2010/08/11

「和の民主主義」VS「気持ちの民主主義」 (4)

件の選挙で会長が固執したのはこのような「和の民主主義」であり、これはもちろんビルマ人会員には理解できないものであった。そもそもビルマ人はそのような「和」を民主主義における最優先事項とは認めないのである。では、ビルマ人たちは何をもって民主主義の最優先事項と理解しているのか。ぼくの経験からいうと、それは「気持ち」である。ビルマ人は、自分たちが民主主義に関わっているという気持ちが満たされないかぎり、それを決して民主主義とは認めないのである。

だから、その気持ちを満たすためならば、どのようなことでもする。一度決まったことをひっくり返すことも問題とならない。それでみんなの気持ちが満たされるのならば。なぜなら、会員たちの民主主義手続きに関わっているという気持ちこそが、選挙に正当性を与えるものだからだ。日本人のように念入りな準備によって選挙は正当化されはしないのである。それゆえ、どのような選挙がふさわしいかは、集まった人々次第で大いに変わりうる。その意味では、準備など無駄なのだ。

また、気持ちの盛り上がりが大切という点では、選挙は同時に祝祭でもある。権利の祭典でもある。気持ちの解放の場でもある。そのようなお祭りに水をさす行為、つまりここでは会長の振る舞いであるが、それはひそかなブーイングの対象となる。

気持ちが大事、これは当然のことだ。ビルマ人たちはそうした民主主義的な気持ちを認められない国から逃げてきたのである。ビルマの民主化は、抑圧されてきた民主主義を切望する気持ちを解放するところからはじめなくてはならない。だが、同時にこのビルマ的な「気持ちの民主主義」は欠点や危険性をはらむ。(続く)