2011/10/26

アンナハダ党訪問その3(チュニジアレポート11)

2階の写真撮影もOKとのことだったので、エレベーターの脇にある階段を上って2階に行く。

部屋がいくつかあり、中を覗く会議中だったり、コンピュータに向かって仕事をしていたり、立ち話していたり。

ほんとに写真撮っていいのかね、とためらっていると、若いスタッフが大丈夫大丈夫と促すので、適当に撮る。

そのうちやってきたのが別の年配の職員で、「誰かと話したくないか?」と聞くので「もちろん」と答えると「じゃあ、来い」と上に連れて行かれる。

すると、さっきの若いスタッフがやってきて、ちょっと写真見せてくれ、というのでデジカメを見せると、「これは消してくれ」と一枚だけ削除された。立ち話の写真。写りたくない人がいたらしい。

さて、連れて行かれたのは4階。部屋に通される。中にいたのは50代の男性。下の階でアンナハダのパンフレット(アラビア語、フランス語、英語)をもらっていたのだが、それに記された経済政策のマニフェストを担当したという。

名刺を渡される。リザー・シュクンダーリーさん。チュニス大学の経済学の教授だ。

手前がシュクンダーリーさん

早速、チュニジアのこれからの経済政策について深く斬り込む、といいたいところだが、わたしには経済の知識はまったくない。それでも、基本的なことは理解できたように思うので以下にそれを記す。

チュニジアの経済の問題は、高失業率、政府の腐敗、貧富の格差であり、これを解決するために社会に3つのセクターを設ける。ひとつは公的セクター、これは政府。2番目は民間セクター、要するに民間の商活動。そして第3のセクターが、社会経済的セクターでNGOなど非政府・非営利組織が担う。

公的セクターは本来、民間セクターが自由に活動できるように支援するべきものであるが、革命以前は政府が腐敗していたため、これが機能していなかった。そこで、公的セクターを立て直すことで、民間セクターを活性化させる。

もうひとつ重要なのが第3のセクターで、これは革命以前にはほとんど機能していなかった部分だ。このセクターの主役はNGOなどの非政府・非営利団体だが、これらが政府の働きを補完することにより、公的支出の削減と富の分配が期待できるという。

この第3セクターの思想的背景には、やはりイスラムのザカート(喜捨)があるのだという。

さて、さらに具体的な数字をあげた話もしてくれたが、これは難しくてサッパリ。しかし、チュニジアだけでなく、エジプト、リビア、アルジェリア、モロッコをも含めた経済連合の話は夢があって面白かった。

最後にアンナハダの政治活動について尋ねたのだが、そのとき同席していた男性が静かな自信とともに次のように答えてくれたのが印象深かった。

「われわれチュニジア人は、生まれつき、そして歴史的に中庸主義(moderate)なのです」

わたしはそれは本当のことだと思うし、今回の選挙ではチュニジア人は今のところそれを十分証明していると思う(ちなみにわたしは日本はそれほど中庸主義だとは思わない。いや、極端に異なる意見に出会うことがないので、そもそも日本人が中庸というものを理解しているかどうか怪しいものだ)。

2011/10/25

アンナハダ党訪問その2(チュニジアレポート10)

本部となるとさすがにでかくて、丸ごとビルひとつだ。



ところで、ここでどうしてこのアンナハダが注目を浴びるかについてもう少し説明したほうがいいかもしれない。

イスラム主義を掲げるこの政党がチュニジア人の期待を集めていることについてはすでに触れたが、チュニジア人だけでなく国際社会もまたこのアンナハダを注視している。それはこの政党の動き次第によっては、チュニジアが内戦のアルジェリア、あるいは原理主義のイランのようになる可能性があると考える人々がいるからである。

そうなったら大変だ。「アラブの春」は失速し、ヨーロッパは大きな市場と安価な労働力を失い、そのかわり厄介な「敵」と難民の流入に苦しむことになる。

もっともわたし(と多くのチュニジア人)はチュニジアが内戦状態になったり原理主義国家になるようなことはまずないと思っており、これはまさしく杞憂といっていい。

しかし、たとえそうだとしても、チュニジアが国家としてイスラムをどう扱うか、どのように政教分離を確立するか、どのように原理主義を押さえ込むかは非常に重要な事柄であるにちがいない。 そしてこの問題をめぐるキープレーヤーだと考えられているのが、イスラム政党のうちで最も支持を集めているこのアンナハダなのだ。

さて、本部はといえば、さすがに活気にあふれていた。人の出入りも多く、中には報道関係者もいる。しかも後で知ったのだが、ちょうどわたしが行ったときには国連の視察団も訪問していたとのことだった。

とはいえ、わたしはメディアでもなければどっかの機関の人間でもない。つまみ出されるかもしれん。そこでおそるおそる中に入る。

入り口には若い男性がいて党のチラシなどを配っている。中央にエレベーターがあって、右側に受付、左側に部屋がいくつかある。壁には全国の選挙区でのアンナハダのリストが所狭しと貼られている。

このとき同行してくれたのが、友人のワーセル氏で、彼が担当者らしき人と話をしてくれる(彼は日本語もできる観光ガイドだ。もっともわたしは彼がガイドになる前からの付き合いだ)。

1階と2階なら撮影してもいいという。そこで、写真を撮らしてもらう。

受付の様子。

各選挙区のリスト。

政党のパンフレットをもらいにきた若者たち。

撮影していると急に騒がしくなる。さっそうとした女性が玄関から入ってきたのだ。ビデオカメラを持ったカメラマンやインタビュアーがその後を追いかけ、彼女にマイクを向ける。

わたしはその女性が誰だかすぐにわかった。アンナハダのチュニス2選挙区の第1位の立候補者だ。「おいでなすった!」とばかりに、わたしもどさくさにまぎれて写真を撮る。

 スアード・アブドッラヒーム

ベルギーのメディアの取材 

リストの第1位

イスラム主義をというとチュニジアでは女性はたいていスカーフで髪の毛を隠しているものだが、この女性候補はそうせずに髪の毛を見せているので話題になっている、とワーセル氏が教えてくれた。

2011/10/24

アンナハダ党訪問その1(チュニジアレポート9)

さて、選挙も終わり、すでにイスラム政党のアンナハダ(チュニジアの発音ではアンナハザ)が優勢との予測も出ている。

独裁政治にはその独裁を正当化する敵が必要で、ビルマの場合はそれは少数民族の「反乱分子」であるが(民主化勢力では決してない)、チュニジアの場合は「イスラム原理主義との戦い」という名目がその役割を果たしていた。

このアンナハダはそのような敵のひとつと見なされていて、ベンアリ時代は非合法化されていた。

だから、革命後まったく新しいチュニジアを作ろうというときに、最も迫害されてきた政治団体のひとつであるアンナハダに人々が期待をかけるのも当然の話である。

また、チュニジアのイスラムは他の国に比べて非常にリベラルであるというが、それでも人々の心のよりどころであることには変わりはない。多くの人々はイスラムの精神に立ち返って国をきれいにしてほしいと望んでおり、その点、穏健なイスラム主義を掲げるアンナハダは国民の希望にぴったりかなっているといえる。

選挙前からこうした話を聞いていたので、いっちょアンナハダの選挙事務所に行ってみようか、と軽い気持ちで思ったわけだ。選挙前日の22日のことだ(ちなみにこの日はすべての選挙活動が禁止されている)。

まず行ったのは、ロンドン通りにある支部の事務所。歓迎してくれたが、写真を撮りたいというと、本部の許可がないと無理という話。

もちろんこっちもそんなに真剣な気持ちできているわけではないので、「はいそうですか」と引き下がったら、親切にも「本部なら大丈夫ではないか」と助言してくれた。

なら行っちゃうか、と本部のあるモンプレジールまでタクシーだ。

 アンナハダのリスト

ロンドン通りにあるアンナハダの支部事務所。3階にあり、集会所などもある。

支部事務所に張られていたアンナハダのポスター

うかれすぎだろ(チュニジアレポート8)



街で見かけたミニッツメイドの宣伝。

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手に手を取って、明日のジュースを選ぼう!

リスト番号1 人民パイナップル党
リスト番号2 進歩マンゴー党
リスト番号3 グアバ緑の党
リスと番号4 自由オレンジ運動

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便乗にもほどというものが。

しかし、このセンスがチュニジア人のいいところ。

リスト(チュニジアレポート7)

リスト(liste)というのは各政党(もしくは政党の連合体)が提出する候補者名簿のこと。

リストには、政党のシンボル、候補者名、顔写真、リスト番号などが特に決まった様式なく記されている。リスト番号というのが重要で、有権者は投票するときにこの番号にチェックを入れる。

投票用紙にはまた政党のシンボルも記されていて、それをたよりに票を投じることもできる。文字の読み書きが不得意な人のための配慮だ。

シンボルはアリ、ハチ、ハト、天秤、鍵、眼鏡、ナツメヤシの実、船などいろいろだ。眼鏡は党首が眼鏡を着用しているからだそうで、キャンペーンとして紙製の眼鏡を配っていた。この眼鏡党(もちろん正式名称ではない)、有力視されている政党の一つだ。

リストに記された候補者名には順位があって、各リストの得票数によって当選者が決まる。もっともそれだけではなく、もう少し複雑なルールがあるようだがわからない。

さて、このリスト、選挙区によって違うが70から80ある。街角にリストとマニフェストが組になってずらりと張り出されていて、道行く人が足を止めて眺めている。

よく見ればビリビリに破られているものもあるが、これはいいのかね。






2011/10/23

落書き(チュニジアレポート6)

革命時には街のあちこちで政権を批判したり、人々を励ましたりするような落書きが見られたそうだが、今ではほとんどなくなってしまったとのこと。

以下に目につくところにあった落書きをいくつか。

「ベンアリババと40人の盗賊のいないチュニジアはなんて美しいんだ! 」 

 「自由は日々の実践」

「ガダフィはチュニジアの革命にとって危険だ!」

「権力を民衆に」
手前を歩いているのはマシュムームという小さな花束
(チュニジア男性の粋なアイテム)を売る少年

最後の言葉(チュニジアレポート5)

街中にあったベンアリの肖像はすっかり姿を消したが、それでもまだ残っているものはある。その一つがこれ。


w-illiː ɣalltˤuː-niː maː-zaːluː
「わたしを誤らせたヤツらはまだいるぞ」

「わたしを誤らせた」とは、ベンアリが国外逃亡する前にした演説にちなむ。つまり、自分の取り巻きがわたしを誤らせたためにこのような事態になった、というようなことを言ったのだそうだ。

投票しよう!(チュニジアレポート4)

チュニスの中心、ブルギバ通りのイブン・ハルドゥーン像の近くに、展示館のような建物があってベンアリ時代には政府がいかにチュニジアのためによいことをしているか、そういった写真が表に貼られていたのだが、今回、中をのぞいてみたら、チュニジアの芸術家によるそれぞれ投票を呼びかけるアートが展示されていた。そのうちの数点をここに紹介する。

「投票しちゃだめ! わたしがみんなのために働くよ!」とベンアリが。

「初めてだから、入れる前によく考えて」 

「こうならないよう投票して!」

選挙広報(チュニジアレポート3)

政府のほうも選挙の周知に力を入れていて、「選挙に行こう」ステッカーや選挙の手順を記した紙を配るばかりでなく、その手順をビル全面に描いて宣伝していたりしている。

ビルに描かれた選挙の手順

これは、ひとつには選挙というものを経験していない人がたくさんいることによる。また、写真を見ればわかるようにイラストが付いているが、これは高齢者には文字の読み書きできない人がいるので、そうした人にもわかるように配慮しなければならないからであろう。

さらに考えられるのは、このように政府が投票を呼びかけるということは、選挙そのものの公正性を国内外に訴えることにもつながるということだ。

長年不正な選挙を経験してきたので、国民の中にはどうせ政府のやることだから、と否定的な考えをする人もいるそうだ。

また、選挙が公正な手続きを踏み、政府がそのために努力したことを世界にアピールするのは、今後の政権が国際的にどのように扱われるかを左右しうる重要な事柄だ。

チュニジア政府がEUと国連の選挙監視団を積極的に受け入れているのもこうした背景があるに違いない。聞いた話によれば、政府は国連に4,000人の監視員を要請したが、現在2,500人しかきていないそうだ。
EUの選挙監視団のマーク

チュニジアの首相、カーイドシブシーは20日の演説で、選挙が公正なものであり、選挙によって選ばれた政権に速やかに権力を委譲することを明言している。

ビラ(チュニジアレポート2)

ベンアリ政権の崩壊した1月14日以降、チュニジアは暫定政権のもとにあって、正式な政権と憲法を確立するのが第一の課題であるのだが、そのための議会の代表を選出するのが10月23日の選挙の目的だとのこと。

もちろん、全国的な選挙で国民の関心も高い。街を歩けばいたるところで選挙の広報、候補者のビラ、キャンペーン。

わたしもあちこちでビラをもらって歩く。しかし、全部なんてとてもじゃないが集められない。なにせ、111も政党があるというからね。


ま、乱立状態というやつだが、これにさらに無所属が加わるらしい。

チュニスのメディーナの入り口、バーブルブハルで政党のビラを配っている人たち。 

 壁に貼られた政党のステッカー。アラビア文字で「民衆運動」という党名が書かれている。


選挙のキャンペーン・カー。下は共産主義政党。 

壁に貼られたステッカー。

もちろん、ベンアリ大統領の時代にはこんなことはありえなかった。いちおう野党はあったにしても。

ベンアリ時代に対抗して大統領に立候補した人の話を聞いたことがあるが、選挙活動の妨害が半端なかった。いや、そもそも当局が立候補の届けを受け取ろうともしなかった。しかも、非合法化された政党もあり、多くの活動家が投獄されたり国外に逃げていたりした。

ま、そんな時代を耐え忍んできたわけだから、大いに派手にやるべきなのは間違いない。


しかし、それにしても、みんな、ビラ、ポイ捨てしすぎじゃね!?


新しいチュニジア(チュニジアレポート1)

突然だが、これからしばらくチュニジアからのレポートを。

わたしはいちおうチュニジアのアラビア語を勉強している身でもあるので、それが主目的でもあるのだが、なんといっても今年の一月のジャスミン革命だ。

ビルマ民主化だけでなくこっちの民主化も興味があるというわけで。

ちょうど10月23日にチュニジアで革命後初めての選挙があるのでひとつ見物してやろうと。物見高いね。いつか身を滅ぼす。

それはさておき、19日に到着して、さっそくチュニスの街を歩いてみた。革命の後、どんな風に変わったか見てみたくて。

全然違う。

もちろん、町並みが変わったわけでもない。また、騒乱の傷跡が今なおはっきりと残っているわけでもない。いや、そういや少しは変わってる。街中至るところにあった独裁者ベンアリの肖像が一枚たりともなくなったとか、モノプリ(スーパーマーケットの名前)の入り口に鉄格子がはまっているとか(デモのときの略奪を防ぐため)。

でも、そんなのはたいした変化じゃない。四捨五入すれば消えてなくなる。

だが、人間の変化だけは消してなくしてしまうことはできない。そう、人がまったく違うのだ。

みんな表情が生き生きしてる。華やいでる。政治が変わっただけで、こんなに変わるものかと驚いた。

わたしにとってはチュニジア人は決して幸福そうじゃなかった。目眩がするほど深い文化と途方もないユーモア感覚に恵まれながらも、どこか悲しげだった。いやそれどころかいつもイライラしてる感じだった。慢性の糞詰まりで今にも病気になりそうだった。

ところが、今じゃみんなすっきりさっぱりした顔つき。足取りも軽やか。なんだか知らんが謳歌してる。長年の重しがとれた。いい風吹いてる感じ。野良猫まで太ってる。

もちろん、失業率は相変わらず。貧しい人は貧しいまま。問題は山積みだ。「だが、それがなんだ、なにしろ新しいチュニジア(Tuunis Jdiida)だ、文句あるか!」てな勢い、本当に自由は人を変える。

 ハンバーガー屋で談笑する若者たち。

街角風景

2011/10/18

さて、iPhoneに関してもう一つエピソードを。

在日ビルマ難民の一人(男性)がiPhoneが欲しいというので一緒にヨドバシカメラに行った。

iPhone4S発売の前日のことで、売り場ではiPhone4が半値以下で売られていた。つまりこれがわれわれの狙いだったわけ。

16GBは19800円。32GBは29800円。余計なサービスも買わなければならないがそれでも安い。

在庫を聞いて見ると、32GBはホワイトとブラックが揃っているが、16GBにはホワイトしかないとのこと。

ここはもちろん彼には16GBしかない、というのが、iPhoneの先輩たるわたしの考えだった。iPhoneどころかパソコンももっていない彼に32GBなどメモリの持ち腐れ。

「16GBでいいんじゃない」
 
しかし彼はどうも乗り気ではない様子だ。わたしはさらに言う。
 
「16GBで十分ですよ!」 これじゃブレードランナーのうどん屋だ。
 
結局32GBのブラックを選んだ彼は、わたしにこっそり打ち明けた。
 
「白なんて、女の子が使うもんでしょ」
 
わけのわからんこだわりっ。

ちなみにいえば、わたしは白の64GBである。

iPhone

以前、在日ビルマ難民の友人が、都内にあるビルマ料理の店で飲んでいたら、いつの間にかiPhone
のSIMチップが盗まれていたという出来事があった。

その友人も首を傾げる事件で、申し訳ないがわたしは思わず笑ってしまった。

それはさておき、このiPhone、在日ビルマ人の中でもけっこう使っている人がいる。

とはいえ、iPhoneはビルマ文字には対応していない。以前は、このiPhoneの制限を無効にして、つまりいわゆる「ジェイルブレイク」というやつを行ってビルマ文字入力ができるようにしている人がいたが、今はそんなことができるかどうかわからない。

それに今は少なくとももうそんな必要もないらしい。App Storeで無料アプリiMyanmarやMMkbLITEをインストールすれば、ビルマ文字でメールのやり取りをしたり、ビルマ語のサイトをちゃんと見ることができるそうだ。

もちろん、iPhoneでビルマ語が公式にサポートされるに越したことはないが、それこそこれは、ビルマ国内の平和と民主主義の進展に大いに関係ある。

でも、いいよな。ヤンゴンにアップルストアができたら

もっとも、いまのところはこれはアップルのお気に召すアイディアではないらしい。それに、ビルマ当局にとってもアップルは大変剣呑な企業だ。

なぜかというと、アップルのロゴをじっくり見てほしい。シャン州かカレン州が分離独立したようにみえるでしょ。

こりゃビルマ連邦を破滅させようとする輩にちがいない、というわけ(すいません冗談です・・・・・・)。

2011/10/06

イスラム世界

ビルマとは関係ありませんが、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の発行する「アジア・アフリカ言語文化研究 (Journal of Asian and African studies) no.82」(2011年9月30日発行)に論文「アラビア語チュニス方言における名詞∫ay《もの》の用法の階層性」が掲載されました。以下のリンクからダウンロードすることができます。

http://hdl.handle.net/10108/65511

ちなみに、この82号には2本の論文と3本の資料が掲載されています。もうひとつの論文は中世エジプト史に関するものです。資料はパレスチナ抵抗運動に関するもの、中央アジア史に関するもの、エジプトのことわざを扱ったものです。つまり、どれもがイスラム世界に関係しているわけです。

たまたまそうなっただけなのかもしれませんが、イスラム世界といってもチュニジアのことばのほんの限られた部分しか知らない自分にとっては、他分野の研究をまとめて読むことができて有益でした。

鈴木啓之さんの「ハマース憲章全訳 パレスチナ抵抗運動の一側面へのアプローチ」は、イスラーム抵抗運動(ハマース)が1988年8月18日に発表した憲章を紹介・翻訳したもので、やはり同年同月の8日に一つのピークを迎えたビルマの民主化運動や難民問題に興味を持っている人にとっては面白いかもしれません。

2011/10/05

凧とビデオ

2004年のこと、当時牛久の収容所に3年近くも収容されていたカレン人がいた(この頃は2年以上の収容は珍しくなかった)。彼をMさんと呼ぼう。

その頃は毎月のように牛久に面会に行っていたので、Mさんにもよく面会したものだが、彼はビルマに残してきた中学生の息子さんのことをいつも気にかけていた。その母、つまりMさんの奥さんは病気ですで亡く、その子は親戚の家に預けられていた。

その年の10月、わたしはたまたまヤンゴンに行く用事があったので、彼の親戚の家もついでに訪ねた。女性たちがわたしを出迎え、涙を流しながらMさんの息子を連れて来てくれた。

少年は父の使者だという日本人を見てもとくに心動かされた様子はなく、すぐに外に遊びにいってしまった。ついていってみると、庭の石段に座って他の子どもと凧の糸を糸巻きにくるくる巻き付けていた。わたしは彼の姿を写真とビデオに収めた。

帰国すると早速、写真を現像して、牛久に持っていった。問題はビデオだ。入管の収容所内ではビデオやDVDを見ることができない。しかし、せっかく撮影したのだから、わたしは是非Mさんに見て欲しかった。

そこで一計を案じた。面会所には携帯電話やカメラの持ち込みは禁じられている。しかし、パソコンはダメとは言っていないのである。

わたしは面会室にパソコンを持ち込み、そこで撮ってきた映像を再生し、Mさんに見てもらった。

入管職員が面会室をのぞき込んだ。わたしは緊張したが、職員はただ眼を丸くしただけで行ってしまった。

わたしはこのときのMさんの反応を覚えていない。おそらく入管の職員のほうばかり気にしていたせいだろう。ただ覚えているのは、ビデオを見た後、Mさんがわたし「指見た? わたしの息子、手に小さい6本目の指があるんだ」といい、わたしが「気がつかなかった」と答えたことだけだ。

今年の10月3日に牛久に面会に行ったら、面会の前に「携帯、カメラ、パソコンは持ち込み禁止」と言われた。わたしの他にも同じようなことをした面会者が何人もいたのにちがいない。わたしの使った手はもう使えない。

さて、それからしばらくして、Mさんは釈放された。わたしはこの時見せたビデオをDVDに焼いて渡した。2006年の10月、Mさんはお酒の飲み過ぎで亡くなった。孤児となった彼の息子は葬儀のために来日し、今も日本にいる。

 Mさんの息子が暮らしていた家
(2004年10月ヤンゴン)

2011/10/04

忘れた頃に

ビルマ難民の友人の仮放免申請のために、茨城牛久の東日本入国管理センターに行った。

時間の都合で、面会したのは彼ひとりだが、その人が言うには一週間前、被収容者に防災ジャケットとヘルメットが配られたとのこと。

収容房には地震の際に隠れて身を守るものが何もないからだそうだ。これらは普段は自分の棚に置いておく。

しかし、震災からもう7ヶ月も経とうとしているのに、遅すぎではないのか?

あるいは、早すぎるのか。

小銭への憎悪

日本在住歴20年になるカレン人難民の女性にお昼をおごってもらった。

支払いを済ませたその人が「あー、日本人になっちゃったよ!」というので何かと思って聞いてみたら、「財布に小銭を入れていくのがイヤになった」とのこと。

つまり、彼女が言っているのは、支払額が例えば748円の時に、1048円出してお釣りを300円にして10円玉や1円玉を減らそうとするその策略のこと。もちろん、803円だしてせめて1円玉を追い払おうという悪あがきも含まれる。

彼女によれば、こんなことをするのは世界でも日本人だけだとのこと。わたしはそんなことはないだろうとは思うが、時には仕事でレジ打ちもする彼女は「少なくとも中国の人はしない」と主張した。

1円玉を憎むこと甚だしく、小銭入れに4枚ある時点で不愉快、5枚で激昂、9枚以上で半狂乱となるわたしにしてみれば、機会あるごとに財布から小銭を追放しようというのはまったく当然のことのように思えるが、こうした心的態度も決して普遍的なものではなく、小銭なんかいくらあろうともへいちゃらというほうが普通という文化もあるのだ。

こういう話になると、 「それは日本人は計算が得意だからだ、教育が行き届いているからだ」という人がいるが、これは「自民族中心主義」的な古くさい見方だ。

おそらくもっと複雑な文化的な仕組みが働いているはずで、それにはお金を支払うことや何をもってサービスとするか(つまり売り手と買い手の関係性)に関する態度も含まれるに違いない。

ことによったら、ある文化における小銭に対する態度が、その文化がいかに少数派を受け入れるかという社会の寛容度と結びついている可能性だってあるかもしれないのだ(例:「金をはらう」と「追いはらう」と「はらい清める」)。