2013/02/28

ドウ・スー

アウンサンスーチーさんの訪日に向けて、現在在日ビルマ難民コミュニティはいろいろ準備を進めているが、わたしが最近聞いた話によると、彼女の来日は4月中旬の水掛け祭りのため国会が閉会となる時期の3〜4日間だそうだ。

どのようなスケジュールかは知らないが、少なくとも在日ビルマ人は大きな会場を借りて集会を予定している。

彼女の滞在時期はどうやら平日が中心らしいので、普段働いているビルマ人は「早めに休みを取っておくように!」と言われているらしい。

L. ルンワ

1月6日のカチンのチャリティ・コンサートのために来日した男性歌手、L. ルンワ(Lung Wa)については、暗殺されたその祖父のことを含めて何度か書いたが、コンサートの後、彼から話を聞く機会があった。

ビルマの音楽業界について話を聞いたのだが、彼が言うには、なかなか厳しいとのことだった。つまり、ビルマは日本と違って著作権に対する意識が低く、いわゆる「コピー天国」なので、印税収入は難しいということなのだろう。

彼はもともと医学生で、結婚式などで自作の歌などを披露していたところ、評判となって歌手デビューしたのだそうだ。

「影響を受けたミュージシャンは?」と聞くと、「日本のミュージシャンで?」と尋ね返す。日本の歌手なんぞ知るはずもないだろうから「いや、アメリカでもイギリスでも」と言うと、「いや、自分がもっとも影響を受けたのは、チャゲアスのASKAだ」と。

彼の歌が評判になったのも、スタイルがASKAに似ているからだそうで、チャゲアスが中国だけでなくビルマでも人気が高いというのははじめて聞いたことであった。

Rebecca WinとL. Lung Wa

Lost in 池袋

連邦記念日の式典の後、池袋の店で友人のビルマ人が働いているのを思い出して、立ち寄った。

店は西口側にあり、あまり行ったことのない場所だ。友人の話からは穴蔵のような店を想像していたが、実際は明るいシャレた店だった。若い人でけっこうにぎわっている。ワインと炭火焼が売りのトネリアンという店だ。

持ち合わせのなかったわたしは財布を気にしながら飲んだが、結局、友人がおごってくれた。

さて、店を後にして池袋駅に行こうとして、信じがたいことに、同じ所をぐるぐると2回堂々巡りしてしまった。水木しげるがニューギニアのジャングルで塗り壁に遭遇したというが、おそらくこれも妖怪変化の類いのなせる業であろう。



パノラミック

連邦記念日の式典でわたしは会場の真ん中辺り、右の通路きわに座っていた。

しばらくすると小さな女の子を連れたおじさんがやってきてわたしの右に座った。おじさんは子どもを抱えて、式典を見ている。その子の両親は2月3日のカレン民族関係の催しで見かけたことがあるが、おそらく2人とも連邦記念日の関係で忙しく、子どもの面倒を任せているに違いなかった。

さて、iPhoneのカメラにはパノラマ写真撮影機能があり、暇つぶしによい。わたしはiPhone片手に左から右に移動させながら会場の様子を撮影した。

ぜひともこの写真を、わたしがそうしたように左端から見てほしい。


第66回ビルマ連邦記念日

2月10日夕方、池袋の豊島区民センターで、在日ビルマ難民により第66回ビルマ連邦記念日が開催された。

内容は式典と各民族の文化披露のいつもながらの2部構成。式典の方のゲストは、アラカン民主連盟のAYE THAR AUNGさん。1990年の総選挙で選出された国会議員でもある。

来賓挨拶として民主党の石橋通宏参議院議員が立ち、今年の1月のビルマ訪問の話をした。

次の来賓挨拶で、在日カチン人とNPOを立ち上げ、事務局長をしている小島さんという人が壇上に上がり、いきなり「みなさん、テレビで《こんなの関係ねー》といっている芸人はご存知ですか」と言い出した。

「ビルマの問題はわたしたちにとって関係ないどころではなく、身近な問題だ」などという少々イタい話でもするのかと思いきや、小島よしおのお父さんであった。ラスタラウェイ。




小島よしおのお父さん





最後はシャンの獅子舞で


2013/02/12

ビルマのムスリム

2月9日、国連人権理事会ミャンマー特別報告者キンタナさんがヒューマンライツ・ナウ(HRN)事務局を訪問したのだが、HRNの方よりカチンの代表と会わせたいので紹介してほしいとの連絡があり、カチン民族機構(日本)議長のピーター・ブランセンさんを伴って、秋葉原の事務所に行った。

指定されたのは午後4時で、ピーターさんのほかに3人のビルマ活動家も同席した。

わたしは少々場違いなような気がしたが、HRNの方から居てもいいともいわれていたので、静かにこの珍しい機会を観察したのだった。

とはいえ、会合の詳しい内容はわたしが報告するべきことではないように思われるので特に触れない。ただ、キンタナさんが単に訴えを聞くというのではなく、「あなたはどう思うのか」「どのようなアイディアがあるのか」「わたしたちに何ができるのか」というような問いかけをよく発していたのが印象的だった。

さて、呼ばれたビルマ活動家の1人に在日ビルマ市民労働組合( FWUBC)のティンウィンさんがいた。

ティンウィンさんは日本のビルマ政治活動家を代表する1人で、ビルマの人のみならず多くの日本人もまた彼のことを尊敬している。

わたしもその1人であるのだが、普段はあまり接点がないのでこの日は彼の話をたくさん聞けて非常に有益であった。

ビルマのムスリムである彼はビルマ国内のムスリムへの差別と暴力についておもに訴えた。そして、それはこの会合の本筋であるので、やはりここではわたし触れない。

ただ、脇道の部分でわたしが感銘を受けた彼の言葉がいくつかあり、それをここに書き記しておく。

1)ロヒンギャについて、マンダレー出身のムスリムであるティンウィンさんが語るには、双方は同じムスリムであるが、宗教的態度は異なり、ロヒンギャのほうが厳しいのだと。つまり、ロヒンギャの中には、宗教的理由から女性を家から出さず、よその男性との接触を禁じる、という習慣を持つ者もいるが、ほかのビルマのムスリムではこれはありえぬことだという。

ビルマのムスリムといっても、いろいろいるというわけで、当たり前のことだが、面白いことだと思った。

2)ティンウィンさんは、ビルマのムスリムが過激なイスラム原理主義者などではなく、穏健なムスリムであることをたびたび強調されたが、それを「われわれはサラフィスト(イスラム過激派)ではなく、スーフィー・ムスリムだ」と表現したのが興味深かった。

イスラムについての一般的な知識からいうと、スーフィーとは穏健派というよりも、神秘主義者のことで、確かに武器を用いないという点では双方は共通しているかもしれないが、かといって完全に重なりあうわけではない。

しかしながら、ティンウィンさんの言葉遣いは、現代の一部のムスリムの間で、スーフィーの語が穏健派の代名詞として用いられうるということを示し、つまりそこに「神秘主義者」が過激派に対置されるに至る何らかの経路があるということになる。それはどんなものかは分からないが、ひとつ付け加えるならば、わたしが多少の事情を知っているチュニジアではそのような使用法はなかったように思う。

3)ティンウィンさんによれば、半世紀もの軍事政権の支配と差別によって無知となったビルマのムスリムにとって必要なのは教育であるということであり、「自分もこの日本に逃れてきてとても多くのことを学んだ。その点ではわたしは日本に感謝している」と話していた。

ティンウィンさんは、他の多くのビルマの人々と同じく、日本ではなみなみならぬ苦労をされたと思うのだが、そうした彼からそのような言葉を聞けたことはありがたいことだと思う。

2013/02/10

カレンの日報告

カレンの日」に書いた通り、2月3日はカレンのみならずいくつもビルマ関係の行事があった(書き漏らしたものに、夜に池袋で開催されたビルマ人歌手たちのコンサートがある)。

わたしはといえば、午前中に駒込地域文化創造館で行われた在日カレン民族同盟(KNU-Japan)主催のカレン民族記念日とKNU記念日の式典、お昼は海外カレン機構(日本)(OKO-Japan)の副会長のお父さんのメモリアル・サービス、夕方は在日カレン民族連盟(KNL-Japan)主催のカレン民族記念日式典(品川区立 中小企業センター)に、4歳の娘を連れて参加した。

在日カレン人には娘と同年代の子どもがけっこういて、退屈しないだろうと思っていたが、はたしてその通りで、すっかり同い年の子と仲良くなって夜にはもう帰りたがらなくなっていた。

カレン民族記念日とKNU記念日の式典では、OKO-Japanの1人として急に挨拶を頼まれた。いい内容も思いつかず、しまりのない話になってしまった。しかし、後になってOKO-Japanの議長が来てちゃんとスピーチをしてくれたので助かった。


さてその次だが、メモリアル・サービスといっても蒲田の家でみんなに食事をふるまうもので、オノ・カオソエ(ココナッツのカレーのラーメン)と鴨・牛・海老・魚・羊のおかずが供されていた。


夕方のカレン民族記念日式典は、少し変わった趣向で、堅苦しいことはあまりいわずにみんなで夕食を楽しもうというもの。式典の始まる前からたくさんのカレン料理がテーブルに並べられていた。



カレン民族記念日についての話があった後に、乾杯をして食事というわけだ。予期せぬことだったが、KNL-Japanのソウ・バラティンさんから乾杯の音頭を急に頼まれた。

わたしは実はすこし蒲田で飲んでいて、すでに乾杯済みだったわけだが、有り難くお役目を頂戴した(もっともこちらはソフトドリンクのみだったのだが)。

慌てて携帯で「乾杯の音頭」を検索し、文案を練りはじめる。事前の乾杯のおかげであろうか、何とか形になった。さあ、いよいよ乾杯の時間だ。と、娘が言った。

「おしっこ!」

……お友達のお母さんが連れて行ってくれた。

話の内容はだいたい次のようなもの。

「カレン民族記念日の式典でこのようにみんなでご飯を食べるということには2つの意味があるように思います。ひとつはみんなとともに食べることがカレン人の文化においてとても大事な意味を持っているということです。もうひとつはともに同じものを分け合って食べるということにカレン民族記念日の出発点である民族の平等の精神という願いが託されていることです。そのような意味でこの夕食はこの記念日にふさわしく思います。」

しかし、わたしは残念ながらこの意義深い夕食を味わうことはできなかった。子どもを連れ歩くには少々遅すぎ、大急ぎで帰宅しなくてはならなかったのだ。

第66回ビルマ連邦記念日式典


2013/02/07

融和派と強硬派

「KNUコングレス」でも書いたように、KNUの新指導部としてビルマ政府との融和派が選ばれ、これが非常にカレン人の間で評判が悪いということであるが、この選挙について次のような話が流布している。

1)KNUコングレスの開催地で大いにもめたのは、融和派が自分たちの土俵に相手方を引き込もうとしたためである。結局、融和派の意見が通った。

2)融和派と強硬派の決選投票とならないように、選挙において融和派は不正を行った。これは強硬派に非常に人望のある候補がいたため、決選投票となると強硬派が勝つことは明らかだったからである。

3)融和派は選挙後直ちに投票用紙を焼却処分し、強硬派が不正に対する抗議を行ったときにはもはや証拠はなかった。

これらは、本当のことかもしれないし、何か誤解があるのかもしれないし、あるいは単なるデマかもしれない。

しかし、現在の状況においてカレン人が現KNU指導部をどのように見ているかを示すという点では、ひとつの事実といえ、それゆえここに記録するのである。

2013/02/06

辞退の理由

わたしの所属する海外カレン機構(日本)の事務局長が、昨年の10月、カレン民族同盟総会に参加するためにタイに行った。

しかし、すでに書いたようにこの総会(KNUコングレス)は開催時期がひと月もずれたため、事務局長は出席できずに帰ってきた。

しかし、そのかわり彼はあちこち訪問し、ノポ難民キャンプにも行った。このキャンプには昨年の第三国定住プログラムで日本に来ることを最終的に辞退した家族がいるそうだ。

彼が日本に帰った後、わたしは第三国定住プログラムについて調べているある学生を紹介した。

その学生は事務局長にインタビューをし、ノポ・キャンプの家族がどうして日本に来たがらなかったのかについて質問をした。そこで、彼は日本からノポ・キャンプの責任者に問い合わせてくれた。

すると、キャンプの責任者は辞退の理由として次のようなものを挙げたという。

1)日本語が難しい。
2)日本人が行きたくないような場所に行かされる。
3)台風と地震が恐い。
4)年老いた両親を残して行くのが心配。
5)日本にはカレン人が少ない。
6)医療への不安(お金がない)。

4番目の問題はどうしようもないが、それ以外は誤解か心配するようなことではない、というのが、日本暮らしの長い事務局長の意見だ。

2013/02/05

デヴィッド・トウさん

昨年暮れの「KNU新議長」で触れたデヴィッド・トウさんだが、彼は昨年10月に亡くなったのだという。

KNUの中央部の許可なくビルマ政府と交渉を行い、そのため交渉役から解任されたのが10月の初めのことだ。当時彼はビルマ政府との交渉のためヤンゴンにおり、その2週間ほどのちに体調を悪くし、ヤンゴン市内の病院に運び込まれ、そのまま死亡した。

遺体はKNU地域に送られ、そこで葬儀ののち、KNUの功労者の眠る墓地に葬られたという。

デヴィッドさんとともにKNUから交渉役を解任された人が、現在のKNU議長のムトゥセーポーで、もしも彼が存命ならば、今頃KNUの中心人物として返り咲いていたことだろう。

さて、現在のムトゥセーポー議長率いるKNUはビルマ政府との融和派が中心となっており、ビルマ政府に対して長年の恨みを持つカレン人の間では評判が悪い。

デヴィッドさんについても「売国奴」に近いニュアンスで語る人もいる。わたしには判断はできない事柄だが、少なくとも彼が彼なりの仕方でカレン人のために働いたということは否定しきれない事実であろう。人間のなしたことは一筋縄では理解できないものだ。いつの日か、彼についての評伝が書かれることを期待したい。

彼はヤンゴンのインセインの人で、1960年代に役人の地位を捨ててヤンゴンから逃げ、KNUに加わった。長い亡命生活の果て、いわば最後の最後にふるさとに帰りそこで亡くなったという事実には感慨深いものがある。

2013/02/03

第52回カチン革命記念日

カチン革命記念日は、カチン独立機構・カチン独立軍が1961年2月5日にビルマ政府に対する戦いをはじめたことを記念する日だ。

日本では毎年式典が行われているが、あまり外部の人を招かず、わたしも一度も参加したことはない。

しかし今年はカチン民族存亡の危機というわけで、これまでよりもオープンに開催するようだ。

日時と場所は次の通り。

日時:2013年2月3日(日曜日)午後 5時~8時
場所:新宿区西早稲田2-3-1早稲田奉仕園(リバティホール)

2013/02/01

カレンの日

カレン民族同盟(KNU)がビルマ政府に対して武器をもって立ち上がったのが、1949年1月31日。これは現在カレン革命記念日という。そしてこのKNUの創立が1947年2月5日のことでこれをKNU記念日という。

さらにカレン民族がビルマ政府対して平和的にデモを行った1948年2月11日を記念する日がカレン民族記念日。

これら3つの記念日は日本でも式典が開催され、KNU-Japanの主催するカレン革命記念日が1月末の日曜日、KNU記念日が2月の最初の日曜日、在日カレン民族連盟(KNL-Japan)の主催するカレン民族記念日が2月第2週の日曜日か建国記念の日、ということに例年なっていた。

しかし、今年は暦がうまく行かないようで、この3つの記念日が2月3日に開催されることになった。

カレン革命記念日とKNU記念日は2月3日の午前中に駒込で、カレン民族記念日が18:30から品川区立中小企業センター3Fで、ということになっている。

しかもそれだけではない。この日は海外カレン機構(日本)のメンバーの亡父のメモリアル・サービスがお昼に行われる。そんなわけで在日カレン人は朝から晩まで集団でぞろぞろと都内を移動するのだそうで、その中にはわたし(と娘)も含まれるはずだ。

だが、それだけではない。 この日には次の記念日も予定されているのだっ!

シャン州民族記念日
豊島区東池袋「アカデミーホール」17:00-20:00

カチン革命記念日
都内にて夕刻から。

カチン革命記念日ではわたしの作成したビデオも公開されることになっている。行けるかどうかはわからないが。

民族の間

父がカレン人、母がカチン人という男性が日本にいる。

彼はかつて入管に収容されていたことがあり、そのときわたしは彼の頼みを聞いてあれこれしたことがある。

仮放免された後、わたしは彼をカレン人の団体に連れて行った。難民認定申請の助けになるかと思ってのことだ。しかし、基本的にカチン人の環境で育った彼は、カレン人の中では居心地が悪いようだった。

また、カレン人の中にも彼のことを受け入れたがらない雰囲気があった。

わたしは悪いことをしたと思い、彼をカレン人の集いには呼ばなくなった。彼はカチン人の団体に入り、その後、日本での在留許可を得た。

現在、彼はカチン人の女性と結婚し、数人の子もある。

この間、あるカチン人が彼のことをこう言っているのを聞いた。

「あの人はやっぱり心はカレン人だ」

どういう理由でそう言ったのかは知らないが、「純粋」なカチン人からも、カレン人からも本当には受け入れてはもらえない彼のことをわたしは哀れに思った。

彼の両親が民族の違いを越えて家庭を築いたのは、いつの日か息子がこんなことを言われるためではないだろう。

彼の父はビルマ軍の軍人で、暗殺されたという話だ。父亡き後、カチン人の母は息子をカチン人の中で育て、カレン人コミュニティとは疎遠になったのだ。