2012/05/17

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(6)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の6回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき)
カレン人の大量虐殺

大量虐殺の法的定義は、ビルマも批准している「1948年の大量虐殺の防止とその犯罪の処罰についての国連会議第2項」に以下のように見出せる。

「本会議において、大量虐殺とは、全体的にせよ部分的にせよ、国家や民族、人種や宗教基づく集団を滅す意図で行われる次のような行為のうちいずれをも指す。
1.その集団の成員を殺す
2.その集団の成員の身体や精神に深刻な被害を与える
3.全体的にせよ部分的にせよ、物理的破壊を意図して、その集団の生存条件に害を故意に与えようとする。すなわち、
4.その集団内の子どもの誕生を妨げる手段を強制する
5.子どもたちを強制的に他の集団へと移動する」

2000年にKNUは、(独立したNGOの協力の下に)カレン民族大量虐殺反対委員会を結成した。この委員会の目的は、われわれが強いられている状況が、いかに上記の定義、特にはじめの3点に合致するかを、記録し、公表することにある。

歴史的にはカレン人に対する虐殺は次のように生起した。ビルマの政治状況は、独立より
 1962年のクーデターに至るまで動揺しており、いくつかの住民紛争はあったが、全面的、あるいは計画的な民族絶滅作戦はなかった。これが、1963年、ネウィンが経済、そして、さらに重要なことに学校を国有化したときに変わったのである。これ以前にはわれわれは、自分自身の学校を第10学年まで持っていたのである。ネウィンは、カレン人学校に対する州政府の援助を打ち切り、教室でのカレン語の使用を禁じた。またネウィンは宗教に基づく学校も国有化したので、いかなる宗教的活動も行えなくなり、結果として、カレン人のためのミッション・スクールもまた閉鎖されたのである。

そして、ネウィンはカレン人に対する軍事行動を再びはじめ、カレン人のみが銃を置く一方的停戦を要求したが、われわれをこれを拒んだ。

1960年代中ごろ、カレン難民危機が始まった。これはネウィンが「四分断」政策を始めたときに起きた。この政策における彼の目的は、カレン人の収入、情報伝達、 兵の補充、食糧供給を分断することであった。彼ははじめてカレン人の収穫物の破壊を命じた。また、われわれがわずかな課税によって収入を得ていたタイとの国境貿易も禁止された。情報に関していえば、われわれには村落間を人が走って情報伝達する仕組みを築いていたが、ネ・ウィンはこれを破壊しようとした。兵の補充の分断のためには、村を丸ごと強制的に移し、村の指導者を拷問の末に殺すことで、村人たちがKNUと連絡を取れないようにした(こうした強制移住は後に、ビルマ軍に強制労働を絶え間なく提供する手段として用いられた)。そして最後に、最初に挙げた分断目的と同じような意味で、村を焼き払い、穀物をだめにし、家畜を略奪するよう命令がが下された。

要するに、SPDCがいまなお遂行している四分断作戦とは、カレン民族に対する組織的な焦土作戦なのである。その最終的な目標は、カレン人とカレンの文化的アイデンティティの破壊にある。そして、この蓄積がもたらす効果は、民族浄化、民族虐殺以外のなにものでもない。

四分断作戦が開始されてから20年ほどの間は、われわれには安全な季節があった。ビルマ軍は乾季にしか作戦を行わなかったのである。しかし1984年に転換 があった。ビルマ軍はカレン州に侵攻し、一年中われわれを弾圧するようになった。これが結局は、大量の難民・国内避難民の出現という危機的状況を生んだのである。

現在、タイ・ビルマ国境の難民キャンプには、およそ130,000人の難民がいる。100,000ほどがカレン人であり、残りはカレンニー人とモン人である。タイ政府はシャン人の難民の登録を拒否しており(モン人はシャン人ほどには拒否されてはいない)、シャン人のキャンプはない (しかしながら、何万ものシャン人の難民・国内避難民がいる。シャン人とカレンニー人は同様に民族浄化と民族虐殺の対象となっているからである)。

カレン人難民危機はまた、新しい難民にはタイでの滞在を一時的にだけ許可しようという、現在のタイ政府の態度によっても悪化させられている。既存のキャンプへの新しい難民の入居は許されないのである。さらに、タイ政府は、いまやSPDCを全面的に支援する構えである。タクシン・シナワトラ首相は、SPDCに とっての筆頭の盟友とすらいえるのだ。この友情の果実のひとつが、難民に大きい影響を与えている別の方針、一時的滞在であっても、新しい難民は受け入れない、難民たちが紛争から逃げてきたということが証明されない限り、すなわち銃声が聞こえない限りは、という方針である。しかし、タイ人はビルマ軍と、紛争を国境から離れた場所で起こすように裏で取り決めているのである。ゆえに、国境警備隊は銃声を聞くことはできず、したがって、難民は実際には命からがら逃げているということにはならない。それどころか、金目当ての移民ということなのであり、入国を拒否することができるのだ。

国内避難民として苦しむカレン人の数は、難民の数から推定されるよりも実際ははるかに多い。カレン州には、シャン人なども含むにしても、およそ500,000の国内避難民がいると見積もられている。また、タイにはビルマからの出稼ぎ労働者が百万人ほどおり、そのうち300,000がカレン人だとされる。

全体としてみれば、百万人以上のカレン人がその家と村から引き離されているのである。すくなくとも数万人が殺されたり、逃亡中に病、とくにマラリアと下痢で死んだりしている(信頼できる資料はない)。何千もの村が破壊された。逃亡する村人にとっては、いかなる選択肢も悪いものだ。強制移住先の村に閉じこめられ、強制労働、窃盗、強奪 の対象となるか。あるいは国内避難民となり森の中で生きるか死ぬかの生活をするか。あるいはキャンプ難民となるか(しかしながらこの選択肢は、キャンプに何十年も閉じ込められ、訪問者を受け入れることを禁止されている不愉快なものであるにしても、もはや手にはいらないものだ)。さもなければ、移住労働者となって、労働虐待に苦しみ、奴隷の境遇すら味わうか。

ネウィンの下ではじめられたSPDCの政策は、成功しつつある。われわれは大量虐殺の犠牲者である。そしてこの虐殺は、何世紀にも渡るビルマ人の帝国主義とその狂信的な民族主義の信念に直につながっている。SPDCはナインガンドー・アチアケ、帝国の長老と自称している。この名称はバガンの最初のビルマ人帝国の名であるパタマ・ミャンマー・ナインガンドーにつながる合言葉である。狂信的民族主義者の作家たちは、現在の政治体制をサドッタ・ミャンマー・ナインガンドーすなわち、第四ビルマ帝国と書き表す。

カレン人の大量虐殺、シャン人やカレンニー人などのビルマの他の民族集団の大量虐殺が終結するためには、SPDCという最新のビルマ人帝国主義集団を権力の座から引きずり下ろさねばならない。

最後に、この大量虐殺がいまも継続であることを強調しなくてはならない。カレン州で行われた殺人や村の焼打ちなどの人権侵害に関するKNUの最新の報告は、請求すれば入手することができる。