに提出しても見ませんよ」などとイヤミを言うこともある。入管職員とぼくとはあまり共通点がないが、写真の束に関しては奇しくも意見が一致する。

2009/07/01

KNU エインマシーブー

6月28日、午後のBRSAのミーティングののち、海外カレン機構(日本)OKO-Japanの月例会議へ。場所は高田馬場。

OKO-Japanは在日カレン人の政治団体で、ぼく自身創設に関わり、また現在も役員を務めている。しかし、何人かの会員の間にごたごたがあり、しばらく離れていた。

今回は会長の要請で参加し、新たな会員に向けて難民と日本社会のことなど話す。また、会長より、これまでのぼくの扱いについて謝罪を受ける。もっともこの会長はそれについて何の責任もないのだが、いずれにせよ、謝罪のできる組織、民族は強い。

会議の内容は、8月のカレン民族殉難者の日式典準備、国境支援などについて。

現在のKNUの苦境について、ある人が「KNUエインマシーブー(KNUはホームレスだ)」と言っていたのが印象的だった。

下はOKO-Japanのメンバーたち。


隣の会議室をのぞいてみると在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN-Japan)の集会。モン民族の指導者、新モン州党のナイフンサー(ナイハンター)氏が演説をしている。

日本ではあまり知られていないが、このナイフンサーさん、非ビルマ民族の政治指導者としては随一とのこと。日本にいる間に話が聞ければよいと思う。