2014/01/30

在日チン民族団体の総会

1月26日の夜,品川区の施設きゅりあんの会議室で,在日チン民族協会(CNC-Japan)と在日チン女性機構(CWO-Japan)の年次総会と役員選挙が開催された。

今年もわたしは招かれて,選挙の立会人を務めさせていただくこととなった。未記入の表を配り,それを回収し,集計する役目である。

もっともそれほど大変ではない。決めるポストはそれぞれの団体の会長だけで,また出席者もあまり多くないから。

どこのビルマ政治団体でもそうだが,いま会員を集めるのはなかなか大変なのだ。

しかし,だからといってチン民族の困難な状況が大きく変わったわけではない,みんなで力を合わせてがんばらなくてはいけない,というのが今回の総会の基調であった。

難しい時期だけど,2つのグループには今年はさらに大きな働きを期待したいと思う。

前会長のチンラムルンさん(Cin Lam Lun)。

新会長のドウ・ニンザルンさん(Daw Ning Za Lun)。

昨年度に続いてCWO-Japan会長となったドウ・ングンタンさん(Daw Ngun Than)。
ジャスミンという名前でもみんなに知られている方だ。

追悼礼拝

友人である在日カチン人難民のお母さんがヤンゴンで85才で亡くなり,その追悼礼拝が1月26日の日曜日,早稲田の東京平和教会で行われた。

20年以上も会う機会がないまま,別れが訪れたのだ。

礼拝には多くのカチンの難民たちが集まり,すでに経験したか,これから経験するであろう悲しみをともにしていた。

礼拝では故人の経歴が語られ,それによると小学校の先生として精勤されたほか,カチン女性協会の重鎮として長年活動されたそうだ。

わたしが礼拝に出席したのは,もちろん「喪主」が親しい友人であるからだが,そのお母さんにも去年の2月にヤンゴンでお会いしている。

彼はビルマに発とうとするわたしにこう言ったものだった。

「ああ! お母さんに会ったら,わたしのかわりに抱きしめてあげてください……」

忘れがたい言葉だ。

わたしはサンチャウンの家に行き,お母さんとやはり高齢のお父さんに会ったが,どうしたらいいか分からなかったので,結局抱きしめなかった。

追悼礼拝の様子。

カチン語の賛美歌

礼拝後の食事。カチン料理。

With a little help from my friend

牛久の東日本入国管理センターに2人のBRSAメンバーの仮放免申請手続きに行き,その途中に立ち寄った我孫子駅で,うどんに対して思わずヘイトスピーチを漏らしてしまったことを記したが,数日して風邪を引きうどんを食べるはめとなった。

うどんの祟りであろう。

それはともかく,申請手続きの顛末だ。

収容施設のある入国管理局はどうもそれぞれの流儀があるようで,仮放免申請の書類も微妙に異なる。

わたしがよく知っているのは品川の東京入国管理局と,この牛久のヤツだが,比べると同じ手続きでもこんな違いがある。

1)誓約書。

品川では誓約書は2枚提出しなくてはならない。1枚は収容されている本人が仮放免された暁にはちゃんと法律は守りますと誓約するもの。もう1枚は身元保証人が,被収容者が釈放後もちゃんと法律を守らせるようにしますと誓約するものだ。ところが牛久では,前者の,つまり被収容者の誓約書は不要なのである。

ところが牛久でも1年ばかり前は誓約書は品川と同じく2枚必要だったように思う。それが今は違うのである。どういった理由なのか。

紙の節約だろうか?

2)仮放免後の住居について記す紙。
仮放免を申請するさいには,仮放免後に住む場所を明記しなくてはならない。かつては品川でも牛久でも,仮放免後の住所とともに最寄りの駅からの道順を地図で記さねばならなかった。それで,手書きしたり,インターネットで地図を入手し貼付けたりしたものだ。しかし,今はこれはどちらの入管でも必要ない。

ネットで調べられることに最近気がついたのだろうか?

さて,今は品川では,住所と電話番号があればよろしい。以前は住居形態(つまり,賃貸かどうか,賃貸なら家賃はいくらか,そして何DKかなど)も記さねばならなかった。

この項目は牛久では今もある。しかも,さらに特別な項目もある。仮放免後に住む家の世帯主(借り主)の名前と生年月日,その人の在留カード番号も書き入れなければならないのだ。

いちいち電話して確かめなくてはならないので面倒くさい。

この日も,一人のぶんの世帯主と連絡つかなかった。もう! いや,前もって調べておけばいいのに,いつもその時になって思い出すのがいけないのだ。

BRSAの役員が電話で連絡とろうとしてくれているが,掴まらない。当たり前だ,だいたいみんな昼時は店が忙しい。

しかし,このままでは申請ができない。かといって,いつまでも待っているわけにはいかない。だが,申請せずに帰るのは論外だ。時間と金の浪費だ! なんとか切り抜けねば! ここはひとつわたしの住所を仮に記入しておくか。こいつは最終手段だぞ……。

と,電話に着信。029ではじまる。てことはこの辺りから。出ると,今ちょうど申請をしようとしている被収容者からだった。

収容所の中から電話を掛けてきたのだ。いつ仮放免申請してくれるかじりじりして。わたしが今まさに同じところにいることなど知らずに。

何という偶然! 彼は自分が住むところの世帯主の情報をすべて知っていた。

収容されている人を助けに行ったところがその人に助けられた話。


2014/01/23

我孫子駅のそば屋

今週中に牛久に行って2人のBRSA会員のための仮放免申請をせねばならぬ。

面倒くさい……金と時間がもったいない。少なくとも半日潰れる。電車代タクシー代あわせて8000円近くなる。

わたしが払うのではないが,BRSAの会計だってかつかつだ。

それで,今日,牛久の駅から東日本入国管理センターまで自転車で行くことにした。自転車は電車で運べる折りたたみ。

しかし,その自転車漕ぐのがメンドクサイ。ああ,行きたくない。奴隷の仕事,ガレー船だ,と思っていると,我孫子駅のそば屋の名物を思い出した。鳥の唐揚げそば! 今出れば我孫子に着くのは昼時だ。

やる気出てきた。

で,我孫子駅までやってきた。ホームのそば屋に突進だ。店に入って,食券買おうとすると,店の人が「すいません。今日はそば売り切れでうどんしかないんです」

あの病人の食うヤツを食えというのか? あまりのことにうどんで首吊りかねん……。

わたしは店を出る。しかし,別のホームにも同じそば屋があるのを知っていた。もしかしたらそっちのほうではまだそばが残っているかもしれぬ。それで,袋に入れた折りたたみ自転車担いで,隣のホームに行く。

そば屋! さっそく食券だ! と券売機に張り紙が。

「うどん売り切れました」

バッド・コミュニケェション!

唐揚げ2個入りで480円。

第67回シャン民族記念日(シャン州の日)

在日シャン民族文化協会からの案内です。

第67回 シャン民族記念日(シャン州の日)の祝宴】

この度、日本におきまして、シャン民族記念日(シャン州の日)を開催致します。

当日は伝統的な美味しい料理や踊りなど、シャン民族の文化をご堪能頂けます。どなたでもご参加いただけますので、どうぞお気軽にお越しください。



日時:2014年2月9日(日曜日)18:00~21:00

参加費:¥2000(食べ放題とソフトドリンク付き)
(例年同様、ブッフェスタイルでシャン民族の伝統的なお料理をご用意しております。)

場所:豊島区東池袋「アカデミーホール」(豊島区民センターの裏,JR山手線/有楽町線池袋駅東口より徒歩5分)東京都豊島区東池袋1-30-6 セイコーサンシャインビルB1

皆様のお友達のお誘いの上、どうぞお気軽にご参加ください。心よりお待ちしております。

在日シャン民族文化協会


(連絡先は省略)

2014/01/13

カチン州の日記念式典

1月12日,豊島公会堂でカチン州の日記念日式典が行われた。

例年のごとく,式典とエンターテインメント(歌と踊り)の2部構成で,第1部の式典は午後6:30にはじまるとのことだった。

わたしは少し前に行ったが,20分ほど遅れてはじまった。

内容はといえば,カチン民族機構(日本)(KNO-Japan)議長のホワー・ザウラさんの演説と,スライドショーによるプレゼンテーションが非常によかった。

ザウラさんの演説は,第二次世界大戦とビルマ独立当時のカチンの歴史に関するもので,「ファシスト日本」をやっつけるために最初に立ち上がったのはビルマ民族ではなくて,カチン民族だというものであった。

彼はいつも全身を使って演説するかたで,今回も気迫たっぷりだった。通訳は,田辺寿夫さんで,おそらくは複雑な内容であろう話をとても分かりやすく日本語にしてくださった。

マジ・センリ事務局長によるスライドショーも田辺さんが丁寧に通訳してくださり,現在も戦時下にあるカチン民族の現状がよく伝わるものだった。

ただ演説もスライドショーもどちらも長すぎたようだ。

スライドショーがほぼ終わったのが8時半近く。これがなにを意味するかというと,第2部に当てる時間が30分しかない,つまり押しに押している,ということだ。

わたしは夕食の約束があったので,式典の終わる前に会場を後にしたが,結局,予定していた演目をすべてはこなせなかったと,運営関係者が大いに残念がりながら教えてくれた。

確かにそれは残念なことだが,今のカチン民族には人々に訴えたい重大事がそれだけたくさんあるということでもあろう。









Kachin State Day 2014 Program













2014/01/10

カレン・ミステリー スーチーさんカレン人説を追え

ビルマの国民指導者であるアウンサンスーチーさんがカレン人だという噂がある。

もちろん,そんなことは彼女について書かれた本のどこにも書いてない(と思う)。また,そんなことをいうビルマ民族もいない。

しかし,カレン民族のなかには,彼女がカレン人である,あるいは少なくともカレンの血を引いている,ということを信じている人がいる。

以前,年配のカレン人男性が,わたしに英語の本を見せて,その説が本当であることを力説した。

その本のタイトルも著者も忘れてしまったが,それには,スーチーさんのお母さんのドウ・キンチーがポー・カレン(カレン民族のひとつ)であると記されていた。

つまり,スーチーさんはビルマ人であるアウンサン将軍とカレン人女性との間に生まれた子どもだというのである。

しかし,Wikipediaのキンチーさんのページは,彼女がカレン人クリスチャンであるという噂があることに触れた上で,これを完全に否定している。

もっとも,これも完全には信じられない。というのも,ビルマ民族の民族主義者からすれば,国母であるキンチーさんが,ビルマ民族でも仏教徒でもないというのは「不都合な真実」であるから。

そこで,ある機会にわたしはポー・カレン人の牧師に尋ねてみた。

すると,彼もやはり「そんなことあるわけない」と否定した。

しかし,その一方,ドウ・キンチーがキリスト教徒であることは否定しなかった。彼女は1988年に亡くなるが,そのとき彼女はキリスト教に改宗したというのだ。

そして,彼女がカレン人ではないことは,その死の床での改宗に立ち会った牧師からもたらされた確かな情報だという。

おそらく,この改宗の事実と,彼女がカレン人が大多数を占めるエーヤーワディ管区出身であるという事実から,カレン人だという噂が生じたにちがいない。

わたしはついに真相に到達した……かと思われた。

ドウ・キンチーは,エーヤーワディ管区の町ミャウンミャの出身だ。たまたまミャウンミャ出身のポー・カレン人と話す機会があり,スーチーさんのお母さんについて尋ねてみた。

「ああ,ドウ・キンチーの家なら,家から15分ほどのところだよ」と彼。

「そうなんですか! で,ドウ・キンチーがカレン人だという人がいるのですが」

「そうだよ! 半分カレン人の血が入っているよ。彼女の親戚はカレン人たくさんだよ」

驚いたわたしはさらに尋ねた。ドウ・キンチーの父と母のどちらがカレン人なのか,と。すると,その人は知らないと答えた。

つまり,この説も決定的ではない,というわけだ。

だが,少なくとも,死の床で彼女が自分がカレン人であることを否定したという情報とはこれは矛盾しない。カレン人を片方の親に持つ人が,カレン語をしゃべれず,また,ビルマ民族を自称するのはよくあることだから。

ミャウンミャで徹底的に調査すればもしかしたら分かるかもしれない。

とはいえ,どの民族出身だということが,本当のところ,今のスーチーさんに何か関係があるわけではないし,わたしもそれほど興味はない。

わたしにとって面白いのは,まず,このような噂がカレン人の間で流布していることだ。

そしてさらに,このように民族的出自がいつまでもはっきりしないという状況にこそ,大多数のカレン人の中にビルマ人が暮らしているエーヤーワディ地域の特色がかえって現れているのではないか,ということなのである。

2014/01/09

第67回ビルマ連邦日記念式典案内


入管はじめ

1月8日に品川の入管に行き,あるカレン人難民の身元保証人変更手続きをした。

手続きそのものは問題ない。問題なのは,入管に納めている30万円の保証金だ。

この30万円は前の保証人の名前で納められれているもので,これをそのまま,新しい身元保証人であるわたしの名前で納められる保証金に移してしまうことはできない。

わたしの名前で新たに30万円保証金を納める手続きが完了した後(すなわちわたしが公式に身元保証人となった後に)に,以前の身元保証人名義の保証金を引き出すことができる。

そして,わたしは以前の身元保証人から保証金を受け取るための委任状を委ねられており,すなわち,今回は,自分の名前で30万円の保証金を納め,そして前の身元保証人の30万円を受け取る,という2つのことをしなくてはならなかったのだ。

保証金を出し入れするのは,入管ではできない。田町の東京三菱UFJ銀行の日本銀行代理窓口に行かなくてはならない。

しかも,手続きの関係上,わたしたち(つまりわたしとカレンの人)は入管とこの日銀代理窓口との間を2往復しなくてはならなかった。最初に入管で手続きをし,次に銀行で身元保証金を納め,そして入管に戻り,今度は以前の保証金に関する手続きをし,ふたたび銀行に行き保証金を受け取り,その後入管に行き手続きを済ませたのである。

時間がもったいなかったので,入管と田町の間はタクシーで行き来した。片道1170円〜1250円,つまり2往復で5千円近くかかったが仕方がない。

入管で手続きを始めたのは,午前10時過ぎで,何としても午前中に終わらせようと頑張ったのだが,いろいろ手間取って,結局入管のお昼休みを跨いで,手続き完了の証しである「身元保証人変更許可書」を手にすることとなった。

さて,銀行への往還は4回とも違うタクシーだった。どのタクシーも親切だったが,最後に,つまり田町から入管に行くために乗ったタクシーはひと味違った。

行き先を聞いて走り出すや否や,後部座席のわたしたちに向けて「運転手の〇〇と申します。シートベルトをお締めください」と丁寧な要請。

きっちりしてる。安全優先なのだ。

さらに最初の信号で止まっている間にカーナビで「法務省東日本入国管理局」と入力してルートを確認している。

慎重だ。どんな近い距離でも気を抜かないのだ。この運転手,プロの中のプロに違いない。

と思ったら,入管手前の曲がり道で無理な車線変更して,白バイに追いかけられてた。

かわいそうに……ちょっと笑ったが。


2014/01/06

スーチーさんのサイン

昨年4月にアウンサンスーチーさんが来日したとき,在日ビルマ難民が彼女に直接会って話をする機会が幾度かあった。そのうちのひとつに出席したモウニーさん(KNU日本代表)がカレン民族衣装にサインをしてもらってきた。

それは特別な記念品として彼の部屋に飾られているはずだったが,1月5日カレン新年祭に行ってみると,ほかのカレンの人に貸してあげてた。

喜ばしいものは隠しておかないでみんなに見せてサービスする,というのが彼らしい。わたしだったら額に入れているところだ。



サインをもらったときの話を聞いたら,彼はスーチーさんがビルマ文字ではなくローマ字で世界中の誰にも分かるようにサインしてくれたことと,「KNUからとても大きな励ましをいただいている」と語ったことが非常に印象に残っているとのこと。

えらい人は一言で相手の心を掴む,とも。

まじめ

午後1時から6時までという長いカレン新年祭。

わたしは途中で帰ったが,そのうちで最高に盛り上がったのは,カレン民族同盟(KNU)日本代表のモウニーさんの歌「Sailing(Rod Stewart)」だ。彼はカレン民族の伝統の織物で仕立てられたスーツを脱ぎ捨て,Tシャツで歌いはじめる。


ワンコーラス後,そのTシャツすらも脱ぎ捨てる! 自慢の筋肉と入れ墨! 大喝采だ。


こんなふうにみんなを喜ばせようと張り切るのは昔と同じだ。KNU日本代表なんかじゃなかった頃から,カレン新年祭で一番に踊り出すのがモウニーさんだった(そんときは奥さんがいた……2人揃って踊るのは本当にかっこよかった!)。

さて,思い出も歌も終わり! 彼が最後に叫んでる。 

「みなさん,ほんとうにありがとう! わたしたちカレン人はまじめで〜す!」

裸でいう言葉じゃない。

後で話したら「わたしの先輩がぜひシャツも脱ぎなさいと言ったからああしました」ですって!

やっぱまじめ。

Karen New Year 2014 Program





カレン新年祭2014(Karen New Year)

日本では毎年最初の日曜日に行われるカレン新年祭が1月5日,池袋で開催された。

内容はいつもの通りで,カレン民族の伝統を伝える式典の後,食事と歌と踊りの第2部となった。

「式典は短くしてあとはハッピータイム!」(運営委員談)というわけで,メインはこのお祭り騒ぎだ。

今年はバンド演奏が例年よりレベルアップしていてこれもよかった。音楽にかけては「もうクレイジーよ」(運営委員談)というドラマーが導入した電子ドラムも活躍してた。

写真とビデオを少々。






小さなカエルの肉の料理を袋ごともらった。 




式典の時に披露されたカレンの伝統的舞踊(ドーン・ダンス)のビデオ。