2010/11/19

虫けらどもをひねりつぶせ(7)

ビルマの新国旗が燃やすに値するものであること、それは誰にもわかりきったことなのです。そして、そんなものを燃やすぐらいのことは、ここ日本でなら誰でも何枚でもできるのです。お尻の穴にこびりついたウンコを拭くことだってできるのです。なんならそれをUstreamで中継してもいいのです。ですが、重要なのは、その旗を燃やした後に、どのような新しい旗が、どのような新しいビルマがあるのか、を示すことです。

もし、これがビルマで行われていたのならば、まったくその意義は異なります。そのような行為が逮捕や殺害に結びつきうる限り、それは解放の表現となります。「わたしたちはたとえ旗を燃やしても逮捕されも殺されもしない国を作るのだ」という極めて鮮烈なメッセージとなるのです。ですが日本ではその鮮烈さは失われます。ただ単に警察を慌てさせた、それだけです。その行為はここ日本でビルマの自由を促進するのにはほとんど役に立たないのです。

おそらく、これが、その出来事が起きたとき、状況全体に間延びした白けたような感じ、他人事のような雰囲気を付与した理由なのでしょう。

さて、演説に話を戻すと、どうしても書き記しておきたい出来事があります。それはぼくが演説の締めくくりに「どんな民族でも平等に」暮らせるビルマとかなんとか言ったときのことです。ぼくが民族問題について言及したのはこの箇所だけで、自分がこの問題に関わってきた関係上どうしても一言入れたいと思ってあえてしたのですが、ぼくがこう言ったとき、ちょうど目の前のデモの前列にいたカレン人のノウ・エムーさんが肯いてくれたのが目に入ってきました。

ぼくは彼女とは長いつきあいで、エムーさんが難民となった背景についても随分詳しく教えてもらいました。カレン民族として民族的迫害を自ら経験してきた彼女が、ぼくの言葉に肯いてくれたことは、本当にうれしいことです。演説している間は夢中で周りの様子などまったく記憶にないのですが、彼女が肯いたときの光景だけははっきりと覚えているのだから不思議なものです。