2010/08/09

「和の民主主義」VS「気持ちの民主主義」 (2)

だが、総会の日がやってきて、選挙が始まったとき、会長は驚愕する。なぜなら、選挙は、あたかも準備などされていなかったかのように行われたからだ。あらかじめ決められた効率的な投票法のかわりに、無駄の多いやり方が採用されていた。立候補はすでに締め切られているにもかかわらず、選挙委員たちは公然と呼びかけた。「この会場に立候補したい人がいるのなら、名乗り出てください!」(なお、選挙委員はBRSAの会員以外の第三者、具体的には他のビルマ民主化団体の代表が務めていた)。

会長は抗議をする。まったくもうめちゃくちゃ! 会議で決めた通りになんでできないの? 規則もへったくれもないなんて、まったく民主的ではない! だが、ビルマ人たちは聞く耳を持たない。なかには「はて、会長、なんでそんなに起こってるの?」という顔をする人もいる始末だ。

とうとう果敢な会長も諦める時がきた。大きなため息をついて、やりきれないといった体で、椅子に座る。そして、そのまま選挙は続行され、滞りなく終わり、投票した会員たちは満足して会場を後にしたのだ。

若干脚色を加えたものの、ぼくの意図は会長を揶揄することではない。そうではなく、この会長の行動、総会や選挙に対する態度、ビルマ人会員の「やり方」に関する反応が、多くの日本人が共有するものではないかと考えているからだ。つまり、会長は日本人なら当たり前のことをしたのである。

会長の思考で何よりも特徴的なのは、選挙を滞りなく終わらせることのみを至上の目的としていることだ。会長の関心、その努力はこの目的の実現のみに向けられており、さらにいえば会長(もしくは役員)という職の自己規定は、この目的の達成に関わるものであったといってよい。

こうした態度は、実は日本社会に溢れている。いわゆる「シャンシャン総会」というものがそうだ(用意周到な想定問答集も忘れてはなるまい)。イベント前の度重なる打ち合わせ、あるいは根回しと呼ばれる非公式の打ち合わせがそうだ。そして、次回につなぐための反省会もそうだ。議会で官僚の用意する答弁書やあらゆるやりとりが定められた「脚本」がそうだ。

これらはすべて、日本人がいかに「想定外の事態」を怖れ、それを排除しようと躍起になっているかの証拠であり、この恐怖は、突き詰めていけば日本人の社会の秩序の意識、治安感覚、危機管理、ひいては統治のあり方にまで行き着くだろう。とはいえ、ここではこれを論じるわけにはいかないので、ただ2点だけを指摘しておこう。まず、ある事態が「想定外」もしくは「不確定」であるかは、必ずしも客観的なものではない。ある人にとっては想定外のものが、他の人にとってそうであるとは限らない。事態が不確定かどうかは、それを受け取るものの経験や知識に左右されるのである。想定外の事態が誰にとっても想定外とは限らない。天気予報を見ない人に限って、ずぶぬれになるのだ(しかも、天に向かって「さっきまで晴れていたのに、今になって振り出すとはなんというヤツだ!」と罵りだすときたもんだ)。

また、想定外かそうでないかは、文化や習慣の問題でもある。日本人が想定外と感じるものも、他の文化に属するものにとってはそうでもないかもしれない。選挙のとき、会長が、日本人にとっての想定外として忌避したものは、あるいはビルマ人にとっては想定のうちだったのかもしれないのだ。(続く)