2014/02/23

キックボクシング,ムエタイ,Kahprek

保育園にいる娘の友だちのお父さんがキックボクシングの元選手でコーチをしている方で,試合があるというので日本キックボクシング連盟のチケットを貰った。

なんでもキックボクシングの裾野を広げるためにジムの会長から数枚配るよう頼まれたとのことで,わたしの背後はもう崖なので裾野は広がりそうもないにしても,ありがたいことなので,もう1人のお父さん友だちと一緒に2月22日に後楽園ホールに行ってきた。

出かける前に娘が「殴って血を流すようなところに行かないで!」と止めたが,男にはそうと分かっていても行かなければならない時がある。キックの将来を背負っているのならばなおさらだ。

目当ては,チケットをくれた方がセコンドを務める試合で,彼のジムの福舘正選手(NKBウェルター級4位)は見事勝利した。


その他で印象に残った試合は2つあり,ひとつは10年のブランクを経て復帰した45才の三苫純次選手と30才,ミドル級2位の塚野真一選手の試合で,双方が必死で戦う姿に感銘を受けた。


人間はある年齢を過ぎると死を意識するようになる。そして,生活のあらゆる局面がその死との関係とにおいて立ち現れるようになる。ただし,これは別に大げさで悲壮なものではなく,もっとありきたりの感覚だ。若い頃の「〜できれば死んでもいい!」が「〜するまでは死ねない!」に変わるような程度の。

そして三苫純次選手の試合ぶりは明らかに後者のもので,それがよく表れていた。残念ながら負けてしまったが。

勝利した塚野選手が,難病に冒されたジムの仲間のためにどうしても勝ちたかった,とリングで語ったのもよかった。

この試合中,三苫選手が出血したため,試合を中断してドクターの判断を仰ぐ場面が3度ほどあった。しかし,リングサイドにいるはずのドクターがどこにもいないのである。結局試合は中止されることなく最後まで戦われたが,ドクターがいたらあるいはストップが掛かっていたかもしれない。

わたしが想像するに,このドクターは北千住の薄汚れた界隈の町医者で,三苫選手の古くからの友人だろう。医者として,そして友人として彼の復帰に反対してたのだ。だが,そんな忠告を聞く三苫選手ではない。彼はこの復帰戦で死んでもいいと思っているのだ。で,いよいよ試合だ。リングに向かう三苫選手に彼は「勝手にしろ!」と怒鳴る。そして殴られても殴られても立ち向かって行く彼の姿に「もう見ちゃおれん!」とリングを離れる。で,場外で歓声を聞きながら安い日本酒をあおっていたはずだ。「俺がいたらストップかけちまうだろ……」と呟きながら。

あくまでも推測にすぎないが,この酔いどれ医者のおかげでわれわれは最後まで見ることができたというわけだ。

メインイベントの試合では,NKBライト級1位の大和知也選手(写真)がNKBウェルター級2位マサ・オオヤ選手をKOした。トリにふさわしい試合だった。


観客たちはイカつい人ばかりかというとそうでもなく,親子連れもいた。ヤジも面白かった。とくに「鼻折っちゃえ!」てのが。またもう声がすっかり潰れてて「ブロロロロブロロブロロロロてんだよ! ブロロロロロ!」としか聞こえない人もいた。知り合いがリングにいたらわたしも叫んでいたかもしれない。

聞けば,キックボクシングはタイのムエタイから派生した競技なのだという。わたしはまったく別のものだと思っていた。それで実力もタイと比べると日本はまだ敵わないとのことだ。

わたしの大学の頃からの友人に,下関崇子という人がいる。2人とも文学部で,タイもビルマも知らない頃からの付き合いだが,彼女はやがてタイに行きムエタイを始めた。その頃の経験を後に『闘う女。―そんな私のこんな生きかた』という本にしている。この本の帯には「えっわたしがムエタイの選手?」とあり,それを見た誰もが「もっと早く気付けよ!」と突っ込んだことだろう。彼女はいまタイ料理の専門家としても本を書いたり教えたりしてけっこう活躍している。

わたしはタイ国境の難民キャンプに行くのでしばしばタイに行ったが,バンコクに住んでいた彼女のところにも幾度か足を運んだ。あるときは彼女のムエタイのジムに行き,その蹴ったり叩いたりする練習風景を見せてもらった。

すると,タイ人のムエタイ師匠がやって来て,わたしを見ながら彼女に尋ねた。

「だれだ,こいつは。どこのビルマ人だ?」

おそらくタイ人にとってアヤシい人間はみなビルマ人に見えるのだろう。

ビルマの格闘技といえばラウェーというムエタイに似た競技が有名で,カレン人の選手も多いという。

また,アメリカのキックボクシングのチャンピオンはカチン人だ(もっとも今はどうだか知らない)。

AUNG LA NSANGという人で「ビルマの大蛇 "THE BURMESE PYTHON"」とのリングネームで知られている。

この人のお父さん,Nsang Tu Awngさん(Nsangは姓)もまたカチン人の中では有名な人だ。パンカチン発展協会(Pan Kachin Development Society, PKDS)というNGOの代表で,カチン難民のためにいろいろな支援活動をしている。

2012年6月に戦争中のライザに行ったとき,わたしはこの人にいろいろお世話になったが,自分の息子の活躍に非常に誇らし気であった。

さて,この時にわたしはカチン独立機構(KIO)の若いスタッフに難民キャンプなどを案内してもらった。

ムンオンという偽名を持つこの青年はまたカチン独特の格闘技のあることを教えてくれた。

それは有名な俳優ラズィン・ラートエが1980年代始めに創始したもので,テコンドー・空手・柔道をミックスしたものだとのことだ。カチン語での名前はクプレッ(KAHPREK)で,カチン・カラテともいわれている。

キックを多用する格闘技だが,キック・ボクシングとは違うそうだ。

クプレッはカチン州のあちこちに道場があるそうで,特に州都ミッチーナーには多い。KIOの支配する町,戦場に近いマイジャーヤンにもかつてあったがもうないとのことだった。また,KIO本部のあるライザでは数年前に大会が開催されたこともあったという。

KAHPREKの意味についてムンオンはこれは擬音で素早さを表すと説明してくれたが,この語にはまた動詞として "to slap(ひっぱたく)"の意があることもオラ・ハンソンのカチン語辞書に記されている。

カチン州以外ではそれほど知られてないせいか,ネットで調べてもあまり出てこないが,YouTubeに次のような非常に短い動画があった。どんなものだか多少は分かるかと思う。




【おまけ】
後楽園ホール5階会場から下に降りる階段は落書きでいっぱいだ。



2014/02/18

幸せのブルーバード

難民申請する人の付き添いで東京入国管理局に行きました。

そのとき偶然にも幻の青い鳥に遭遇し,慌てて撮影。


最初はピンぼけですが,2回めはみごと成功!



入管のマスコットキャラ「とりぶ」です。

こいつが載っているチラシかなにかを入管で探したのですが,なかったのでポスターのヤツをひそかに撮影しました。

入管にもあったのですね,幸せが……。

次は実物の捕獲を目指します!

「荒れ狂う遠くの海へ
走る道 そうさ
強い風 飛ばされた涙が
なぁ ブルーバード
道標みたいに遠ざかる」
「ブルーバード」(キリンジ)

2014/02/12

ポワロ,ヴァン・ドゥーゼンそしてデュパン

早急に引越しをしなくてはならないチュニジア人がおり,友人なので家探しに同行した。

目当てはある。関東某所にあるマンションだ。賃料は月に15,000円。管理費込みで18,500円。敷金礼金ゼロ。駅からも遠くはない。ネットで見る限り最高の物件だ。

「心理的瑕疵あり」と書いてあるのを除けば。

不動産屋に問い合わせると,まずは店舗にて,というので店まで行く。若い男性が応対してくれる。わたしたちとしてはできるだけ早く例の物件を紹介してほしいのだが,なんか別の少し高めの物件を紹介しようとする。

チュニジア人は少しいらついている。「わたしはもうこれ(目当ての物件)に決めたのだ」。そうしたらようやくお店の人が「これは前の住人のことではないので,伝える義務はないのですが」と言いながら,件の「心理的瑕疵」について説明してくれた。

4代前の住人が風呂場で自殺をしたのだそうだ。

そして,その後,次の人が入居した。「わたしはそんなことは気にしませんよ」と言いながら。豪の者だ。だが2ヶ月持たなかった。

すぐに別の人が入居した。これも2ヶ月で出た。そして,現在の住人はというと,2ヶ月経たずして逃げ出した。今は空室だ。

わたしは,何があるのか,と店の人に尋ねるが,彼は「心理的に何かあるとしか……」と首を傾げるばかり。

しかし,チュニジア人「面白い。わたしはここがいい!」

彼はムスリムだ。「コーランを置いておけば大丈夫!」と言い張る。

わたしもコーランの重みは十分に承知している。しかし,神を試みるべきではない。

店の人が言う。「オーナーの方はお祓いにお金をかけたくないそうなのです」

チュニジア人「ああ! ならわたしが住めばここはすっかりきれいになる! その分家賃の交渉できないかな!」

東西の衝突だ。

しかし費用の点で折り合いがつかなかった。

家賃は安くても,入居するにはそれなりにかかる。外国人なので保証金も割高だ。退去時の清掃費として45,000円を最初に払わなくてはならない。敷金ゼロと言っても結局これが敷金代わりだ。仮に2ヶ月で逃げ出しても戻ってこないのか,と聞くと「然り」との答え。

しかも特殊な条件が2つある。常に2ヶ月分先払いしなくてはならないということと,入居してから2年後には家賃が2倍の30,000円になるということだ。

店の人「つまり,もう心理的瑕疵はなくなったから,元の家賃に戻すということです。オーナーの方も賢いですね」

いろいろ合わせて初期費用はだいたい15万近くになった。これは彼には少し厳しい金額だ。

われわれは「検討します」と不動産屋を出た。

「でもいいね,あれ」とまだ未練があるようす。しかし,別のチュニジア人に電話して相談したら,止めろ,と言われていた。

おお,だが,わたしの灰色の脳細胞を欺くことはできぬ。

住人がことごとく2ヶ月で逃げ出すだと? しかも,上述の通り,逃げ出せば逃げ出すほどオーナーが儲かる仕組みになっている。

2足す2は常に4だ。例外なく。

わたしに風呂場を調べさせてほしい。

きっと風呂場とオーナーの家の庭石の下との間にオランウータンが行き来できるぐらいの幅の秘密の通路があるはずだから。

身元保証の意味

難民認定申請者の中には入管に収容される人がいて,そこから出るためには,身元保証人を見つけ,仮放免の許可を貰わなければならない。

身元保証人は別に日本人に限ったものではないが,見つけるのはなかなか難しい。多くの人々はそれで苦労している。

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)はビルマ難民の会員のために身元保証人を引き受け,仮放免申請をするという活動を続けている。

身元保証人を引き受ける,といっても,今,会でそれをするのはわたししかいないので,ほとんどの場合わたしが身元保証人となる。

で,現在,20人ぐらいの身元保証人をしている。

これは多いように見えるが,100人もやっている人もいるというので大きな顔はできない。この人は教会関係者で,ビルマだけでなく他の難民のも引き受けている。

一般に,難民支援というものでお金をもらっている人は,不可解なことに,たいていこの身元保証人というものをしない。

こうしたものをするのは被収容者の知り合いや身内,あるいはわたしのような普通の人々か,入管問題か何かの活動家か,宗教関係者で,難民支援の分野でお金を貰っていることはまずない。

お金を稼ぐことがプロの証明なら,身元保証というのはアマチュアの業ということかもしれない。

プロから見れば,難民支援のまねごとと冷笑されるようなことかもしれない。

もしそうでなければ,つまり,難民支援の本質的な仕事のひとつと見なされているのならば,当然これらの人々や団体が率先して取り組んでいるはずで,身元保証の畑はすっかり刈り取られてしまい,わたしなどが慌てて出かけていっても落ち穂の一本も拾えやしないだろう。

身元保証や仮放免申請には特別な技術も経験もいらない。書類を集めて提出するだけだ。人権論だ支援技術論だなどということを知らなくても誰でもできる(実際にわたしも知らない)。おそらくこれが難民支援のプロにとってはばかばかしく思えるのだろう。

これらの人々が身元保証をしない理由については他にも色々考えられる(例えば組織的な理由とか)が,わたしには本当のところは分からない(ただし弁護士は,契約関係のある依頼人のためにこれをすることがある)。

なんにせよ,わたしはこの身元保証に自分の人生のかなりの時間を費やしているのだが,難民支援という観点からしたら実はとんでもなく無意味なことをしているのではないかとひそかに疑っているのである(もっともわたしは難民支援家ではないが)。

ある夜のこと,都内のアパートの一室に3人のビルマ難民が居合わせることになった。そのうち2人はそこの住人で,もうひとりは名古屋から来た人で,そこに宿泊していた。

3人とも難民認定申請中で,入管に収容された経験もある。住人のひとりと名古屋から来た人は以前からの知り合いだった。それで,住人が名古屋から来た難民に尋ねた。「身元保証人は誰?」 

彼はわたしの名前を答える。

すると住人,「あー! それはわたしの保証人だ!」

するともうひとりの住人が驚いた。「なんだ! わたしもだよ!」

みんな大笑いだ。

意味はないかもしれないが,笑い話の種にはなったというわけだ。

難民支援のプロから見れば,身元保証も,またこのエピソードも無意味なことかもしれない。しかし,こと生きることにかけてはプロもアマチュアもあったもんじゃない。それはひとつしかない。そして,そのたったひとつしかない生きることに関わる限りにおいては,どんなことにも何かの意味が生じる局面があるということだろう。

2014/02/06

Tea in the Sawara with you

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)は,ビルマ難民である会員が入院したり,怪我をして通院している場合に,30,000円の見舞金を渡す。

会員の多くは難民認定申請中の身で,健康保険証を持たないため,医療費が全額負担となる。だから,見舞金は結構役に立つ。

もっとも,手術なんかを受けた日には,医療費は100万を軽々と越えるので,30,000円は焼け石に水だ。しかし,それでもないよりはましだ。

BRSAは2008年に設立されたが,2013年までの5年間の間に,34人に総額1,000,000円の見舞金を渡している。

この間,BRSAの会員が入院した。千葉県佐原在住の人で,入院先も佐原の病院だ。

それで,さっそく見舞金を渡すことになり,行ってきた。

わたしは佐原は佐倉の隣だと思っていた。これは勘違いだった。なんにせよ,非常に遠かった。

古い町並みと伊能忠敬の生家,造り酒屋が2つほどある落ち着いた町だ。ちょっと観光しようかと思ったら,伊能忠敬記念館は休館日でやんの。しかも,伊能忠敬旧宅も改修中で閉館中だ。

きっと測量し直してんだろう。くにざかいが色々ややこしいことになってるから。








2014/02/05

KNU記念日とカレン革命記念日

第67回KNU記念日(カレン民族同盟の創設記念日)と第65回カレン革命記念日(KNUがビルマ政府と戦争を始めた日)が,KNU-Japanの主催により,2月2日午後6時,東京駒込の駒込地域文化創造館で開催された。

だいたい40〜50人ぐらいの参加者があったと思う。式典の内容に特に新しいものはなく,カレン民族旗敬礼,カレン民族歌斉唱,記念日の由来の説明,KNU本部の声明文の読み上げ,カレン人活動家の演説と来賓挨拶で終わった。

わたしも少し話した。

内容は「エーヤーワディ管区にもたくさんのカレン人がおり,ひどい迫害をうけてきた。しかし,そうした迫害の記録はほとんど表に出てきていない。それはこの地域がもっともビルマ政府軍の攻撃を受けた地域であるからだ。同じように多くの非ビルマ民族地域でいまだ沈黙している人々がたくさんいる。ビルマ軍との和平協定がこうした人々に声を与えるものであってほしい」というもの。

KNU-Japanの代表モウニーさんは,ベレー帽をかぶり,軍服みたいな服を着ている。それに影響されたのか知らないが,ベレー帽をかぶった人もいる。

あれ,渡部陽一がいる!

と思ったら,ベレー姿のやせたカレンの人だった。





2014/02/03

神様ヘルプ!

日本に暮らすあるカレン人が牧師をビルマから呼ぼうとして,招へいの手続き上,銀行口座残高証明書が必要なのだが,十分な金額がないように思われた。それで何人かの友人に頼んでお金を集め一時的に口座のかさを増やした。

わたしもその友人のひとりで,手続きが終わり次第返してもらう約束で15万円を件の口座に振り込んだ。

確かに返ってきた。だが,10万円だけ。彼が言うには,生活が厳しいので5万円は貸しといてくれというのだ。

納得のいかぬことだが,こちらとしては返ってくるのを待つしかない。しかし,念のため,もうひとりの友人であるカレン人に,その人が早くわたしに返すようにことあるごとに言ってくれないか,と頼んだ。それで彼はいつも気にかけてくれるようになった。

彼はとてもまじめな人で,わたしは非常に尊敬している。クリスチャンである彼は,お祈りを欠かさない。例えばわたしがビルマや国境地帯に行く時には,出発の前から帰国するまで,わたしの身に何か起きないように神様にお祈りしてくれる。

そのおかげかどうか分からないが,ありがたいことにこちらはいつも無事帰国だ。

あるとき彼はわたしに言った。

「早く彼がお金を返してくれるように神様にお祈りしたけど,ダメだった……」

か〜み〜さ〜ま〜!

The program of KNU Day and Karen Revolution Day