2013/12/31

閲覧注意

完全に蓮コラです。

行く人来る人

わたしが身元保証人しているカレン難民男性の妻と子どもが4月13日にビルマに帰国した。

一家そろって難民認定申請中だったのだけど,妻のほうがストレスで精神的に参ってしまった。

わたしが2月にビルマに行くためにビザを取ろうと大使館に行くと,彼女がいて互いに大いに驚いた。

大使館員と帰国の相談をするために来ていたのだった。偶然とは恐ろしい。

彼女の帰国については,反対する人もいた。もう少し頑張れば一家で難民として認められるのに,というのだ。わたしもそう思っていた。もっとも,わたしはそれを口に出さなかったが。

しかし,状況はもっと切羽詰まっていたようだ。あるカレン人は彼女の帰国について聞くと「そが一番いい」と安心した。彼の親族は日本で自殺していた。

4月13日はアウンサンスーチーさんが来日した日でもある。わたしは在日ビルマ人たちの熱気のこもった歓迎会に身を置きながら,ひっそりとビルマに帰る母子がこの日本でどれだけのものを失ったかを考えずにはいられなかった。

先日のこと,あるカレン人が残された夫をからかった。

「スーチーさんと一緒にデモクラシーがやって来た」

民主主義もつかの間の独身生活も解放といえば解放だ,というのだ。

「こっちはもう寂しくてしょうがないのに!」と夫のほうが憤慨してた。

非リア充

12月24日,茨城県牛久の東日本入国管理センターに行った。

年末にそんなところに行きたくはなかったが,2人のBRSAメンバーが収容されているとあっては仕方がない。仮放免申請の打ち合わせだ。

クリスマス・イブというと,非リア充と自嘲する連中がいろいろ騒ぎ出す。

わたしはこうしたくだらないことを言う連中をまとめて入管にぶち込んでやりたい。

そうすれば本当に充実していない空疎な人生というものが身に染みて分かることだろう。

入管の収容所は刑務所とは違う。その収容は刑罰ではなく,刑期もない。したがって勤め上げるということもない。いつ出られるかもわからない。時間を,命をただ浪費するためだけの施設だ。

非リア充という言葉はきらいだが,わたしはこれを聞くといつも入管の被収容者のことを思い出すのだ。

ところで,この日面会した人が,わたしに渡したいものがあると言ってきた。それは数枚の宝くじで,当否の確認をしてほしいというのだ。

いつだって希望を失ってはならぬ,というわけだ。

新婦の涙

先週の日曜日の結婚式と披露宴の後,いつものカレンの人の家に集まることになった。

その部屋の主は「全然片付けしてないよ! ネズミの巣だよ」とぼやいている。

男たちが集団生活しているところなので,汚い。

ネズミばかりでなく,ちっちゃいゴキブリも歩いている。しかし,みんなで集まって飲み食いしているとそうしたことはあまり気にならない。

しばらくすると,新郎新婦が合流した。披露宴の後いったん家に帰って,短い礼拝をしてからやってきたのだ。

新婦は涙を流している。

おいおいこいつは新婚早々穏やかじゃないですよ,とわたしは新郎の顔を見るが変わった様子はない。

聞けば,自分の結婚式に両親が出席できなかったのが悲しいのだと。

ビルマから,たぶんビザが間に合わなかったか,老齢のかの理由で親が来れなかったのだ。彼女はシクシク泣いていた。

以前カチンの女性が日本で式を挙げた時も似たようなことがあり,このときはビザの問題で両親が来日できなかった。

兄がインドで暮らしていたが,その兄もやはりビザの問題で結婚式に出席するのは難しかった。

花嫁は毎晩泣いていたそうだ。わたしはその話を聞きながら,難民の不自由さをあらためて思った。

さて,その晩の飲み会は,「バチェラー・ナイト(独身者の夜)」が結婚式の前日の夜を指すのか,それとも式が終わって新郎新婦が床に就くまでの夜を指すのか,という点に関して激論が交わされた。

2013/12/30

花嫁衣装

12月29日,早稲田の東京平和教会で在日カレン人が結婚式を挙げた。

式がはじまるのは午後4時だったが,わたしは勘違いしていて5時過ぎに着いた。披露宴の真っ最中だ。

新郎はわたしもメンバーである海外カレン機構(日本)の人で,新婦も何度か会ったことがある。

ほとんど誰も知らないことだが,この結婚式はわたしの存在なくしては不可能であった。というのも,新婦の花嫁衣装とアクセサリーをヤンゴンから日本へと運んだのはこのわたしだからだ。それはヤンゴン,アロウンのカレン人の仕立て屋で作られたものだった。

知り合いの牧師が持ってってくれ,というのでは断れるはずもない。

それは帰国する前日の夜のことで,わたしはカレン人の友人と一緒にヤンゴンのレストランでビールを飲んでいた。牧師はその店にやって来て,わたしに花嫁衣装の入った包みを託したのであった。

われわれはずいぶん飲んでいた。そのレストランを出て,あちこち歩き回り,別の店でまたビールを飲んだ。

よく失くさなかったものだ……。

「乾杯」

カレン人の友人が結婚式を挙げたのだが,その披露宴で新郎新婦の友人たちがいくつか歌を歌った。

そのうちのひとつに,聞き慣れたメロディがある。ビルマ語なのですぐには分からなかったが,長渕剛の「乾杯」だ。

ビルマの人の心に長渕剛の曲は響くようで,カラオケに一緒に行くと必ず誰かひとりは歌う。

わたしは彼の歌は「巡恋歌」以外は認めないという厳しい立場ゆえ,同調しがたい部分は多々あるが,まあわたしも大人なので興ざめすることはいわない。

このビルマ語バージョンについて尋ねてみたら,Y Wineという人のものらしい。

YouTubeにも上がっている。

ビルマ語のタイトルは「Phay Theint Lite(ピェテインライッ)」。歌詞の内容は「くじけず頑張れ」みたいなものとのこと。

著作権的なことはどうなってるのか分からないが……。

2013/12/22

東京拘置所(3)

一般受付窓口の奥には面会検査室があり,順番の来た面会者は面会整理票を提示し,そこでセキュリティーチェックを受ける。

金属探知のゲートを通過し,さらに金属探知機の検査を受け,そして面会に不要なもの,例えば携帯電話とか,コンピュータとか,アーマライトM16ライフルとかをロッカーに入れるのである。

チェックが済むと検査室の奥にある扉を開いて進むのだが,これがちょっと興奮する。というのも扉の向こうは部屋や通路ではなく,円形の空間になっているからだ。まるでダンジョンや秘密基地に来た感じだ。

面会者の前には2つの通路が伸びている。左手のは出口と記され,もう右手のものは面会室へと至る。この通路もまたいい感じで気分を盛り上げてくれる。

まず誰もいない。そして通路が長い。最初のほうで斜めに曲がる以外一直線だ。宇宙戦艦の内部!

ドキドキしながらこの通路を通過する。「大使館員弁護士待合室」と「大型面会室」2つの部屋の表示がある。

そしてこの通路は,おお,なんとうれしいことに,湾曲する回廊に接続される! 中央部のマザー・コンピュータまであと少しだ……。

グーグルかなんかで見れば分かるが,東京拘置所はXの形をしている。はじめの長い直線通路が,このX字の1本の端から中央に至る道であり,そして円形の回廊は筒状のこの中央部を回る道である。回廊の内側には小さく細長い窓があり,その内部,つまり東京拘置所の本当の中心部を少しだけ覗き見ることができる。それは草のはえた地面と何かの建物だった。

さて中央部の回廊を円周の1/4ほど歩くと,エレベーターホールがある。このホールもやはり円に近い形をしている。

エレベーターは向かい合わせに2基あり,わたしはそれで10階まで昇った。

エレベータを下りるとベンチが並び,その前にガラスで区切られた小部屋があり,制服姿の職員が2人いる。面会整理票を見せると,面会室を威張った感じで指示される。

面会室はこの小部屋を中心に左右に5室ずつあり,10まで番号が振られている。わたしが入ったのは3だ。扉の上には四角いランプがあり,面会中は赤く灯る。

面会室は小さな部屋で,真ん中が透明アクリル板で区切られたカウンターになっている。それぞれに2人ずつ座ることができる。しかし,これは入管の面会室と変わらないので,それほど面白くはない。椅子に座ってしばらくすると,我が友人が連行されてきた。

面会時間中は被拘置者の隣に職員が付き,書見台で会話を逐一記録している。

さてわたしは時計を持っていなかったので,面会時間については分からないが,面会検査室に入ったのが13:07で,出たのが13:35であったから,15分ぐらいというところだろう。

普段行かないところに来たせいか,まるで夢の国に来たような印象を抱きつつ,わたしは東拘ディテイニー・ランドを後にしたのであった。

2013/12/21

東京拘置所(2)

東京拘置所の面会所出入口には,内部は撮影禁止との張り紙があり,したがって外側の写真しかない。



出入口玄関の外と玄関の脇の小部屋が喫煙所になっている。

入るとまずベンチが並ぶ待合所がある。その右手が一般受付窓口,さらにその奥が面会者の入る検査室で,左手は差し入れ物品を販売する売店,さらにその奥には差入れ受付窓口がある。

面会までの流れは以下のようなものだ。

1)面会申出書に記入。
これには次のような項目がある。

面会したい相手の名前。性別。面会者との関係。面会理由。面会希望者の名前・住所など。面会希望者の名前欄は3つある。

面会申出書の書き方例が貼られており,面会相手の名前に「東拘太郎」,面会希望者として妻の「東拘花子」,長男の「東拘一郎」,次男「東拘次郎」と記されていた。

2)面会申出書を一般受付窓口に提出。身分証が必要になる場合もあるが,わたしの場合はそうではなかった。

ガラスの向こうに制服を来た職員がおり,申出書を受け取る。

受付の上には,面会心得と面会時間の案内が掲示されていた。心得のほうは長く,要するにおかしなことをしたらダメだぞ,というもの。面会時間は,午前は8:30〜11:30,午後は12:30〜16:30,差入れは8:30〜3:30とあり,英語でも記されている。

窓口の脇には,年末年始は混むので受付も時間がかかる,という張り紙が貼ってある。

3)面会整理表を窓口から受け取る。

これは以下のようなものだ。


4)入口前の「一階待合室」で待つ。
この待合室には2台のテレビが壁に据えられている。ひとつは一般のテレビ放送が流れており,もうひとつには呼び出しのあった番号が表示されている。

これを見ると,面会には「一般面会」と「弁護人面会」の2つがあるということ,そして面会室があるのは2階,4階,6階,8階,10階だということがわかる。

さてわたしの場合は,申出書を記入してから呼び出されるまで15分はかからなかった。

待合室左手の売店だが,食べ物や衣類なども売っていた。

わたしがじっくり見たのは雑誌類で,たいていの一般誌が揃っていた。

「週刊新潮」や「週刊文春」「ニューズウィーク」「週刊ポスト」「プレイボーイ」などの週刊誌。

「ジャンプ」などのマンガ週刊誌。

釣り雑誌,ゴルフ雑誌,「ムー」「SAPIO」などもある。

特に充実していたのは実話系だ。「アサヒ芸能」「実話ドキュメント」「増刊大衆」「実話時代」などはよく見かけるが,「実話時報」「実話大報」なんてのははじめて。

しかも見出しが「三代目弘道会執行部がどうたら」とか「六代目山口組がどうこう」というもので,これら専門的なジャーナルは拘置所の中の専門家の必携書なのだろう。

しかし,一番笑わせてくれた雑誌はといえば「おとなの週末」のほかにはない(誌名がね)。

2013/12/18

東京拘置所(1)

わたしが身元保証をしている在日ビルマ難民が実刑判決を受けた。

その原因については書くのを控えるが,人の命に危害が及ばなかったのは幸いなことであった(その危険は十分にあったのだ)。

東京拘置所にいるうちに会いにきてほしい,と弁護士を通じて連絡があった。

家からそんなに遠くない。で,自転車に乗って行ってきた。

わたしにとってははじめてであり,またこれから行く機会もない(と思う)ので,少し様子を書き記してみる。

東京拘置所は葛飾区小菅にあり,最寄駅は東武伊勢崎線小菅駅か常磐線の綾瀬駅だ。

自転車で行ったせいか入り口が分からず半周以上してしまう。


これは正門で,その脇に次のような案内が出ている。


これで結局一周近くしてしまった。

正門の脇の建物にこんな看板もあった。


調べてみたが,入管に収容されている難民の釈放のための保証金は対象外のようだ。

案内の通りに仮設塀に沿って行くと,ようやく面会所出入口。


その向かいにはこんな店もある。


そして,入り口から見た拘置所。


中に入ると,謎の塔が目を引く。

無料コンピュータ・トレーニング・コースの目的

ネーミョージンさんがエーヤーワディ管区で行っている無料コンピュータ・トレーニング・コースは,コンピュータとインターネットに関するスキルを村人たちに教えることで,村の生活の向上と若者の就業を支援するという目的がある。

しかし,目的はこれだけではない。

現在,ビルマは変わったとしばしばいわれ,それは本当のことでもあるのだが,政府の末端部分,つまり普通の人々が関わりある部分では,いまだ不正や賄賂,暴力が罷り通る状態が続いている。

多くの村人たちは,このような不正にこれまでは何も言えずただ我慢するほかなかった。そのため,農村地域の現状がどのようになっているのかは,部外者,外国人だけでなくビルマ人も十分な情報を得ることできなかった。そして,人に知られぬのをいいことに,現地の役人や警察はさらに思うがままに振る舞うことができたのである。

しかし,もしこれらの農村の人々がインターネットを通じて,自分たちの状況を,問題を,不正な仕打ちを,自分の力で世界中に公表できるとしたらどうだろうか。

これは農村部における政府機関の不正行為に対する効果的な抑止力となるだろう。政府関係者が自分たちの振る舞いが逐一インターネットに報告されていると知ったら,これまでのように法を無視した行動を重ねることができるだろうか。

すなわち,無料コンピュータ・トレーニング・コースは,農村部にこれまで聞かれることのなかった「声」を与えることに繋がるのであり,その声によって農村部における法律と人権の尊重,つまり民主化が推し進められる,というわけだ。

こうした理由から,無料コンピュータ・トレーニング・コースの後に,各参加者の村にノートパソコンが寄付されるのである。


ネーミョージン(Nay Myo Zin)の活動:平和の行進(2)

ここから出発するのは2台の車。乗用車とトラックだ。

トラックにはMSDNのバナーが掛けられている。それは,平和の象徴である鳩が飛び回るなかライフルから花が放たれるというデザインで,元軍人のネーミョージンさんらしいものだ。

このトラックの車室の上にどでかいスピーカーが据えられていて,平和に関する歌やなんかを流せるようになっている。

トラックは道の向こう側に止められていて,ネーミョージンさんはスピーカーの取り付けなどをみんなと一緒にやっている。配線がなかなかうまく行かず出発できない。

トラックは電気屋の前に止められている。あるいはこの電気屋さんも彼の支援者なのかもしれない。いずれにせよ,トラックの準備の関係でこの地点が出発地に選ばれたというわけだ。


さて,われわれがここにきたのは午前10時頃で,準備にもう2時間近くかかっている。

そして,その間,われわれの集まりから離れて,4〜5名の男たちがやはりトゥダマー通りの路肩にたむろしており,こちらをじっと見つめていた。

これらは政府の治安関係者であり,ネーミョージンさんらの活動を監視しているのだ。

さあ,出発の準備が整った。人々は車に乗る。まずはバゴーに行ってそこで別の民主化活動家と合流する予定だ。

最初にネーミョージンさんが運転するトラックが出発する。次にMSDNのマークの貼られた車。

そして,忘れては行けない,治安関係者の乗った3台目も慌てて追走した。

行進は無事にライザに辿り着いたと,後で聞いた。

参加者たちで記念撮影。 

なぜかわたしも。

2013/12/17

ネーミョージン(Nay Myo Zin)の活動:平和の行進(1)

2013年2月16日土曜日,ネーミョージンさんとその仲間(MSDN),そして国民民主連盟(NLD)のメンバー,民主化リーダーたちはヤンゴンを出発して,カチン州の町ライザに向かった。

ライザはカチン解放機構(KIO)の本部が置かれている町であり,KIOとビルマ政府との間では激しい戦闘が2011年6月以来繰り広げられていた。

ネーミョージンさんたちがしようとしているのは,平和を訴える行進であり,戦闘地域を横断してライザに辿り着こうというのである。シャン州の町ムーセーまで車で行き,そこからは非ビルマ民族の参加者たちと合流し,徒歩で行進するのだという。

わたしも行ってみたかったが,2週間はかかるというので無理。それで,せめて出発の様子だけでもと思って,ネーミョージンさんに同行させてもらった。

平和の行進の出発点となったのは,ヤンゴンの北部,北オッカラーパ郡のトゥダマー(Thu Dhamar)通りがケーマティ(Khay Mar Thi)通りに交わるところ(この2つの通りは2カ所で交叉するが,より北側のほう)で,われわれはトゥダマー通りの路肩に車を止め,出発の準備をした。

ちょうどカンターヤー(Kan Tharyar)公園に面していて,馬上の軍人の金色の像が中央に立っているのが見えた。おそらくアウンサン将軍だ。

NLDのおなじみのユニフォームを来た人々がネーミョージンさんを取り囲んでいる。話し合ったり,首飾りをかけて記念写真を撮ったり。インタビューをしている人もいる。

また,旅の成功を祈る意味を込めて,何かの植物が人々に配られた。この緑の葉を,MSDNのロゴの貼られた車のフロントフェンダーのポールに括り付けている人もいる。





ネーミョージン(Nay Myo Zin)さんの釈放

先週の12日以来,パンタノウ警察に拘置されていた社会活動家のネーミョージンさんだが,昨日16日,釈放されたそうだ。

彼のお兄さんは実は日本で暮らしていて,お兄さんに伺ったところ,無駄な衝突を避け,時間を有効に活用するために誓約書に署名をし,それで釈放された,とのことだった。

要するに根本的な問題は解決してはいないわけだが,それでも,釈放されたのはよいことだ。

彼は昨日からFacebookに盛んに記事や写真を投稿している。また"greeting after releasing"という動画もYouTubeに上げられていて,釈放された彼がパンタノウ裁判所から出て,人々の前で話をする情景を見ることができる。


それで,彼に直接電話してみた。

元気な声で「さっそく農村の生活向上に全力で取り組んでいるよ!」との返事が返ってきた。

逮捕した警官も握手できてうれしそうだ。
(おそらく留置前の12日に支援者が撮った写真)

ネーミョージン(NAY MYO ZIN)の活動:無料コンピュータ・トレーニング・コース

11月12日,13日は,ネーミョージン(NAY MYO ZIN)さんと彼の団体(ミャンマー社会開発ネットワーク,MSDN)とともに,エーヤーワディ管区ワケマ郡ザバーヨー村に行った。

村で無料コンピュータ・トレーニング・コースを開催するのが目的だ。

村には電力も整っておらず,またコンピュータもない。それで,ソーラーパネルを村に運んで設置することからはじまった。

コンピュータもヤンゴンから持ってきた。ノートが50台。これらはトレーニング終了後,ソーラーパネルとともに村々に寄贈される。

参加者はザバーヨー村とその周辺の村々からやって来た若者たち約50人。ほとんどがコンピュータにはじめて触れる人ばかりだ。

若者たちはこの村で寝泊まりしながら,約20日間の間,コンピュータの基礎とインターネットの利用法について無料で学ぶのである。

インターネットはおろか電気もろくにないような村にコンピュータなど何の用があるかと思うかもしれないが,まず電源についていえばソーラーパネルがあればこれは十分に確保できる。

そして,エーヤーワディ管区の通信環境とネット環境も半年後には相当改善される模様だという。

となると,コンピュータとインターネットは村々にとってもはや縁遠いものとはいえない。いや,村の生活向上のためには,この情報ツールを有効に活用しなくてはならない。

このような見通しのもと,ネーミョージンさんたちは,教本を自作し,寄付を募り,ボランティアの教師を連れて,エーヤーワディ管区の各地でこのプログラムを行っている。

ソーラーパネルの設置作業

完成したソーラーパネル

開校式のスピーチをするネーミョージン



2013/12/16

2014年のカレン新年祭

2014年のカレン新年祭(Karen New Year)は,2014年1月5日(日曜日)13:00〜18:00にかけて,池袋「アカデミーホール」(東京都豊島区東池袋1-30-6 セイコーサンシャインビル地下1階)で開催されるとのこと。

カレン新年祭はカレン民族の伝統行事のひとつで,今年は正式には1月1日にあたるそうだが,日本では一番近い日曜日に開催することになっている。

地に呪われたる者

先週の金曜日は品川の入国管理局に行き,そこに収容されている在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)会員のための仮放免許可申請をした。

結果はだいたいひと月後に出るが,ここのところ連敗続きなのでぜひとも許可をもらいたいところだ。

仮放免許可申請の準備のためには必要な書類をとりに役所に行ったり,被収容者に面会してして署名をもらったりしなくてはならない。許可が出た後の仮放免手続きでは入管だけでなく,保証金を納めるために銀行にも行かなくてはならない。

1回だけなら物珍しいが,わたしは何人も身元保証人をしてきたので,いい加減飽き飽きしている。しかも,時間もかかる。品川の場合は半日は潰れる。牛久の収容所に行く場合は一日がかりだ。

申請のたびにあちこちに出向くたびに,わたしは歩きながら不満ばかり言っている。地べたを這いずり回るのはもうたくさんだ!

しかも,これは一文にもならない。それどころか,交通費を自腹で支払わなければならないこともある。猪瀬知事のように5,000万円ポンともらえるならば,お粗末な借用書をヒラヒラさせてどんなところだって行くのだが!

だがこないだ,ビルマ難民を支援している弁護士,カチンの教会の牧師,入管に収容されている人々のために働いている活動家たちの話を聞いた。みんな難民のために駆けずり回ってる。

不満や文句など言っている気配などない!

その熱量ときたら,わたしなんか恥ずかしいくらいだ。これぞ本当の活動だ,支援だ。

おお,わたしはもう駆けずり回っている人しか信じない。

2013/12/14

ネーミョージン(NAY MYO ZIN)の活動:手押し井戸ポンプ

在日ビルマ難民たすけあいの会はネーミョージン(NAY MYO ZIN)さんを通じて,エーヤワディ管区パンタノウ郡のインマー村に,4基ほど手押し井戸ポンプを寄付している。

このポンプで地下水をくみ上げ,飲み水とするのが目的だ。どうしてこれが必要かというと,この地域には水道も浄水施設もなく,村人たちは川の水や雨水を飲用水としているからだ。衛生的で安全な水をいかにして安定して村人たちが入手できるようにするかが,村の生活の向上の鍵となる。

そのため,ネーミョージンさんは,村々に手押しポンプを寄付することを活動のひとつの柱にしている。

11月20日に,わたしは彼とともにこのインマー村を訪れた。その目的は,2月にわたしが訪問した時にBRSAが寄付したポンプと,8月にさらに寄付したポンプの水質をチェックするためで,わたしは日本から簡単な水質検査キットを用意してきていた。

とはいっても準備できたのは砒素とCOD(化学的酸素要求量)の検査だけで,これだけでは十分とはいえないが,この2つに限っていえば特に問題はないようであった。

しかし,写真のポンプの水に関していえば,村人たちは気になる匂いがするとして飲用にはしていなかった。

それはともかく,村の女性たちがネーミョージンさんを取り囲んでいる写真を見てほしい。彼がどれだけ,村人たちに愛されているかが分かるだろう。


ポンプに付けられる予定のプレート。BRSAが8月8日に寄付したもの。 

 水質検査。

トラック一台分

カチン民族のお金持ちについて書いたが,富が徳を乗り越えることがあるのはどこでも同じで,正式な妻以外の女性を幾人も「所有」する人もいるとのこと。

とくにそうした癖の著しい金持ちがいて,その人についてはこんなことが言われている。

「トラックで町を回ってあの男が生ませた子どもを乗せたら満杯になるよ!」

2013/12/13

ネーミョージン(Nay Myo Zin)の逮捕

ネーミョージン(Nay Myo Zin)さんというのは,ビルマの社会活動家で,いまもっとも注目されているビルマ人の1人でもある。

12月12日,パンタノウ裁判所で警察官に連行されるネーミョージンさん。
(支援者が撮影)

彼は元軍人だが,軍事政権の腐敗を憎んで軍を辞め,政治活動に身を投じた。2011年に彼は政治的な理由から投獄されるが,2012年にほかの政治囚とともに釈放された。

彼は直ちに社会的活動を開始し,政治的な活動と,主にエーヤワディ管区の貧しい農村へ支援活動を積極的に行っている。これらの農村は,飲み水,電力,教育の点でさまざまな問題を抱えている。

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)は,以前から彼の活動を支援していて,わたしは今年の2月,11月にビルマを訪問した際,彼と彼の支援者(ミャンマー社会発展ネットワークMSDNなど)とかなりの時間行動をともにした。

彼は警察を批判したことにより警察に訴えられており,今年の6月に1度逮捕されて,2週間ほど投獄されている。その問題は今も続き,現在は政府の批判を禁止する別の法律により裁判所への出頭命令が出されている。

この出頭命令を彼は無視していたのだが,そのためとうとう11月13日,エーヤワディ管区で彼は現地の警察に拘束された。そして,裁判所に送られ,出頭命令に応じるという署名をした後,釈放された。わたしはそのとき彼と一緒にいて,その一部始終をビデオに収めた。

11月13日に警察に拘束された時のネーミョージンさん。

パンタノウ裁判所(11月13日)。右がネーミョージンさん。
左はやはり同じ罪で起訴されている農民指導者のウ・テインウィンさん。

その後,彼は再び,裁判所に呼び出された。この12月12日である。今回は彼は出頭命令に応じると言う誓約書に署名を拒んだ。そのため,現在,エーヤワディ管区パンタノウ郡の留置所で拘束されているという。

なぜ彼が署名を拒んだかというと,2つの理由がある。ひとつは,彼は自分は警察が賄賂を取ることを批判したのであり,処罰に価するような間違ったことを言ってはいない,という信念によるものだ。

もうひとつは,ビルマ国内で注目されている自分が拘束されることにより,ビルマの言論の自由を禁ずる法律の問題により多くの関心を集め,法改正へと事態を動かそうという戦略的な意図からだ。

彼は月曜日に再び法廷に立たされるという。そこでこれからどうなるか,そのまま釈放されるのか,さらに拘束が続き,政治犯として投獄されるのか,ある程度分かるに違いない。

翡翠と傲慢

カチン州は森林資源,翡翠・金・宝石などの地下資源に恵まれているため,とてつもないお金持ちのカチン人もいる。

日本の入国管理局は在日ビルマ人をまずはたいてい貧乏国からやって来た出稼ぎとして扱うが,あるカチン人にはこれがカチンと来た。

「わたしの家はお前ら入管職員の誰よりも大きいんだ。バカにするな」

しかし,そうした立派な家も迫害のために捨てて逃げて来ざるをえないのが政治的亡命のつらいところ。挙げ句の果てには,軍に奪われてしまったりしている。

今年の2月にヤンゴンを訪問した際,あるカチン人がわたしを夕食に招待してくれた。その人はカチン難民の支援活動をしていて,衣服や医薬品を集めてカチン州のキャンプに届けたりしていた。

その人は夕食の前にちょっと寄るところがある,と言って車をとある閑静な住宅街に止めた。白い塀で囲まれた豪邸が建ち並んでいる。

そのひとつに暮らす裕福なカチン人に支援金のお願いをしに行ったのである。

わたしは後をついていったが,庭先にいくつも転がる巨大な翡翠の原石に驚いた。この岩ひとつでいくらするのか。

使用人らしき女性が出てきて,主人は不在だと告げる。引き下がるほかはない。わたしは門を出ると「この岩,ひとつぐらい持っていってもいいんじゃないでしょうか」と言った。

別のカチン人だが,有名な金持ちで,その人の20代の娘が日本に来た。わたしは彼女を招へいする際の身元保証人として協力したのだが,彼女はわたしに礼ひとついわない。それどころか追っ払おうとする。

わたしは悔し涙を飲みながら,「尊大な人間に近づくのはその人の葬式のときだけ!」と心に誓ったのであった。




不愉快な思いをしたのはわたしばかりでない。今年の11月のマナウ祭でも別の日本人が彼女を招へいしたのだが,いろいろ無理なことをしてその日本人を困らせたと聞いた。

金を持ちすぎると,人を人とも思わなくなるもののようで,もしかしたら,2月も居留守を使われたのでは,とわたしは邪推している。

とはいえ,大多数のカチン人は貧しく,そして,つましい暮らしを喜ぶ人々だということを,最後に一応強調しておきたい。

2013/12/11

漢字

エーヤワディ管区の町,ピンユワで見かけた映画のポスター。漢字に見えるビルマ文字のデザインがかっこいい。

セボレイッ(2)

このセボレイッは,日本のビルマの店でも手に入る。

わたしは以前はこの葉巻をよく吸っていた。今は子どもがいるので喫煙の習慣はきっぱりと,微塵の未練もなく捨て去ったが,ビルマに行くと吸いたくなる。

わたしが日本で買っていた頃は10本の包みで300〜400円していたように記憶するが,ビルマ国内では4本100チャットぐらい,つまり1本2.5円ほどだ。

2月にビルマに行ったとき,このセボレイッが無くなったのでホテルを出て,どこの街角にもあるタバコなどを扱う露店に買いにいった。

こうした店ではタバコでもセボレイッでもバラで売るのが基本で,わたしが見つけたその店でも数本のセボレイッが瓶に入れられていた。

わたしは店の人に指で1本くれと示し,1,000チャット札を出した。

店の男性が何か言ってくる。釣りがないというのだ。

あいにく1,000チャット札しかない。わたしが諦めて立ち去ろうとすると,彼は「持ってけ」と1本差し出したのである。

些細な出来事だが,笑わずにはいられない。しかし,これは普通のビルマの人々の姿でもある。

日本に帰ってきて,このことをBRSAの会員に話したら,けっこう気に入ってくれたようだった。

セボレィッ(1)

ビルマには普通の紙巻きタバコのほかに,セボレィッと呼ばれる独特な葉巻がある。長さは10センチほどで,紙巻きタバコと同じくらい愛好されている。

セボレイッをまれにチェルーと呼ぶ人がいて,わたしは別名かと思っていたが,これは英語のcheroot《両切り葉巻》であるようで,もしかしたらわたしに英語で言い換えてくれていたのかもしれない(ただし,英語の発音はシェルート)。

cherootというのは英語らしくない単語で,語源を調べてみたら,南インドのタミール語の《(タバコの)一巻き》に由来するという。

確かに,インドのタミール州でわたしはセボレイッよりも細く短いが似たような葉巻を見たことがある。

ビルマの文化はインド文化にいろいろな影響を受けているから,2つのcherootの間には単なる単語上の繋がりを越えた実質的なものもあるかもしれない。

2012年6月のライザで。

アラカン民族の踊り

11月8〜9日に芝公園でカチン民族の伝統的祭事マナウが行われたが,9日の午後には他の民族の歌や踊りもステージで披露された。

アラカン民族は,政治活動家のゾウミンカインさんがその伝統舞踊をステージで英語で紹介したのだが,その通訳を急に頼まれた。

もっとも彼は話す内容を印刷していて,わたしはそれを参照することができたので,それほど大変ではなかったが。

その紹介によれば,この場で披露されるアラカン民族の伝統舞踊とは,ロウソクを両の手の平に持って優雅に女性が踊るもので,ブッダへの崇敬の念を表すものだという。

また,踊り手である女性の身につけている衣装もアラカン民族伝統のもので,黒いショールや髪飾りの花も特徴的なのだそうだ。

短いビデオを撮影したので,どのようなものか分かるかと思う。

(分からないと思うが,踊りの音楽がちょっとだけThe Kinksの名曲"Muswell Hillbilly"を想起させる……わたしはこうやってわたしなりにThe Kinksを宣伝して,活動を再開させようとしている。)


大いなる神秘

今年の9月下旬,品川の入管に収容されている3人の在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)会員の身元保証人となり,仮放免許可申請をした。

結果が出たのが,ひと月後の10月下旬で,3人とも不許可だった。

原因としてはいろいろ考えられるが,ひとついえるのは,早すぎた,ということだ。

つまり,2人は6月に収容された人で,申請時には3ヶ月過ぎたころ。もう1人にいたっては9月に収容されたばかりだった。

仮放免許可申請には適当な頃合いというものがある。これは時期や収容所によって異なり,部外者にははっきりとは知ることのできない入国管理局の大いなる神秘のひとつだ。

しかし,その神秘にたゆまぬ努力で近づこうとしている人々がいる。それは入管収容所の問題に取り組んでいる団体の人々で,これらの人々は,収容されてからある期間の間に出された仮放免許可申請が通りにくいということを経験から知っており,その事実を通じて,どれくらいの時期に申請すべきかを,絶えず予測している。

わたしはこれらの人ほど詳しくはないが,さすがに収容されて1ヶ月で出した申請が通らないことぐらい想像はつく(難民認定申請者の場合は,少なくとも一次審査の結果が出てからのようだ)。

しかし,それでもわたしが(というかBRSAが)仮放免許可申請をしたのには,2つ理由がある。ひとつには,それが被収容者の意志であり,同時に生きる希望でもあるからであり,もうひとつは品川で仮放免許可申請をしている間は茨城県牛久の収容所に移送されることはないからだ。

牛久に収容されたら,面会や申請ははるかに面倒になり,また収容も長期化する……少なくとも1年は見なくてはならぬ。

そんなわけで申請したわけだが,ダメだった。その後,BRSAの役員と話し合った結果,わたしもビルマ行きで忙しく,12月初めにもう一度申請しようということなった。

ところが,11月末に2人が牛久に移されてしまった。

そして,品川に残ったもう1人はというと,11月の初めに彼は入管からわたしに電話を掛けてきて,身元保証人を別の人に頼んでもう一度申請すると伝えてきていた。

つまり早めに再申請したため,品川に残ることができたのである。

わたしは他の2人の申請をもう少し早くしていれば,牛久に送られることなく品川から外に出してやれたのに,と申し訳なく思ったのであった。

ところが,先週,品川入管に行き,残ったもう1人に面会したさい,驚くべき事実が明らかになった。彼は確かに別の人に身元保証人を頼んだが,その人は入管問題に詳しい人で,まだ申請には早すぎると判断し,12月頃に申請する予定でいたのである。

「どうして自分は牛久に送られなかったのか……」とその被収容者,首をひねってた。

わたしも首をひねると同時に,再申請の時期に関するBRSAの判断は必ずしも間違っていたわけではなかったのだ,これで牛久に送られた2人に対しても多少の申し開きもできると,ほっとしたのだった。

しかし,おお,それにしても,入管の大いなる神秘よ。どうかこれ以上われわれを翻弄することのないように……。

2013/12/10

ビルマ・コンサーン事務所

御徒町のビルマ・コンサーンの事務所を,この間,12月1日の日曜日,同じビルの3階から2階へと移した。

引っ越しは,BRSAの会員を含む何人かの友人が手伝ってくれて,ありがたいことにその日のうちに終わったが,書類の整理や,インターネットの接続やらまだまだやらねばならないことがある。

それはともかく,広さは2倍で,ミーティングやちょっとした集会にも使える程度の余裕もあるので,来年はとにかくいろいろな企画を行おうと思っている。

ビルマ・コンサーン事務所を開いたのは2009年12月のことで,現在までなんとか続けてていられるのは,多くの人々の支援,特に共同事務所として協力してくれている在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)と在日チン民族協会(CNC-Japan)のおかげだ。

賃料も少々高くなったので,ビルマ関係の他の団体にも呼びかけて事務所としてシェアしたいと考えている。

事務所を最初に設立したとき,今はアメリカにいる共同代表のタンさんが,チン民族の牧師を連れてきて,オープニング・セレモニーを行った。

それはまったくチン民族流で,お祈りを捧げながら壁や床を叩くというものだった。

なぜ,叩くのか。それは悪霊を追い払うためだ!

ゆえに窓は全開。お祈りやら「バン! バン!」が丸聞こえで,悪霊より先にこっちが大家さんに追い出されるのではとヒヤヒヤものだった。

ま,大家さんもありがたいことに理解のある方だった。

だが,あのとき追い出したはずの悪霊,2階にいるなんてことはないだろうな……。


コオロギ

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)のメンバーに,ビルマのお土産は何が良いか聞いたら,ためらいがちにパイエジョーなるものが食べたいと言う。

何かと尋ねると「日本語は分からないがこれは虫を炒めたものでビルマ人みんな大好きだ」という。

わたしは虫と聞いただけで「この土産却下」と秘かに思い,日本を発ったのであった。

ビルマにいたのは2週間で,結局このパイエジョーについてはまったく思い出さなかった。だが,最後の日に「空港に行くまで数時間余裕があるのでなにかしたいことあるか?」とその日行動をともにした有名な社会活動家のネーミョージン(Nay Myo Zin)さんに聞かれたとき,そいつは再び頭をもたげてきたのだった。

しかし,彼は,パイエジョーを土産にしたいという希望を聞くと,今の時期は難しいかな,とありがたい指摘。

そのおかげで,わたしは虫の炒め物を日本に持ち帰るという任務から解放されたのであった。

ところが,この間の日曜日,カレン人の家でみんなが飲んでいるところにお邪魔すると,このパイエジョーなるものが出てきた。大きなイナゴような虫の炒め物だ。

「これは宝だよ! さ,どうぞ!」

みんなよだれ垂らしてる。ほんとに大好物なんだ。

そんなお宝を滅相もない……とわたしが断ろうとすると,「韓国で働いていたとき殺したばかりの牛のレバーをそのまま食べさせられた」というエピソードが出てきた。

「文化の違いはきっと乗り越えられる!」という励ましだ。エールだ。これはもう断れない……。

というわけでわたしは2匹ほど食べた。カリカリに揚げてあった。しょうがで味付けするのだと言う。ま,わたしは川海老の素揚げのほうがいいかな……。

パイエジョー,正確にはパイッ(ပုရစ်,コオロギ)・チョー(炒め物)というらしい。もともとはマンダレー辺りで食べられていたものがビルマの他の地域に広がったとのこと。

もっとも,ビルマだけでなく,ラオスやタイでも当たり前の食材というから,起源に関するこの説はさらに検討を要する。



ヤンゴンでたまたま撮影していたもの。ピンボケだが。