2012/12/31

びるまかるた や行

あとすこし……や行。

や 役人の子はにぎにぎをよく覚え

賄賂がなくてはどうにもならぬ。

ゆ ユニティの夢に斃れたマン・シャラパン

カレン民族の団結のために尽くしたKNU事務局長パドー・マンシャ、2008年2月暗殺される。

よ 『ヨーロッパ特急』なぜか大人気

武田鉄矢のこの忘れられた映画が昔ビルマでヒットしたらしい。

びるまかるた ま行

少々厳しくなってきたが……ま行

ま マハーバマールミョージーワーダー

大ビルマ民族主義(マハーバマールミョージーワーダー)が民族問題の根底にある。

み ミャンマーとビルマは違う国じゃない

パラグアイとウルグアイは違う国だ。

む 無国籍 国はなくても人は在る

日本で生まれた難民の子どもには国籍のない子もいる。

め 名僧が名産品だアラカン州

独立を訴えたウー・オッタマも、サフラン革命を主導した僧もアラカンの出身。

も 元ヤクザ今ではカレンの大偉人

カレン人のならず者コタビュは、カレン最初のキリスト教徒となった。

びるまかるた は行

かるたというより、あいうえお作文だな……は行。

は 88だよ全員集合デモやろう

1988年8月8日の全国的な民主化デモ。

ひ ピンロンの誓い忘れて国乱れ

1947年2月、ビルマ連邦の基礎となるピンロン(パンロン)協定が結ばれる。

ふ ブローカー、ビルマ社会の潤滑油

ブローカーがいなくては証明書一枚発行されぬ。

へ 辺境はビルマの国の中心だ

"Burma's ethnic strife is not a peripheral problem confined to the country's border areas; it is a central issue." Bertil Lintner, Burma in Revolt, p. vi.

ほ ポーターにされたら地雷に気をつけろ

人間地雷探知機としてビルマ軍に使われる。

びるまかるた な行

ひとつ不本意なのがあるが……な行。

な 納豆と豆腐とソバはシャンの味

コンニャクだって食べる。

に 日本へは行ってくれるな怖い国

難民として日本に逃げることになった我が子に。日本兵の記憶はまだ残る。

ぬ 盗人がいなくなったとライザっ子

戦争が始まるとカチン独立機構の本部のあるライザからビルマ人が姿を消した。

ね 猫かぶり政府に巨額の猫じゃらし

与えるほうが問題だ。

の ノッチで〜す! とんだオバマがやってきた

2012年11月19日、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ、ビルマを訪問。

2012/12/30

びるまかるた た行

まだまだいける……た行。

た 高床の縁の下には豚がいる

タイ・ビルマ国境の難民キャンプでもこのスタイルの住居は見られる。

ち チン州の山々の上に十字架が

ときどきビルマ軍が破壊する。

つ 痛恨の一撃食らったマナプロー

カレン民族同盟(KNU)の本拠マナプローは1995年にビルマ軍の攻撃により陥落。

て テインセイン停戦命令効き目なし

2111年12月、テインセイン大統領はカチン人への攻撃をやめるようにビルマ軍に命じたが……。

と ドウ・スーよお前もなのかとカチン人

アウンサンスーチーさん、あなたも現在のビルマ政府によるカチン人への攻撃を黙認するのか。

びるまかるた さ行

かるたは別に五七五である必要はないのだが……さ行。

さ 三十日ディペイン事件のデモの日だ

毎月30日は、品川のビルマ大使館前でディペイン事件の抗議デモが行われる。

し 植民地支配の掟Divide and Rule

分割して統治せよ!

す スパイかと疑ってかかる習性だ

軍事政権下の悲しき性。

せ 先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし

入管の職員は被収容者にこう呼ばれる。

そ ソウ・バウジー、4原則で殺された

「われわれにとって降伏は問題外」で始まる4原則を唱えたソウ・バウジーはカレン民族の英雄。

びるまかるた か行

か 片足でボートを漕ぐよインレー湖

インレー湖に暮らすインダー人の漁の仕方。

き 金翡翠、埋蔵量もカカボラジ級

カチン州のカカボラジ山はビルマで一番高いの山。

く 苦労して成田に着いたら牛久行き

上陸を許されずに東日本入国管理センターに。

け ケシ農家札束にまで匂いつき

最近の情報によると、シャン州北部でアヘンの原料となるケシ栽培が盛り返しているそうで、流通する紙幣にケシの匂いが移っているほどだとか。

こ 国境に宝の山が眠ってる
非ビルマ民族の居住する国境地帯には、金・宝石・レアアース・天然ガス・森林・水などさまざまな資源がある。

びるまかるた あ行

くっそ忙しい年末に、ビルマのかるたができ上がりました!

あ アドニラム・ジャドソン最初の宣教師

誰でも思いつくアウンサンとかアウンサンスーチーでは絶対に始めません。

い 移住者と民族の違いまじぱねえ

ビルマの「先住民族」たちから「移住者」とレッテルを貼られ排除される人々がいる。

う ウミガメの卵がうまいアラカン州

アラカン州は海産物豊富なり。

え えんえんと待たされたあげく再申請

日本の難民認定審査にはカフカもびっくりだ。

お お坊さま集めて強しサフラン革命

僧侶が主導した2007年9月のデモ。

2012/12/28

スーチーさんとカチン

カチンランド戦争に関する報告を書いているとき非常に参考になったのが、カチン独立機構(KIO)による“Presentation by the KIO Delegation  On the Meeting Event of UNFC and Nippon Foundation”で、これは2012年10月18日、日本財団の「日本財団ミャンマー少数民族支援会議」報告会において配布された資料のひとつであり、また報告会でのKIOの報告もこれに基づいていた。

しかし、この報告会からずっと後になって、資料として使おうとしてはじめて気がついたのだが、わたしのもっている資料は1ページ目と3メージ目と5ページ目しかないのだった。

おそらく日本財団が報告会参加者に配布した時点でミスがあったようで、欠けていたのだ。

報告会当日に気がつけば何とかなったろうが、もう遅い。しかし、手元にあるものだけ読んでもみて重要性がよくわかったので、あちこちに頼んでKIOから直接メールで全文(全6ページ)を送ってもらった。有り難いことだ。

この資料を読んでみて気がついたのは、そこにまったくアウンサンスーチーさんの名前がでてこないことだった。

アウンサンスーチーさんについてわたしは常々、彼女はビルマの問題のキーパーソンではなく、彼女の名前抜きで、ビルマの現状について叙述することは完全に可能である、と考えていたので、我が意を得た気持ちであった。

そもそもビルマの大統領が停戦命令を出しても止めることができない戦争について、ひとりの国会議員が何か役割を果たせるとはとうてい思えない。

事態はもっと別の次元、民主化だの何だのとは関係のない次元で動いており、そこに働き掛けることができるものだけが、ビルマの問題を解決することができる。

わたしの結論は報告に一応書いたが、十分なものとはいえない。これはかなり難しい問題で、現在のわたしの手に余る。

チャリティーコンサートの歌手たち

1月6日のカチン国内避難民チャリティーコンサートのために来日する歌手だが、日本ではもちろん有名ではないが、ビルマ国内では相当名の知られた人もいるそうだ。

今回の招へいにはけっこう経費がかかっているそうで、カチン民族機構(日本)の議長のピーター・ブランセンさんが頭を悩ましていた。

そこでわたしが「1500円払えば、これらの人気歌手と一緒に写真をパチリ、というのはどうですかね」と提案したら、「それはいい!」と気に入ったようだった。

その前日、わたしは子連れでディズニーシーに行って、アリエルのグリーティンググロットでアリエルと写真を撮ってきたのだった。その経験が早くも生かされた格好だ。

ほかにも、握手会とか、グッズ販売とか、投票権付きCD販売とか、総選挙とか……いやYGN48じゃあない。そもそも記念写真だってやるのかどうだか……

それはともかく来日する歌手をYoutubeで見ることができる。まずはL. センズィ。


レベッカ・ウィンのこの曲もいい曲だ。


次のものは、歌うL. ルンワとその間に挟まれるカットで、恋人同士が笑ったり、衝突したり、別れたり、回想したり、荷造りしたりと、といういかにもビルマのMVらしい作り。

カチン国内避難民チャリティーコンサート

1月6日のカチン国内避難民チャリティーコンサートのゲストは次の通り。

L. ルンワ(L. Lung Wa)男性歌手
L. センズィ(L. Seng Zi)女性歌手
スージー(Suzie)女性歌手
レベッカ・ウィン(Rebecca Win)女性歌手

ラワウム(La Wawm)(バンドMetalzoneのキーボード奏者)
マラン・センノウ(Maran Seng Naw)ギタリスト
マーグン(Mar Gun)ギタリスト

M.センル(M. Seng Lu)女性モデル

カチン伝統舞踊グループ、ウンポウン・ニンジャ(Wunpawng Ninja, WNJ)

このWNJというのは、約20名の若い女性によるカチン伝統舞踊団体で、招へいに際してはわたしもいろいろ協力している。

第65回カチン州の日記念日祝典

第65回カチン州の日記念日祝典とカチン国内避難民チャリティーコンサートが開催される。

日時:2013年1月6日(日)17:00〜21:30
場所:豊島公会堂(池袋)
チケット代:5,000円

この祝典ではカチン戦争難民キャンプの映像が上映されるが、それはわたしが撮影・編集したものだ。

しかし、編集はこれから!

間に合うのか……

2012/12/26

『無援孤立—カチンランド戦争と避難民』

【カチン・イヤー12月のイベント】

報告書『無援孤立—カチンランド戦争と避難民』発行

「カチンランドの戦争は、偶発的なものでも、局地的なものでもない。ビルマ軍がビルマ全土に及ぶその権力を強固にするための戦いであり、ビルマ軍の優越性を保障した2008年憲法の当然の帰結なのである。」

特定非営利活動法人ビルマ・コンサーンによる約50ページの報告『無援孤立—カチンランド戦争と避難民』は、17年の停戦の後2011年6月9日に再び勃発したカチン独立機構(KIO)政府とビルマ(ミャンマー)政府との間の戦争(カチンランド戦争)を包括的に論じたものです。

2011年6月26日から7月2日にわたるビルマ・コンサーンのカチンランド訪問時に収集した音声資料・映像資料・文書、その前後に行われたさまざまなインタビュー、そして先行する報告・論評・記事をもとに、カチンランド戦争の過程、原因、戦争避難民の現状、政治的展望などに関する分析を行いました。

本報告の主たる主張は次の3点です。

①カチンランド戦争がビルマ政府とカチン民族との間の局地的・偶発的なものではなく、2008年憲法の必然的な帰結であること。

②その戦争によって生じた戦争避難民の状況が、とりわけ国際的支援の欠如ゆえに危機的なものであること。

③戦争はビルマ政府とカチン独立機構との孤立状況によって生じ、そのような孤立状況を生み出した原因は国際社会にあり、またその解消も国際社会に委ねられていること。 

本報告には、一次資料によって作成された複数の地図と表、さまざまな人々の証言、とくに戦争避難民キャンプ担当者とスムルッ・グンモウKIO副参謀総長へのインタビューが含まれています。

下の写真クリックでダウンロード(3.3MB)。

2012/12/25

カレン新年祭

年末年始といえばカレン新年祭(Karen New Year)の話題で持ち切りだが、今回は新天地で開催されることになった。

日時:1月6日(日曜日)13:00から17:00まで
場所:アカデミーホール(池袋)
参加費:無料(誰でも参加可)

カレン新年祭の内容についてお知りになりたい方は、このブログで何度も書いているので、検索をしていただきたい。

ビルマに帰る

日本で難民認定申請をして難民として認定されたり、人道的配慮により在留特別許可をもらった人々は、ビルマに帰ることができない、という理由で日本にいるわけだから、帰国などできるはずもない。

だが、実際はできてしまう。

例えばカレン人難民がタイ・ビルマ国境に行き、カレン民族同盟(KNU)支配地域に入ったり、カチン人難民が中国・ビルマ国境に行き、カチン独立機構(KIO)支配地域に入るのがそれだ。

とはいえ、これはまあ問題ない。

しかし、最近のビルマ政府の変化を受けて、ビルマ民族の難民でも、こっそりヤンゴンにまで行くこともできるようになったという。

わたしが聞いた話では、タイ国境からビルマに入り、バスや車でヤンゴンに行くのだそうだ。危険はないとはいうが、入国する前に各方面にいろいろ手を回す必要があるようだ。

以前、在日ビルマ難民がヤンゴンにまで行き、インターネットで写真を公開してちょっと問題になったことがあった。詳しくはわからないが、その人の政治的な信条に基づく行動とのことであった。

それはともかく、わたしはそのようにビルマに帰国した在日ビルマ難民の撮影したヤンゴン市内のビデオを見せてもらった。

なかなかきれいなスーパーマーケットやショッピングセンターの映像だった。また表通りではずいぶん立派な車が走っていた。

わたしが2004年に行ったとき、とんでもなく古い車を見かけたものだった。わたしと一緒にいたカレン人牧師が指差していうには「あれは戦争でやってきたアメリカ軍の置き土産だ」とのことで、当時車にまったく興味のなかったわたしでも乗りたく思ったほどのボロさだった。

老兵は消え去るどころか現役なのだった。

あ〜いしゃ〜るりた〜〜んっ

海外カレン機構(日本)総会

KNUコングレスは波乱含みのようだが、12月23日に行われた日本のカレン人の団体海外カレン機構(日本)OKO-Japanの総会と2年ごとの新役員選挙は無事に終了した。主な役職を挙げれば次のようになる。

会長 ソウ・テッルイン
副会長 ソウ・ネーアウン
事務局長 ソウ・リンセイン
副事務局長 ソウ・アウンゾウカイン
会計 ナン・トゥエトゥエウィン

わたしも国際プログラム担当に再び選出され、役員のひとりとして働くこととなった。

ところで、選挙の投票では、黒板に書かれた候補の名前を用紙に書くのだが、困ったことにみなビルマ語だった。わたしはなんとなく読むことはできるので、最初は真似して丸っこいビルマ文字を書いていたのだが、だんだん面倒くさくなって、しまいには横倒しになった雪だるまみたいのが並んだだけになってしまった。

クリスマス合同礼拝

わたしは昔キリスト教徒になろうと考えたことがあって、教会にも行ったものだった。

礼拝というのはたいてい午前中に始まりお昼前に終わる。プロテスタントの礼拝は、賛美歌と聖書の朗読、牧師のメッセージ、献金、お祈りなどからなる。

お祈りというのは、担当の人が、イエス・キリストの名において、教会員にはじまりどこかの困っている人、誰か病気の人、はたまた世界の各地の困難にある人などなどのために祈るもので、とんでもなく長い。年寄りの小便みたいなもので、終わったかと思うとまた続く。これをみんな目をつぶって聞くわけだ。最後のアーメンまで。

礼拝に何度か行ってみて気がついたのは、その清らかな時間にわたしが考えてることといえば、昼飯のことばかりだった。で、キリスト教徒には向いていないということが判明した。今のわたしは修行を積んで天狗になりたいと思っている。

さて、この前の日曜日、早稲田の東京平和教会で日本人・カチン人・カレン人のクリスマス合同礼拝が行われた。

日本人というのはこの東京平和教会の信徒たち。

カチン人というのは東京平和教会で礼拝を続けて20年になるカチン・クリスチャン平和教会(KCPC)の信徒たち。

カレン人というのは、駒込にある東京平和教会の駒込チャペルで今年の4月から毎月一回礼拝を行っているカレン・クリスチャン・フェローシップ(KCF)の信徒たち。

それ以外にわたしのような部外者が数人。

礼拝の前に牧師がおのおのの教会の信徒を立たせ紹介し、次に「今日はじめてこの教会に来られた方! 」とはじめて来た人を自己紹介させた。わたしは立ち上がらなかった。なぜなら、はじめての人でもなかったからだ! これまで2度か3度は礼拝に参加してる。あやうく天狗修行中の身であることを自白させられるところであった。

日本には2つのバプテストがある(少なくとも)。日本バプテスト同盟と日本バプテスト連盟で、東京平和教会は同盟のほうだ。この2つにはいろいろ違いがあるのだろうが、わたしにわかるのは同盟のほうが連盟よりも歌を活用しているということだ。

そんなわけでこの礼拝も歌が一杯だった。クリスマスの賛美歌をみんなで歌ったのはもちろんのこと、KCFはカレン語の歌、KCPCはカチン語の歌、教会の子どもたちは練習したカチン語の歌を壇上で披露した。また賛美歌の中には日本語、英語、カチン語、カレン語、韓国語で順に歌うものもあり、歌詞がプロジェクターでスクリーンに映し出されていた。

同じ賛美歌を歌っている時でも、それぞれが自分の言葉で歌っている。わたしはわからないので適当にハミングする。こうして、日本語、英語、カチン語、ビルマ語(カレン語の賛美歌集がないのでカレン人は英語かビルマ語)の歌声に天狗の鼻歌も加わったわけだ。

礼拝の後に、一群のサンタが出現して、みんなにちょっとしたプレゼントを配る、という気の利いた一幕もあった。

サンタクロースはどうも天狗の一種のようだ。



礼拝の後の昼食

KNU新議長

KNU新議長となったムトゥセーポー(Mutu Say Poe)将軍は、ビルマ政府との停戦交渉のキーパーソンのひとりで、交渉をあまりに早く進めすぎると批判され、10月4日にはKNU本部から解任されてもいる(DVBのThree senior Karen leaders dismissed)。

問題となったのは、カレン州の州都パアンにKNU本部の許可なくビルマ政府との連絡事務所を設立したことだ。

多くのカレン人はビルマ政府が自分たちを分裂させるためにいろいろ汚い手を使っていると考えており、この解任事件もそのひとつだと見るのが一般的だ。

だから、今回ムトゥセーポー将軍がKNU議長になったことをKNUの危機であると見る向きもある。

しかし、上記の記事のコメントを見ると、カレン人のために命をかけて戦ってきた軍人であるムトゥセーポー将軍のほうが信じられる、という意見もあり、どうもコトは単純ではないようだ。

10月に彼と一緒に解任された人のひとりに、デビッド・トウさんというKNUの中央執行委員がいるが、わたしはこの人に何度か会ったことがあり、チェンマイの彼の自宅に泊めてもらったこともある。

わたしは彼について柔軟で現実的な物の見方をする人という印象を持ち、彼と話すことはとても役に立った。そのようなわけで、たとえ結果的にKNUから不信の目で見られたとしても、デビッドさんは彼なりの信念に従って行動したように思える。

いまKNUコングレスでどのような議論が行われているのかはわからないが、その内幕については、現在参加中のモウニーさんがきっと教えてくれるはずだ。

ところで、モウニーさんは今回これまでの貢献が認められてなんと「キャプテン(大尉)」というランクに任ぜられたとのこと。これからはキャプテン・モウニーと呼ばなくてはなるまい。

KNUコングレス

第15回カレン民族同盟(KNU)総会(KNUコングレス)がタイ・ビルマ国境で行われている。

KNUコングレスは4年に一回開催され、KNUのトップを選ぶ重要な会議だ。

日本からはKNU-Japan代表のソウ・ミョーカインシン(モウニー)さんが参加している。

わたしはこの会議に行かないかと誘われていた。いろいろな都合があって結局行けなかったのだが、はっきり言って行かなくてよかった。

というのも、この会議が当初開催されるはずだったのは、10月20日頃だったのだが、実際に開催されたのは、11月20日頃のこと。つまりひと月遅れたのだ。

しかも、現在も継続中。で、昨日か一昨日だかに、ついにKNUのトップ5人が決まった。しかし、これから数十名の中央執行委員と執行委員を選ぶため、ある人にいわせればまだまだひと月ぐらいは掛かるのではないか、ということだ。

モウニーさんは仕事を休んで会議に行っているはずだから、大変だ。

どうしてこんなにごたごたしているのかというと、わけがある。

詳しくはわからないが、現在ビルマ政府と停戦交渉中のKNU内で対ビルマ政府強硬派と融和派が激しいつば迫り合いを演じていたらしい。

それで、 コングレスの場所すらなかなか決まらなかったのだという。

結局どちらが勝利したかというと、融和派のほうだ。

議長 Mutu Say Poe将軍
副議長  Naw Zipporah Sein
事務総長  Padoh Saw Kwe Htoo Win
共同事務総長1 Padoh Saw Thaw Thi Bwe
共同事務総長2 Mahn Mahn Mahn

このうち、議長と事務総長が融和派の人だという。

このブログでもたびたび取り上げたKNU副議長のデヴィッド・ターカボーさんは強硬派のリーダーで次期議長を期待されていたが、要職から外れることになってしまった。

デビッドさんは非常に多くのカレン人に尊敬されている人だから、この結果について失望と動揺を口にするカレン人は多い。

「いったいKNUはこれからどうなってしまうのだろう? 」というわけだ。

KNUの弱点は世代交代がうまく進んでいないことで、これはKNUだけの責任ではないが、若いリーダーがどんどんで上で働いたほういいのではとわたしは思っている。そんなわけで政治的立場はどうであれ新しい指導者が出てくるのは悪くはないことだと、新しい議長の年齢を尋ねたら……「80です」

ぐぐぐ……

2012/12/24

デモの意味(おしまい)

わたしがこうした人々を擁護するのは、実際のところ、わたしがこうした特徴をすべて兼ね備えているため、これらの人々が苦しんでいるのを見ると、どうも人ごととは思えないためだ。

もしもわたしがビルマに生まれて不運にも日本に逃げてこざるをえなかったとしたら、入管暮らしはまず5年や10年で済むまい。あんまり長いので、きっと、収容所の中でチーズみたいにトロけているはずだ。わたしは仮放免のために自分の保証人をしてくれるような奇特な、というか奇怪な人がいてくれるとはとうてい思えないのである。

そんなわけでわたしは仮放免の身元保証人の要望は絶対に断らないことにしている。これらの人々を外に出すことは、わたし自身を外に出すことにほかならない。

立派な人々は人権の観点から入管の被収容者を支援する。そうではないわたしはむしろ入管収容者に支援されているのである。厚顔無恥もここまでいくと清々しいでしょう。

さて、デモの話題に帰ると、デモは祝日や休日に行われることが多いので、デモ参加者や治安関係者の家族にとっては、父親や母親と過ごす機会を失われる悲しい催しかもしれない。

ま、こんなことを言い出せばきりがないが。

さて、最後に、少なくとも年一度はビルマ関係のデモに参加するわたしにとっての、デモの最高の効果をここで包み隠さず述べれば、それは晴れた日に、普段は通れない車道の真ん中を歩きながら見る風景がとても珍しいので、とっても気分が良い、ということに尽きる。

そんなわけで、わたしは大通りを歩きたいがためだけのデモを組織することはできないだろうか、と考えている。特に目的などは何もない。

シュプレヒコールは「曇り、反対〜!」とか「道、賛成〜!」とかどうでもいいヤツ。

ただ大声を張り上げるのが楽しいだけだ。

もっとも、こんなことをやろうなんて言い出したら、まじめなデモをしている人や、治安関係者がスクラム組んでわたしの家の前でデモを始めるに違いない。ふざけんな、と。

2012/12/23

デモの意味(5)

さて、それ以外にもデモの意味がある。

入管に収容されていた人のことを念頭に置いて言うのだが、これらのつらい経験をした人の中には、言うに言われぬ悲しみを抱いている人もいることだろう。そうした人にとって、デモに参加して、何かを叫ぶ、思いの丈を訴える、というのは止むに止まれぬ行為であり、政治的効果云々という次元に収まらない人間の尊厳を回復する行為でもある。

デモに懐疑的なわたしではあるが、こういう人たちに「デモは意味がない」などと冷たいことを言う気にはならない。

また、現在難民認定申請中の人にとって、ビルマ大使館前で行われるデモに参加することは、入管に対する政治的活動の証明となる。

申請者は自分がデモに加わっている写真を入管に提出するわけだが、その写真が本当に難民認定に足る政治活動の証明になるかどうかについていえば、面白いことに入管と申請者のどちらも否定的である。

わたしはこの写真が証明するのは、申請者の政治活動というよりも、定期的にデモに通うまじめさと、それを入管にきちんと報告する几帳面さを兼ね備えた申請者の人柄ではないかと思っている。

そして、こうした人柄が難民審査の結果に影響を与えているのではないか、というのがわたしの持論だ。もちろん、まじめでない人間でも難民は難民なので、そのような心証が審査に影響を与えてはいけないと思うが、難民審査は人間が行うものだから、仕方のない側面がある。

だが、まじめでなかったり、ぐうたらだったり、自分のことをうまく言い表せなかったり、心が病んでいたり、偏屈だったり、歪んでいたり、アルコール依存だったり、バカ正直だったり、嘘をつく癖があったり、頑固だったり、相手と話を合わすことができなかったり、敵対的だったりする人は、現在の難民認定制度では非常に苦労する。

しかし、そうであってもこれらの人々は難民であり、まじめな立派な難民に比べて命の価値が低いというわけではない。

そうした人も難民として庇護されるにはどのように社会とシステムを変えて行ったらいいのか。確かなのは、そのためのデモはなかなか気勢が上がるまい、ということだ。

2012/12/22

デモの意味(4)

さて、チンドンデモ(お祭りデモ)に対して、本当に政治的効果を持つタイプもある。それは問題のはじめではなく、むしろ最後の一押しとしての役割を果たすデモである。つまり、事態の最後の瞬間、最後の一押しがあれば事態が変わるという場面において政治指導者がぶつけるタイプのものである。

とはいえ、そのようなデモというのは重大な対立関係を引き起こすことがありうる。もし対象となる事態が大きければ、そのような急激な変化を押しとどめようと猛烈な抵抗活動が組織され、例えばデモ隊と機動隊の激しい衝突や天安門事件のような惨事が起きるかもしれない。

しかも、政治的効果を持つデモは、拡大につれお祭りの要素を含むことになるから、つねに暴動に陥る可能性がある。こうした特徴もまた、デモに対立する人々の恐れを大きくし、弾圧を正当化させる。

そのような暴力的な対立関係は、実際のところ、百害あって一利なしで、社会を長く傷つける。わたしはよっぽどのことがなければこうした事態は避けるべきだと思うし、 日本はそうした取り返しのつかない断絶を代償に社会を変えなければならないほど、民主主義が機能していないわけではない。なにしろ、たった一日の穏やかな選挙で政権をひっくり返すことができるのだから。

それゆえ、わたしは日本においては、少なくとも民主主義が続くかぎりはこのタイプのデモはもうないだろうと思うのだが、そうはいっても治安関係者が恐れるのはこの手の本当のデモ、マジデモだ。これらの人々がデモに日夜目を光らせているのは、その芽を摘むためにほかならならない。

となると、チンドンデモ説を主張する人は、治安関係者に反対するどころか、むしろ治安関係者に安心を与えていることになる(とはいえ、チンドンデモはマジデモの訓練になりうるし、またチンドンデモのつもりがはからずもマジデモに発展してしまう場合もあり得ることは否定しない)。

2012/12/21

独身鍋

カレン人の友人たちと一緒に酒飲みながら鍋をつついてる。

ごった煮鍋だ。肉ダンゴ、鶏肉、こんにゃく、野菜。

「ビルマではこういう鍋は学生たちが食べる。だから独身鍋というのです」

別の年配のカレン人がいう。

「ヤンゴンではね、昔はこれにマリファナ入れたもんですよ。マリファナには食欲を昂進させる効果がある。それでみんな腹一杯食べる。たくさん笑って! 若い人の食べる物です」

そんなこと話しながら、飲み食いする。サントリーから好評発売中のトリス2.7リットル入りペットボトルがいつの間にか半分だ(ステマ)。

ところで、その場に最近結婚したばかりのカレン人がいた。しかも20も若い嫁さんだ。みんなやっかみ半分からかい始める。「どうやって掴まえた?!」

すると30後半の独身のカレン人が喚き出した。「クスリだよ! クスリ!」

けっこう酔っているみたいだ。「そのクスリ教えてください!」とせがむ。

みんな笑う。

だが、彼にとっちゃ笑いごとじゃあない。「クスリ! クスリ!」 繰り返しながら、彼は結論に達する。

「もう、クスリの世界だよ!」

これが独身鍋だ!

デモの意味(3)

デモに効果ありとする人がいうには、大衆が集まることでそれまで注目されなかった問題が社会問題化される、ということだった。

しかし、それならばチンドン屋をたくさん雇えば済むことだ。

というのは冗談だが、チンドンデモ説には矛盾がある。もし社会問題化していない問題ならば、参加者も少なく、したがって注目もされない。もし参加者が多く、つまりすでに社会的に人々の関心を集めていることならば、わざわざデモをする必要などない。

いや、マスコミに報道させて、社会を動かすためだ、と主張するかもしれないが、本当のところ社会を動かすのは社会問題に関わっている人々の長期間の長年の努力や、マスコミの十分な取材であり、そうした下地ができていればマスコミは取り上げるだろうし、それがなければ使い捨てカメラひとつ寄越しもしないだろう。

もちろん、このようなデモもデモと呼んでもいい。だが、それはジャスミン革命のデモというよりも、 ゲイ・パレードとかに近いタイプだ。これは一面ではお祭りに近く、わたしが先に述べた運動論的な役割を多分に果たしている(これは十分に組織されていない場合には、憂さ晴らしか暴動と変わりなくなるだろう)。

ここで、このタイプに属し、しかも暴動に近いものもあった中国の「反日デモ」について一言すれば、わたしはああいうデモは、人やモノを傷つけないかぎり、おおいに結構だと思うが、それはともかく、日本の中には「あれは中国政府の差し金だ」とさも憎々しげに言う人がいる。だが、これはむしろ中国政府の思う壷だ。

中国政府とって本当に恐ろしいのはむしろあのデモが中国政府の思わぬところで発生したという説が世界に喧伝されることだ。なぜなら、それは中国政府に国民をコントロールする力がないということだから。

いや、もっと恐ろしいのは、中国の人々がその説を真に受けることだ。自分たちが政府以上の力を持つと知ったら、それは中国政府にとって厄介な事態となろう。

それゆえ、「中国政府がデモを裏で操っていた」という言説はむしろ中国政府にとって都合が良いのである。それは、中国の全国民に対する自己の偏在を証明することになるからである。

2012/12/20

デモの意味(2)

それはともかく、デモの政治的効果の有無をいったら、わたしとしては、有る時は有るだろうし、無い時は無いと答えるほかない。つまり全体的な政治状況によってその直接的な効果のほどは決まるだろう。

しかし、われわれの社会はデモをやったからすぐに効果が現れる—食ったら出る—ようなそんな単純な社会ではないとわたしは思うので、むしろ懐疑的なほうだ。

とはいえ、デモの効果は政治的なものに限定されているわけではない。どの文脈にデモを置くかによっていろいろだ。

運動論的にみれば、それは参加者にとって、連帯を意識する場でもあり、交流をする場でもあり、意見交換の場でもある。これらをもちろん広義の政治的効果のうちに含めることもできようが、それはともかくとして、わたしはこれがデモの一番の効果ではないかと思っている。

また、デモに政治的効果が実際にあるかはともかく、そのように信じ、そのような信念を共有することで、あるいは本当に政治的効果を発揮しないとも限らない。

政治指導者はデモをより大きな政治的駆け引きの中で活用しようとするであろうし、警察や公安などの治安関係者にとっては、デモは政治活動家の動向を知る機会でもあり、公的に存在意義を示す機会でもあり、また治安活動の地道な実践と訓練の場でもあるだろう。

2012/12/19

デモの意味(1)

語でも事象でもいいのだが、そういった要素の意味(あるいは役割・機能)というものは、単独でそれ自体のうちにあるのではなく、他との関係においてある。そうした関係が複数寄り集まったものが構造(あるいは体系)と呼ばれるものだ。

この構造は他の構造の一部をなし、またその構造が別の構造の一部をなすという形で連鎖し、その極みについてはさておくとしても、少なくともほとんどの構造が部分的なもの、つまり部分構造というわけだ。

さらに複雑なのは、構造は多層的でもあるということだ。ゆえに、ある要素はひとつの系列の構造の一要素であるだけでなく、複数の構造系列に同時に含まれているということになる。

われわれがある語なり事象なりをさまざまなレベル・文脈で捉えていることを大雑把ながら説明するとすれば、こうなろう。

ある難民関係の集会に出たとき、デモの話をする人がいた。その人はデモには政治的な効果があるのだと主張し、その実例を挙げた。

その話を聞いたある大学生(女性)が、面白そうだから行ってみたい、と言うと、あるとても優秀な大学の学生(男性)が「デモには政治的効果はないから、学生は参加せずに、学生らしく勉強して別のやり方で社会を変えたほうが良い」と口を挟んだ。

「こっのガリ勉ヤロー」とわたしは密かに思ったが、それはこれがいかにも利口な学生の言いそうなことだったからだ。むしろ、面白そうだからと、とりあえず行ってみたがる学生のほうが好感が持てる(もっとも、件の学生がデモに反対したのは、政治活動に引き込まれかねないと危惧して彼女を守ろうとしたのかもしれないが)。

2012/12/18

キラキラした瞳

ビルマとか、あるいはタイの難民キャンプとかに行った人が、たまに言うのだが、そこで出会った若者の目がキラキラしていた、と。

で、目を輝かせている若者のために何かしてあげたい、というわけだ。

それはまあいいのだけど、目を輝かせるって。そこを強調されてもな。

その言葉の裏にはたいてい、日本の若者は……どんよりした……魚の腐ったような……ヘドロのような……というのがあるわけだ。あてこすりだ。

だが、こりゃはっきり言って間違いだ。

例えば、まあ、あんたが難民キャンプに行くとしよう。そこじゃ、若者がみんな目を輝かせている。そりゃ、間違いない。だが、あんたがいなくなった途端、その目の光は消えるのだ。

つまり、 連中がなんで目を輝かせていたかっていうと、あんたに会ったからだ。日本とかいう金持ちの国からやってきた立派な身なりのあんたが、自分のつらい状況を変えてくれるかもしれない、助けてくれるかもしれない、そんな希望をあんたに見いだしたから、物珍しさ半分であるにはしても関心を持ったのだ。目を輝かせて、あんたの話を聞いたんだ。

そう、年がら年中四六時中目をキラッキラさせてるわけじゃあないんだ。下町人情キラキラ橘商店街じゃないっ。普段死んだ目をしている分だけ、食いつくんだ。輝かせるんだ。

これで、どうして日本の若者の目がキラキラしていないかわかったろ。あんたを見るたびに連中、目を死なすんだよ。「消灯! 就寝!」とばかりに。

それであんたがいなくなった途端、連中、布団から飛び出して、目をキラキラさせて枕なげをおっぱじめんだ。

2012/12/17

値下げの理由

在日ビルマ社会のバス旅行を巡る厳しい競争についてはすでに書いたが、 BRSAのバス旅行(元旦出発、大阪一泊)もなかなか人が集まらないらしい。

それで昨日の日曜日、緊急会議となった。けっこうヤバい状況とも聞いていたので、どうかと思ったら、それほどでもないようで、なんとか当初の計画通り開催できそうだ。

ただし、23,000円という料金設定では、この寒風吹きすさぶビルマ難民業界では戦えぬというので、20,000円に値下げすることになった。また、それに伴い子どもの料金も18,000円から15,000円となった。

23,000円でもそれほど悪い値段とは思えないが、それでも難しいのは、在日ビルマ難民社会がいま出費に慎重な時期だからだ。

まず一番の理由としてあげられるのが、ビルマの人々が多く働いている飲食業が総じて厳しい状況にあるため、収入が減っていることだ。

次にビルマ国内の変化がある。多くの在日ビルマ難民は、そのうち自分たちが帰れる時期が来るのではないかと希望を持つようになっているため、そのときに備えてできるだけお金は貯めておこうという心理が働いている。

もうひとつは、近々あるのではないかといわれているアウンサンスーチーさんの来日に関係している(時期的には来年前半の可能性が取りざたされているようだ)。

実はこの日、在日ビルマ難民の活動家たちが集まって、アウンサンスーチーさんが来た時のことについて議論したのだという。

スーチーさんが来たら、大きな会場を借りて集会を開く予定、しかも、会場ったって、そんじょそこらのみすぼらしいのじゃいけない、どーんと立派なのを押さえたい、というのが在日ビルマ難民の気持ちのようで、そのための大金を集めるために、ビルマ難民ひとり5,000円出すべし、と決まったとか(聞いた話だが)。

それはおおいに結構だが、出費はそれだけにとどまらない。せっかくスーチーさんが来るのだから、みんな精一杯献金したい。それでビルマのために役立ててほしい。てなわけで、自ずと財布の紐も固くなろうというもの。

まったく、ビルマの民主化とスーチーさんが原因なら、値下げもやむなしだ……

2012/12/16

国境警備隊

現在ビルマ政府とカチン独立機構(KIO)政府との間で行われている戦争の原因として、ビルマ政府がKIOの軍、カチン独立軍(KIA)の国境警備隊(Border Guard Force, BGF)への転換を求め、KIOがこれに応じなかった、という説を挙げる人がいる。

わたしはこれは間違いで、それは戦争の原因のひとつでしかない、と考えている。詳しくはそのうち公表するレポートに書いた。

さて、わたしの子どもの通う保育園の保護者が集まって食事会をした。

会場はイタリアンのファミレスで、35人ほど入る大部屋を借りた。入り口はひとつでひっきりなしに人が出入りする。ドリンクバーは部屋の外にあるので、コップをいくつも持っている人もいる、赤ん坊をおんぶしている人もいる、次から次へとピザやらなんやらが運ばれ、また空いた皿が運び出される、という具合で、しかも20人からの子どもたちだ、大騒ぎ。

そこでわたしはドアの脇に立ち、人が来るたびに開けたり閉めたりしはじめた。わたしとしてはおおいに役立っているつもりだ(ホントかどうかは別として)。ほかの客の迷惑になるので子どもはトイレのとき以外は部屋の外に出さないということになっていた。わたしは脱走しようとする不届きな子どもがやってこないかどうか目を光らせていた。

だんだん自分が国境の警備に当たっている気がしてきた。国境警備隊だ。この食事会は俺が守るのだ! さあ気分が盛り上がってきた。国境警備隊の歌まで飛び出した。

俺たちゃ国境警備隊 
おふくろが俺に言うことにゃ
天国地獄の境目で
生まれた餓鬼がこの俺さ

俺たちゃ国境警備隊
夢とうつつの境を守る
絆だ維新だ復活だ 
候補の数だけやさしくなれる

裏切り者は血祭りだ
らんちき騒ぎのただ中で
あの娘に撮られた例の写真
武力を使って取り戻す

俺たちゃ国境警備隊
俺たちゃ国境警備隊

しまいにゃ一群の保育園児たちの襲撃により国境警備の任務を奪われた……

2012/12/14

無制限

BRSAのある若い人が言うには、ビルマの民主化といっても、人間の心が変わらなくてはダメだ、とのこと。

これはもっともだ。

じゃ、どう変わらなくてはいけないのか。

彼の考えでは法律や規則を守る精神がないのだという。ビルマ人というのは、あるひとつのことに夢中になってしまうと、もう法律も規則も忘れて制限なく突き進んで行ってしまうのだと。

彼は、今のビルマの無秩序ぶりに眉をしかめる。「ぼくより若い世代は礼儀なんて……」

あんたもどっかできっとそう言われてんだぜ、というのはさておき、わたしもその意見に賛同する。

たしかにBRSAにもそんな傾向がある。ひとつ何かよい計画が決まると、それに後先考えずに全力を注ごうとしてしまう。もちろん、BRSAは合議制をとっているから、最終的には全体として抑制の利いた結論に落ち着くのだが、そうでない場合はそのまま突っ走ってしまいそうだ。

その実例が1988年の全国的な民主化要求運動だ。あまりに過熱して、みんなが有頂天になってタガが外れてしまった。それが結局は軍の介入を正当化させることになったのである。

また、多くの人々が反論できないような正論を主張する人がる場合、ビルマの人々というのは、それが正論であるがゆえに、完全な賛同を与えてしまい、その正論のもたらす結果に関してはいかなる制限も留保も認めようとはしないことがある。そのような条件付けそのものが反論として理解されるのである。

例えば民主化がよいとなれば、民主化にまつわるあらゆることが際限なしに正当化されるのがそれだ。民主主義を持ち上げるが民主化なのではなく、民主主義というものを実現するためにいろいろな手を尽くし、面倒くさい議論を厭わないのが民主化なのである。

おそらく、ビルマ軍事政権も同様な精神構造に基づくものではないだろうか。ビルマ軍事政権の大義名分は「軍が上に立つのでなくてはビルマ連邦は分裂する」というものであるが、ビルマ社会の特定の階層・文脈においてはこれが正論以外のなにものでもないということもあろう。

すると、軍上層部がこのような主張をした場合、もはや誰も反論できなくなる。そして、この主張の正当性が、そのまま軍の正当性へと置き換えられるのである。となると、軍の行動そのものに誰も反論ができなくなる。その結果が、この大義名分さえ掲げていれば軍上層部は何をやってもよい、という一種の思考停止状態である。この状態はまた、現在のビルマ軍の超憲法的位置づけに引き継がれている。

要するに、ビルマにおいては民主主義も軍国主義も、その裏には似たような精神構造が働いていることになる。BRSAの若者が「心が変わらなくてはどうにもならない」となかば絶望しながら語るゆえんである。

ひとりあたり

在日チン女性機構(CWO-Japan)の総会で選挙委員を務めたのだが、会の終わりに、会長から謝礼を渡された。

予期せぬことだったので断ると、本来ならば食事を出すべきものなのに時間がなくて今回はご馳走できないので、という。

それでも5,000円は多すぎるので返そうとするが、こういった場合にその試みが成功したためしがない。またあまりにこだわるとかえって失礼なので、ありがたく頂戴することにした。

「会長をひとり選ぶのにこんなにもらったら、役員を3人4人と選ぶ時はもっと高くつきますよ」

と言ったら笑われた。

2012/12/13

在日チン女性機構総会

在日チン女性機構(Chin Women's Organization-Japan, CWO-Japan)の総会が12月9日日曜日、大井町のきゅりあんの会議室で行われた。

いつもは在日チン民族協会(CNC-Japan)の総会と一緒に行われるのだが、今年は諸般の事情から、別々の開催となった。ちなみに、CNC-Japanの総会は来年1月13日に予定されている。

わたしは今年も選挙委員を務めさせてもらうことになった。選挙委員といっても今回の選挙は会長選びだけなのでそれほど大変ではない。

現会長のドウ・ニンザルンさんは3期目の今年で退かれるので、新会長を選ばねばならない。

ニンザルンさんは、次の会長として現事務局長のドウ・ングンタンさんを推薦した。すると、ドウ・ングンタンさんは、自分には荷が重いと、別の会員を推薦する。と、その会員が別の会員を推薦し、なんだかんだで、ニンザルンさんにまたお願いしますとに戻ってきたので、みんな笑ってしまった。

しかし、ニンザルンさんの決意は固い。そこで選挙委員のわたしに委ねられることになった。

わたしはとりあえず、①会員全体で議論して会長候補を絞り込むか、②今名前の挙がった人で選挙を行うか、それとも③特に絞らずに会員がこれだと思う人を投票用紙に記し、とりあえず集計してみるか、という3つの選択肢を挙げた。

すると、みな2番目のものがいいという。そこで名前の挙がった人のうち、ニンザルンさんを除く3人の候補に13人が投票を行った結果、ドウ・ングンタンさんが次期会長ということになった。

ドウ・ングンタン(ジャスミン)さんは、ハカーのチン民族で、CNC-Japanの最初期からのメンバーだ。わたしとは2004年頃からの付き合いで、ビルマに関するわたしのはじめの活動のひとつ、カレン情報スペース(KIS)という催し物に来てくれたことを覚えている。

彼女はチン民族のために熱心に活動してきたが、難民として認められるまでずいぶんと苦労し、品川入管に収容されたこともある。 今年晴れて在留許可が下りたが、それまでいろいろ辛い思いもされたと思う。

会長に選ばれたとき「わたしはもうこれで眠れません!」と言ったのには笑ったが、これも彼女の真摯さの表れであろうと思う。

 会長のドウ・ニンザルンさん

 新会長ドウ・ニンザルンさんへの引き継ぎ

2012/12/12

競合他社

BRSAのバス旅行についてたびたび書いているが、バスの予約に取りかかったとき、BRSAの役員から言われたのは「他のビルマのグループが元旦のバス旅行の募集をかける前にBRSAが企画を出せば、人もたくさん集まる」ということだった。

そんなわけでわたしは大急ぎで手配したのだが、おととい、バス旅行を担当してくれているネーミョーアウンさんから聞いたのは、参加者の集まりが期待していたより鈍いということだった。50人の予定が、いまのところ30人だという。

なんでも、BRSAの一泊二日のバス旅行企画を見た他のビルマのグループが、もっと安い値段で大阪USJの日帰り旅行を企画し、そっちのほうに流れたようだ、という。

人に先んじるというのもリスクがあるわけだ。

BRSAのバス旅行についていえば、まだ時間もあるし、役員たちが頑張ってくれているので、参加者数の点では問題になるようなことはないだろうが、在日ビルマ・コミュニティの元旦のバス旅行というひどく小さな市場でもこんな熾烈な競争が生じているのである。キビシい世の中だ。

大地憐れみの令

ビルマへの投資の増大に伴い、ヤンゴン辺りでは地価がとんでもなく上昇しているらしい。

日本にいるビルマの人々の中にも、いつか帰る日のためにヤンゴンに土地や家を所有している人もいるが、かつては二束三文の価で購った土地も、今ではその数百倍となっているともいう。

そのため、トラブルも生じている。これらの在外ビルマ国民に土地の管理を任されていた人の中には、名義をこっそり変えて自分のものにしてしまう輩もいるのだそうだ。

このように地価が上昇するのは、住居やマンションや商業施設や工場として利用したいという人や企業でヤンゴンが溢れかえっているからだが、ヤンゴンの植民地時代の古い建物に非常な魅力を感じているわたしとしては、少々残念でもある。

わたしが最後に行ったのは2006年のことだが、今ではずいぶん変わってしまったことだろう。

ところで、ヤンゴンでは地下室を作るのが禁止されているため、今のようなヤンゴン挙げての新築ラッシュでも人々はずいぶんと苦慮しているらしい。本来ならば地下に設けたい駐車場を一階部分に設置するとかしているとのこと。

なぜ、地下室が禁止されているのか。この話をわたしにしてくれたBRSAの若いビルマ人は「反政府活動家が逃げ込まないように、ですよ」と説明してくれた。それに、地下室があれば御法度の秘密集会だって簡単に開ける。

実のところは、地質上の理由でもあるのかもしれない。だが、なんにせよ、もし彼が言う通りならば、地下室禁止令を撤回しないビルマ政府はまだ政治的弾圧という手法を捨て去っていないということになる。また、これが真実でないとしても、人々が現在のビルマ政府をどのように見ているかが、この噂から窺い知れようものだ。

ナイジェリアVSビルマ

わたしはいまカチン独立機構とビルマ政府の間の戦争に関するレポートを書いていて、おそらくもうじき終わると思うのだが、CLOVERの交流会に出席したときは、ちょうどビルマ連邦の民族州の問題についてまとめていたのだった。

ビルマにはヤンゴンなどの管区の他にカチン州やカレン州などの民族の名前を冠した7つの民族州があり、おおざっぱな言い方をすれば、この民族州における各民族の自治権の要求が、ビルマ問題の根源といってもいい。民主化はむしろそれに付随した問題でしかない。

この民族州の問題は非常に厄介で解決を見つけるのは大変だ。だが、いわばこの問題のために、これまでに数多くのカレン人やカチン人、あるいはビルマ人が殺されてきたし、今も殺されている。

さて、CLOVERの交流会では小グループに分かれて難民問題に関して希望や夢を分かち合う、という学生らしいプログラムが行われ、わたしもまた、あるグループに振り分けられた。

それは8人程度のグループで、わたしを除けばCLOVERのメンバーが2人、他の大学の学生が3人、難民支援NGOと難民がひとりずつ、という構成であった。

難民の方はナイジェリアの女性で、入管の収容者を支援する活動をしている人だ。わたしも見かけたことがある。

いろいろな経験をしている方で、現在入管に収容されている妊娠中の中国人女性(しかも重い病気を持っているという)のことや、牛久に4年も収容されているソマリア人男性のことについて熱心に英語で訴えていた。日本語は解さないわけではないが、それほど得意でもないようだった。

小グループでディスカッションを始める前に、それぞれ自己紹介したのだが、日本のビルマ難民団体の代表をやっています、と語ったわたしをどうやら、ビルマ人と勘違いしたようだった。

日本における難民のひどい扱いを訴えるのに「このミャンマーから来たブラザーも!」とか言いながらわたしを指すのであった。

ビルマ人ですらわたしのことをビルマ人だと思うことがあるので、わたしはあまり気にもしないし、詰まらぬことでわざわざ口を挟んで彼女の話の腰を折るのも気が引けたので、そのまま放っておいた。

話はアフリカ出身の難民が、日本でどれだけ差別的な扱いを受けているかに及んだ。わたしはほとんどビルマの難民のことしか知らないが、ナイジェリアなどの難民がどれだけ辛い思いをしてるかはしばしば耳にしている。そして、彼女によれば、アフリカの難民たちはビルマの難民よりずっと苦しい状態にあるというのだ。

わたしはこれに同意しないわけでもないが、それはともかく、彼女は言葉を続ける。

「このミャンマーのブラザー(と彼女はわたしを指差す)には申し訳ないのですが、ミャンマーなんて、ナイジェリアのひと州ほどの大きさしかないのです!」

むむむ……強敵現る……

2012/12/11

CLOVER

筑波大学の学生が作った難民支援サークルCLOVERの交流会(12月8日)に、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)として招待された。

ありがたいことなので、BRSAの役員2人と参加させてもらうことにしたが、ひとりが急用で行けなくなり、もうひとりは大幅に遅れることになった。

難民でもない日本人が1人で行くのも気が引けたが、牛久入管での面会活動などを一生懸命やっている心優しい若者たちなのでそう邪険にもされまいと、腹をくくって会場のつくば駅近くのノバホールに行ったが、はたしてその通りであった。

参加者数はよくわからないが、揃いのTシャツを着たCLOVERのメンバーの他、いろいろな国の難民たち、他大学の難民支援サークル、特に品川入管の面会活動をしているTellMeという学生サークルの学生たち、難民支援NGO(牛久の会や仮放免者の会など)の人々などが集まっていた。

UNHCR製作の難民に関するビデオ上映の後、難民問題を寸劇を交えてプレゼンしたり、小グループに分かれてディスカッションしたり、いかにも学生らしい交流会であった。特に寸劇で入管の面会室を再現した時には、参加者から感嘆の声が漏れ聞こえた。

この交流会についてはCLOVERの学生自身による報告がすでにある。

これを読むと「総括」という文字があるので、え、そっち系かよ、と思うがよく見ると「統括」 であった。統括という言葉は、わたしが学生の頃は、少なくとも学生の間では使われていなかったように思う。おそらくトンカツと聞き間違える人がいるからであろう。戦後の気配というものがまだ色濃く残る時代であった。

くだらないことばかり書いているが……

M寸L寸

BRSAのバス旅行のためにあちこち大阪の安宿に電話したのだが、そのとき応対してくれた年配の男性が「こっちで段取りさせてもらいます」みたいなことを言うので、本物の西尾一男だと。

「段取り」と関東でも関西でも同じ言葉を使うが、少なくとも関東では「こちらで段取りをさせてもらう」とか「そちらで段取りしておいてください」とはあまり言わない。

だから、関東(あるいは標準語)の「段取り」と大阪弁の「段取り」では意味が少々異なっているに違いない。

普通、標準語の「段取り」が意味するのは、物事を進める際の手順や準備で、そうした段取りそのものは相手と自分で共有することもできる(「今日の段取りはこんな感じで行きましょう」みたいに)。

だが、関西の「段取り」(とはいってもわたしは友近のヤツしか知らないのだが)には、「相手の希望やモノゴトのあるべき姿を理解した上で自分たちでコトを進めておく(あるいは逆に、自分の希望などを踏まえて相手がコトを進めておく)」というようなニュアンスがあるように思える。とすると、こっちの段取りは共有はできない。

関東の人間からすれば大阪人に「勝手に段取りを作って進めてもらっちゃあ困る」と文句も言いたくなるが、大阪の人にしてみれば「東京のヤツが作った段取りをこっちに押し付けられちゃあ迷惑千万」というところであろう。

人情の街

今年の元旦のBRSAのバス旅行は一泊二日、しかも関西方面ということになった。

細かいことはまだ決まっていないが、元旦にユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行き、2日は京都かどっかを回って、その日の夜に高田馬場着。

問題は宿泊場所だ。

大型バス一台分、50人分の宿を確保しなくてはならない。

寝るだけでいいからとにかく安く、というのがBRSA役員の要望で、となると大阪でわたしに思いつく場所はひとつしかない。釜ヶ崎とか西成とかいわれるあの辺りだ(釜ヶ崎・西成・あいりんなどいろいろ名前があり、関西に疎いわたしには違いがよくわからないので、とりあえず釜ヶ崎にしておく)。

東京の山谷が今では外国人旅行者向けの安宿街でもあるように、釜ヶ崎の安宿(風呂と寝る場所だけの簡易宿泊所)も外国人旅行者がよく利用するようだ。

そんなわけで、宿探しも簡単かと思われた。

しかし、なかなか見つかんないんだよ、50人だから。

しかも、しらみつぶしに電話しているうちにわかったのだが、いくつかの宿ではお正月の時期は休んでしまったり、予約を受け付けなかったりする。

どうやら、この時期はなじみの客が釜ヶ崎に里帰りするらしく、そうした人のために部屋を明けておくのが慣らいとなっているようなのだ。

いかにも人情の街大阪らしいそんな一面を垣間見つつ、結局、なんとか50人分確保した。2つのホテルに分宿っ。

2012/12/10

酒と競う

BRSAの対外活動局長のネーミョーアウンさんが今年のバス旅行は一泊旅行にしたいという提案をした。

わたしとしては特に異議はないが、細かく話を詰めて行くと、集合時間は相変わらず1月1日の午前2時だとのこと。

「せっかく一泊旅行にするんだから、もうすこしゆっくり朝6時ぐらいに出発したっていいんじゃないですか」

とわたしが指摘すると、ネーミョーアウンさんは

「それはダメです。大晦日はみんな、お店の大掃除とかで忙しくて帰宅するのは深夜なのですが、もし1月1日の朝6時に出発ということになると、正月休みの開放感に浮かれて飲んですっかりでき上がってしまう人が出てきます。そしたら絶対に集合時間にはやってこない。一番いいのは、仕事が終わって帰宅したらすぐ集めて出発することです。それには午前2時がちょうどいいのです」

とまことに含蓄にとんだ反論をしたのであった。酒をいかに出し抜くかが旅の成功の秘訣だといえよう。

もっともそれでは酒飲みが反乱を起こしはしないか? 干上がってしまうとブーブー言って? 会長のわたしでなくともこれは気がかりな点であろう。

だが、ご安心のほどを。BRSAのバス旅行のバス内では完全なる飲み放題が実現されているのだ。

出し抜いたかと思うと実は先回りされていた、というまさかの展開に酒飲みたちのうれしい悲鳴が……。

2012/12/09

ステッカー

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)では、毎年お正月にバス旅行を企画する。

例年、元旦の午前2時に高田馬場を出て、スキー場に朝到着。一日飲んで遊んで、温泉に入って帰ってくる。

わたしは2009年に一度参加したきりで、それ以降は行っていない。なんせ子どもを連れて実家に帰らねばならぬ。

しかし、BRSAの人々は帰ろうにもビルマの実家には行かれぬ。そんなわけで、せっかくの休み、みんなバス旅行でおおいに楽しもうという次第となる。

もっとも、これは他のビルマの人々もそうで、さまざまな団体が似たようなバス旅行を計画するので、元旦の午前2時頃の高田馬場駅前の早稲田通り沿いにはいくつも大型バスが並ぶことになる。飲食業で働いている人が多いので、元旦しか休めないという人も多く、どうしても重なってしまうのだ。

わたしは今回のバス旅行の貸切バスの予約をしたのだが、イベント担当のネーミョーアウンさんに「バスのフロントに張る紙(ステッカーというらしい)にちゃんとBRSAの名前が入るようにバス会社さんに伝えてください」と念を押された。

あんまりたくさんバスがあるんで、違うのに乗っちゃう人が必ず出るからだっ。

2012/12/08

シンシア・マウンさん(2)

ところが結成して2年ほど経った頃、OKO-Japan内部でいろいろと人間関係上の問題が起こり、われわれが会の目的としていた支援プロジェクトもそのあおりを食って停止状態になってしまった。

しばらく後に会は有能な役員・会員を得て再興するのだが、シンシアさんにささやかではあるにせよ確約していた支援活動は続けることはできなくなり、直接その交渉に当たったわたしはシンシアさんに会わせる顔がなくなってしまった。

もっとも、いろいろな人と頻繁に会っているシンシアさんのことなので、数度会ったきりのわたしのことなどまず覚えていないだろうが、それにしたって決まりが悪い。

先月末、シンシアさんが日本の支援団体の招きにより来日し、講演をしたりさまざまな取材を受けたりした。わたしは時間がなく何一つ行けなかったのだが、11月25日、シンシアさんが帰る前の日に、在日カレン人との交流会をするからおいでよと、OKO-Japanの事務局長に誘われた。

会場はある在日カレン人が働いている大井町の居酒屋で、わたしは何としても行きたいと思ったが、ちょうどその日の晩は在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の月例会があり、会長であるわたしはさぼるわけにはいかない。途中で抜け出せそうな流れにもならず、結局行くことはできなかった。

わたしは事務局長に電話して「やっぱ行けないっす。シンシアさんによろしくっす」というと「あい、ちょっと待ってね」と電話をシンシアさんに回してくれた。 まいったな、と思いながら「日本に来てくださってありがとうございます」みたいな適当なことを言ってお茶を濁した。いきなり得体の知れぬ日本人と電話で話すことになったシンシアさんの当惑を思うと気が気ではならぬ。もっとも、人間関係においてあまりかしこまらないのが、カレン人流のつき合い方で、電話を回してくれた人が特に無作法をしたというわけではないのだ。

さて、在日カレン人同士の交流会についていえば、こいつは大盛況のうちに終わったそうだ。

2012/12/07

シンシア・マウンさん(1)

海外カレン機構(日本)OKO-Japanは2006年3月に在日カレン人とわたしが設立した団体であるが、その設立前にどんな団体にしたらよいのか、設立メンバーたちといろいろ議論したものだった。

メンバーの1人に、タイ、メーソットのメータオ・クリニックの著名な医師のシンシア・マウンさんを知っている人がいた。その人がいうには、シンシアさんはビルマからタイ・ビルマ国境に逃げてきたとき、海外カレン機構(Overseas Karen Organization)という団体を仲間と一緒に作り、一時そこで活動していた、なので、新しいカレン人の団体もこの名前を使ったらどうだろうか、と提案してくれた。

わたしもほかのみんなもそれには大賛成だった。というのも新団体ではタイ・ビルマ国境のカレン難民支援を大きな目的に掲げたいというのが総意で、シンシアさんにゆかりのあるその団体名はまことにうってつけなのだった。

さっそく、メンバーがシンシアさんに問い合わせると、現在この団体は活動してはいないが、日本のカレン人がその名前を使うには特に問題はないとのことであった。

そんなわけで、われわれはOKO-Japanという名称を採用したわけであるが、名前にふさわしい活動をしようということで、早速お金を集めて、メータオ・クリニックの支援活動を始めたのである。

結成当初のOKO-Japanのメンバー(約15名)のうち、ビザを持っている人は1人だけで、タイに行けるのはわたしとその人だけだった。それで、わたしはタイを訪問した際にOKO-Japanの代表としてメータオ・クリニックに赴き、シンシアさんと今後の支援活動についていろいろ話をしたのであった。ビルマ国内のカレン人地域に小さな学校を建てたり、医療チームを支援したりするような内容であった。

2012/12/06

産めよ増やせよ

ビルマ政府はわれわれの民族を根絶やしにしようとしている、というのが多くの非ビルマ民族が訴えることであり、ビルマが変わりつつある今もその疑いは依然として残っている。

さて、日本に暮らすあるカレン人の政治リーダーが、わたしに現代日本の問題について尋ねたので、日本人の出生率の低さを一番の課題として挙げた。実際、住む人がいなくなるっていうのに領土も糞もないもんだ。

彼はこれを肯定し、カレン民族との比較を始めた。

「カレン人は日本人と違う。どんどん子ども作るよ。まるでゴキブリ! ネズミ! カラス!」

いや、それどっちかっつーと敵側の喩えでしょ。

2012/12/05

CNFと日本財団

チンランドガーディアンの12月3日付の記事(CNF Confirmed Delegation Members for Rangoon Meeting)によれば、前回の投稿で触れたチン民族戦線(CNF)とビルマ政府の3回目の協議が、12月7日〜8日にかけてヤンゴンで開催されるという。

CNFの代表20人が現在ヤンゴンに向かっているとのことだが、興味深いのは7名の会議のオブザーバーに日本財団会長の笹川陽平さんら3名が含まれていることだ。

また、吉田鈴香さんは日本財団でビルマのことを担当している方で、10月中旬の少数民族の支援会議で中心的な役割を果たした人の1人だ。

今回のオブザーバーとしての参加は日本財団の支援プロジェクトへの期待の現れでもあるが、また同時にチン民族と日本との関係にとっても歴史的な出来事だと思う。

チン州の現状

わたしは『アンセイフ・ステイト』用の解説として「監訳者あとがき—チン州の現状と『アンセイフ・ステイト』」というものを書いたが、チン州の現状と政治的変化についてはあまり取り上げられることもないので、その部分を中心にここにも載せようと思う(ただし注は省いてある)。

『アンセイフ・ステイト』の英語原文が発表されたのは2007年3月、ビルマ(ミャンマー)ではこの年の9月に「サフラン革命」と呼ばれる僧侶を中心とした民主化運動が起きている。そして、翌2008年には5月のナルギス・サイクロンの襲来と、甚大なその被害にも関わらず強行された新憲法の可否を問う国民投票があり、その結果いわゆる「2008年憲法」が成立することとなった。さらにこの憲法の帰結として、2010年に総選挙が行われ、その翌年3月には元軍人のテインセインを大統領とする新政府が発足し、軍事政権は少なくとも名目上は終了した。

こうした過程はしばしば「民主化」や「改革」と表現され、政治囚人の釈放、アウンサンスーチーの解放と国政への参加、検閲制度の廃止など確かに実のある変化を伴っている。しかしながら、軍の優越を前提とする憲法の問題、カチン独立機構との停戦破棄と戦争の激化、アラカン州の住民紛争、貧困などの社会的問題など、民主化プロセスを覆しかねない要因もまた同時に存続しており、未だに予断を許さない状況にあるともいえる。

こうした流れの中、『アンセイフ・ステイト』が対象としているチン州もやはり同じような大きな変化を迎えつつある。それは、ビルマ政府とチン民族戦線(CNF)との間の停戦合意の成立である。まずその経過を辿ってみよう。

ビルマ政府とチン民族戦線との停戦合意は、2011年11月19日にタイのメーサイで行われた事前協議を経て、2012年1月5〜6日の2日間に渡りチン州の州都ハーカーで開催された会議の所産である「ビルマにおける永続的な平和のためのチン州政府とCNFとの間の事前協定」をもってまず州レベルにおいて成立した。この協定は次の9項目からなっている。

1)戦争を停止する。
2)タンタランに連絡事務所を設置し、ティディムとマトゥピーの連絡事務所開設はこれに引き続く。また、チン州政府はCNFのチン州内の拠点を承認する。
3)CNFとチン民族軍(CNA)の武装していないメンバーはビルマ連邦内を自由に移動することができる。
4)連邦政府レベルでの協議をできるだけ早期に行う。
5) CNF/CNAはチン民族との公的な協議を自由に行うことができる。
6)国際NGOがチン民族に対する支援活動を行うことを認める。
7)政府の経済的支援により、CNFは経済特区での開発事業において主導的な役割を果たす。
8)チン州の発展のためにチン州政府とCNFは協力する。
9)チン州政府とCNFはチン州北部における不法なケシの栽培、麻薬の密売の撲滅のために協力する。

これを受けて、5月7日には連邦政府レベルでの交渉が行われた。本来ならば協議は2日間続く予定であったが、ビルマ政府側がCNF側の提示する条件をおおかた受け入れたため、1日で終わってしまった。今回の合意は15項目からなり、以下のような内容が含まれているという。

・2月20日をチン民族記念日として公認する。この記念日は軍事政権が認めていなかったため、チン州記念日と改称されていた。このチン州記念日は元来の日、1月3日に戻される。
・国外に居住するチン民族の自由で安全な帰国を保障する。
・宗教差別を撤廃する。
・強制労働などの人権侵害を抑止する。
・和平プロセスをモニターする独立機関を設置する。
・双方に意見の深刻な不一致がある場合に、平和的な解決を求めて仲裁する役目を担う市民団体を州と連邦のふたつのレベルで設ける。
・CNFに関係したために逮捕・投獄された人々を無条件に釈放する。
・CNFに対する非合法団体指定を取り消す。

これら2つの合意がチン州にもたらすものは何だろうか。まず重要なのは、これらの合意はCNFがすべてのチン民族と合法的に協議・相談することを可能にし、それゆえ、チン民族としての総意の形成のための道を開いたということであろう。CNF外務局長のサライ・トゥラヘイ氏は「次の3回目の交渉では、CNF対ビルマ連邦政府ではなく、チン民族全体としてビルマ連邦政府と交渉できるようにすることを目指している」と今後の展望について語っている(もっとも時期については未定だという)。

しかしながら、たとえ3回目の交渉が実現したとしても、それですべての問題が解決するわけではない。サライ・トゥラヘイ氏もインタビューで強調したように、これからのチン州にとっては民主化だけでは不十分であり、チン民族の自己決定権を保障する連邦制の確立が不可欠である。これはチン民族以外の非ビルマ民族も等しく主張することであるが、ビルマの全民族が関わる問題だけに合意の形成にはなおいっそうの時間がかかることが予想される。すなわち、今回の停戦合意はチン民族にとっては単なる始まりでしかなく、当分の間は揺り戻しの危険をはらんだ不安定な時期が続くとみられる。しかし、そのような長く危うげな道のりであっても「今のところビルマ政府は約束を守っており、和平プロセスは進んでいる」とサライ・トゥラヘイ氏が評価するような前向きな現状は意義深く、今後の進展を期待させるものである。

ジレゾーミ(JIREH ZOMI)

アンセイフ・ステイト出版記念集会は下神明の品川中小企業センターで午前10時から正午まで行われたのだが、ビルマの人のこうした集いの約束事として食事も用意されていた。

とはいっても、集会が早く終わってしまったため、多少出席者は待たされたのだが、それはともかく、今回準備されたのはお弁当で、白米とカレーとコロッケがメインのもの。

見た目はよくある弁当なのだが、鶏肉のカレーがビルマ風でおいしい。これは日本人の店ではないな、と思って聞いてみたら、在日チン民族の夫婦が最近大田区にレストランを出したとのこと。

名前はジレゾーミ(JIREH ZOMI)。ZOMIはチン民族のことでJIREHというのは聖書の言葉だとのことで、おそらく次の創世記(22:14)に見える「イルエ」に基づくのだろう。

「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」

となると「ジレゾーミ」というのは「神がチン民族を備えてくださる」あるいは「神がチン民族のために備えてくださる」という意味になりそうだ。なんとなく前者のほうがしっくり来るが、おそらく「神様がこのお店をチン民族のために備えてくださった」という感謝の気持ちが背後にあるように思う。

この真偽については残念ながらジレゾーミにいまのところ行く機会のないわたしにはわからないが、お店の様子については、食べログで見ることができる。

2012/12/04

アンセイフ・ドリーム

『アンセイフ・ステイト』は最初は今年の夏に出す予定だったが、9月にずれ、10月にずれ、とうとう11月になってしまった。

出版記念集会をする関係で場所を押さえなくてはならない。わたしはCWO-Japanの会長のドウ・ニンザルンさんに11月11日には絶対に間に合うと請け合い、彼女はわたしの言葉を信じて、その日に下神明の品川区中小企業センターの会議室を予約した。

この本は2007年の出版で、それからビルマの情勢もいろいろ変わった。それで、わたしは2007年当時と現在のチン州の状況を橋渡しするような解説が不可欠であろうと考えた。

オリジナルを出版したのはチンランド女性連盟(WLC)で、わたしはこの本の刊行を主導したチェリー・ザハウさんにインタビューするのが一番よいと考えたが、いろいろな事情でこれは実現しなかった。

それでどうしよう、と考えていたところ、折よくチン民族戦線(CNF)の外務局のサライ・トゥラヘイさんが日本財団の招きで他の非ビルマ民族政治家とともに来日した。わたしは短い時間ではあるが彼から話を聞くことができ、なんとか最新の状況を解説に含めることができた。

こうした経緯もあり、印刷に出すのは本当にもうギリギリで、印刷屋とのやり取りを経て、完成品が手元に届いたのが、11月9日のことだった。

現物を見るまでわたしはもう気が気でなかった。11日に間に合わなかったら、とんでもない恥さらしだ。わたし1人なら大して気にもしないが、CWO-Japanのみんなに迷惑をかけるわけにはいかない。

そんなこんなで、11月9日の未明、わたしは本来は左綴じであるべきこの小冊子が、おのれの発注ミスで右綴じで届けられるという悪夢を見たのであった。

アンセイフ・ステイト—女性には危険すぎる土地

2007年にチン民族の女性団体が出版した「Unsafe State」の日本語版『アンセイフ・ステイト—女性には危険すぎる土地:チン州におけるビルマ政府公認の性暴力』が先月出版された。発行したのは在日チン女性機構(CWO-Japan)で、翻訳の大部分は難民支援協会。わたしも一部翻訳したが、元の訳にいろいろ手を加えたほか、編集作業などいろいろ細々したことをあらかた行った。また、現在のチン州の状況について記した解説も書いている。

難民支援協会の翻訳は2年前ぐらいに出来上がっていたが、CWO-Japanやわたしの都合で結局、実際の作業に移るまでかなりの時間がかかってしまった。50ページに満たない小冊子だが、わたしはずいぶん時間を費やしている。

11月11日にCWO-Japanがこの本の発行を記念して集会を開いた。チンの人や他の民族の活動家たち、日本人などいろいろな人が集まった。そのとき、パラウン民族の活動家のマイチョーウーさん(在日パラウン民族協会、PNS-Japan)が「ビルマが変わりつつある現在だからこそ、こうした本が出るのは意味がある」と言ってくれた。

わたしもCWO-Japanのみんなも、もっと早く出せばよかった、と内心思わないでもなかっただけに、この言葉はとてもありがたかった。

2012/12/03

キャラバンはついに到らず

詳しい話はできない類いの話だが、以前、ある母子が家を逃げ出すのを手伝ったことがある。

夫がいろいろ苛めるから、というのがその理由だが、本当のところはわからないし、その正否の判断はわたしのすることではない。

わたしはただその母親の友人であり、そしてもう1人やはり別の友人と一緒に、昼間に彼女の家に行き、夫が働きに出ている間に、引っ越し屋に荷物を積み込む手伝いをしたのである。

とはいえ、わたしがしたのは引っ越しそのものの作業ではなく、夫が不意に帰ってこないか、最寄りの駅でただひたすら見張ることであった。

わたしは夫に数度会ったことがあるから、見かければわかる。で、もし見かけたら、すぐに電話で警報を発するというわけだ。夏の暑い日で、立っているだけでもしんどかった。わたしはそうやって半日過ごした。

完了の報告が入ったのでわたしは彼女の家に戻った。アパートの2階にあるその部屋からはほとんどのものが運び出されていた。残っているものといえば、冷蔵庫とテーブルと夫の私物のみ。冷蔵庫を見ると、幼い子どもが描いた「お父さんの絵」が貼ってあり、何とも無惨な気持ちにさせた。

「今、俺が目にしているのは、妻子に逃げられた男が帰ってきて最初に見る光景に違いない。そのとき彼はどんな顔をしているだろうか。どんなふうに叫び、罵り、泣くのだろうか。この目で見てみたいものだ」

まず叶うことのあり得ないこれらの欲求に駆り立てられたわたしは、自慢のiPhone4Sを取り出すと、せめてばかりとあたりの写真を撮りはじめた。

「もぬけの殻の実情を収めたこれらの写真は」とわたしは思った「必ずや世の男性諸氏にとっての戒めとなるだろう。そうだ、写真展を開こう、都庁の一階かどこかで! それだけの価値はある。いや、この出来事を歌にもしよう、一篇のバラッドに! そしてトゥルバドールのごとく全国を吟遊して回るのだ、写真引っさげて。全国キャラバンのはじまりだ……」

猛暑の中ずっと立ちっぱなしだったせいですっかり頭をやられてた。その証拠に、夜風が吹く頃には、この結構な計画もすっかりわたしの心から掃き出されてしまっていた。

さて、この間のこと、友人のビルマ人がやってきて相談したいことがあると言った。ひどい喧嘩をして、妻が生まれたばかりの子どもを連れて、家を出てしまったのだというのだ。仕事から帰ってみると何にもない! 電話をしても出てくれない! 一回出たが、もうこの電話も解約するって! どこにいるかもわからない。一目子どもに会いたい!

その憔悴しきった顔をわたしはまじまじと見つめる。 おお、キャラバンはついに到らず! 全国などといわずに近場だけでも回ってりゃあ今頃こんな……(だけど、そのおかげでわたしゃ江戸の敵をビルマで討ったというわけで)。

さて、彼から「どうしたらいいか」と聞かれたが、わたしにわかろうはずもない。子どものこともあるから、とりあえず役所の児童福祉相談の窓口に行ったほうがいいよ、とだけ言っておいた。

2012/12/02

ドキュメンテーション:カチン民族運動の歴史(11月30日)配布資料

カチン・イヤー11月のイベント
「ドキュメンテーション:カチン民族運動の歴史」
2012年11月30日(金曜日)午後7時ー午後8時30分
南大塚地域文化創造館第2会議室

今、国際的な注目を集めるビルマの民主化の影で、ビルマ政府とカチン独立機構政府との間で戦争が行われています。その結果、ビルマ国内およびビルマ・中国国境では10万人にもおよぶ難民・国内避難民が発生しています。

NPO法人ビルマ・コンサーンは、日本国内および紛争地域のカチン人と協力して、今回のこの戦争とそれによって生み出された難民の実態について報告を行ってまいりました。  

今回はこれまでの報告会とは異なり、在日非ビルマ民族政治運動の立役者の1人であり、またカチン民族機構−日本の議長でもあるピーター・ブランセン(Peter Bran Seng)氏をお招きし、現在ビルマ政府と交戦しているカチン民族機構(KIO)の一員でもあった氏の経験を交えつつ、カチン民族の民族運動についてお話しいただきたいと思っております。 

【報告会の内容】
1)イントロダクション:カチン・ビルマ戦争と戦争難民
                          熊切 拓(ビルマ・コンサーン)

2)ドキュメンテーション:カチン民族運動の歴史
                        ピーター・ブランセン(カチン民族機構−日本議長)
3)ディスカッション 

1)カチン・ビルマ戦争と戦争難民 
【カチン・ビルマ戦争】  
1994年からの17年間にわたるカチン民族機構(KIO)との停戦を2011年6月にビルマ政府が一方的に破棄したことによって起きた戦争。

【戦争の原因】  
カチン州の豊富な資源(金・翡翠・森林など)。

【難民の発生】  
KIO支配地域へ軍を展開するビルマ軍による村への略奪、攻撃により、9万人以上の国内避難民・難民が発生。ビルマ政府支配地域、KIO支配地域、中国国境地帯に大小あわせて100近くの難民キャンプができる。

【支援状況】  
キャンプはビルマ政府と中国政府に挟まれた地域にあるため、国際的な支援が届きにくい状況。

【ジェーヤン・キャンプ】  
最大の国内避難民キャンプ。8,000人以上の避難民が暮らす。必要なのは食料。また防寒対策も必要。 

2)カチン民族運動の歴史 
【ピーター・ブランセン氏略歴】  
1974年にカチン独立軍(KIA)に加わり、1980年までの間に軍人としてカチン州全土を回る。ヤンゴンに戻り、ヤンゴン大学を卒業した後、1988年から、ビルマ軍との停戦が成立する1994年までの間、当時のカチン独立機構(KIO)議長マラン・ブランセンの個人秘書として勤務。停戦後再びヤンゴンに戻るが、政治的迫害のおそれがあったため、ビルマから出国。2001年11月4日に来日。  

日本では、最初のカチン人の政治団体、在日カチン民族民主化運動(Democracy for Kachin Nationals in Japan, DKN-Japan)を2003年10月12日に設立し、2004年4月には、日本に暮らす非ビルマ民族とともに最初の非ビルマ民族政治団体、在日ビルマ連邦少数民族協議会(Association for United Nationalities in Japan, AUN-Japan)を結成し、日本における非ビルマ民族の政治運動をリードする。DKN-Japanはタイに本部を置くカチン民族機構(KNO)に正式加盟し、2007年9月9日にカチン民族機構(日本)(KNO-Japan)と改称された。現在、KNO-Japan議長を務める。  

2011年6月にKIOとビルマ政府との間で戦争が始まると、たびたび紛争地域と避難民キャンプを訪問して難民支援を続けている。  

難民認定申請の後、2005年に人道的配慮により在留資格を取得。韓国ソウルで開催された”4th Asia Pacifc Consultation on Refugee Rights”(2012/8/22〜24)に日本の難民の代表(難民連帯委員会)の1人として参加。 

【カチン独立機構とカチン独立軍】  
カチン独立機構(Kachin Independent Organization, KIO)とカチン独立軍(Kachin Independance Army, KIA)は1961年2月5日にカチンの青年たちによって設立された。長い戦争の後、1994年2月24日にビルマ政府と停戦を結ぶが、2011年6月より再び交戦状態に入る。 

【カチン民族機構】  
カチン独立機構(Kachin National Organization)は、国外のカチン人によって1999年に設立された政治団体であり、当時停戦中であったKIOとは異なり、反ビルマ軍事政権・民族解放の立場から国際的な活動を展開してきた。ビルマ政府とKIOの停戦が破棄された2011年6月以降からは、KIOとの協力を深め、2012年6月の協議において、KIOとKNOとの協力関係が確認された。

報告会「難民とカチン独立機構」配布資料(10月31日)

カチン・イヤー10月のイベント
報告会「難民とカチン独立機構」

10月31日(水曜日)午後7時ー午後8時30分
南大塚地域文化創造館第2会議室
カチン民族機構(日本)+ビルマ・コンサーン

今、国際的な注目を集めるビルマの民主化の影で、ビルマ政府とカチン独立機構政府との間で戦争が行われています。その結果、ビルマ国内およびビルマ・中国国境では10万人にもおよぶ難民・国内避難民が発生しています。

NPO法人ビルマ・コンサーンは、今年6月末、在日カチン人活動家たちとともに、カチン州のカチン独立機構支配地域に赴き、戦争と難民の現状について調査を行いました。

7月と8月の報告会に引き続く今回の報告会では、カチン独立機構に焦点を当ててこの戦争と難民の現状に関する報告をビデオと写真を交えて行います。

1)カチン民族とカチン州の戦争について
*カチン民族はビルマの北のカチン州とシャン州北部に住む民族集団。おもに6つの民族集団からなり、カチン語(ジンポー語)を共通語とする。大多数がキリスト教徒。

*2011年6月9日、ビルマ軍の攻撃により1994年以来続いていたカチン独立機構(KIO)とビルマ政府との間の停戦は終了した。

*戦争の理由はビルマ軍側から見ればカチン州の権益を守るため(水力発電・地下資源・アラカン州と中国を結ぶパイプライン)。

*カチン側から見れば、ビルマ政府は「侵略者」。カチン民族と生命を独立を守るための防衛戦争。停戦の条件は次のようなもの。
①政治的対話による問題解決(連邦制・民主主義・民族の平等)
2つの側面
a.カチン民族の権利
b.カチン民族以外の非ビルマ民族の権利

②KIO支配地域からのビルマ軍の撤退

*KIOとビルマ政府は公式非公式あわせて9回の交渉を行っているが合意には達していない。

*今後のカチン州戦争の行く末。2つの可能性。
①ビルマ側の譲歩による早期解決
②戦争の恒常化と停戦交渉を行っている他の民族へ戦争の波及

2)国内避難民・難民の状況
*戦争によって多くの国内避難民・難民が発生。国内避難民・難民は現在10万に上ると見られている。

* 人数と性質:3種のキャンプ
①KIOエリア内の国内避難民キャンプ 中国国境沿いに35キャンプ。6月末の統計によると51,991人。 
②ビルマ政府エリア内の国内避難民キャンプ ミッチナー・バモー・プータオに61キャンプ。約15,000人(2011/12) 
③中国内の難民キャンプ 7つの非公式キャンプ。約10,000人。今年の夏にかけて中国政府により強制排除。

*ロケーション:市内やその近郊にあるキャンプ・戦闘地域に囲まれたキャンプ・山奥にあるキャンプ。

*支援:KIOエリア内のキャンプの状況
①KIOが運営。
②カチン人NGOの支援活動
③UNHCRの支援(ヤンゴン経由:少ない)
④中国のカチン人・キリスト教徒の支援
⑤国外のカチン人の支援
⑥ビルマないのカチン人・教会の支援
⑦その他のNGOの支援   UNHCRや国際NGOの大規模な支援が届きにくい状況にある。 

*一般的な状況:難民の増加により、KIOの支援も限界。最低限の食料しかない状況。

*ジェーヤン(JE YANG)キャンプの状況
キャンプはライザから10キロ離れた地点にある。ジェーヤン川沿いにあり、川の向こうは中国。このキャンプから十数キロのところにビルマ軍の前哨基地があり、戦闘が行われている。キャンプの人口は約6千(6月末)。女性・子ども・老人が多く、未成年は2,000人いる。避難民の多くは近隣の村から。ビルマ軍が村にやってきたため逃げてきた。

* ジェーヤン(JE YANG)キャンプの歴史
記録資料は嵐のさいに失われてしまった。設立日は2011年6月11日。最初の家族が来たのは2011年7月17日。キャンプ開きの礼拝が2011年7月19日。最初に来た避難民の村の数は18。現在の村の数は39。最初に来た48家族189人が来た。現在は1447家族6293人。学校がはじまったのは2011年8月25日。生徒の数は1062名。

3)カチン独立機構
*カチン独立機構・カチン独立軍(KIO/KIA)とは? 1961年2月5日にカチンの青年たちによって結成され、ビルマ軍と交戦状態に入る。1994年、ビルマ政府と停戦を結ぶ。2011年6月にビルマ軍の攻撃により、再び交戦状態に入る。

*日本にいるカチン人もKIOと関係を持つ人が多い。  *中国との国境の町、ライザに本拠を置く。また同じく国境の街マイジャーヤンもKIOが掌握している。

*2つの「独立」の間で揺れ動くカチン人
①独立主義:ビルマからの独立。 ビルマ新政府とそれを支持する国際社会に対する絶望。
あるカチン人「わたしたちにとっては、テインセイン政府よりも、戦争のなかったSPDC時 代(軍事政権)のほうがましだった」 
②連邦主義:ビルマ連邦の枠内での州としての自治権の確立。 

*連邦主義においては、他の非ビルマ民族との協力が重要。KIOは、ビルマの諸民族による政治組織、UNFC(ビルマ諸民族統合連邦会議)の重要な一員として活動している。UNFCには現在ビルマ軍と停戦中の民族も含まれるが、2012年6月には、ビルマ政府に対し、カチン民族への攻撃を停止しなければ、現在進んでいる停戦交渉も見直すし、KIOとの共闘の姿勢を計画にした。また、10月には日本財団の招きによりUNFC派遣団の一員として来日。

*独立は可能か? 多くのカチン人は心情的には独立主義に傾いている。しかし、現実的にはさまざまな問題がある。 ①長引く戦争と増加する難民>国際支援が不可欠 ②他の非ビルマ民族との関係

*しかし、その一方では「孤立」が深まる。 ①ビルマにおける孤立 ②国際社会からの孤立   i)ビルマと国際社会の関係改善 あるカチン人「わたしたちにはもはや味方はいない」   ii)「交戦国」であるビルマと中国に挟まれ、国際的な目や支援が届かない。

*「独立」をどのようにカチン人が解釈し、どのように実現させて行くのかはわからない。しかし、カチン人を「孤立」させるのは、間違いなく国際社会の責任。日本に限っていえば、KIOの現状や難民キャンプの現状を知り、有効な支援を行う方法を見つけるために、できるだけ多くの人がカチン州の現状について関心を持ち、可能ならば訪問すべき。

4)カチン州の最新報告(8月のカチン州訪問の報告)(ビデオ上映)
            報告者:スムルッ・トゥティ(カチン民族機構-日本)
スムルッ・トゥティさんはシャン州出身のザイワ民族(カチン民族のひとつ)。カチン民族機構(日本)KNO-Japanの顧問のひとりとして積極的に活動している。 上映するビデオは、今年の8月末にカチン州を訪問した際に撮影されたもの(約30分)。

2012/12/01

報告会「カチン州の戦争と難民」配布資料(2012年8月26日)

カチン・イヤー8月のイベント
報告会「カチン州の戦争と難民」

2012年8月26日(日曜日)午後6時30分ー午後8時
豊島区東部区民事務所 第3集会室
カチン民族機構(日本)KNO-Japan+ビルマ・コンサーン

内容
1)カチン州の戦争の背景 ー 2008年憲法の帰結としてのカチン州戦争
*カチン民族はジンポー、ラシ、ラワン、リス、ザイワ、マルー(ロンウォー)の6つの言語の異なる民族からなる文化共同体で、ジンポー語(いわゆるカチン語)を共通語として、ビルマのカチン州を中心にシャン州北部、インド、中国に広がる地域に暮らしてきた民族。そのほとんどがキリスト教徒。

*カチン民族は独自の政治体制を持ち、独立を保ってきたが、ビルマ全土がイギリス植民地支配下に置かれた結果、政治的にビルマ民族やその他の民族と同じ運命を共有することとなった。

*日本軍による短い支配を経て、ビルマ諸民族はイギリス領からの独立を模索することとなるが、それを実現するためにビルマ民族がとったのが、ビルマ民族をはじめとする諸民族からなる連邦制という選択肢であった(イギリス側からの注文があったため)。この連邦制を実現するために、ビルマ主要民族が結んだ協定が、パンロン協定である(1947/2/12)。

*しかしながら、独立後(1947/1/)のビルマの状況は、パンロン協定に約束された連邦制の実現とはほど遠いものであった。これは、協定の立役者アウンサン将軍の暗殺という不幸な事件にもよるが、なによりも問題だったのが、ビルマ中央政府が「大ビルマ民族主義」のもと非ビルマ民族の自治や権利の平等を認めなかったことによる。

*非ビルマ民族側の不満はくすぶりつづけ、ついに武器を持った反政府運動へと発展する。カレン民族は1949年。そして、カチン民族は1961年にKIA/KIO(カチン独立軍・カチン独立機構)を設立し、反政府活動をはじめた。

*ビルマ軍とカチン軍との戦争は、他の民族の反政府運動などと絡み合う複雑な経過を辿ったが、その間、多くの一般市民がビルマ軍により(あるいは時にはカチン軍によって)甚大な被害を受けることとなった。その主なものは、殺害、性的虐待、村の破壊、強制労働、いやがらせなどである。

*こうした状況ゆえ、多くのカチン人が迫害を逃れるため難民として国外に流出するようになった。とくに1988年の全国的民主化闘争以後、その勢いは増し、世界各国にカチン人のコミュニティが生まれた。日本に最初のカチン人難民が訪れたのは1990年ごろのことで、現在は約400人のカチン難民(潜在的な難民、つまり難民認定申請をしていない人も含む)が日本で生活している。

*KIA/KIOは1961年以来の反政府活動に終止符を打ち、1994年2月にビルマ政府と停戦協定を結ぶ。しかしながら、この停戦は、一部のカチン人以外にはほとんど利益をもたらさなかった。多くのカチン人はビルマ政府内においては、潜在的な反乱分子として敵視され、難民の流出は留まるところを知らなかった。

*一方、停戦協定はビルマ政府に対しては莫大な権益をもたらした。カチン州は豊富な地下資源(金・翡翠)、森林資源に恵まれ、さらに水力発電の適地でもあるからである。また、中国への交通の要地という位置もまた重要である。これら資源から生み出される利益は、少数の例外を除けば、現地の住民に還元されることはなく、ビルマと中国とを富ませ、その結果、カチン州各地でさまざまな環境問題が生まれることとなった。

*停戦協定が生み出したこうした期待はずれな結果を見て、公に抗議の声を上げたのが1999年に国外のカチン人によって設立されたカチン民族機構(KNO)である。停戦協定による束縛のため表立った反政府活動ができないKIA/KIOに代わって、活発な国際ロビー活動を展開する一方、KIAに代わる軍を創設するなど直接的な反政府活動にも関わっていた。日本では最初のカチン人の政治団体「在日カチン民族民主化運動(DKN-Japan)」が2003年10月12日に結成され、2007年9月9日にカチン民族機構(日本)(KNO-Japan)と改称された。

*一方ビルマでは2008年憲法の国民投票、新政府の設立、テインセイン大統領の就任、アウンサンスーチーの解放と政治活動とめまぐるしい変化を迎えていた。

*しかし、民主化の期待が高まるさなかの2011年6月9日、ビルマ軍はカチン軍に対する攻撃を開始し、一方的に17年間にわたる停戦を破棄した。後のテインセイン大統領による停戦命令にも関わらず、ビルマ軍による攻撃は今なお続き、80,000を越えるともいわれる難民・国内避難民がビルマ国内、ビルマ・中国国境に押し寄せる事態となっている。

*ビルマ軍の攻撃の原因については、水力発電ダムの支配権を握るため、一般的にいわれている。しかし、この戦争の動機を水力発電に限るべきではなく、カチン州すべての権益の保全を目的としていると見るべきである。すでに述べたように、カチン州にほ豊富な資源があり、これは他のどの民族の居住地域にもないものである(アラカン州沖の天然ガス田も確かにある。しかし、そのガスはカチン州に設置された輸送管を通過して中国に売られるのである)。ゆえに、ビルマ軍の力の源泉は、カチン州の富にほかならない。2008年憲法では、ビルマ軍人のもつ圧倒的優位性が問題となっている。しかし、それはあくまでも紙の上だけのことでしかない。その優位性を支えるのは何よりも軍事力であり、それを可能にする富である。すなわち、この富を求めて引き起こされたカチン州戦争は、2008年憲法の帰結のひとつなのである。

2)カチン政治の新展開(カチン独立機構とカチン民族機構)
*KIA/KIOとKIOの関係は長らく微妙なものであったが、2011年の開戦とその後の展開により、両者の協力が不可欠なものとなった。2012年6月27日-28日にはじめて公式に両団体の協議が行われ、今後の協力関係が確認された(日本のKNO-Japanのメンバーも3名参加)。

*会議の主な参加者
日本からカチン民族機構(日本)KNO-Japan代表団3名
ボウムワン・ラロウ カチン民族機構代表(KNO)
その他KNO代表団 イギリス・デンマーク・タイなどのKNO、
カチングループの代表
カチン独立機構の代表 

*協議を受けて交付された声明は次のようなもの(大意)。 

会議の結果についての公示            

1. KIOとKNOは2012年6月27ー28日にかけて協議を行った。       

2. KIOとKNOはカチン民族の解放のために協力する。       

3. KNOの元にある連合カチンランド軍(UKA)を廃し、カチン独立軍に併合することで両者は一致した。

4. カチン民族が自分たちの目的を達成するため、KIOの方針に従い、戦争への勝利を目指して努力することを望む。

2012年6月28日 ライザ市内

3)難民と国内避難民の状況(ビデオ)
*戦争による破壊、暴力、強制労働を恐れた多くのカチン人が難民・国内避難民となり、約8万人がビルマ・中国国境の各地の難民・国内避難民キャンプで暮らしている。

*ビルマ国内あるいは中国経由からも公的な支援が届きにくい状況にある。UNHCRからの支援もヤンゴン経由で数回あったが、継続的なものではない。国際的な支援があるタイ国内の難民キャンプに比べると栄養状況はきわめて悪い。

*主な支援団体 KIOおよびその関連組織 パンカチン発展協会(PKDS)(カチン人による国際NGO) WPN(KIO地域に拠点を置くカチン人による難民支援団体) 中国のカチン人、中国人キリスト教徒による支援 その他NGO(日本のものも含む)

*中国側にある難民キャンプは中国当局により最近排除された。

*日本からの支援の拡大を!  4)カチン政府(カチン独立機構政府)とその首都の様子(ビデオ)

*KIOはカチン州と中国の国境にある2つの小さな街、ライザとマイジャヤンを支配下に置いている。どちらも、中国との交易によって栄え、中国側とカチン側の2つに分けられている(ゲートがあり中国のチェックポイントがある)。

*どちらの街も中国側から山道を通過して中国当局に知られることなく入ることができる。

*ライザにはKIOの本部が置かれ、いわばカチンランドの首都。周囲をカチン軍の兵士たちが守っているが、15キロほど離れればビルマ軍の支配地域。戦闘も多い。  *6月28日には近くで交戦があり、砲撃の音がライザの街に聞こえた。このときの戦闘で戦死したカチン人の兵士や負傷者が軍病院に担ぎ込まれてきていた。

*ライザでは入国管理や警察などの行政がKIOによって管理され、小規模ながらあたかも「カチン政府」の体裁を整えはじめている。カチン政府パスポートも発行している。まだ実効性はないが。周囲では戦争に囲まれながらも、ライザの人々はカチン人としての自由を満喫しながら暮らしている。