2011/02/27

独裁の大義(6)

しかし、ビルマ軍事政権にとっては実際のところ、ビルマという国の形、連邦制をめぐる見解などどうでもいいのだ。非ビルマ民族が連邦制についてなんといおうと、そして、それがいかに正当であろうと、ビルマ軍事政権の連邦制に対する見解、つまり非ビルマ民族こそが連邦制を危うくしているという認識が変わる可能性はない。

なぜなら、連邦制云々は、ビルマ軍事政権にとっては、非ビルマ民族の居住地域を支配するための口実にすぎないからであり、ここに独裁の本音、本当の大義が存在する。

ビルマ連邦は、非常に豊かな資源にめぐまれている。それは森林であったり、金や翡翠、石油や天然ガスなどの地下資源であったり、河川の水力を利用した電力であったりするわけだが、これらはそのほとんどが、非ビルマ民族の居住する地域に産するものだ。またこれらの資源、特に電力と天然ガス、材木などは、少数民族居住地域を通過して中国やインド、タイに送られている。

すなわち、非ビルマ民族の地域こそが軍事政権の富の源泉、いや基本的には田園地帯であるビルマ民族の居住地域のことを考えれば唯一の源泉なのであり、この地域の完全掌握、思うがままに利用できる支配を確立することは軍事政権の死活問題ですらある。それゆえ、軍事政権にとってはこれらの富をいかにして独占するか、いかに本来の所有者である非ビルマ民族を排除するかが、常に最大の関心事なのである。

「非ビルマ民族に本当の自治州を? バカいうな、それじゃ、オレたちの取り分が減っちゃうよ!」というのが嘘偽りなき本音なのだ。

2011/02/23

リビアの独裁者

チュニジアのミネラル・ウォーターにはいろいろブランドがあるが、わりと見かけるものにサーフィヤとサブリーンというものがある。

サーフィヤというのは「澄んだ・清らかな」という意味で、形容詞の女性形。サブリーンはアラビア語なのか分からないが、Sabrineと表記されるようにフランス語からの借用と見なすなら、やはり女性名詞と考えることができる。

さて、現在、その地位がかなり危なくなってきているリビアのガダフィ(カダフィ)に関するこんなジョークがある(実話かもしれないが)。

ガダフィ、あるとき隣国チュニジアにやってきて、チュニスの高級レストランで豪華な食事をする。すっかり満腹したガダフィに、ウェイターがやってきて尋ねる。

「サブリーン、サーフィヤ、どれをお持ちしましょうか?」

ガダフィ答えて「も少し後! 今じゃない!」

つまり、女性の名前だと勘違いしたわけ。

2011/02/22

マリー・アントワネット

軍事政権の偉いさんが魚を輸出して一儲けしようとたくらんだ。さっそく漁師を集めて、魚を獲らせる。

ところがある日、漁師がやってきて訴えた。「今日は天気が悪くて船が出せません!」

軍人答えて「何? テンキが悪い? 新しいテンキに取り替えて船を出せばいいだろ!」

昔の軍人は天気のなんたるかを知らぬほど無教養だったというジョーク。もっとも今はもっとずる賢くなっているとのこと。

ところで「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない!」になんとなく似ている。

2011/02/21

余計なお世話

ビルマの人々が挨拶で言う「太った?」はもちろん「身を細らせるような心配事や病気がなくて結構なことです」と善意に解釈すべきだが、たびたび言われると腹も立つ。

これまではぐっと我慢してたが、もうそれも限界だ。

古い付き合いの年配のカレン人女性がニコニコしながらこんなことを言ったのだ。

「お兄ちゃん、いつも太ってるね!」

「いつも」は余計!

独裁の大義(5)

そして、もちろんこの主張が、非ビルマ民族たちにとっては歴史の歪曲であり、パンロン協定に懸けた自分たちの期待を裏切るものであるのはいうまでもない。

ここに非ビルマ民族のビルマ政府に対する抵抗の起源があるわけだが、その抵抗は必ずしも、ビルマ連邦からの分離独立を目的としているわけではない。

もちろん、それは常に選択肢のひとつではあるが、そのいっぽう、多くの非ビルマ民族は連邦の一部としてともに暮らしたいという強い願いを持っている。それにはいろいろな理由が考えられるが、ひとつにはどの民族も他民族の協力なくしてはやっては行けない、ということを痛感しているからだろう。

もっとも、これには例外がある。つまり、それはビルマ民族で、この民族だけは他民族の協力なしに自分たちはやって行けると信じ込んでいるのである。だが、この点に関しては日本民族も同様で、さらに実際は他民族、他国の協力なしには何一つ立ち行かないのに、そのことに気がつきもしないのもまったく同様だ(公平にいえば、カレン民族にもそんなところがある。これはもちろん、カレン民族の強さの表れでもあるにしても)。

なんにせよ、非ビルマ民族の抵抗活動とは、分離独立を求める闘い、というよりも、連邦制のあり方を問い直す闘いといったほうが正確なのである。非ビルマ民族の定番政治スローガンは「パンロン精神に帰れ」というものだ。

それゆえ、ビルマ軍事政権が非ビルマ民族を連邦を分裂に導く反乱分子として非難するのは、やはり非ビルマ民族の目から見れば、そして歴史的経緯から見れば、誤りなのである。非ビルマ民族にいわせれば、パンロン協定を尊重しないビルマ民族こそが連邦を分裂の危機にさらしているのであり、非ビルマ民族は連邦の唯一の根拠であるパンロン協定の当事者のひとりとして、この危機を解消する活動をしているにすぎない。

2011/02/19

独裁の大義(4)

さらにもうひとつ留意しなくてはならないのは、イギリス植民地時代のビルマの領域がそのまま現在あるビルマの領土のありかたの根拠となるわけでもない、ということだ。

では、現在のビルマ連邦の姿の根拠となっているのは何かというと、独立以前の1947年2月にアウンサンらビルマ民族とシャン、チン、カチン諸民族とがともに連邦国家を作ると合意したパンロン協定であり、現在のビルマ連邦はこのとき始まり、それ以前には存在しなかった。

つまり、ビルマの現在の形の根拠は、植民地以前のビルマ王国にも、植民地のイギリス領ビルマにもない。それはただ1947年のビルマの諸民族の合意のみに存するのだ。

しかしながら、ビルマ民族には自分たちの国が多民族との合意によって保たれているという事態をついに受け入れることができなかった(あるいは、その合意の維持の仕方を知らなかった)。ビルマ民族は自分たちの国がいくつもの民族(州)からなる連邦であることを理解できず、むしろ多数派ビルマ民族が中央集権的に支配する国家、タイや中国(あるいは日本)のような国家像を思い描いた。

これはもちろん、パンロン協定の精神、いわば建国の精神とは矛盾する。 この矛盾を回避するために主張され強調されているのが、別種の建国神話、建国イデオロギーであり、すなわち、昔からビルマ民族はそれ以外の民族の上位に立っていたがゆえにより多くの支配権を持つべきである、という歴史観、すでに述べたようにビルマ軍事政権が自らの支配の正当化に用いている論理なのである(これはいわゆるビルマ民族至上主義[大ビルマ主義、マハーバマールミョーワダ]と呼ばれるイデオロギーの一形態である)。

2011/02/18

独裁の大義(3)

少数民族にいわせれば次のようになる。

「我々がビルマ王国の支配下にいたことは一度たりともない。我々がビルマ民族と運命をともにするようになったのは、ひとえにイギリスがビルマ民族と我々少数民族すべてをひとまとめにして植民地支配したことに由来するのだ。もちろん、その当時アラカン民族はビルマ王国の支配下にあった。しかし、それはビルマ民族の王国がアラカン王国を征服し、いわば植民地としていたことを意味するのであり、アラカン民族がビルマ民族にそもそも服していたことを意味しないのだ」

もっとも、 ビルマ民族と他の少数民族がまったく無関係だったとは思わない。相互関係はもちろんあったろう。ビルマ民族、アラカン民族、モン民族などを中心とする仏教的な文化圏、カチン民族のカチン文化圏、シャン民族のシャン文化圏などが重なり合う複合的な文化圏がすでに形成されており、これらをひとつの「文化的統一体」として把握することが可能だったから、イギリスも「イギリス領ビルマ」という形で諸民族を「植民地的共同体」としてひとくくりにすることができたのかもしれない。

とはいえ、イギリスはもちろんのことながら善意で植民地化をしたわけではなく、そこには相当の無理があったのも当然としなければならない。

また、いかに広範なビルマ諸民族文化圏がすでに存在し、それが現在のビルマの版図と関わりがあるとしても、それがすなわち「少数民族はビルマ民族に帰属していた」という主張を裏付けるわけでもない。文化的関係と政治的関係とは異なる原理、異なる時間の流れで働くものであり、それゆえ、政治的関係が文化的関係に優先すると見なすのは誤りである。

2011/02/17

独裁の大義(2)

ビルマの場合は何が独裁を正当化しているかというと、それは「現在、ビルマは分裂の危機にある。この分裂を避けるためには、軍が責任を持って事に当たらねばならない」という現状認識だ。

これは、つまり、少数民族たちの抵抗運動が問題となっているのだが、ビルマ軍事政権はこれを連邦を脅かす叛逆ととらえ、これらの叛逆者たちを鎮圧し、国家の分裂を食い止めるためには、軍の独裁もやむなしと主張するのである。国家の存亡の危機においては、国民の人権など尊重できようか、というのだ。これは戦争中の日本でも起きたことだし、現代の日本でもないとはいえない。

それはさておくとしても、軍事政権からすれば少数民族は叛逆者なのである。

「連中は昔から我々の支配下にいたくせに、イギリスの植民地時代以降、欧米人にそそのかされ、ついには我々とみれば裏切ることしか考えないとんでもない輩、邪悪で性悪な反ビルマ勢力となってしまった。少数民族どもは、何かといえば分離独立で脅し、武力で抵抗し、ビルマという国を分裂させ、外国に売り渡そうとする売国奴の集まりだ」というのが、ビルマ軍事政権の言い分であり、それゆえこれらの裏切り者どもに対するあらゆる行為が正当化されることとなるのである。

だが、もちろん少数民族はこの見解には同意しないし、また実は軍事政権の本音でもない。

2011/02/07

独裁の大義(1)

独裁政治には大義が必要で、チュニジアの場合何が独裁を正当化していたかというと(エジプトもそうだと思うが)、イスラム原理主義の脅威であった。

これにはなんといってもアルジェリアの先例があって、イスラム原理主義が民主主義選挙によって勝利したのを軍が武力で覆したのをきっかけに、凄まじい殺戮が国内で展開するようになった。それを避けるためなら、どんなことをしても許される、というわけだ。

これはまた、ビルマに関してあれほど口うるさいヨーロッパの国々が、チュニジアの独裁(あるいはそもそも北アフリカの政治状況)に関してはなんの文句を言わない理由となっている。労働力、経済などあらゆる面で北アフリカなしではやっていけない連中にとっては、これらの国々がイスラム原理主義になってしまってはたまらないのである。

また、特にフランス、イタリア、オランダなどには数多くの北アフリカ移民がおり、北アフリカのイスラム原理主義化は、まさに国内問題でもある。これはつまり「ヨーロッパのイスラム原理主義化」にほかならないのだから。

また、北アフリカで活動するアル・カイーダの問題もある。こうした「テロリスト」どもを押し潰してくれるのならば、ベンアリたち、独裁者たちがどんな不正を働こうと、ヨーロッパ人にとっては見て見ぬをするのは簡単なのである。

2011/02/05

ベンアリの顔(6)

キリスト教徒もいる。しかし、これはエジプトのコプト教会のように古代キリスト教の流れで今なお存続しているというわけではなく、ほとんどがフランスの植民地だった頃に移住してきたヨーロッパ人とその子孫だ。

これとは別に、元々ムスリムであったのにキリスト教徒に改宗する人もいる。これにはアメリカなどの宣教師の影響という外的要因もないとはいえないが、そればかりではない。

チュニジアの社会、政治、宗教に反対する若い人が、その態度表明のひとつとして、改宗するという国内的な要因もあるのである。もっとも、これはほんのわずかな人々で、イスラム教を棄てるのならば、無神論者になるほうが手っ取り早い。

いずれにせよ、学生時代に反政府活動していた人が、政治活動に見切りを付けたものの、それでも今の国の状態に納得行かない場合、イスラムに対するアンチテーゼとして、無神論やキリスト教に惹かれるというのはわりと理解できる話だと思う。チュニジアでは国民がムスリムであることが前提であるから、改宗や棄教そのものがイスラムへの重大な挑戦(国家側から見れば脅威)と見なされるのである。

さて、これからお話しするのは、そのような改宗者のひとり、つまり政府への抵抗のひとつの形としてイスラムからキリスト教へ宗旨替えをした人物についての実話である。

この男、チュニス郊外に小さなレストランを開いた。店内にはもちろん、ベンアリ大統領の写真など張りはしなかった。そのかわり、彼は大胆にも、イエス・キリストの肖像画を飾ったのである。

当局がすぐさま駆けつけて警告する。大統領閣下の写真がないだけでもけしからんのに、イエスの肖像とは何事か、というのである。「警告通りにしないと、営業許可を取り消すぞ!」

これには店主も従わざるを得ない。しかし、考えた。

翌日、政府関係者が店を訪れると、ベンアリの写真がきちんと飾られている。だが、真っ赤になって怒り出すではないか。

「おい、どうして大統領閣下の写真の上にイエスの写真が飾られているのだ! わが国家をバカにしているのか!」

店主、答えて曰く「チュニジアをバカにするなどとんでもない。これは仕方がないのです。なにしろベンアリはただの大統領ですが、イエスは『王の中の王』ですからね!」

「王の中の王」 とは聖書でイエスや救世主を指し示す常套句だが、男はこれに引っ掛けると同時に、それとなくベンアリが「王」であると揶揄したのである。

2011/02/04

ベンアリの顔(5)

ベンアリの肖像で忘れてはいけないのが、商店やレストラン、事務所などでは目につくところに必ずそれが壁に掲げられているということだ。それはたいてい勲章をぶら下げた盛装のベンアリの写真で、シンプルな額に入れられている。大きさは縦30センチ、横20センチぐらいだろうか。

チュニジアの友人に「公共の場ではこのように大統領の写真を飾らなくてはいけないと法律で決まっているのか」と尋ねたら「そんなことはない。ただし、飾らなければ、当局からしょっちゅう邪魔が入るし、業種によっては必要な許可が出ないなどの妨害も受けることがある」との返事だった。

ところで、チュニジアはもちろんのことイスラム国のひとつで、ほぼ100%がムスリムだが、他の宗教の信者がいないわけではない。

まず、ユダヤ教徒。チュニジアのユダヤ教徒というと、チュニスとジェルバ島が有名だが、これらのユダヤ教徒の歴史は古く、イスラム教の興るはるか昔から、なんならカルタゴの時代からこのあたりに住んでいるという人もいる。それはともかく、少なくともチュニスのユダヤ教徒の多くは中東戦争以来、イスラエルやフランスに移住してしまったから、現在チュニジアにいるのはそれほど多くはないだろう(確か第2次中東戦争の頃のチュニスのユダヤ社会を描いたのが映画「ラ・グレットの夏」)。

2011/02/03

ベンアリの顔(4)

肖像を見ても分かるとおり、ベンアリはイカツい容貌の持ち主だ。特徴的なのはその団子鼻で、これにまつわるジョークを昔聞いたことがある。

チュニジアでは、年配の人や田舎の人にナッファと呼ばれる嗅ぎタバコ(噛みタバコ)を愛用する人がいる。街角では紙巻きたばこや新聞を売るキオスクや露店で売られていて、愛好家はパック詰めにされたそれを小瓶かなにかに移し代えて携行し、鼻や口にひとつまみばかり放り込むのである。

ベンアリが田舎の町を視察に訪れた。庶民との交流の様子を国営テレビに放映させて、プロパガンダに利用しようという腹だ。大勢の取り巻きを引き連れてベンアリはスーク(商店街)を歩き始める。

町の人々、みんな感激して、ベンアリを褒め称える。「ああ! わたしどもの暮らしが楽なのは、大統領のお陰です!」 「政府の事業のお陰で町がこんなに綺麗になりました! 大統領のご家族が祝福されますように! 」  そればかりではない。みんなこぞってベンアリに贈り物をしようとする。果物、お菓子、お茶、金細工、革製品、香水・・・・・・。もう大変な騒ぎだ。

そんな中、ベンアリは、スークの角に座っていたひとりの老人に話しかけた。いかにも田舎の素朴なお爺さんといった風体で、庶民との触れ合いの演出にはうってつけの人物。

さも親しげに話かけるベンアリ。

「ご老人、暮らし向きのほうはいかがかな」

「おかげさまで、楽をさせていただいておりますて。本当にありがたいことでございます」

「それはなにより! ご老人、これからも長生きするのだよ」と歩み去ろうとするベンアリを老人が呼び止める。

「大統領どの、ナッファをひとつまみいかがでしょうか?」

「ご老人よ、わたしはナッファはたしなまないもので!」

老人、嘆息して「ああ〜残念! せっかくの鼻なのに!」

要するに、ベンアリの鼻をからかっているわけだ。わたしの友人のひとりに反政府活動を行っていた人がいるが、その人にこのジョークを話したらこんな風に言われた。

「わたしはベンアリのやっていることには反対だが、その肉体的特徴を笑いものにすべきではない」

そりゃごもっとも。

2011/02/02

ベンアリの顔(3)

ベンアリがクーデターによってハビーブ・ブルギバを大統領の座から引きずり下ろして権力を掌握したのが1987年11月7日のことだ。

それゆえこの日は、ブルギバの独裁を破ってベンアリが「民主主義をチュニジアにもたらして下さった」有り難い記念日ということになっていた。チュニジアのお札にも「11月7日は民主主義の始まり」と記されている。

いま、手元には10ディナール札1種類しかないので、なんのお札だったかは確認できない。チュニスの友人に「このお札は今も使われているか?」と冗談で尋ねたら、「まだある」との答えが返ってきた。とはいえ、お金があっても店が閉まっていたり、商品がないので意味がないともいっていた。もっともこれは10日ほど前のこと。今はもっと安定しているだろう。

さて、2009年11月7日、 わたしはチュニスにいた。そのときの新聞はベンアリ一色で、いろいろな企業・団体からのお祝いのメッセージ、ま、阿諛追従というヤツで紙面が埋め尽くされていた。新聞「アッサバーフ(朝)」からその様子を少々ご覧に入れよう。


こびへつらい新聞

2011/02/01

ベンアリの顔(2)

チュニジアがどれだけベンアリの顔で溢れていたか、写真でご覧に入れよう。どれもチュニスで撮ったものだ。

 ビルの上にうっすらと!

戸口にようこそとばかり!

小さい旗で無数に!

これらのベンアリは、偶然写り込んだのではなく、独裁と個人崇拝の記録としてわざわざ撮ったのだ。しかし、公開できるときがこんなに早く来るとは思わなかった。

今頃チュニスの風景がどうなっているかはわからないが、間違いなく独裁者のこれらの肖像は跡形もなく消え去っていることだろう。

チュニジアの友人とSkypeで話をしたとき、「これらの写真を逃亡中のベンアリに見せたら、高値で買うかもしれない。懐かしくて!」と言ったら、笑っていた。