2011/07/04

証拠主義について

「証拠主義について」は、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の機関誌「セタナー」第3号(2011年5月29日発行)に載せてもらったものに加筆したものです。

日本の難民認定審査のひとつの特徴は、証拠主義だといわれています。証拠主義とは、難民であるかないかを、証拠によって判断するということですが、この証拠は審査する側が申請者のために探してくれるわけではありません。この証拠を提出するのは難民認定申請者なのです。これを申請者の立証責任といいます。

たとえば、2回目の難民認定申請をする人に、入国管理局が配っている「2回目以降の難民認定申請を提出する方へ」という次のような文書にもその立場が明瞭に現れています。

○迫害を受けるおそれに係る立証責任は、申請者にあります。

○迫害を受けるおそれ等について、あなたが申し述べたいことがあれば、その全てを難民認定申請書に記載するか、申請書に加えて別に書面を作成し、申請書とあわせて提出してください。

○申請書及び提出された資料等により審理を行いますので、面接による事情聴取(インタビュー)を実施しないで、処分の結果を出す場合があります。

そして、実際に難民認定申請者を悩ませているのが、この立証責任です。申請書には証拠を提出せよと書いてあります。インタビューでは証拠を出せといわれ、出せなければ審査官に信憑性がないと決めつけられます。かくして申請者の多くが「証拠! 証拠!」とうわごとのように繰り返すようになるのです。ですが、外国に逃げざるをえなかった人々が、将来の難民認定申請を予期して十分な証拠をあらかじめカバンに詰め込んでやってくるなど、ありそうにない話です。申請者たちは常に証拠欠乏症に苦しむ宿命なのです。

それで、中にはこんな申請者も出てきます。「証拠がないから」と考えて、自分の難民の証明にとってきわめて重要な事実を事実を審査の場で明らかにするのを諦めてしまうのです。

証拠を出せなかったときに申請者が直面する審査官からの圧力を思えば、わたしにはそうした人を責めることはできません。 ただこれは時として大きな損失を招く可能性があります。申請者が重要な事実を省いたせいで、難民性が弱まったり、根拠をなくしたり、話のつじつまが合わなくなったりして、結果的に不認定となってしまうこともあるのです。

これは、このような証拠主義と、申請者側に立証責任があるという日本政府の立場がもたらした弊害のひとつと考えることができます。ですが、わたしはここでこの証拠主義と申請者側の立証責任のはらむ問題については論ずるつもりはありません。わたしがただ言いたいのは、たとえ証拠がなくても真実ならば、申請者はしっかりそのことを審査の場で明らかにすべきだということです。

そのようなことをしたら、審査官に怒られたり、イヤミを言われたり、嘘つき呼ばわりされたりしてしまう、と心配する申請者もいるでしょう。ですが、その心配は無用です。あなたが難民になった出来事にもしも証拠がなかったら、それを無理に証拠をつけて訴えたり、証拠がないからと隠したりする代わりに、どうしてその証拠を提出することができないかを相手がわかるように説明すればいいのです。つまり、入管が押し付けてきた立証責任を逆手に取って、それが立証不可能であることを立証すればいいのです。そして、その立証が正当なものであれば、もはや審査官も何も言うことはできなくなるでしょう。

おそらく、証拠主義、という言葉が誤解を招くのかもしれません。このように言われると、証拠がなくては話にならないような気がしてきます。ですが、わたしは入管の立場は証拠主義というよりも、論証主義と呼ぶべきではないかと考えています。つまり、難民となった理由が論理的・合理的に論証できていれば難民として認めるという立場です。そして、この論証にはもちろんのこと、証拠がないことの論証も含まれるのです。

日本を含む近代国家の特徴は、あらゆる法、手続き、記録、決定、通知が文書によってなされるということです。国家はテキストという形にいったん変換した上でなければ、国家に含まれるあらゆる事象を取り扱うことはできないのです。難民認定申請もそうです。先の引用では「なんでも書面で!」というようなことが書かれていましたが、難民認定審査は、難民申請者の文字になっていない人生をテキスト化し、そのテキストのみに依拠して行われるのです。

もちろん、これは建前です。わたしたちは表情や声などのテキスト以外の情報を完全に排除することはできませんし、人は無意識に、あるいは意識して、そうした非テキスト情報を重要な判断材料にしているものです。しかし、難民認定審査がそのような意味で建前の世界であるといっても、その建前が成立することなしには、これらの非文字的情報が効果を生むことはないのです。

ともあれ、難民認定審査においては具体的な証拠も、証拠がない事実も、同様にテキスト化されて、同列に扱われるわけですが、そこでは証拠の実在性はもはや問題にはなりません。問題になるのはテキストの整合性のみです。つまり、実際の証拠の有無ではなく、テキスト内の論理性、合理性、整合性のみが重要となるのです。要するに、どんなに価値のある証拠でも、それを紙の上に文字として定着させることができなければ無意味なのであり、また証拠がなくても、それがないことをしっかり論証できれば、それはテキスト上はやはりひとつの重要な証拠として扱われるというわけです。(おわり)