2011/08/31

カエル(3)

彼はカエルのぶつ切りをボールに移した。それから後はNさんにバトンタッチ。

彼は乳鉢にニンニク、唐辛子、塩をたっぷり投入し、念入りにすりつぶす。ペースト状になった調味料とカエルの肉をたっぷりの油で炒めればできあがりだ。

皿に盛られて目の前に置かれる。カエルの肉はわたしも初めてではない。中学校のカエルの解剖の時だって、後で理科教師が照り焼き風に調理してくれた。串焼き屋で食べたことだってある。

だが、皮のままというのは初めてだ。

わたしが躊躇しているとCさんが言う。「この皮が一番おいしいんだ。上野とかでもカエルを売っているけれど、皮を剥いてしまってるでしょ。そうすると旨みが全部抜けてしまうんだよ」

とすると、鮭の皮と思えば? けど、鮭にはねーぞ、腿のところのこのまだら模様! じゃ鯖だ。ま、しょうがない、ひとつ齧り付く。鶏肉のようだとよく言われる肉はもう少し歯ごたえのある感じ。そして、肝心の皮はといえば確かにおいしい。よく油で炒めてあるので、味もしみこんでいる。ねっとりとしていて、焼いた鮪の皮みたいだ。

わたしはもうひとつ皿から取る。だが、小皿に載せてよく見てみれば、ちょうど目の部分。申し訳ないが、皮だけ食べて止めっ。

カエルを料理している間、みんなは興味深げに観察するわたしを見て「カレン人はなんだって食べるんだ!」「ヘビだって!」「サルだって!」と愉快気だった。だが、そう言う割にはみんなこぞってカエルに箸をつけているという感じでもなかった。

2011/08/29

カエル(2)

だが、そのとき家にいた人はカエルの処理に少々自信がないようだった。わたしは面白がって携帯を取りに行く。写真を撮ろうとしたのだ。だが、風呂場に戻ってみると、ポー・カレン人のAさんがカエルを鷲掴みにしている。彼はドライバーの取っ手でその頭を3度ほど叩いた。それでおしまい。

彼はそのカエルを台所に持っていき、水を張ったボールの中に入れる。そして包丁を取り出し、腹を切って内臓を取り出す。きれいに内部を水洗いする。こんなの見るのは中学校のカエルの解剖以来だ。

次に塩をバッと振りかけてもみ洗い。ヌメリを取るのだそうだ。「穴子と一緒」とAさんは語る。

後はまな板の上で包丁を振るって皮の付いたままぶつ切りにするだけ。嘴の先と手足の先だけ少し切って捨てていた。

カエルを捌く様子を見ながら、Aさんにエーヤーワディ・デルタのカエル事情について聞く。

「わたしのお父さんがカエルが大好きで、よく掴まえにいったものだ。雨が降っている日なんかに、バナナの木のあたりにたくさんいてね。泥にいるヤツはすぐに掴まえられる。川の中にいるヤツは、自転車のスポークを尖らしたもので銛を作って掴まえるんだ。夜はヘッドライトをつけて川に行く。するとカエルの目が反射して、光る。それでどこにいるかすぐ分かる。目の光り方で、食べられるカエルかそうじゃないか判別だってつく。それで、夜のうちに掴まえておいて、朝に料理するんだ。

「でも、美味しいのはこんな大きなカエルじゃない。もっと小さなカエルだ。それに小さなカエルのほうが掴まえるのが難しいんだ。

「わたしが十数年前、ビルマを出るとき、お父さんは『お前の掴まえるカエルが食べられなくってさみしいよ』って言ったもんだ。いや、そうじゃない、わたしの掴まえるカエルが特に美味いというわけではないんだ。息子が自分のためにカエルを掴まえてくれる、それがお父さんにはうれしかったんだな。もうお父さん、亡くなったけどね」

2011/08/26

カエル(1)

先々週の日曜日のカレン殉難者式典のあと、あるカレン人の夫婦が娘の3歳のお祝いにみんなにご馳走をするので、と自宅に招待してくれた。

この夫婦は日本で在留を認められるまで非常に苦労した人で、夫婦そろって入管に収容されていたこともある。そのとき、妻の方は妊娠の初期で、流産してしまった。

もっとも、初期の流産は特に理由なく起こることもあるから、入管の収容との因果関係は分からない。けれど、非常に辛い思いをしたのは間違いない。

また、夫婦同時に収容されてしまったため、アパートは放棄されたも同然となり、大家が勝手にふたりの私物を処分してしまった。結婚式の写真などの大切な記録がすべて失われたのである。

それが今では、3歳になる娘がいる。娘の写真も飾ってある。喜ばずにはいられようか、というわけだ。

それで、茨城に暮らすあるカレン人が、この喜びに花を添えようと、前日に贈り物を持ってきた。

大きなウシガエル。

どっかの川で見つけたのだという。本当は2匹持ってきたというのだが、「1匹で十分ですよ」といって断ったとのこと。

わたしが夫婦の家に行ったとき、そのカエルは黒々とした背を見せて風呂桶の水の中でじっと待っていた。

何を待っていたかって? そりゃもちろん、食われるのを。

2011/08/23

納涼

5月に在日チン民族の青年が品川で交通事故で亡くなった。仕事帰りの早朝のことだった。

それからしばらくして奇妙なことが起きた。

彼の家族に妙な封筒が届いたのである。宛名は故人となった若者だ。

不思議に思った家族が開いてみると次のように記された紙が入っていた。

「難民認定の口頭審査を行うのでこれこれの日まで来てください」

つまり、入管が間違えて亡者に出頭命令を送ってしまったというわけ。

わたしの身の回りでも似たような怪奇事件が起きた。1週間ほど前わたしの友人のカレン人の家に入管から出頭命令が届いた。8月31日に品川に来なさい、というのだ。

ところが、そのカレン人は・・・・・・










3ヶ月前から牛久に収容されていたのです。



入管のみなさま、まだまだ暑い日が続きますが、どうかご自愛のほどを・・・・・・。

2011/08/22

カレン殉難者の日式典報告

8月14日、東京でカレン殉難者式典が開催された。主催は海外カレン機構(日本)OKO-Japanで、主な内容は、式典出席者全員によるカレン人の殉難者への献花、殉難者の日の由来と歴史の説明、各招待団体の演説など。

出席者は約90名。

わたしが担当したのは次の2つのパート。

1)カレン殉難者式典のためのメッセージ・ビデオ制作。
これは、5月のカレン・ユニティ・セミナーに参加したとき撮ってきたもので、カレン民族同盟(KNU)副会長デビッド・ターカボーさんと同事務総長ジポラセインさんのメッセージだ。

前者はビルマ語(3分)で、後者はカレン語(4分)。

2)式典後半の特別プログラムとしてカレン・ユニティ・セミナーの報告とビデオ上映。
上映したビデオは次のようなもの。

A. YouTubeで公開されているセミナーのビデオ(カレン語)に日本語の字幕をつけたもの。さらに独自に、カレン・ユニティ・セミナー実行委員会からの日本のカレン人への呼びかけを追加。全部で約9分。

B. KNUのメディカル・トレーニング・センターに行ったときの様子を5分程度にまとめたもの。

C. セミナー会場で捕獲されたオオトカゲをめぐる対話と、その運命を記録したもの(14分)。

プロジェクターなどはめったに使わないので、いろいろトラブルはあったが、なんとか終了。

せっかく作ったのでいずれ上映会でも開きたいと思う。

 敬礼。

今年は新しい趣向として、出席者全員が花を一輪献花することになった。
花は一本100円とのこと。

デビッド・ターカボーさんのメッセージ上映。
各民族間の協力を促すもので
「ビルマ人にもいい人は少しはいるのでビルマ人とも協力すべき」
との言葉にはみんな笑ってた。


 田辺寿夫さんの演説

集合写真

2011/08/20

難民認定申請(4)

さて、今回、対応に出たのは二人の女性職員だった。ひとりは感じが良かったが、もうひとりはにこりともしない。まあ、ひとそれぞれだ。

職員は書類を受け取ると遺漏がないか細かくチェックする。漏れがあった場合は使い回しの付箋をカウンターの下から出してその箇所に貼付ける。

今回指摘された箇所はすぐに直せるものばかりだったので、いったん部屋を出て廊下に並べられた椅子に座って訂正する。こういう作業のため、小机も二つばかり置かれている。

訂正が済むと、再びカウンターに行き呼び鈴をチンと鳴らす。出てきた職員に渡し、もう一度しっかり見てもらう。問題がなければ職員は書類を受け取り、申請者は外で待つように言われる。

込み具合にもよるのだろうが、今回はそれほど待たされなかった。呼び出されてカウンターに行くと、職員がパスポートなどの返却する書類と「難民認定申請受理票」を手にしている。

これこれ! この受理票をもらえば申請は終わり。

受理票には申請者の氏名、生年月日、申請番号、入管の連絡先などが記されており、申請者は 間違いがないか確認しなくてはならない。そして、職員はいくつかの注意事項(住所や電話番号が変わったら必ずこのカウンターに来て報告すること、仕事はしては行けない、など)を述べてから、この受理票を渡すのである。

この受理票は極めて重要で、これさえ身につけていれば、街角で警察や入管に不法滞在で逮捕される可能性はグンと減るのである。まず心配なく 町を闊歩することができるというわけだ。そのせいか、この受理票を何かのビザだと勘違いしているビルマの人が以前はたくさんいた。もっとも、さすがに最近はそうした暢気な人はいなくなったようだ。

難民認定申請(3)

登録証を申請したその晩、あるいは翌朝早くに入管に自宅に踏み込まれてそのまま収容されたというのはよくある話だ。

そのようなわけで、難民申請をする予定のオーバーステイの人は、一日ですべて済ませようとする。つまり、午前中に役所で外国人登録証の申請を済ませ、申請受理票をもらうとその足で、入管に赴いて難民申請をするのである。

何らかの事情で一日で終わらなかった場合どうするか。その場合は自宅には帰らず、誰か知人の家で一晩過ごす。

この3種の書類がなくては申請は受理されないが、これ以外にも文書の提出を求められる場合がある。例えば申請者が政治団体に所属していた場合、その会員証を提示するようにいわれるのがそれである。

また、求められなくても自分の難民性を証明するために必要な書類があれば提出することができる。ただしその場合には日本語訳が添付されていなくてはならない。

難民認定申請書は翻訳がなくても受理される(以前は必ずしもそうではなかった)。とはいえ、今回は申請書のある項目の欄に書ききれなかったのを別紙に記して申請書の一部として提出したら、この別紙の部分は入管では翻訳しないので、自分で翻訳してくるようにと言われた。

別紙でも申請書に関わりがあれば翻訳なしでも提出できた時期もあったように思うが、いろいろと入管のほうでも都合があるのだろう。

2011/08/19

難民認定申請(2)

まれに難民申請時にパスポートを持っていない人がいる。これは例えば、船員として働いていた人が船が日本のどこかの港に停泊した時に、逃げて上陸し た場合、あるいは研修生として来日したが、難民申請のため研修先から逃げて東京に出てきた場合などである。また、なかには自分が決して送り返されないように、空港に着陸した飛行機の中でパスポートを破り捨てた人もいる。

こうした人たちは、申請時に自分がどうしてパスポートを持っていないかを記した陳述書を提出しなくてはならない。

外国人登録証は区役所なり市役所で発行してもらうものだが、申請するときに、この登録証の発行が間に合わないことがある。そうした場合は、登録証の申請をした役所に申請受理票を発行してもらい、これを入管に提出する。この受理票には外国人登録証番号が記されているから、それで用が足りるというわけだ(なお、この受理票はコピーされた後返却される)。

登録証の発行を待たずに入管で難民認定申請をするのには事情がある。まず、来日したばかりで、ビザが切れそうな場合、その前に難民申請を済ませておかなければ、オーバーステイになってしまう。

また、申請者がそもそもオーバーステイの場合も、悠長に登録証を待っていることなどできない。というのも、役所には「不法滞在者」の通報義務があるため、 外国人登録証(これはオーバーステイでも作れる)の申請の時点でその申請者が「不法滞在者」に該当した場合、申請書に書かれた個人情報を入管に通報しなくてはならないのだ。

難民認定申請(1)

二人のアラカン人のお坊さんが難民申請をするので付き添ってほしいとアラカン民主連盟(亡命・日本)ALD (Exile-Japan)の会長のHLA AYE MAUNGさんに頼まれて、品川の入管に行った。

暑いので断ろうと思ったが、わたしはこのアラカン人の団体の顧問をしている関係上、たまには何か役に立たなくてはならない。そこで、二人の若いお坊さんに同行することにした。

難民認定申請といってもたいしたことはないが、一応どんなふうだか記録しておこうと思う。

難民認定申請の窓口は3階にある。すいていれば部屋に入って、カウンターで職員にすぐに渡すことができる。だが、このカウンターは申請だけではなく、難民申請にかかわるあらゆることの窓口にもなっているので、待たされる場合もある。そうした時は、部屋の外に並べられた椅子で待つことになる。

今回はすぐに職員に申請書類を渡すことができた。申請に必要な書類は、申請書、パスポート、外国人登録証の3種。申請書はA4で9ページのもので、入国管理局からダウンロードすることができる。

とはいえ、ここでダウンロードできるのは英語版で、ビルマの難民申請者にはビルマ語版も用意されている。

No.9

在留特別許可は「在特」と略されるが、難民認定申請者の間では「SS」のほうが通りがよい。これは「Special Stay」の略ではないかと思われる。「SS」に対して言われるのが「R」で、これは難民として認定されることを指す。もちろん、「Refugee」から来ている。

ところで、他の民族ではあまり聞かないのだが、カレン人の間で「革命」といえば、日本人が想起する「共産主義革命」とは異なり、「カレン民族解放のための闘い」を指す。

だから、あるカレン人が「I am a revolutionary man」というとき、それはその人がカレン人解放のための闘いに参加していることを意味する。具体的に言えば、カレン民族同盟(KNU)のメンバーだ。

「革命」のこの用法は少し意外な感じがするが、アメリカ独立戦争もThe American Revolutionと呼ぶそうだから、英語のrevolutionの用法としてはさして不自然ではないのだろう。

さて、ここにあるカレン人のおじさんがいる。この人は日本暮らしも長く、日本のカレン人の中ではリーダー格だ。

政治活動にも積極的に関わっているにもかかわらず、難民認定申請をしていない。そこで、わたしは「する気があるなら早く申請してください。入管に収容されてからしたんでは遅いですよ」と彼に会うたびに言っていた。

先日の日曜日のカレン殉難者式典の時にも、この人に会ったので同じことを言うと、こんな答えが返ってきた。

「わたしはRのビザはいらないよ。本当に欲しいのはRevolutionのビザだよ!」

革命ビザ。

無茶いわないで・・・・・・。

2011/08/12

カレン殉難者の日式典

8月12日はカレン人の記念日のひとつで、カレン民族の解放のために命を落とした人々を追悼するカレン殉難者の日(Karen Martyrs' Day)だ。

カレン民族同盟(KNU)の創立者で、カレン人にとっては伝説的な指導者であるソウ・バウジーが、1950年のこの日にビルマ軍の奇襲により殺されたのに由来する。

ソウ・バウジーはカレン人にとっては英雄だが、ビルマ軍事政権にとってはまったく憎むべき敵(ビルマ軍は、カレン人に墓など作らせないためにソウ・バウジーの死体を海に棄てた・・・・・・そういえば最近も似たような扱いを受けた人がいたな)。

だからビルマ国内ではもちろん追悼式典など開催できるはずもない。そんなわけで、この記念日におおっぴらに式典を開けるのは、KNUエリアか、国外のカレン人だけだ。

日本でこのカレン殉難者の日の式典を主催しているのが、わたしの属する海外カレン機構(日本)OKO-Japanで、2006年からのことになる。

ちなみに日本でのカレン人の記念日関係についていえば、1949年のビルマ政府に対するカレン人の武装蜂起を記念する1月31日のカレン革命記念日は、在日カレン民族同盟(KNU-Japan) が、そして1948年のカレン人の大規模デモを記念する2月11日のカレン民族記念日は在日カレン民族連盟(KNL-Japan)がそれぞれ主催している。

3つの団体がそれぞれ分担してカレン人の記念日を盛り立てているというわけで、毛利元就の三本の矢体制とでもいうべきだろう。

日本で行われているもうひとつのカレン人行事にカレン新年祭というものがある。例年開催にあたり中心的な役割を果たす人々はいるが、特定の主催者といったものはない。

さて、今年のカレン殉難者の日は、8月14日に豊島区の勤労福祉会館で行われる。

時間は正午から午後4:00まで。といっても、式典があるのは最初の一時間ちょっと、あとは出席各団体からのスピーチ。それから、タイ国境の報告&ビデオ上映。

報告&ビデオ上映というのは、5月にタイ・ビルマ国境で開催されたカレン・ユニティ・セミナーに関するもので、わたしが担当。時間にして1時間弱。

まず、YoutubeにUPされているカレン・ユニティ・セミナーのビデオ(9分)を日本語字幕つきで上映し、つぎにわたしが撮影した映像を15分〜20分ぐらいに編集してお見せする予定。

ところがまだ編集が終わっていない。というか、金曜日の今の時点でようやく編集できる状態になったとこ(つまり、撮影したものをコンピューターで編集できるように変換し終わった)。

だいじょぶか。

2011/08/06

DOOMED ENOUGH No.1(日本語版)

「DOOMED ENOUGH No.1」は在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の機関誌「セタナー」第3号(2011年5月29日発行)に載せてもらったもの。

もともと英語(たいした英語ではない)だったので、このブログに載せるにあたり、日本語版も作ってみた次第だ。



骨太の名演説(2)

このロンジー、どのように着るかというと、まず下半身を筒の中に入れる。そして余った丈を脇でピンと張って、その両端を絞るか、ぴったり折り畳むかして、腹のあたりで合わせて丸めるのである。ま、なかなか言葉で説明できるものではない。要するに、これを身につけるにベルトもボタンも紐も用いないということが分かればよい。

わたしがロンジーに着替えるために立ち上がると、ある人がトイレで着替えると良い、と勧めてくれた。これはもちろん、普通はロンジーの下は下着だからである(下着すら履かないこともある)。だがわたしは断って、会場の隅で着替えはじめた。というのも、わたしはたいていズボンの上から纏うことにしているから。

直に履くなんてとてもじゃないが危なすぎて!

わたしはロンジーには慣れ親しんでいるつもりだし、タイ国境に行くときは一日中それで過ごすこともある。だが、それでも真似事に過ぎない。ビルマの人の着こなしに比べれば、わたしのそれはいかにも野暮、優美でも粋でもない。

よく若い人がへその下あたりでキュッと丸くダンゴを作って纏っている姿を見かけるが、これは実にイナセそのもの、惚れ惚れする。だが、不慣れなわたしはそんな風には行かない。

しかも、見た目だけでないのだ。何一つ留める物がないのに、このロンジー、着る人が着ればまったくずり落ちない。ヤンゴンの街角では、財布を腰とロンジーの間に挟んで歩いている人によく出くわすが、これはまったく驚くべきことだ。わたしがそんなことをしたら、財布がいくつあっても足りゃしない。

つまり、ロンジー文化で生まれ育った人にとっちゃ、ロンジーとは確かな相棒みたいなもの。いつだって、しっかりしがみついててくれる。ところが、こちとらベルトの文化で育ったほうにとっちゃ、その逆で、そいつは隙を見ちゃ逃げ出したがる油断のならんヤツだ。ふと立ち上がった瞬間、あるいはちょっと腹に力を入れた瞬間にいくどハラリとほどけ落ちたことか。けだしロンジーとは重力との闘いにほかならぬ。

さて、会場の隅でロンジーを広げていると、友人の一人が巻くのを手伝ってくれた。わたしがやり慣れているのとは違う巻き方だが、きっちりしたやり方なので、総会という公式な場にはふさわしく思える。彼はデジカメでわたしのロンジー姿を撮り、それを見せてくれた。「そう、これこれ!」 わたしはすっかりご満悦だ。

そのまま元の席に戻って隣の席の前会長のZAW MIN KHAINGさんに自慢のロンジー姿をさっそく披露。

そのZAW MIN KHAINGさんの演説の後が、わたしの出番だ。

わたしは前に進み出て、会の旗に敬礼し、演説台越しにALD (Exile-Japan)のメンバーを見渡す。そして、件の骨太の名演説をはじめたのであった。と、思ったら、ロンジーが緩んだ。慌てて締め直すが、例の骨太がもう台無し! みんな笑ってるし。「やあ、愉快な顧問だ!」 

もうなるようになれだ。

ほうほうの体で席に戻ると、ZAW MIN KHAINGさんが「良かった!」と褒めてくれた。おカタい総会にも幕間の喜劇も必要だ、というわけ。なんにせよ、アラカンのみなさんの度量の広さに救われたという一幕で。

《後日談》
そのとき会場に居合わせた友人が、後で「素晴らしい話だった!」と言ってくれたので、うれしくなったわたしは「良かったって、どのあたりが良かった?」と尋ねたら、途端に困った顔で「ちょっとわかりません、すいません」と言われました。

2011/08/05

骨太の名演説(1)

アラカン民主連盟(亡命・日本)ALD (Exile-Japan)の会長HLA AYE MAUNGさんから、7月24日の総会で少し話をしてほしいと頼まれたのが、6月の終わり。

それまで、ひと月近く時間があったのだが、話の内容がまとまったのが、総会の直前。

もっともまとまるといっても、たいした長さではないので、それほど難しくはない。

とはいえ、せっかくの機会だから、自分としては一番伝えたいメッセージを盛り込む。頭の中ではズバリ骨太の名演説ができあがった。

会場に着くと、わたしは自分のスピーチの順番を確認。そして、速やかにロンジーを着用する。

ロンジーとは、ビルマの人々が、ズボンの代わりに普段着用する筒状の着物だ。ビルマのたいていの民族がこれを着ている(ただし、シャンとカチン文化圏ではズボン)。

南インドでもルンギー(タミール語ではチャーラム)といって同様のものを着るから、これはインド文化圏からビルマに伝わったにちがいない。

ならば、ベンガル湾に面するアラカン人の土地こそ、ビルマにおけるロンジー文化の発祥の地ではないか。もっともこれはわたしの憶測にすぎない。

それはさておき、アラカン人のロンジーはビルマ人やカレン人のそれとも異なる独特なもので、一言でいえばきらびやか。金糸や銀糸を密に織り込んだその生地は渋い光沢を放っている。模様はたいてい細かい斜め格子で、格子の中にも花のようなデザインが置かれている。

わたしはこのアラカン風のロンジーをある友人からいただいていた。そこで、この機会に着用に及んだというわけだ。ちなみにわたしのロンジーの生地はこんな感じ。

2011/08/04

ビルマまんが道

日本でも在日ビルマ民主化団体によって数種の雑誌が定期的に刊行されているが、そのどれを見てもたいてい載っているのがビルマの政治を風刺する一コマ漫画だ。

クオリティはさまざまで、面白いものもあれば、そうでないものもある。また、ビルマの人にしかわからないものもある。絵についていえば、もちろん上手な人もいるが、そうでない人もいる。

もっとも、絵が上手でなくても成り立つのが一コマ漫画というもの。また、それほど上手でなくても、描き続ければ、上達もするし、独特な味も出てくるのが絵の世界。

そのような味の境地に達したのものに、ある在日カチンの漫画家がいる。彼はタンシュエを描くにあたり、この軍事政権の最高実力者にものすごく醜い容貌を与えたのみならず、その軍服にウンコをあしらってみせた。

爾来、わたしはタンシュエを見るたびに、必ずウンコを想起するようになった。もっとも、その逆の現象は今のところおきてはいない。

また、在日カチン人にはもうひとり別の漫画家もいるが、この人の作品は群を抜いている。こうした作家たちの漫画をいつかまとめて紹介できればよいと思う。

ついでにいえば、入管への収容をきっかけに、漫画を本格的に描きはじめる人も多い。収容生活においてはそうした創作活動は命をつなぐ行為ともなりうるのである。

さて、BRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)では「セタナー」という機関誌を発行していて、今度の8月8日に第4号を出す予定だが、これにも漫画を毎号掲載している。

漫画を載せる、というのは編集長たるわたしの断固たる方針だが、実のところそんな方針がなくとも漫画は当たり前のように集まってくれるので、うれしいかぎりである(うれしいついでにわたしも漫画を描いて掲載してもらった。後ほどご紹介するとしよう)。