2010/03/02

新しい公共から新しい市民、そして新しいビルマへ(2)

ここで奇妙なことが生じるのにぼくは気がついた。

つまり、「市民キャビネット」の部会に登録された団体は、この「市民キャビネット」の一部をなすわけであるから、その団体の成員は「市民」であらねばならないことになる。そして、また「市民キャビネット」は日本の中に基盤を置く組織であるから、その市民とは「日本の市民」を意味すると見て間違いない。となると、Burma ConcernにせよBRSAにせよ、会員のビルマ難民(つまり難民として認定された人、在留特別許可を得た人、難民認定申請中の人)もやはり、「日本の市民」であると考えなければならなくなるのである。

これはおかしな考え方だ。もしも市民を国民と同義のものとして、つまり日本市民であることと日本国籍をもっていることが不可分なものであるとして理解するならば。だが、よくよく考えてみれば、「市民」が「国民」と同じ定義のされ方をする必然性もない。たとえば「日本の市民」を「日本社会に暮らし、そのあり方に責任を持つ人々」と理解してもよい。そうすると、たとえば在日韓国人、在日朝鮮人、在日華人などの名前で呼ばれる人々ももちろん「市民」に含まれうるし、実際そのような理解のもと、これまでの市民運動が行われてきたのではないかと思う。

だが、ビルマ難民はどうだろうか?

難民認定されたり、ビザをもらったりしてある程度長く日本に暮らす予定の人々は、やはり「市民」と呼んでもいいだろう。では、現在難民認定申請中の人やそのうち申請するかもしれないが今のところは様子を見ている人々、別の言葉でいえば、「不法滞在者」、「非正規滞在者」、「オーバーステイ」であるとされる難民たちはどうだろうか。これらの人々も、やはり「日本の市民」なのだろうか?

もちろん、そうなのだ。もれなく市民なのである。滞在資格があろうとなかろうと、日本社会に暮らしている以上、その市民なのである。