2010/08/10

「和の民主主義」VS「気持ちの民主主義」 (3)

さらに指摘しておくべきは、「想定外の事態」と「危機」とはまったくの別物だということだ。「想定外の事態」には危険な事態をも含みうるが、それ以外の事態(「サプライズ・ゲスト」「意外な発見」「予期せぬうれしい展開」などなど)をも含みうる。また、危機は想定外の事態からばかり発生するわけではない(われわれは自動車教習所でこれをいやというほど叩き込まれるのだ……)。しかし、この部分的に重なり合うにすぎないものを、あたかも丸ごと重なり合うかのように思い込まされ、何につけても危機管理、危機管理と怯えさせられるのが、現在の日本の治安状況なのだ(これで、わかろうというものだ。どうして外国人が入国管理局の収容所に閉じ込められなければならないかが。外国人は想定外であるがゆえに危険なのだ。「連中は何をしでかすかわからないからな!」)。

さて、この予防措置が、どのようにして民主的であることにつながるのか。それは、この危機管理が、あらゆる人のためになされるということに関係する。それはすべての人々をやさしく包み込む親心であり、老婆心だ(いらぬおせっかいでは断じてない)。誰でもみんなおいで! ここにいれば安心だよ! こうすれば安全だよ! そのようなあったかーい配慮のもと、万人に対してなされる事柄が、どうして民主的でないことがありえようか。もちろんそうに決まっている。民主主義とは、みんな平等、みんな安全に暮らすことなのだ。それを確保する手だてが、どうして民主的でないなどといえるだろう。そうだ、和をもって尊しとせよ、これこそ、日本の民主主義だ。聖徳太子は民主主義の先駆者なのだ!

人々の関係の平穏さ、和合を民主主義の実現態と捉える、日本人の民主主義観を「和の民主主義」と呼ぶことにしよう。日本人の民主主義的努力は、この和の実現に対してのみ費やされる。和は、民主主義を成り立たせる他の要素、公平さ、正義、人権、言論の自由に対し優先的な地位を与えられる。これらの諸要素が、和の達成にとって有害であると判断される場合には、躊躇なく抑圧されるのである。

しかも、重要なのはこの和そのものが、ある種の民主主義的手続きとは無関係であるということだ。ここでぼくが念頭に置いているのは投票だ。確かに、有権者の登録から、通知はがきの送付、投票所の開設、実際の投票、開票と集計までのあらゆる手続きは、和の民主主義の関心の中心的事柄をなす。滞りなく、無事に投開票が完了するよう、あらゆる配慮がなされるのである。投票所では、子どもに配るための風船まで置いてある。誰が膨らませてくれたのか知らないが。だが、こうした完璧な準備、配慮にも関わらず、和の民主主義は肝心な事柄に触れるのにつねに失敗する。その関心からは、個々の有権者の投票したいという気持ちをどのように盛り上げるかという問題はすっぽり抜け落ちてしまうのである。和の民主主義は、和の実現が確信されるだけの準備ができるやいなや、姿を消してしまう。あたかも詳細な計画を立てるだけで満足してしまう人のようでもあり、笛さえ入念に磨き上げておけば、誰ひとり踊らなくても結構、と考えている笛吹きのようでもある。だが、人は投票所が安全だからとか、十分に準備されているからという理由で投票に行くのではない。投票によって自分の意見を表明できると確信している人、あるいは表明できるかもしれないと思っている人が行くのだ。和の民主主義からは、この確信は決して生まれてこない。なぜなら、意見を表明するという行為は、つねに他の意見表明との関連においてなされうるものであり、意見相互の関係は必ずしも調和的なものとは限らないから。(続く)