2011/10/26

アンナハダ党訪問その3(チュニジアレポート11)

2階の写真撮影もOKとのことだったので、エレベーターの脇にある階段を上って2階に行く。

部屋がいくつかあり、中を覗く会議中だったり、コンピュータに向かって仕事をしていたり、立ち話していたり。

ほんとに写真撮っていいのかね、とためらっていると、若いスタッフが大丈夫大丈夫と促すので、適当に撮る。

そのうちやってきたのが別の年配の職員で、「誰かと話したくないか?」と聞くので「もちろん」と答えると「じゃあ、来い」と上に連れて行かれる。

すると、さっきの若いスタッフがやってきて、ちょっと写真見せてくれ、というのでデジカメを見せると、「これは消してくれ」と一枚だけ削除された。立ち話の写真。写りたくない人がいたらしい。

さて、連れて行かれたのは4階。部屋に通される。中にいたのは50代の男性。下の階でアンナハダのパンフレット(アラビア語、フランス語、英語)をもらっていたのだが、それに記された経済政策のマニフェストを担当したという。

名刺を渡される。リザー・シュクンダーリーさん。チュニス大学の経済学の教授だ。

手前がシュクンダーリーさん

早速、チュニジアのこれからの経済政策について深く斬り込む、といいたいところだが、わたしには経済の知識はまったくない。それでも、基本的なことは理解できたように思うので以下にそれを記す。

チュニジアの経済の問題は、高失業率、政府の腐敗、貧富の格差であり、これを解決するために社会に3つのセクターを設ける。ひとつは公的セクター、これは政府。2番目は民間セクター、要するに民間の商活動。そして第3のセクターが、社会経済的セクターでNGOなど非政府・非営利組織が担う。

公的セクターは本来、民間セクターが自由に活動できるように支援するべきものであるが、革命以前は政府が腐敗していたため、これが機能していなかった。そこで、公的セクターを立て直すことで、民間セクターを活性化させる。

もうひとつ重要なのが第3のセクターで、これは革命以前にはほとんど機能していなかった部分だ。このセクターの主役はNGOなどの非政府・非営利団体だが、これらが政府の働きを補完することにより、公的支出の削減と富の分配が期待できるという。

この第3セクターの思想的背景には、やはりイスラムのザカート(喜捨)があるのだという。

さて、さらに具体的な数字をあげた話もしてくれたが、これは難しくてサッパリ。しかし、チュニジアだけでなく、エジプト、リビア、アルジェリア、モロッコをも含めた経済連合の話は夢があって面白かった。

最後にアンナハダの政治活動について尋ねたのだが、そのとき同席していた男性が静かな自信とともに次のように答えてくれたのが印象深かった。

「われわれチュニジア人は、生まれつき、そして歴史的に中庸主義(moderate)なのです」

わたしはそれは本当のことだと思うし、今回の選挙ではチュニジア人は今のところそれを十分証明していると思う(ちなみにわたしは日本はそれほど中庸主義だとは思わない。いや、極端に異なる意見に出会うことがないので、そもそも日本人が中庸というものを理解しているかどうか怪しいものだ)。

2011/10/25

アンナハダ党訪問その2(チュニジアレポート10)

本部となるとさすがにでかくて、丸ごとビルひとつだ。



ところで、ここでどうしてこのアンナハダが注目を浴びるかについてもう少し説明したほうがいいかもしれない。

イスラム主義を掲げるこの政党がチュニジア人の期待を集めていることについてはすでに触れたが、チュニジア人だけでなく国際社会もまたこのアンナハダを注視している。それはこの政党の動き次第によっては、チュニジアが内戦のアルジェリア、あるいは原理主義のイランのようになる可能性があると考える人々がいるからである。

そうなったら大変だ。「アラブの春」は失速し、ヨーロッパは大きな市場と安価な労働力を失い、そのかわり厄介な「敵」と難民の流入に苦しむことになる。

もっともわたし(と多くのチュニジア人)はチュニジアが内戦状態になったり原理主義国家になるようなことはまずないと思っており、これはまさしく杞憂といっていい。

しかし、たとえそうだとしても、チュニジアが国家としてイスラムをどう扱うか、どのように政教分離を確立するか、どのように原理主義を押さえ込むかは非常に重要な事柄であるにちがいない。 そしてこの問題をめぐるキープレーヤーだと考えられているのが、イスラム政党のうちで最も支持を集めているこのアンナハダなのだ。

さて、本部はといえば、さすがに活気にあふれていた。人の出入りも多く、中には報道関係者もいる。しかも後で知ったのだが、ちょうどわたしが行ったときには国連の視察団も訪問していたとのことだった。

とはいえ、わたしはメディアでもなければどっかの機関の人間でもない。つまみ出されるかもしれん。そこでおそるおそる中に入る。

入り口には若い男性がいて党のチラシなどを配っている。中央にエレベーターがあって、右側に受付、左側に部屋がいくつかある。壁には全国の選挙区でのアンナハダのリストが所狭しと貼られている。

このとき同行してくれたのが、友人のワーセル氏で、彼が担当者らしき人と話をしてくれる(彼は日本語もできる観光ガイドだ。もっともわたしは彼がガイドになる前からの付き合いだ)。

1階と2階なら撮影してもいいという。そこで、写真を撮らしてもらう。

受付の様子。

各選挙区のリスト。

政党のパンフレットをもらいにきた若者たち。

撮影していると急に騒がしくなる。さっそうとした女性が玄関から入ってきたのだ。ビデオカメラを持ったカメラマンやインタビュアーがその後を追いかけ、彼女にマイクを向ける。

わたしはその女性が誰だかすぐにわかった。アンナハダのチュニス2選挙区の第1位の立候補者だ。「おいでなすった!」とばかりに、わたしもどさくさにまぎれて写真を撮る。

 スアード・アブドッラヒーム

ベルギーのメディアの取材 

リストの第1位

イスラム主義をというとチュニジアでは女性はたいていスカーフで髪の毛を隠しているものだが、この女性候補はそうせずに髪の毛を見せているので話題になっている、とワーセル氏が教えてくれた。

2011/10/24

アンナハダ党訪問その1(チュニジアレポート9)

さて、選挙も終わり、すでにイスラム政党のアンナハダ(チュニジアの発音ではアンナハザ)が優勢との予測も出ている。

独裁政治にはその独裁を正当化する敵が必要で、ビルマの場合はそれは少数民族の「反乱分子」であるが(民主化勢力では決してない)、チュニジアの場合は「イスラム原理主義との戦い」という名目がその役割を果たしていた。

このアンナハダはそのような敵のひとつと見なされていて、ベンアリ時代は非合法化されていた。

だから、革命後まったく新しいチュニジアを作ろうというときに、最も迫害されてきた政治団体のひとつであるアンナハダに人々が期待をかけるのも当然の話である。

また、チュニジアのイスラムは他の国に比べて非常にリベラルであるというが、それでも人々の心のよりどころであることには変わりはない。多くの人々はイスラムの精神に立ち返って国をきれいにしてほしいと望んでおり、その点、穏健なイスラム主義を掲げるアンナハダは国民の希望にぴったりかなっているといえる。

選挙前からこうした話を聞いていたので、いっちょアンナハダの選挙事務所に行ってみようか、と軽い気持ちで思ったわけだ。選挙前日の22日のことだ(ちなみにこの日はすべての選挙活動が禁止されている)。

まず行ったのは、ロンドン通りにある支部の事務所。歓迎してくれたが、写真を撮りたいというと、本部の許可がないと無理という話。

もちろんこっちもそんなに真剣な気持ちできているわけではないので、「はいそうですか」と引き下がったら、親切にも「本部なら大丈夫ではないか」と助言してくれた。

なら行っちゃうか、と本部のあるモンプレジールまでタクシーだ。

 アンナハダのリスト

ロンドン通りにあるアンナハダの支部事務所。3階にあり、集会所などもある。

支部事務所に張られていたアンナハダのポスター

うかれすぎだろ(チュニジアレポート8)



街で見かけたミニッツメイドの宣伝。

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手に手を取って、明日のジュースを選ぼう!

リスト番号1 人民パイナップル党
リスト番号2 進歩マンゴー党
リスト番号3 グアバ緑の党
リスと番号4 自由オレンジ運動

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便乗にもほどというものが。

しかし、このセンスがチュニジア人のいいところ。

リスト(チュニジアレポート7)

リスト(liste)というのは各政党(もしくは政党の連合体)が提出する候補者名簿のこと。

リストには、政党のシンボル、候補者名、顔写真、リスト番号などが特に決まった様式なく記されている。リスト番号というのが重要で、有権者は投票するときにこの番号にチェックを入れる。

投票用紙にはまた政党のシンボルも記されていて、それをたよりに票を投じることもできる。文字の読み書きが不得意な人のための配慮だ。

シンボルはアリ、ハチ、ハト、天秤、鍵、眼鏡、ナツメヤシの実、船などいろいろだ。眼鏡は党首が眼鏡を着用しているからだそうで、キャンペーンとして紙製の眼鏡を配っていた。この眼鏡党(もちろん正式名称ではない)、有力視されている政党の一つだ。

リストに記された候補者名には順位があって、各リストの得票数によって当選者が決まる。もっともそれだけではなく、もう少し複雑なルールがあるようだがわからない。

さて、このリスト、選挙区によって違うが70から80ある。街角にリストとマニフェストが組になってずらりと張り出されていて、道行く人が足を止めて眺めている。

よく見ればビリビリに破られているものもあるが、これはいいのかね。






2011/10/23

落書き(チュニジアレポート6)

革命時には街のあちこちで政権を批判したり、人々を励ましたりするような落書きが見られたそうだが、今ではほとんどなくなってしまったとのこと。

以下に目につくところにあった落書きをいくつか。

「ベンアリババと40人の盗賊のいないチュニジアはなんて美しいんだ! 」 

 「自由は日々の実践」

「ガダフィはチュニジアの革命にとって危険だ!」

「権力を民衆に」
手前を歩いているのはマシュムームという小さな花束
(チュニジア男性の粋なアイテム)を売る少年

最後の言葉(チュニジアレポート5)

街中にあったベンアリの肖像はすっかり姿を消したが、それでもまだ残っているものはある。その一つがこれ。


w-illiː ɣalltˤuː-niː maː-zaːluː
「わたしを誤らせたヤツらはまだいるぞ」

「わたしを誤らせた」とは、ベンアリが国外逃亡する前にした演説にちなむ。つまり、自分の取り巻きがわたしを誤らせたためにこのような事態になった、というようなことを言ったのだそうだ。

投票しよう!(チュニジアレポート4)

チュニスの中心、ブルギバ通りのイブン・ハルドゥーン像の近くに、展示館のような建物があってベンアリ時代には政府がいかにチュニジアのためによいことをしているか、そういった写真が表に貼られていたのだが、今回、中をのぞいてみたら、チュニジアの芸術家によるそれぞれ投票を呼びかけるアートが展示されていた。そのうちの数点をここに紹介する。

「投票しちゃだめ! わたしがみんなのために働くよ!」とベンアリが。

「初めてだから、入れる前によく考えて」 

「こうならないよう投票して!」

選挙広報(チュニジアレポート3)

政府のほうも選挙の周知に力を入れていて、「選挙に行こう」ステッカーや選挙の手順を記した紙を配るばかりでなく、その手順をビル全面に描いて宣伝していたりしている。

ビルに描かれた選挙の手順

これは、ひとつには選挙というものを経験していない人がたくさんいることによる。また、写真を見ればわかるようにイラストが付いているが、これは高齢者には文字の読み書きできない人がいるので、そうした人にもわかるように配慮しなければならないからであろう。

さらに考えられるのは、このように政府が投票を呼びかけるということは、選挙そのものの公正性を国内外に訴えることにもつながるということだ。

長年不正な選挙を経験してきたので、国民の中にはどうせ政府のやることだから、と否定的な考えをする人もいるそうだ。

また、選挙が公正な手続きを踏み、政府がそのために努力したことを世界にアピールするのは、今後の政権が国際的にどのように扱われるかを左右しうる重要な事柄だ。

チュニジア政府がEUと国連の選挙監視団を積極的に受け入れているのもこうした背景があるに違いない。聞いた話によれば、政府は国連に4,000人の監視員を要請したが、現在2,500人しかきていないそうだ。
EUの選挙監視団のマーク

チュニジアの首相、カーイドシブシーは20日の演説で、選挙が公正なものであり、選挙によって選ばれた政権に速やかに権力を委譲することを明言している。

ビラ(チュニジアレポート2)

ベンアリ政権の崩壊した1月14日以降、チュニジアは暫定政権のもとにあって、正式な政権と憲法を確立するのが第一の課題であるのだが、そのための議会の代表を選出するのが10月23日の選挙の目的だとのこと。

もちろん、全国的な選挙で国民の関心も高い。街を歩けばいたるところで選挙の広報、候補者のビラ、キャンペーン。

わたしもあちこちでビラをもらって歩く。しかし、全部なんてとてもじゃないが集められない。なにせ、111も政党があるというからね。


ま、乱立状態というやつだが、これにさらに無所属が加わるらしい。

チュニスのメディーナの入り口、バーブルブハルで政党のビラを配っている人たち。 

 壁に貼られた政党のステッカー。アラビア文字で「民衆運動」という党名が書かれている。


選挙のキャンペーン・カー。下は共産主義政党。 

壁に貼られたステッカー。

もちろん、ベンアリ大統領の時代にはこんなことはありえなかった。いちおう野党はあったにしても。

ベンアリ時代に対抗して大統領に立候補した人の話を聞いたことがあるが、選挙活動の妨害が半端なかった。いや、そもそも当局が立候補の届けを受け取ろうともしなかった。しかも、非合法化された政党もあり、多くの活動家が投獄されたり国外に逃げていたりした。

ま、そんな時代を耐え忍んできたわけだから、大いに派手にやるべきなのは間違いない。


しかし、それにしても、みんな、ビラ、ポイ捨てしすぎじゃね!?


新しいチュニジア(チュニジアレポート1)

突然だが、これからしばらくチュニジアからのレポートを。

わたしはいちおうチュニジアのアラビア語を勉強している身でもあるので、それが主目的でもあるのだが、なんといっても今年の一月のジャスミン革命だ。

ビルマ民主化だけでなくこっちの民主化も興味があるというわけで。

ちょうど10月23日にチュニジアで革命後初めての選挙があるのでひとつ見物してやろうと。物見高いね。いつか身を滅ぼす。

それはさておき、19日に到着して、さっそくチュニスの街を歩いてみた。革命の後、どんな風に変わったか見てみたくて。

全然違う。

もちろん、町並みが変わったわけでもない。また、騒乱の傷跡が今なおはっきりと残っているわけでもない。いや、そういや少しは変わってる。街中至るところにあった独裁者ベンアリの肖像が一枚たりともなくなったとか、モノプリ(スーパーマーケットの名前)の入り口に鉄格子がはまっているとか(デモのときの略奪を防ぐため)。

でも、そんなのはたいした変化じゃない。四捨五入すれば消えてなくなる。

だが、人間の変化だけは消してなくしてしまうことはできない。そう、人がまったく違うのだ。

みんな表情が生き生きしてる。華やいでる。政治が変わっただけで、こんなに変わるものかと驚いた。

わたしにとってはチュニジア人は決して幸福そうじゃなかった。目眩がするほど深い文化と途方もないユーモア感覚に恵まれながらも、どこか悲しげだった。いやそれどころかいつもイライラしてる感じだった。慢性の糞詰まりで今にも病気になりそうだった。

ところが、今じゃみんなすっきりさっぱりした顔つき。足取りも軽やか。なんだか知らんが謳歌してる。長年の重しがとれた。いい風吹いてる感じ。野良猫まで太ってる。

もちろん、失業率は相変わらず。貧しい人は貧しいまま。問題は山積みだ。「だが、それがなんだ、なにしろ新しいチュニジア(Tuunis Jdiida)だ、文句あるか!」てな勢い、本当に自由は人を変える。

 ハンバーガー屋で談笑する若者たち。

街角風景

2011/10/18

さて、iPhoneに関してもう一つエピソードを。

在日ビルマ難民の一人(男性)がiPhoneが欲しいというので一緒にヨドバシカメラに行った。

iPhone4S発売の前日のことで、売り場ではiPhone4が半値以下で売られていた。つまりこれがわれわれの狙いだったわけ。

16GBは19800円。32GBは29800円。余計なサービスも買わなければならないがそれでも安い。

在庫を聞いて見ると、32GBはホワイトとブラックが揃っているが、16GBにはホワイトしかないとのこと。

ここはもちろん彼には16GBしかない、というのが、iPhoneの先輩たるわたしの考えだった。iPhoneどころかパソコンももっていない彼に32GBなどメモリの持ち腐れ。

「16GBでいいんじゃない」
 
しかし彼はどうも乗り気ではない様子だ。わたしはさらに言う。
 
「16GBで十分ですよ!」 これじゃブレードランナーのうどん屋だ。
 
結局32GBのブラックを選んだ彼は、わたしにこっそり打ち明けた。
 
「白なんて、女の子が使うもんでしょ」
 
わけのわからんこだわりっ。

ちなみにいえば、わたしは白の64GBである。

iPhone

以前、在日ビルマ難民の友人が、都内にあるビルマ料理の店で飲んでいたら、いつの間にかiPhone
のSIMチップが盗まれていたという出来事があった。

その友人も首を傾げる事件で、申し訳ないがわたしは思わず笑ってしまった。

それはさておき、このiPhone、在日ビルマ人の中でもけっこう使っている人がいる。

とはいえ、iPhoneはビルマ文字には対応していない。以前は、このiPhoneの制限を無効にして、つまりいわゆる「ジェイルブレイク」というやつを行ってビルマ文字入力ができるようにしている人がいたが、今はそんなことができるかどうかわからない。

それに今は少なくとももうそんな必要もないらしい。App Storeで無料アプリiMyanmarやMMkbLITEをインストールすれば、ビルマ文字でメールのやり取りをしたり、ビルマ語のサイトをちゃんと見ることができるそうだ。

もちろん、iPhoneでビルマ語が公式にサポートされるに越したことはないが、それこそこれは、ビルマ国内の平和と民主主義の進展に大いに関係ある。

でも、いいよな。ヤンゴンにアップルストアができたら

もっとも、いまのところはこれはアップルのお気に召すアイディアではないらしい。それに、ビルマ当局にとってもアップルは大変剣呑な企業だ。

なぜかというと、アップルのロゴをじっくり見てほしい。シャン州かカレン州が分離独立したようにみえるでしょ。

こりゃビルマ連邦を破滅させようとする輩にちがいない、というわけ(すいません冗談です・・・・・・)。

2011/10/06

イスラム世界

ビルマとは関係ありませんが、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の発行する「アジア・アフリカ言語文化研究 (Journal of Asian and African studies) no.82」(2011年9月30日発行)に論文「アラビア語チュニス方言における名詞∫ay《もの》の用法の階層性」が掲載されました。以下のリンクからダウンロードすることができます。

http://hdl.handle.net/10108/65511

ちなみに、この82号には2本の論文と3本の資料が掲載されています。もうひとつの論文は中世エジプト史に関するものです。資料はパレスチナ抵抗運動に関するもの、中央アジア史に関するもの、エジプトのことわざを扱ったものです。つまり、どれもがイスラム世界に関係しているわけです。

たまたまそうなっただけなのかもしれませんが、イスラム世界といってもチュニジアのことばのほんの限られた部分しか知らない自分にとっては、他分野の研究をまとめて読むことができて有益でした。

鈴木啓之さんの「ハマース憲章全訳 パレスチナ抵抗運動の一側面へのアプローチ」は、イスラーム抵抗運動(ハマース)が1988年8月18日に発表した憲章を紹介・翻訳したもので、やはり同年同月の8日に一つのピークを迎えたビルマの民主化運動や難民問題に興味を持っている人にとっては面白いかもしれません。

2011/10/05

凧とビデオ

2004年のこと、当時牛久の収容所に3年近くも収容されていたカレン人がいた(この頃は2年以上の収容は珍しくなかった)。彼をMさんと呼ぼう。

その頃は毎月のように牛久に面会に行っていたので、Mさんにもよく面会したものだが、彼はビルマに残してきた中学生の息子さんのことをいつも気にかけていた。その母、つまりMさんの奥さんは病気ですで亡く、その子は親戚の家に預けられていた。

その年の10月、わたしはたまたまヤンゴンに行く用事があったので、彼の親戚の家もついでに訪ねた。女性たちがわたしを出迎え、涙を流しながらMさんの息子を連れて来てくれた。

少年は父の使者だという日本人を見てもとくに心動かされた様子はなく、すぐに外に遊びにいってしまった。ついていってみると、庭の石段に座って他の子どもと凧の糸を糸巻きにくるくる巻き付けていた。わたしは彼の姿を写真とビデオに収めた。

帰国すると早速、写真を現像して、牛久に持っていった。問題はビデオだ。入管の収容所内ではビデオやDVDを見ることができない。しかし、せっかく撮影したのだから、わたしは是非Mさんに見て欲しかった。

そこで一計を案じた。面会所には携帯電話やカメラの持ち込みは禁じられている。しかし、パソコンはダメとは言っていないのである。

わたしは面会室にパソコンを持ち込み、そこで撮ってきた映像を再生し、Mさんに見てもらった。

入管職員が面会室をのぞき込んだ。わたしは緊張したが、職員はただ眼を丸くしただけで行ってしまった。

わたしはこのときのMさんの反応を覚えていない。おそらく入管の職員のほうばかり気にしていたせいだろう。ただ覚えているのは、ビデオを見た後、Mさんがわたし「指見た? わたしの息子、手に小さい6本目の指があるんだ」といい、わたしが「気がつかなかった」と答えたことだけだ。

今年の10月3日に牛久に面会に行ったら、面会の前に「携帯、カメラ、パソコンは持ち込み禁止」と言われた。わたしの他にも同じようなことをした面会者が何人もいたのにちがいない。わたしの使った手はもう使えない。

さて、それからしばらくして、Mさんは釈放された。わたしはこの時見せたビデオをDVDに焼いて渡した。2006年の10月、Mさんはお酒の飲み過ぎで亡くなった。孤児となった彼の息子は葬儀のために来日し、今も日本にいる。

 Mさんの息子が暮らしていた家
(2004年10月ヤンゴン)

2011/10/04

忘れた頃に

ビルマ難民の友人の仮放免申請のために、茨城牛久の東日本入国管理センターに行った。

時間の都合で、面会したのは彼ひとりだが、その人が言うには一週間前、被収容者に防災ジャケットとヘルメットが配られたとのこと。

収容房には地震の際に隠れて身を守るものが何もないからだそうだ。これらは普段は自分の棚に置いておく。

しかし、震災からもう7ヶ月も経とうとしているのに、遅すぎではないのか?

あるいは、早すぎるのか。

小銭への憎悪

日本在住歴20年になるカレン人難民の女性にお昼をおごってもらった。

支払いを済ませたその人が「あー、日本人になっちゃったよ!」というので何かと思って聞いてみたら、「財布に小銭を入れていくのがイヤになった」とのこと。

つまり、彼女が言っているのは、支払額が例えば748円の時に、1048円出してお釣りを300円にして10円玉や1円玉を減らそうとするその策略のこと。もちろん、803円だしてせめて1円玉を追い払おうという悪あがきも含まれる。

彼女によれば、こんなことをするのは世界でも日本人だけだとのこと。わたしはそんなことはないだろうとは思うが、時には仕事でレジ打ちもする彼女は「少なくとも中国の人はしない」と主張した。

1円玉を憎むこと甚だしく、小銭入れに4枚ある時点で不愉快、5枚で激昂、9枚以上で半狂乱となるわたしにしてみれば、機会あるごとに財布から小銭を追放しようというのはまったく当然のことのように思えるが、こうした心的態度も決して普遍的なものではなく、小銭なんかいくらあろうともへいちゃらというほうが普通という文化もあるのだ。

こういう話になると、 「それは日本人は計算が得意だからだ、教育が行き届いているからだ」という人がいるが、これは「自民族中心主義」的な古くさい見方だ。

おそらくもっと複雑な文化的な仕組みが働いているはずで、それにはお金を支払うことや何をもってサービスとするか(つまり売り手と買い手の関係性)に関する態度も含まれるに違いない。

ことによったら、ある文化における小銭に対する態度が、その文化がいかに少数派を受け入れるかという社会の寛容度と結びついている可能性だってあるかもしれないのだ(例:「金をはらう」と「追いはらう」と「はらい清める」)。

2011/09/27

カヘキシー

『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』(秋田書店)が面白かったので、ブラック・ジャックを読み直しているが、ときおりカヘキシーという言葉が出てくる。

これは悪液質とも呼ばれ、癌などの病気による栄養失調を指す。漫画ではたいていこれは癌の末期状態だ。

以前、BRSAの集会をしたとき、ひとり、異様な参加者がやってきた。顔はどす黒く、皺だらけ。白目だけがぎらぎらしている。やせ細っているが、お腹だけはぽっこり出ている。一目で病気と分かる状態だが、かといって息も絶え絶えという感じではなく、むしろ落ち着きなく身体を動かしていた。わたしは見ていて非常に不安な心持ちになった。

お腹が膨れているのは腹水が溜まっているためで、ブラック・ジャックによればこれもカヘキシーの特徴の1つだ(もっとも、現代の医学でカヘキシーという言葉が使われているかどうかはわからない)。

それはともかく、なんとかしなくては、ということになった。彼は難民認定申請者で、医療を受けるとしたら全額自腹だ。とてもじゃないが、賄いきれる金額だとは思えない。どうしたかというと、結局難民申請を取りやめて、ビルマに帰った。そして、一ヶ月後に亡くなったという。

もし彼にビザがあり、日本で適切な治療を受けることができたなら、あるいは彼はそこまで病気を悪化させることはなかったかもしれない(いまごろ元気にデモにでも参加してたりして)。

あるいは、そもそもが治りようのない病気で、亡くなる前にせめて家族に再会できたことを喜ぶべきなのか。こればかりは誰にもわからない。

合戦は金曜日

アイドル戦国時代といわれる昨今であるが、御徒町にある我がビルマ・コンサーンの事務所は秋葉原のAKB48劇場と上野のハロプロ・ショップ上野店のちょうど中間に位置しており、まさに天下分け目の関ヶ原の様相を呈している。

そんな古戦場に先日、難民の両親を持つ大学受験生の男の子がちょっとした要件でやってきた。

それが済んだ後、わたしはこの若者にこんなことをいった。

「受験が終わったら、AKB48劇場にでもゆっくり遊びに行くがいいよ」

わたしはかねてから彼がAKB48のファンであることを知っていたのだ。すると彼が答えた。

「ここに来る前にちょっと見に行ってきました」

ちぇ、ちゃっかりしてら。受験がんばれよ!

2011/09/26

日本人に尊敬されるためには

以下は在日ビルマ難民たすけあいの会機関誌「セタナー」第4号(2011年8月8日発行)に掲載してもらったものです。 

難民審査において日本政府は申請者が難民であるかどうかを調べ、最終的に難民として認めるかどうかの結論を出すわけですが、その際に重要なのは、その申請者が難民となった理由だけではありません。もうひとつ大事な要素があるのです。

こういうと「難民かどうかを認定するときに、それ以外の要因を考慮に入れるのはおかしい!」と反発する人がいることでしょう。確かにその通りですが、現状は異なります。

もうひとつの要素とは、その申請者が日本社会でやっていけるかどうか、についての判断です。つまり入管は申請者が本当に難民であるか、ということとともに、本当に日本でやっていけるか、ということの二点を調べているのです。

わたしはこれは本当は正しいことではないと思っています。難民かどうかということと、日本社会に溶け込めるかどうかということはまったくの別物で、後者を難民審査に持ち込むのは誤りです。難民かどうかという問題は、申請者本人のみに関わることですが、その申請者が日本社会でやっていけるかどうかは、申請者のみの責任ではなく日本社会の責任も問われなくてはなりません。このまったく別のものが入管では一つの机で取り上げられてしまうのは、入管がそもそも難民を扱う役所ではなく、「日本社会を困らせる」外国人を管理するための機関だからです。

ですが現状ではこの2つの要因が日本の難民認定審査において重視されており、申請者はそのことを考慮に入れて審査に臨む必要があります。

「考慮に入れる」とは具体的にどうすることでしょうか。それはつまり申請者が審査において「自分は本当の難民であるばかりでなく、日本社会に害を与えないちゃんとした人間である」ことを示すことです。

いくら本当の難民であっても、審査する相手に対して粗暴な行動をしたり、軽蔑を剥き出しにしたり、日本人に対して敵意を示したりするような人に、入管が好意的な判断をするはずがないのです。

もちろん入管には問題がありますし、職員の中にもひどい対応をする人もいます。そのような対応に対してははっきりと抗議し、必要ならば怒るべきです。ですが、そのときでさえ相手の人間性に対する配慮を忘れてはなりません。そうした配慮があるかないかが、相手を敵と見るかそうでないかの分かれ目です。もしあなたが相手の人間性をないがしろにしたならば、そのとき入管の職員はあなたにとって敵になります。そして、それと同時に入管の職員もあなたを日本社会に対する敵だと見なし、日本での滞在にふさわしくない人物だと判断することでしょう。

ですが、だからといって、入管の職員の言いなりになれといっているのではありません。わたしが言いたいのは、誰であろうと崇めたり軽蔑したりせず、自分と対等の人間として敬意とともに扱うべきだという、ごくごく当たり前のことです。そして、これが重要なことなのですが、日本人はこうした態度を取る人を非常に評価するのです。

あなたが入管の職員や難民審査官に敬意を示したとしても、それがすぐに自分に跳ね返ってくるとはかぎりません。ですが、そのような態度の積み重ねなしには、いざというときに本当に敬意を表すべき人に敬意を表すことができないのも確かです。だから、入管での態度、とくに審査の時に態度には特に注意を払ってほしいと思うのです。

最後にもうひとつだけ、日本人に敬意をもって扱われるための秘訣をお教えしましょう。それは自分の間違いを認め、率直に謝ることです。ビルマの社会を観察して、みなさんが滅多に謝らないのにわたしはいつも驚かされます。自分の間違いを認めると全財産を奪われるかのようです。どんなに自分に非があっても、ビルマの人はそれを認めませんし、時には逆に怒り出す人もいます。これに対して日本人にとって謝ることはなんの恥でもありません。それどころか、率直にきちんと謝る人ほど高く評価されます。ですが、これは日本人がビルマ人に比べて高潔だからではありません。ただ日本人のほうがケチなだけです。なにしろ、謝るのにはまったくお金がかからないのですから!

セタナーの意味

以下は在日ビルマ難民たすけあいの会機関誌「セタナー」第4号(2011年8月8日発行)に掲載してもらったものです。 


セタナーはBRSAの機関誌で今号で第4号となりました。多くの方々が編集、タイピング、翻訳、原稿集め、印刷、配布に関わってくださっており、わたしたちは非常に感謝しています。
 

セタナーは、そのタイトルの通り、ビルマ難民の気持ちを表現する場としてはじまりました。そのため、多くの会員が詩や漫画、政治的記事を書いてくださっていますが、わたしたちは「まだまだ足りない、もっと多くの会員の声を聞きたい」といつも思っています。ですので、皆さんに原稿をどんどん送ってください、とお願いしたいのです。
 

しかし、そう言われても急にはなかなか難しいかと思います。なにか書きたいと思っても、題材が整理できなかったり、どのように書けばいいのかわからないこともあります。
 

日本人であるわたしにはよくわからないのですが、ビルマの文学には長い伝統があり、日本語のように気楽に文章を書くことはできない、という意見を聞いたこともあります。
 

また、そもそも言論の自由がないビルマでは日本人のようにだれでも自由に意見やアイディアを記す習慣がないため、普通の人が文章を発表するのは少し恥ずかしい、という気持ちもあるのかもしれません。
 

ですが、自分の意見を公表したり、あるいは他の人の意見をたくさん読んで考えたり感動したりするのは、これからのビルマの民主化を考える上で重要なことです。どんな人でもそれぞれ貴重な経験や素晴らしい考えを持っていますが、そうした意見をできる限り取り入れていくのでなければ、新しいビルマは生まれないでしょう。
 

わたしはセタナーをそのような役割を持つ場所として考えています。小さな雑誌ですが、ここからビルマの民主主義が生まれるような大きな可能性を持った場所だと考えています。ですので、セタナーに皆さんが協力してくださるのはとても重要なのです。
 

最後に、どんなものを書いたらいいか困っている人のために少しだけアイディアを記しておきます。あくまでもわたしの考えなので、ここに挙げたもの以外のものでももちろん歓迎です。いや、それどころか、新しいアイディアを出してくれる人がいたら、わたしは本当に感謝します。

・ビルマや日本についてのニュースをまとめたもの。
・スーチーさんなど有名な政治家の演説のまとめ。
・自分の政治的な考えを記したもの。
・みんなに聞いてほしい自分の考え(内容は何でもいいです)。
・ビルマや日本での体験談。入管に収容されているときに感じたこと。
・日本の難民政策について考えたこと。
・BRSAへの提案。
・詩や小説。ビルマ、日本、入管などをテーマにしたものでもいいですし、全然関係無くてもいいです。
・ジョークや小話。
・暇なときに読んで面白いもの。
・入管に収容されている人が励まされる話やアドバイス。
・漫画。政治や入管問題、日本社会をテーマにしたもの。あるいはただ単に笑えるもの。
・絵や写真などの芸術作品(カラーで印刷できるとは限りませんが)。

もし原稿ができたら、セタナーの編集委員かBRSAの役員にお渡しください。皆さんのご協力をお待ちしています。よろしくお願い申し上げます。

BRSA CUP開催に向けて

以下は在日ビルマ難民たすけあいの会機関誌「セタナー」第4号(2011年8月8日発行)に掲載してもらったものです。

わたしにはある提案がありますが、これを執行委員会で取り上げてもらおうとは思っていません。なぜなら、わたしはこれをBRSAの公式の活動にしようとは思っていないからです。公式であれば、会の会計からお金をもらうことも可能なのですが、これはそれほどの活動ではありませんし、実際たいしてお金もかかりません。ただ、わたしの提案を面白く持ってくれた会員が、一緒に協力してくれるのを期待しているだけです。

わたしはBRSAのような組織では、会員が気の合う仲間たちとそれぞれが好きな活動することも大事だと思っています。それは政治活動でもいいですし、出版活動でもいいです。それどころかもっと軟らかい活動も大事だと思っています。サッカーや卓球やフットサルのチームを作るのもいいです。釣りクラブを作ってもいいです。月1回、田舎で散歩してリフレッシュするのも大切です。自転車が好きならばサイクリングクラブも面白いでしょう。音楽を聴く会、映画を見る会、カラオケの会、バンド活動、いろいろなものが考えられます。

このように中央執行委員会に主導される形ではなく、会員の中から自発的に活動が生まれていくというスタイルは、ビルマの団体では珍しいことですが、日本の団体では当たり前のことです。というか、日本中で活動するほとんどの団体が、誰に強制されるでもなく、森に生えるキノコのように自然に生まれてきたのです。

ところがビルマではこうしたキノコは政府にとって危ない毒キノコとして扱われます。それゆえビルマでは自然に人が集って団体がはじまることはありません。必ず軍が上で支配したり、監視したりしています。そうしたわけなので、日本に暮らすビルマのみなさんにとって自発的に集まりを作るのは、日本人が考えるよりもはるかに難しいのです。

しかし、民主主義のビルマにおいてはこれが当たり前にならなくてはなりません。そのために日本にいる間にそうした活動を経験することも大事な民主化運動といえます。そこで、わたしはBRSAのなかでまずそうしたグループをひとつ作ることを提案したいと思います。

具体的にわたしが考えているのは、ビルマの人が大好きなサッカーです。BRSAのなかでサッカーチームを作るのです。そして、定期的に練習をし、他のビルマ団体のサッカーチームや、日本人のサッカーチームと対戦したり、日本のアマチュアの大会に出場したりするのです。あるいはBRSA CUPを開催しても面白いかもしれません。

活動に優劣は付けられませんが、政治集会や役員会よりもはるかに健康的なことは確かです。BRSAには「おじさん」が多いので、健康も政治と同じくらい重要です。

いつどのように開始するかは、これからみなさんと相談して決めていきたいのですが、一つだけ決まっていることがあります。それはこのわたしが監督を務めることです。ただし、わたしはサッカーのルールをまったく知らないので、もし他にふさわしい人がいれば、すぐに監督の地位をお渡しいたします。

難民はかっこいいか

以下の「難民はかっこいいか」は「平和の翼ジャーナル」に掲載してもらったものです。

何年か前、「難民ってかっこいい」を標語にして、日本に暮らす難民への気づきを訴えるイベントがあった。わたしはこのイベントに参加もしていないので、この標語の意図はわからないのだが、おそらく難民という言葉のもつ負のイメージを払拭し、新しい「難民」像を生み出すことを狙いとしていた、と考えるのが自然な解釈であろう。

その意図自体はよしとすべきなのかもしれないが、それでもわたしはこの標語はバカらしいと思わずにいられない。

理由は二つある。

まず、難民がかっこいいわけなどない。これらの人々が直面している苦しみ、悲しみ、悲惨にいったいどこにかっこいい要素があるのか。自分の故郷から命からがら&泣く泣く逃れてきた人々のどこがかっこいいというのか。土地も財産も家族も夢も希望も喜びも奪われた人がいったいどの地点でかっこよさと結びつきうるのか。もし本当に難民がかっこいいのなら、どうして日本人がみんな難民になろうとして行列を作らないのか。日本の若者がこぞって飛びつかないのか。

いや、そもそも難民を「かっこよい」という審美的な基準で判断できるのだろうか。わたしとてバカではないから、「難民のみんながイケメンであるはずがない」などと怒っているわけではない。標語でいう「かっこよさ」には例えば「生き方のかっこよさ」といった意味も含まれていることも承知している。そして、そのような難民の「かっこよい生き方」を日本社会にアピールしたいという発案者の気持ちもわかる。だが、かっこいい難民がいるのならば、かっこよくない難民もいるのも道理ではないか?

わたしは決して揚げ足取りをしているわけではない。

難民支援を行う人々の中には、自分が「助けている」難民が不道徳な振る舞いにおよぶと、露骨にがっかりする人がいる。その「支援者」にとっては難民はまるで聖人か賢者のようで、難民がそうしたイメージから外れるような利己主義を露わにすると、「支援者」の自分がまるで汚されたような気がするのである。つまり、このような「支援者」にはあたかも「良い難民」と「悪い難民」がいるかのようなのだ。

ついでにいえば、今回の大震災でも、同じような思考回路の人々が出現した。「被災者たちの心は美しい」とか「被災者の美徳」とかいうような連中だ。まるで津波が悪く醜い心の持ち主を根こそぎ押し流してしまったとでもいいたそうだ。だが、実際の津波はそのようなえり好みをしない。良い人間であろうと、悪い人間であろうと、社会的に価値ある人間であろうと、蔑まれた人間であろうと、等しく命を奪ったのである。

難民についても同じことがいえる。善良であろうとなかろうと、学があろうとなかろうと、見た目が良かろうと悪かろうと、悪しき権力はこれを全く考慮しない。ただ、ある政治信条、ある民族性、ある宗教、ある文化の構成員であるかどうかのレッテルのみが重要なのである。

だから難民を「かっこいい、善良、真面目、学がある、優秀」であると思い込むのは大きな間違いだ。難民にはその逆の性質を持つ者もたくさんいる。そうした個人の特質を超えて働くのが迫害のメカニズムなのである。だから、「支援者」が難民を美化するのは勝手だが、それは難民に託して自分の鬱憤を晴らしているだけのことであり、実際の難民とはなんの関係もない。

わたしの知る限り、難民にはだた2種類あるきりである。すでに殺された難民とまだ殺されていない難民の2種類が。そして、わたしたちが関わることができるのは後者の難民だけであり、このグループ内にはいかなる区別もなく、またあってもならない。善良だろうが凶悪だろうが、立派だろうが、間抜けだろうが、格好良かろうが、見苦しかろうか、まだ殺されていない難民である限りにおいて等しく命を守られる権利があるのだ。

こうした理由に加えて、わたしが「難民をかっこいい」とすることに反対する理由がもうひとつある。

ある人をかっこいいと呼ぶとき、そのように呼ぶ人はそのように呼ばれる人よりもひそかに優位に立つ。なぜなら、かっこいいかかっこわるいかを決めるのは、一つの権力であり、ある人をかっこいいと呼ぶ人はその権力を優先的一方的に行使しているからである。だから「難民ってかっこいい」と主張することは、実際には次のことを主張しているのと同義である。「かっこいいかどうかを決めるのはわたしたちであり、難民であるあなた方ではないのです」と。

難民と呼ばれる事象に付き合っていてつくづく思うのは、難民とは自分の運命を自分で決める力を奪われた人々、言い換えれば主体性を奪われた人々であるということだ。難民は自分で発信することが許されない。難民は常に見られている。計られ、記録され、描写され、尋ねられ、調べられる。難民はまるで名前を付けられるのを待っている品物のようだ。難民は自分の名前を自分で決めることができない。

だから、「難民ってかっこいい」と難民以外の連中がいうことは、難民を元気づけることとも、その地位を向上させることとも、まったく関係がない。それはむしろ難民の主体性をさらに奪い取ることだ。難民の客体化をさらに推し進め、名付けられる物として貶めることだ。

それはまた難民とそれ以外の人々との間に乗り越えられない壁を造ることであり、難民と難民ではない者との関係を固定化し、難民を永遠に二級市民の地位に突き落とすことだ。

自分は新品の服を着ているくせに、難民には古着だけしか着ることを認めず、そして、その古着を着ている難民に「素敵! お似合い!」とご満悦で声をかける人、「難民ってかっこいい」という人はまさにそんなような人なのだ。

2011/09/04

百年も孤独

先日、在日ビルマ難民たすけあいの会の集会があって、ビルマ難民の会員を前にタイ・ビルマ国境を訪問したときのビデオを上映させてもらった。

わたしの報告の前に、アムネスティの熊澤新さんが最近の難民認定申請の動向についてお話しをされた。

そのとき熊澤さんが会員からのある質問に答えて「ビルマが民主化されるには50年、いや100年かかるかもしれない」という発言をされた。

その後すぐにわたしの話す番だったので、わたしは「今回のテーマとは関係ありませんが」と前置きをして、 こんなことを言った。

「さきほど熊澤さんから、ビルマが民主化されるまで100年かかるかもしれない、というお話しがありました。ビルマの現状についてお詳しい熊澤さんのご意見ですから、これはこれで根拠があるのでしょう。

ですが、わたしはまた別の考えを持っています。わたしはむしろ逆で、ビルマが変わるのにあと10年もかからないのでは、と思っています。ま、いずれにしても予想ですから、どちらが正しいということはありません。

もちろん早く変わってくれたほうがよいですが、やはり100年かかるかもしれません。そこで、みなさんの気がかりは、この先日本にたとえば50年、100年いなければならないということになったら、自分、あるいは自分の子どもたちにどのような将来が待っているかということではないかと思います。

ですが、みなさん、心配はご無用です!

100年間このまま難民の波が途絶えず、そして同時に「日本人」の高齢化・少子化が続くのであれば、そのときには、東京の人口の半分ぐらいはビルマの人になっているにちがいないからです!」

みんな笑ってたけど、わたしは半分本気だ。

そのときにはTOKYOもTOKYAWと綴られるようになっていることだろう!

(ちなみにKYAW[チョウ]というのは、ビルマの男性の名前によく含まれている要素。)

2011/09/03

トーチョー・ポリス・ストーリー

在日ビルマ難民たすけあいの会機関誌「セタナー」第4号(2011年8月8日発行)に載せてもらった漫画(オリジナルは英語)。ショープロのアメコミよろしく注釈付きです。


*Panel 1 血痕からはじまる漫画といえば、もちろんアラン・ムーアの「WACTHMEN」。
*Panel 4 デモに参加しているビルマ人が吐いているのは、ビンロウの実などから作る嗜好品のカス(+唾液)。赤茶けた色をしているので、血と間違えたというわけ。ちなみにこれはわたしの実体験。



2011/08/31

カエル(3)

彼はカエルのぶつ切りをボールに移した。それから後はNさんにバトンタッチ。

彼は乳鉢にニンニク、唐辛子、塩をたっぷり投入し、念入りにすりつぶす。ペースト状になった調味料とカエルの肉をたっぷりの油で炒めればできあがりだ。

皿に盛られて目の前に置かれる。カエルの肉はわたしも初めてではない。中学校のカエルの解剖の時だって、後で理科教師が照り焼き風に調理してくれた。串焼き屋で食べたことだってある。

だが、皮のままというのは初めてだ。

わたしが躊躇しているとCさんが言う。「この皮が一番おいしいんだ。上野とかでもカエルを売っているけれど、皮を剥いてしまってるでしょ。そうすると旨みが全部抜けてしまうんだよ」

とすると、鮭の皮と思えば? けど、鮭にはねーぞ、腿のところのこのまだら模様! じゃ鯖だ。ま、しょうがない、ひとつ齧り付く。鶏肉のようだとよく言われる肉はもう少し歯ごたえのある感じ。そして、肝心の皮はといえば確かにおいしい。よく油で炒めてあるので、味もしみこんでいる。ねっとりとしていて、焼いた鮪の皮みたいだ。

わたしはもうひとつ皿から取る。だが、小皿に載せてよく見てみれば、ちょうど目の部分。申し訳ないが、皮だけ食べて止めっ。

カエルを料理している間、みんなは興味深げに観察するわたしを見て「カレン人はなんだって食べるんだ!」「ヘビだって!」「サルだって!」と愉快気だった。だが、そう言う割にはみんなこぞってカエルに箸をつけているという感じでもなかった。

2011/08/29

カエル(2)

だが、そのとき家にいた人はカエルの処理に少々自信がないようだった。わたしは面白がって携帯を取りに行く。写真を撮ろうとしたのだ。だが、風呂場に戻ってみると、ポー・カレン人のAさんがカエルを鷲掴みにしている。彼はドライバーの取っ手でその頭を3度ほど叩いた。それでおしまい。

彼はそのカエルを台所に持っていき、水を張ったボールの中に入れる。そして包丁を取り出し、腹を切って内臓を取り出す。きれいに内部を水洗いする。こんなの見るのは中学校のカエルの解剖以来だ。

次に塩をバッと振りかけてもみ洗い。ヌメリを取るのだそうだ。「穴子と一緒」とAさんは語る。

後はまな板の上で包丁を振るって皮の付いたままぶつ切りにするだけ。嘴の先と手足の先だけ少し切って捨てていた。

カエルを捌く様子を見ながら、Aさんにエーヤーワディ・デルタのカエル事情について聞く。

「わたしのお父さんがカエルが大好きで、よく掴まえにいったものだ。雨が降っている日なんかに、バナナの木のあたりにたくさんいてね。泥にいるヤツはすぐに掴まえられる。川の中にいるヤツは、自転車のスポークを尖らしたもので銛を作って掴まえるんだ。夜はヘッドライトをつけて川に行く。するとカエルの目が反射して、光る。それでどこにいるかすぐ分かる。目の光り方で、食べられるカエルかそうじゃないか判別だってつく。それで、夜のうちに掴まえておいて、朝に料理するんだ。

「でも、美味しいのはこんな大きなカエルじゃない。もっと小さなカエルだ。それに小さなカエルのほうが掴まえるのが難しいんだ。

「わたしが十数年前、ビルマを出るとき、お父さんは『お前の掴まえるカエルが食べられなくってさみしいよ』って言ったもんだ。いや、そうじゃない、わたしの掴まえるカエルが特に美味いというわけではないんだ。息子が自分のためにカエルを掴まえてくれる、それがお父さんにはうれしかったんだな。もうお父さん、亡くなったけどね」

2011/08/26

カエル(1)

先々週の日曜日のカレン殉難者式典のあと、あるカレン人の夫婦が娘の3歳のお祝いにみんなにご馳走をするので、と自宅に招待してくれた。

この夫婦は日本で在留を認められるまで非常に苦労した人で、夫婦そろって入管に収容されていたこともある。そのとき、妻の方は妊娠の初期で、流産してしまった。

もっとも、初期の流産は特に理由なく起こることもあるから、入管の収容との因果関係は分からない。けれど、非常に辛い思いをしたのは間違いない。

また、夫婦同時に収容されてしまったため、アパートは放棄されたも同然となり、大家が勝手にふたりの私物を処分してしまった。結婚式の写真などの大切な記録がすべて失われたのである。

それが今では、3歳になる娘がいる。娘の写真も飾ってある。喜ばずにはいられようか、というわけだ。

それで、茨城に暮らすあるカレン人が、この喜びに花を添えようと、前日に贈り物を持ってきた。

大きなウシガエル。

どっかの川で見つけたのだという。本当は2匹持ってきたというのだが、「1匹で十分ですよ」といって断ったとのこと。

わたしが夫婦の家に行ったとき、そのカエルは黒々とした背を見せて風呂桶の水の中でじっと待っていた。

何を待っていたかって? そりゃもちろん、食われるのを。

2011/08/23

納涼

5月に在日チン民族の青年が品川で交通事故で亡くなった。仕事帰りの早朝のことだった。

それからしばらくして奇妙なことが起きた。

彼の家族に妙な封筒が届いたのである。宛名は故人となった若者だ。

不思議に思った家族が開いてみると次のように記された紙が入っていた。

「難民認定の口頭審査を行うのでこれこれの日まで来てください」

つまり、入管が間違えて亡者に出頭命令を送ってしまったというわけ。

わたしの身の回りでも似たような怪奇事件が起きた。1週間ほど前わたしの友人のカレン人の家に入管から出頭命令が届いた。8月31日に品川に来なさい、というのだ。

ところが、そのカレン人は・・・・・・










3ヶ月前から牛久に収容されていたのです。



入管のみなさま、まだまだ暑い日が続きますが、どうかご自愛のほどを・・・・・・。

2011/08/22

カレン殉難者の日式典報告

8月14日、東京でカレン殉難者式典が開催された。主催は海外カレン機構(日本)OKO-Japanで、主な内容は、式典出席者全員によるカレン人の殉難者への献花、殉難者の日の由来と歴史の説明、各招待団体の演説など。

出席者は約90名。

わたしが担当したのは次の2つのパート。

1)カレン殉難者式典のためのメッセージ・ビデオ制作。
これは、5月のカレン・ユニティ・セミナーに参加したとき撮ってきたもので、カレン民族同盟(KNU)副会長デビッド・ターカボーさんと同事務総長ジポラセインさんのメッセージだ。

前者はビルマ語(3分)で、後者はカレン語(4分)。

2)式典後半の特別プログラムとしてカレン・ユニティ・セミナーの報告とビデオ上映。
上映したビデオは次のようなもの。

A. YouTubeで公開されているセミナーのビデオ(カレン語)に日本語の字幕をつけたもの。さらに独自に、カレン・ユニティ・セミナー実行委員会からの日本のカレン人への呼びかけを追加。全部で約9分。

B. KNUのメディカル・トレーニング・センターに行ったときの様子を5分程度にまとめたもの。

C. セミナー会場で捕獲されたオオトカゲをめぐる対話と、その運命を記録したもの(14分)。

プロジェクターなどはめったに使わないので、いろいろトラブルはあったが、なんとか終了。

せっかく作ったのでいずれ上映会でも開きたいと思う。

 敬礼。

今年は新しい趣向として、出席者全員が花を一輪献花することになった。
花は一本100円とのこと。

デビッド・ターカボーさんのメッセージ上映。
各民族間の協力を促すもので
「ビルマ人にもいい人は少しはいるのでビルマ人とも協力すべき」
との言葉にはみんな笑ってた。


 田辺寿夫さんの演説

集合写真

2011/08/20

難民認定申請(4)

さて、今回、対応に出たのは二人の女性職員だった。ひとりは感じが良かったが、もうひとりはにこりともしない。まあ、ひとそれぞれだ。

職員は書類を受け取ると遺漏がないか細かくチェックする。漏れがあった場合は使い回しの付箋をカウンターの下から出してその箇所に貼付ける。

今回指摘された箇所はすぐに直せるものばかりだったので、いったん部屋を出て廊下に並べられた椅子に座って訂正する。こういう作業のため、小机も二つばかり置かれている。

訂正が済むと、再びカウンターに行き呼び鈴をチンと鳴らす。出てきた職員に渡し、もう一度しっかり見てもらう。問題がなければ職員は書類を受け取り、申請者は外で待つように言われる。

込み具合にもよるのだろうが、今回はそれほど待たされなかった。呼び出されてカウンターに行くと、職員がパスポートなどの返却する書類と「難民認定申請受理票」を手にしている。

これこれ! この受理票をもらえば申請は終わり。

受理票には申請者の氏名、生年月日、申請番号、入管の連絡先などが記されており、申請者は 間違いがないか確認しなくてはならない。そして、職員はいくつかの注意事項(住所や電話番号が変わったら必ずこのカウンターに来て報告すること、仕事はしては行けない、など)を述べてから、この受理票を渡すのである。

この受理票は極めて重要で、これさえ身につけていれば、街角で警察や入管に不法滞在で逮捕される可能性はグンと減るのである。まず心配なく 町を闊歩することができるというわけだ。そのせいか、この受理票を何かのビザだと勘違いしているビルマの人が以前はたくさんいた。もっとも、さすがに最近はそうした暢気な人はいなくなったようだ。

難民認定申請(3)

登録証を申請したその晩、あるいは翌朝早くに入管に自宅に踏み込まれてそのまま収容されたというのはよくある話だ。

そのようなわけで、難民申請をする予定のオーバーステイの人は、一日ですべて済ませようとする。つまり、午前中に役所で外国人登録証の申請を済ませ、申請受理票をもらうとその足で、入管に赴いて難民申請をするのである。

何らかの事情で一日で終わらなかった場合どうするか。その場合は自宅には帰らず、誰か知人の家で一晩過ごす。

この3種の書類がなくては申請は受理されないが、これ以外にも文書の提出を求められる場合がある。例えば申請者が政治団体に所属していた場合、その会員証を提示するようにいわれるのがそれである。

また、求められなくても自分の難民性を証明するために必要な書類があれば提出することができる。ただしその場合には日本語訳が添付されていなくてはならない。

難民認定申請書は翻訳がなくても受理される(以前は必ずしもそうではなかった)。とはいえ、今回は申請書のある項目の欄に書ききれなかったのを別紙に記して申請書の一部として提出したら、この別紙の部分は入管では翻訳しないので、自分で翻訳してくるようにと言われた。

別紙でも申請書に関わりがあれば翻訳なしでも提出できた時期もあったように思うが、いろいろと入管のほうでも都合があるのだろう。

2011/08/19

難民認定申請(2)

まれに難民申請時にパスポートを持っていない人がいる。これは例えば、船員として働いていた人が船が日本のどこかの港に停泊した時に、逃げて上陸し た場合、あるいは研修生として来日したが、難民申請のため研修先から逃げて東京に出てきた場合などである。また、なかには自分が決して送り返されないように、空港に着陸した飛行機の中でパスポートを破り捨てた人もいる。

こうした人たちは、申請時に自分がどうしてパスポートを持っていないかを記した陳述書を提出しなくてはならない。

外国人登録証は区役所なり市役所で発行してもらうものだが、申請するときに、この登録証の発行が間に合わないことがある。そうした場合は、登録証の申請をした役所に申請受理票を発行してもらい、これを入管に提出する。この受理票には外国人登録証番号が記されているから、それで用が足りるというわけだ(なお、この受理票はコピーされた後返却される)。

登録証の発行を待たずに入管で難民認定申請をするのには事情がある。まず、来日したばかりで、ビザが切れそうな場合、その前に難民申請を済ませておかなければ、オーバーステイになってしまう。

また、申請者がそもそもオーバーステイの場合も、悠長に登録証を待っていることなどできない。というのも、役所には「不法滞在者」の通報義務があるため、 外国人登録証(これはオーバーステイでも作れる)の申請の時点でその申請者が「不法滞在者」に該当した場合、申請書に書かれた個人情報を入管に通報しなくてはならないのだ。

難民認定申請(1)

二人のアラカン人のお坊さんが難民申請をするので付き添ってほしいとアラカン民主連盟(亡命・日本)ALD (Exile-Japan)の会長のHLA AYE MAUNGさんに頼まれて、品川の入管に行った。

暑いので断ろうと思ったが、わたしはこのアラカン人の団体の顧問をしている関係上、たまには何か役に立たなくてはならない。そこで、二人の若いお坊さんに同行することにした。

難民認定申請といってもたいしたことはないが、一応どんなふうだか記録しておこうと思う。

難民認定申請の窓口は3階にある。すいていれば部屋に入って、カウンターで職員にすぐに渡すことができる。だが、このカウンターは申請だけではなく、難民申請にかかわるあらゆることの窓口にもなっているので、待たされる場合もある。そうした時は、部屋の外に並べられた椅子で待つことになる。

今回はすぐに職員に申請書類を渡すことができた。申請に必要な書類は、申請書、パスポート、外国人登録証の3種。申請書はA4で9ページのもので、入国管理局からダウンロードすることができる。

とはいえ、ここでダウンロードできるのは英語版で、ビルマの難民申請者にはビルマ語版も用意されている。

No.9

在留特別許可は「在特」と略されるが、難民認定申請者の間では「SS」のほうが通りがよい。これは「Special Stay」の略ではないかと思われる。「SS」に対して言われるのが「R」で、これは難民として認定されることを指す。もちろん、「Refugee」から来ている。

ところで、他の民族ではあまり聞かないのだが、カレン人の間で「革命」といえば、日本人が想起する「共産主義革命」とは異なり、「カレン民族解放のための闘い」を指す。

だから、あるカレン人が「I am a revolutionary man」というとき、それはその人がカレン人解放のための闘いに参加していることを意味する。具体的に言えば、カレン民族同盟(KNU)のメンバーだ。

「革命」のこの用法は少し意外な感じがするが、アメリカ独立戦争もThe American Revolutionと呼ぶそうだから、英語のrevolutionの用法としてはさして不自然ではないのだろう。

さて、ここにあるカレン人のおじさんがいる。この人は日本暮らしも長く、日本のカレン人の中ではリーダー格だ。

政治活動にも積極的に関わっているにもかかわらず、難民認定申請をしていない。そこで、わたしは「する気があるなら早く申請してください。入管に収容されてからしたんでは遅いですよ」と彼に会うたびに言っていた。

先日の日曜日のカレン殉難者式典の時にも、この人に会ったので同じことを言うと、こんな答えが返ってきた。

「わたしはRのビザはいらないよ。本当に欲しいのはRevolutionのビザだよ!」

革命ビザ。

無茶いわないで・・・・・・。

2011/08/12

カレン殉難者の日式典

8月12日はカレン人の記念日のひとつで、カレン民族の解放のために命を落とした人々を追悼するカレン殉難者の日(Karen Martyrs' Day)だ。

カレン民族同盟(KNU)の創立者で、カレン人にとっては伝説的な指導者であるソウ・バウジーが、1950年のこの日にビルマ軍の奇襲により殺されたのに由来する。

ソウ・バウジーはカレン人にとっては英雄だが、ビルマ軍事政権にとってはまったく憎むべき敵(ビルマ軍は、カレン人に墓など作らせないためにソウ・バウジーの死体を海に棄てた・・・・・・そういえば最近も似たような扱いを受けた人がいたな)。

だからビルマ国内ではもちろん追悼式典など開催できるはずもない。そんなわけで、この記念日におおっぴらに式典を開けるのは、KNUエリアか、国外のカレン人だけだ。

日本でこのカレン殉難者の日の式典を主催しているのが、わたしの属する海外カレン機構(日本)OKO-Japanで、2006年からのことになる。

ちなみに日本でのカレン人の記念日関係についていえば、1949年のビルマ政府に対するカレン人の武装蜂起を記念する1月31日のカレン革命記念日は、在日カレン民族同盟(KNU-Japan) が、そして1948年のカレン人の大規模デモを記念する2月11日のカレン民族記念日は在日カレン民族連盟(KNL-Japan)がそれぞれ主催している。

3つの団体がそれぞれ分担してカレン人の記念日を盛り立てているというわけで、毛利元就の三本の矢体制とでもいうべきだろう。

日本で行われているもうひとつのカレン人行事にカレン新年祭というものがある。例年開催にあたり中心的な役割を果たす人々はいるが、特定の主催者といったものはない。

さて、今年のカレン殉難者の日は、8月14日に豊島区の勤労福祉会館で行われる。

時間は正午から午後4:00まで。といっても、式典があるのは最初の一時間ちょっと、あとは出席各団体からのスピーチ。それから、タイ国境の報告&ビデオ上映。

報告&ビデオ上映というのは、5月にタイ・ビルマ国境で開催されたカレン・ユニティ・セミナーに関するもので、わたしが担当。時間にして1時間弱。

まず、YoutubeにUPされているカレン・ユニティ・セミナーのビデオ(9分)を日本語字幕つきで上映し、つぎにわたしが撮影した映像を15分〜20分ぐらいに編集してお見せする予定。

ところがまだ編集が終わっていない。というか、金曜日の今の時点でようやく編集できる状態になったとこ(つまり、撮影したものをコンピューターで編集できるように変換し終わった)。

だいじょぶか。