2012/12/21

デモの意味(3)

デモに効果ありとする人がいうには、大衆が集まることでそれまで注目されなかった問題が社会問題化される、ということだった。

しかし、それならばチンドン屋をたくさん雇えば済むことだ。

というのは冗談だが、チンドンデモ説には矛盾がある。もし社会問題化していない問題ならば、参加者も少なく、したがって注目もされない。もし参加者が多く、つまりすでに社会的に人々の関心を集めていることならば、わざわざデモをする必要などない。

いや、マスコミに報道させて、社会を動かすためだ、と主張するかもしれないが、本当のところ社会を動かすのは社会問題に関わっている人々の長期間の長年の努力や、マスコミの十分な取材であり、そうした下地ができていればマスコミは取り上げるだろうし、それがなければ使い捨てカメラひとつ寄越しもしないだろう。

もちろん、このようなデモもデモと呼んでもいい。だが、それはジャスミン革命のデモというよりも、 ゲイ・パレードとかに近いタイプだ。これは一面ではお祭りに近く、わたしが先に述べた運動論的な役割を多分に果たしている(これは十分に組織されていない場合には、憂さ晴らしか暴動と変わりなくなるだろう)。

ここで、このタイプに属し、しかも暴動に近いものもあった中国の「反日デモ」について一言すれば、わたしはああいうデモは、人やモノを傷つけないかぎり、おおいに結構だと思うが、それはともかく、日本の中には「あれは中国政府の差し金だ」とさも憎々しげに言う人がいる。だが、これはむしろ中国政府の思う壷だ。

中国政府とって本当に恐ろしいのはむしろあのデモが中国政府の思わぬところで発生したという説が世界に喧伝されることだ。なぜなら、それは中国政府に国民をコントロールする力がないということだから。

いや、もっと恐ろしいのは、中国の人々がその説を真に受けることだ。自分たちが政府以上の力を持つと知ったら、それは中国政府にとって厄介な事態となろう。

それゆえ、「中国政府がデモを裏で操っていた」という言説はむしろ中国政府にとって都合が良いのである。それは、中国の全国民に対する自己の偏在を証明することになるからである。