2016/04/27

子不語

自分では気がつかないでいたがわたしの書くものは読む人にきつい印象を与えるそうで、そこである方が「ですます調」にして柔らかくしたほうがいいと助言をしてくださった。ソフトな語り口で、みんなが楽しめる親しみやすいブログを目指してがんばりたいと思います。

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入管に収容されている人のためにしばしば仮放免許可申請をするのですが、たいていは不許可通知が送られてきて残念な思いをします。またわたしの所属している在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の会員には再度の難民認定申請を行っている人も多くいます。つまり1度は、いや2度3度と不認定となったというわけで、これらの人の苦境を思うとまた残念至極です。

ところでなのですが、わたしの友人で妻子持ちの男が、ある女性とひそかに旅に出かけることにしました。

これが今はやりの不倫かどうか、本人たちの見方はわかりませんが、周囲はそう見るでしょうし、わたしもそう思っています。

その彼がいうには、家の者にはわたしといっしょに旅行に行くと告げてあるのだということです。きっとわたしが始終ヒマにしているからうってつけだと考えたのでしょう。

「すきにするがいいが、俺のところに奥さんから直接電話がかかってきたら、ウソはつけないよ」と言ったのですが、それでもいいのだそうです。

彼はわたしと同い年で、同じ大学の出身です。同じ学部、同じクラスで学んだのですが、ずいぶんと暮らしぶりが違いますね。

彼は不倫旅行で楽しいこといっぱいですが、わたしはといえば仮放免不許可に難民不認定と悲しいことばかりです。

同じ「不」なのになんと違うことでしょうか。わたしはこれまで不許可とか不認定とか不可とか不採用通知とかの狭い世界に生きてきたので、この世にこんな楽しげな「不」があるなど思いも寄らぬことでした。

そこでわたしは考えました。どうして自分はそっちの方の「不」と縁がないのだろうか、と。これはまったくの推測ですが、わたしの周囲には不認定と不許可などの「不」がひしめき合っていて、かの楽しそうな「不」が遠慮して近寄ることができないのではないでしょうか?

「不」が「不」を邪魔しているのです。となると、なんとかそっちの方の残念な「不」を追い払いたいところですが、これは入管の難民政策、いやそれどころか日本の移民政策が大変換を遂げなければとても無理なことなのであります。

では、たとえば、不許可とか不認定とかの悲しい「不」を楽しいほうの「不」に変えることはできないのでしょうか?

考えてみましたが、思い浮かびませんでした。

ですが、わたしは同時に気がつきました。ほんの気分だけにしてもなのですが、悲しい「不」を楽しい「不」に近づけようとしてきたのが、わたしを含むBRSAの会員たちがしてきたことではないかということです。

入管での収容を続行させる仮放免不許可についてはわたしたちはどうすることもできません。ですが、面会や仮放免の申請をすることによって、被収容者は希望を持ったり、人間としての尊厳を維持したりすることはできます。

あるいは、たしかにBRSAは「不認定」の難民の集まりですが、この集まり自体を通じて、自分の力を発揮したり、人生に意義付けしたり、生活を豊かにしたり、ビルマをよくするために働き掛けたりすること、つまり、なんらかの希望を生み出すことができるのです。

不倫の具体的・実用的な楽しみに比べて、希望などというとなんとも霞や屁のようで恐縮ですが、議員でもタレントでも乙武クンでもないわたしたちにはこれしかないのですから、この道をひたすら進むべきなのです。人間に希望を与える活動を続けることで、悲しい「不」を希望の「不」に変える「不」断の努力を続けるほかないのです。

そうすれば、楽しいほうの「不」がいつか……それもやはり希望と言うほかありますまい。

その希望が訪れるまでの間は、わたしたちは人間のための着実な働きを続けるべきでしょう。そして、ときおり休んでは静かに本でも読もうではありませんか。























『死の棘』とか……。


2016/03/04

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(24)

5. CNFの戦略

前節で述べたようにNCAに対する否定的見解は次の3点にまとめることができよう。

①NCAは文字通りの「全土」ではない。
②ビルマ政府およびNCAを信頼することはできない。
③NCAの署名に参加した人々を民族の代表とみなすには疑いがある。

今回の停戦合意に署名したCNFは、少なくともこの3つの点に関して外部に説明責任を負っていると考えられる。この節では、まずCNF自身の考えを取り上げ、その後、CNFが合意に加わった動機について分析を行いたい。

まず①についてだが、NCA署名当時の議長(というのも2016年1月末のCNF総会で副議長となったからだが)であるタンさんは、NCAは終着点ではなく、全土停戦にいたるプロセスのひとつに過ぎない、と語る。すなわち、NCA以後も、今回合意に参加しなかった他の非ビルマ民族組織とともに交渉を続け、本当の全土停戦合意を実現させるということである。

このような立場は同時に、今回のNCAそのものを反故にさせず、今後の交渉を有利に進めるためのひとつの戦略ともとらえられよう。というのも、非ビルマ民族側の分裂はビルマ政府の政治的優位に結びつくからである。

2016/03/03

ミスフィッツ

仮放免手続は、品川の入管の場合まず6階の仮放免部門に行き、身分証を提示する。その確認とコピーが済むと、その後4階の会計の窓口で、保証金納付の手続を行う。保証金をどこに納めるかというと、田町の三菱東京UFJ銀行内にある日本銀行の代理店だ。なのでそこに行って保証金、たいてい30万円を納める。そして再び帰ってきて、会計課で領収書を貰い、さらにまた6階に戻り手続が済んだことを報告する。すると、1時間後に再び来るようにいわれる。その間に「出所」の準備が進行するのだ。



1時間というが、もう少し早く出てくる。「生まれた」ばかりの仮放免者と申請人(わたし)は、別室に呼ばれ、職員から仮放免の説明を受け、同意書などに署名する。これで手続は終わり、あくまでも「仮」なので晴れてとは言えないが一応「自由の身」だ。

2月の初めにわたしは朝一でこの手続を始めた。早ければ11時過ぎには出てくるだろうと思っていたが、途中で別の被収容者に面会したりなどしていたので遅くなってしまい、入管の職員に戻ってくるように指定された時刻は12時30分であった。

しかし、わたしは午後に用事がありその時間までいたら間に合わない。

わたしは職員に「先に帰ってもいいですか」と尋ねた。以前、仮放免者が出てくる前に帰ってもいいといわれたことが何度かあったからだ。入管の人が「お忙しいでしょうからどうぞ」だなんて気の利いたことを言ってくれたりさえした。

わたしはそれを当てにしていたのだが、ダメだという返事だ。

しかもまるで「昔からそうでしたが」とでも言わんばかりの顔つきだ。腹が立ったがわたしももちろん昔のことなど蒸し返さない。とにかくやり方が変わったのだ。これが入管の掟だ。

だが、わたしは粘った。しまいには「では明日来るのでもう『1泊』ぐらいお願いします」とホテル感覚で頼んでみたが、もうほかの部門が動き始めているので無理だという。

この「方針転換」はもともとの規則の徹底化によるもののようだった。これは当然のことであり、わたしとしてもしょうがないと思うが、じゃあなんで以前はいいかげんだったのか。その責任は誰かとったのか。とまた腹が立ったが、結局、ありがたいことに、その職員はわたしが先に出るのを許してくれた。

しかし、もちろんただでではない。その人はわたしに警告することを忘れなかった。

「こう言ったことが続くと今後、あなたが身元保証人となった仮放免は認められなくなりますよ」

そういわれると「やっぱ待とうかな」という気になったが、考えて見れば、そもそも滅多に認められやしないのだから、たいした違いはあるまいし、また、認められなくなったらなったで、仮放免の身元保証人という面倒な役割を堂々と拒否する理由にもなるのだからそれはそれで結構なことだ。

いっそのこと、入管のあちこちに、「この者身元保証人不適格」と記したわたしの名前と顔写真を入管中に張ってほしいぐらいだ。念のため収容所内にも……というわけでお聞きください、史上最高のバンドの最高の1曲、The KinksでMisfits。

So take a good look around
The misfits are everywhere...

2016/03/02

カイゼン

仮放免手続では保証金の納付手続のさいに、品川の入管では4階の会計の窓口で、いくつかの書類にハンコを押さなくてはならない。

わたしはこの窓口に何度も行ったことがあるが、応対に出てくれる職員は女性のことが多いが、たまに男性の時もある。

わたしはそこで数度応対してくれたある男性職員について話したいと思う。その人は40手前ぐらいで、まじめそうな感じ、人あしらいも丁寧だった。

窓口はいつもは閉まっていて縁に置いてある呼び鈴を鳴らすとガラス戸を開けてくれる。そこのカウンターで書類に必要事項を記入したり押印したりするわけだ。

その男性の指示のままにわたしは書類に名前と住所を記す。次はハンコを押す番だ。以前同じような手続をした時、朱肉を出してくれなかったことがあり、腹立たしく思ったが、その人はそんなことはしない。朱肉と小型のゴムマットを出してくれた。

わたしは朱肉にハンコを押しつける。

「ここに押してください」と彼はその個所を示す。

だが、わたしは一瞬待った。というのも、ゴムマットが脇に置かれたままだったから。しかし、彼は微動だにしない。わたしは緑色のマットを横目にハンコを押して手続を済ませた。

わたしは彼に指摘したり文句を言ったりはしなかった。およそ悪意でそんなことをする人には見えなかったから。おそらくうっかりしたのだろう。そして、うっかりすることは誰にでもあることだ。

だが、その後、3回ほど彼の前で手続をしたが、相変わらず、緑のゴムマットは紙の横に放置されたままだったのである。

彼にとってこのゴムマットとはいったいどんな存在なのだろうか? 朱肉の座布団という認識なのだろうか。ほかの職員は何も教えてあげないのだろうか? 

いや、そもそも彼自身にはハンコを押した経験がないのだろうか?

それとも、ドライジンを飲みながらベルモットを眺めるという例の超ドライなマティーニの逸話的な、あるいは博多ラーメンの「湯気通し」的ななにかが関与しているのだろうか?

わたしには今もって分からない。ただ、逆に楽しみになってきた。いつまで彼がそうし続けるのかと。

だが、その楽しみはすぐに奪われた。4度目だかの手続の時に彼がマットを敷いたのだ、そう、紙の下にあてがったのだ!

誰かが指摘したのだろうか? それともある日彼にヒラメキが訪れたのだろうか? いずれにせよ、入管の対応の改善を目の当たりにした出来事であった。

仮放免還付の委任状

2016/03/01

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(23)

これらの人々は、和平交渉においてKNUとカレン人を繋ぐ役割を果たしてきた人々であるが、その中にはわたしが10年以上前から知るカレン人宗教者(牧師)も数名いた。

そして、これらの人々の普段の活動にも同行したことのあるわたしは、この牧師や神父たちが、合意を利用して利を貪ろうとしている悪人とも合意のために利用されている操り人形とも思えなかった(そのようにインターネットで主張するカレン人も多いのであるが)。

むしろ、これらの人々は、それぞれの現場で自分の民族のために地道に働いてきた人々である。つまり、戦争と迫害が自分たちの民族をどのように破壊してきたかもっとも知る人々なのである。

実際のところ、KNUに働きかけ、和平に向けたその決断を促したのは、これらの人々ではないだろうか。

もっとも、その点に関しては判断するだけの材料はまだない。また、具体的にどのような努力がこの停戦に結実したのかについても。同行したカレン人神父によると、和平への動きはすでに90年代からあったというが、詳しくは残念ながら聞く時間がなかったのである。次回の訪問でじっくり聞いてきたい。

いずれにせよ、KNUの停戦合意への参加は、国内のカレン人が抱いている平和への切望に応じたものであるというのがわたしの見方であるが、そのいっぽう、多くのカレン人、特に国外のカレン人が反対しているのも事実である。

それゆえ、これら停戦合意に納得していない人々の理解をどのように得ていくか、つまりカレン民族内の合意と相互理解の形成が、今後の重要な課題となるのではないかと思われる。


2016/02/29

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(22)

そして、そのような自己認識こそ、カレン人とそのほかの諸民族が国際社会への粘り強い働きかけを通じて長い時間をかけてビルマ政府に植え付けてきたものなのであり、これは非ビルマ民族政治運動のひとつの成果といえる。

ゆえに、今回の停戦合意を軽率であるとか、民族を損なうものであるとか、あるいはこれまでの政治運動を裏切るものと単純に見ることはできない。それは同時に、非ビルマ民族の政治運動(これを連邦主義運動と読んでもいいだろうが)の流れに正当に位置づけることもできるのである。

また、今回のKNUの合意に関して、これが普通のカレン人の意志にまったく反したものと見ることも難しい。というのも、KNUの決定は、国内のカレン人社会、特に宗教関係者、市民団体の後押しと協力を背景に為されたものでもあるから。つまりKNUの独断とは言いきれないのである。

わたしがヤンゴンからネーピードーに移動するさいに乗ったバスには、チンの市民代表団ばかりではなく、カレン人の代表団も同乗した。


「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(21)

もっともその勇気は、カレン民族が経験してきた絶望、危機、荒廃、死、悲しみによってもたらされたものだ。

軍事政権下の60年はカレン人の持つ可能性を徹底的に衰退させた。戦争により生活は破壊され、その先にある難民キャンプは、避難所どころか民族の分散と人材の流出の始点でしかなかった。

国内に目を転じてみると、そこにはイギリス植民地時代の自信と教養に溢れたカレン人などもはや滅多に見出すことはできない。そのかわり、熱狂する者、恐怖にとりつかれた者、酒と宗教に溺れた者ならいくらでもいる。これらの人々から現実を直視する力と理性の力を失わせたのは、まさしく軍事政権の無残な迫害であり、この迫害を何とかして止めさせなくてはならない限り、カレン人に将来はないのだ。

そのためにはひとつの道しかない。それはいかなる手段を用いても平和を確立し、カレン人の命を救うことだ。

幸いにも、かつての敵であった軍事政権はテインセイン政権にその座を譲った。この新しい政権は確かに古い政権に似ていて、まるで親子のように瓜二つでもあるが、現在の国際状況ではかつてのように傍若無人にふるまうことはもはや不可能であることを認識している点で大きく違う。


「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(20)

ただし、だからといって、KNUの停戦合意の署名が、まったくの愚行、あるいは多くの人々が考えているようにカレン民族に対する裏切りだというのは分析不足だと、わたしは考えている。

まず、KNUが和平派と強硬派に分かれているという事実を分裂の兆候と捉える見方もあるが、これは逆にカレン人の力を見くびった見方でもある。というのも、この「分裂」は別の見方をすればKNUの多様性の表れであり、そのような多様性を許すほどKNUという組織が変容しつつあるとも言えるわけだ。

これは弱体化であろうか、それとも成熟であろうか。わたしはその両方が当てはまると思う。というのも、弱体化こそ成熟のチャンスであり、その成熟こそが弱体化を乗り越えるであるから。その点から言うと、弱体化に脅えるあまり、強大化を追求する未熟な日本人よりもカレン人のほうがはるかに賢いとも言えるかもしれない。

いずれにせよ、社会はそれが直面する危機によって成長するのではない。それを直視する勇気が成長をもたらすのだ。わたしはカレン人社会はその勇気を十分に持っているのではないかと考えている。


行政訴訟

昨年刊行された『難民勝訴判決20選』(信山社)は、ビルマ難民の弁護でも知られる渡邉彰悟弁護士が編集代表のひとりとして関わられた本で、日本の難民関係の裁判のいわばベスト盤だ。

この本には、法務省の難民不認定という行政処分を、司法判断で取り消させた(つまり難民と認めさせた)行政訴訟が20事例含まれており、そのうち多くがビルマ難民のケースとなっている。

ビルマ問題や難民問題に関心のある方はぜひ読んでほしいと思う。

ところでこの間のことだが、品川の入国管理局から電話がかかってきた。留守電に用件が入っていて、掛け直せという。

翌日の午前中に掛け直すとアナウンスが流れる。混んでいて繋がりませんというのだ。これはいつものことだ。ひどい時には1日掛けても繋がらないこともあった。

以前のことだというが、ある難民関係の団体が入管と公的な場で話しあう機会があったのだそうだ。そこで、入管の電話があまりにも繋がらないと非難したら、当時のトップが怒り出した。ということは、痛いところを突かれたということだろうが、その結果、多少は繋がりやすくなったという。だが、そうでもない時もある。

「……そのままお待ちになるか、しばらくしてからお掛けください」

わたしはお待ちになることにして電話のスピーカーをオンにする。どれくらい待つのだろうか。アナウンスのテープが2周目に入った。わたしは机の上においてあった飴の包みを剥き、舐めはじめた。とすぐにアナウンス中断、女性の声。

「はい、東京入国管理局です」

わたしはあわてて飴を口から出し、ティッシュの上に乗せる。

用件は無事終わり、電話を切る。そして、わたしは飴をもう一度口に入れようとした。だが、そこにはティッシュまみれになった無残な飴の姿が……。

電話が繋がらない、そんな入管の対応のまずさ、無責任さがこんな悲劇を引き起こしたのだ。

入管を訴えることができるだろうか? 飴を返せ裁判を起こすことが? 飴の遺影を抱きながら?

司法判断を大いに期待したい。

入管からの電話

入管の仮放免申請は、被収容者本人が申請人となることもできるが、他の人、例えば身元保証人が申請人となることもできる。

本人がする場合は問題ないのだが、そうでない場合は、委任状を提出しなくてはならない。その委任状は仮放免申請書の最後に綴じられていて、必要に応じて被収容者は委任状に署名する。

仮放免申請書には他にも被収容者が署名する個所があって(ただし収容所によって違う)、わたしが申請人を務める場合は面会をしてあらかじめ署名を貰っておく。

昨年の秋、収容されてもうすぐ1年になろうとするわたしの友人が品川の入管から牛久の東日本入国管理センターに移送された。品川で出した仮放免申請がダメになったのだ。とても悔しかったのですぐに申請することにした。しかし牛久なので行く時間がない。

さいわい牛久の申請書が手元にあったので、わたしは身元保証人として必要事項を記し、必要な書類を同封して収容所に送付した。友人は無事に書類を受け取り、自ら申請人となって申請したのであった。

それから1ヶ月ほどして、入管から電話がかかってきた。先日牛久で行った申請の件で聞きたいことがあるという。

「ただいま審査を行っているのですが、この申請の申請人はどなたでしょうか」

つまり、申請人としては被収容者であるわたしの友人の署名があるのに、わたしに申請を委任するという旨を記した委任状にも友人の署名があるのだという。なので、申請人がその友人とわたしのどっちなのかというお尋ねなのであった。わたしが慌てたか、彼がうっかりしたかで余計な書類まで提出してしまったのだ。

わたしは彼が申請人であることを説明し、「よろしくお願いいたします」と言って電話を切った。

だが、これはいったいどういうことだろう。入管にとって仮放免申請は釈放のための条件であるが、どんなに切実な申請だろうと、自分が出す気にならないと出してくれない。だからわたしは、入管は釈放が内々に決まってからはじめて申請書を取り出すのではないかと考えていた。

だから、その内容について聞いてきたということは、それこそ脈があるということではないか。

わたしは大いに期待して待った。

1ヶ月後、不許可の通知が来た。


2016/02/24

BRSA活動日記

以下は在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)のHPに掲載してもらったもの。

2016年2月14日 月例会議
2月の月例会議は、14日夜、いつもの南大塚地域文化創造館の会議室で行われました。難民認定申請中のビルマ難民の収容が相次いでいるので、その問題に関して意見交換が行われたほか、難民の就労についても議論されました。4月2日3日に都内にて開催される水掛け祭の出店に関しても話し合いが持たれました。今年は3日日曜日にBRSAとして出店し、豆のフライやタピオカのジュースなどを販売するとのことです。詳しい情報が入り次第、お祭りについてはお知らせいたします。



2016年2月15日 医療支援
BRSAの会員の眼科の診察に事務局長のキンターワイさんと熊切が同行しました。場所は茨城県牛久。収容所と関係ないのはよいですが遠い。ちなみにこの会員は難民認定申請中、仮放免中なので全額自己負担です。クリニックではキンターワイさんが視野検査や診察に付添い、しっかりと通訳をしてくれました。しかし、それではわたしが行った意味がなくなってしまうので、視野検査経験者として「光ったらボタン!」とアドバイスをしました。

2016/02/19

Black Keysでビルマ文字表示

iPhoneでFacebookやViberを使うとよくビルマ語のメッセージが送られてくる。ただし、文字化けして四角に「?」の入った記号に入れ替わっている。

どうしたらきちんと表示できるのか。少し前は「脱獄」しなくてはできなかったというが、ビルマ人の友人が最新のiPhoneでビルマ語を表示しているのを見て、そうでないことを知った。

Black Keysというアプリを入れると表示できるのだそうだ。わたしはいわゆる情弱で、こんなことはもうみんな知っていることかもしれないが、一応書いておく。

このアプリを購入したら、まず開いて「Welcome to Black Keys」という画面の「Install missing fonts」を開く。すると、いくつかのフォントが並んでいるが、そのうちビルマ語に関係しているのは「Myanmar Zawgyil」と「Myanmar Unicode」の2つだ。これをタッチしていけば、フォントをインストールすることができる。

さて次にBlack Keysを閉じて「設定」を開く。「一般」に進み、「キーボード」を開く。するとその一番上にまた「キーボード」があり、これを開くと現在使えるキーボードが並んでいる。ここで「新しいキーボードを追加」に進み、さらに他社製キーボードの「Black Keys」で「Burmese-Zawgyi」か「Burmese-Unicode」を選択すれば、ビルマ文字の表示と入力が可能になる。

ただしわたしには「Burmese-Zawgyi」と「Burmese-Unicode」の違いもわからないし、そもそもビルマ語を使うのには他にもっと良い方法があるかもしれない。

それはともかくこのBlack Keysは、ビルマ語だけではなくアムハラ語とかシリア語とかのいろんな言語の文字、さらには国際音声字母(IPA)も記すことができるので便利だ。



(熊切拓 Mac&iPhone使いのIT系ライター。ネットに浮遊するライフハッキングな旬ネタをコレクトして各メディアに提供中!というのはデタラメだがネット関係の記事の末尾っぽくしてみた)

2016/02/16

元キリンジ


難民不認定処分は不当だとわたしの友人のカレン人が裁判を起こしている。

わたしは彼にはそうとう世話になったので、彼の難民性に関して自分がこれまで集めた資料を報告書にまとめ、裁判のために使ってもらった。

そしたらその弁護士から電話がかかってきて裁判所が「こんなどこの馬の骨が書いたものから分からない資料など信用できるかッ」と怒り狂っているから反論してほしいと頼まれた。

確かにその報告書には書き手であるわたしのことについては何も書いていなかった。弁護士のところで裁判所の審査結果を見せてもらうと「個人が書いたたわごとなど信頼できない」と不認定処分だ。

そこで弁護士と陳述書を作ったが、わたしの経歴を記したところでどこの馬の骨であることには代わりはないし、わたしは個人としてしかなにも書かないので、信頼できないことには代わりはない。そんなわけで無駄なことだと思った。

だが、しばらく考えているうちに、立派で地位のある学識経験者や、国連のようなこれを信頼せずしてどこを信頼せよというのかというくらいの組織の出した文書すら、裁判所や政府や入管は自分に都合が悪ければまったく相手にしないのだから、誰が何を出そうと関係ないのだということに気がついた。

国家にとってはしょせん外の人間などみな馬の骨なのだ。ということで聞いていただきましょう、「馬の骨」のファースト・アルバムから「Red light, Blue light, Yellow light」。

遠く
手の鳴るほうへ
あの闇夜の向こうへ
心の声がドアをこじ開ける
ブルースのように

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の新しいHP

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)はわたしが今のところもっとも関係している団体だが、その日本語ブログをわたしは設立当時から運営していた。

しかし、これはあくまでもブログであるし、またわたしも熱心に更新していたわけではなかった。

ではなぜわたしがやらねばならなかったのか。

それは会に日本語が十分に読み書きでき、最低限のインターネットの知識を持った人間がほかにいなかったからだ。

ところが、最近(といっても2年ぐらい前から)、BRSAの会員の努力の結果、日本人の会員も徐々にであるが増えてきた。

その中に、国際政治学を研究している峯田史郎さんがおり、彼がBRSAのホームページを作ることを提案してくださり、現在は忙しい中その担当をしてくださっている。

ビルマの政治運動に焦点を当てた日本のNGOは、今はビルマ人の団体を除けばおそらくBRSAだけだと思うので、そのあたりの情報も充実させていきたい。機会があったらぜひごらんください。いや、いますぐに。



「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(19)

このような批判的な見解を持つカレン人は決して少数派ではない。

2008年に暗殺されたKNUの指導者マンシャの2人の娘でイギリス在住のゾヤパンさんとブエブエパンさんは、カレン人社会の中で非常に大きな影響力を持つが、2人はかねてからKNUの停戦交渉に関して批判的な発言を行ってきた。

また、NCAを受けて国外のカレン人政治団体は、これに反対を表明する共同声明も出している。その中には日本のカレン人団体も含まれている。

日本国内のカレン人を見ても、現行のKNU執行部に対して批判的あるいは不信を表明する人も多い。日本にはKNUの日本代表と支部が存在するが、その代表を務めるミョーカインシンさんすら、ムートゥーセーポーさんが議長となったKNU総会の時から、現行の執行部に対する懸念をたびたび公にしてきた。

さらに、NCAに対するカウンター・ムーブメントとして国外のカレン人諸団体を糾合する動きもあるようだ。2ヶ月ほど前には、ビルマ国外(確かオーストラリア)在住のカレン人活動家が日本や韓国を訪問し、カレン人の現状についての説明や意見交換を行ったということだが、これもその一環だろう(ただし、わたしは行けなかったが)。

2016/02/14

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(18)

こうした批判は、とくにカレン人において顕著に見られる。

カレン民族同盟(KNU)の議長を含む最高委員会は4年ごとに改選される。現議長はカレン軍出身のムートゥーセーポーさんであるが、KNU内の和平派である彼は対立する強硬派、特に次期議長との声望が高かったデヴィッド・ターカーボーさんに勝利して、主導権を握った。それは国外に暮らす多くの強硬派支援者の失望を引き起こしたが、同時に聞こえてきたのは、ムートゥーセーポーさん一派が選挙において不正を行ったという噂であった。

このためNCAに反対する多くのカレン人は、現在のKNUの指導者たちがその地位を不正に手にしたと考えている。

もっとも、すべての指導者がそうみなされているわけではない。副議長のノウ・セポラセインさんはかねてから強硬派として知られ、たいていの国外のカレン人は彼女には信頼を表明している。そして、その彼女がNCA式典に出席しなかったこともまた重要な事実として受け取られている。つまり無言の抗議というわけで、これをもって、KNU内部の不一致を協調する報道もある。

このように代表としての合法性に疑念が呈されてきたが、そのいっぽう、代表としての資質にも懸念の声がたびたび表明されてきた。ムートゥーセーポーさん一派は、カレン人のために働くという責務を忘れ、ビルマ軍人と組んで経済的利益を得るのに汲々としており、NCAもそのための口実に過ぎないというのである。この疑念は、メディアを通じて報道されるKNU幹部とビルマ政府要人との癒着的関係によっても強められている。


2016/02/13

友情

仮放免申請書は、入管に収容されている人を外に出すための申請書で、専用の用紙にいろいろ記入しなくてはならない。その項目の中に、被収容者と身元保証人(もしくは申請人)との関係を記すものがある。

関係を記せというのは、例えば被収容者の配偶者であったり、親族であったりする場合のことをもともとは意図していると思われるが、実際にはそうした関係のない人も身元保証人や申請人を務めることも多いし、わたしもそのひとりだ。

では、親族ではない人はいったいそこになんと書いているのか。わたしは他の人の申請を見たことがないのでわからない。「支援者」と書く人もいるかもしれない。


わたしの場合をいえば「友人」と書く。実際そうだからだが、これには不都合もある。

すなわち、今まで一度も会ったことのない人の仮放免申請をする場合がそれだ。具体的にいうと、その被収容者が収容されてから在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)に入会した場合で、わたしがその人を収容以前から知っているとは限らないし、また時間の関係で面会の前に申請せざるをえないこともある。

会の活動として、つまり役員会の合意を経て仮放免申請するわけだから、別に会っていなくても構わないとは思う。しかし、そうした人との関係を「友人」と書くのは適当なことだろうか。

しかし「BRSAの会長と会員」などと書くのもおかしい。その人が仮放免された後もわたしが会長だとは限らないからだ。だが、友人であり続けることはできるだろう。

それにそもそも、わたしのような人間と友達になってくれるのは、収容されている人以外にはあまりいない。そう考えると、収容されている人は誰であろうとみなわたしの友人のような気がしてくる。

だから、わたしは「友人」と書く。

誰がなんと言おうとだ。

そう、わたしもまた「友達で押し通す予定!」なのだ。

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(17)

非ビルマ民族はビルマ民族とビルマ政府にかなりの不信感を抱いているため、NCAそのものについても疑っているということを記したが、3つ目の否定的見解では、この不信がいわば逆向きになっている。

すなわち、非ビルマ民族の中には、今回の署名に参加した自分たちの代表についても批判し、不信の念を表明している人々がいるのである。

これらの人々の見解によれば、代表となった人々は自分たちの意見を反映したものではなく、それゆえ、停戦合意そのものが無意味であるというのだ。

この見解によれば2つの点で代表たちは非難されている。ひとつは代表としての選出が民主的ではなかったという点、もうひとつは、これらの代表が、民族すべての利益というよりももっぱら私利私欲のために働いているという点である。

このような合法性の点で疑いのある人々によって署名された合意はやはり非合法的であり、そのような不適格な人々が先頭に立って行う非ビルマ民族地域の復興は、どう考えてもそこに住む人々のためにならないことは明らかであろう。


2016/02/12

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(16)

いずれにせよ、NCAに対する最初の否定的見解のうち、取り上げるべきはそれが「全土」でないということただひとつであり、「多数か少数か」であるかという問題は重要ではないということになる。

さて、NCAに対する否定的見解の2番目は、合意には実効性がないというものだ。つまり、NCAとはビルマ政府が国際社会の目を欺くために行う茶番であり、政府にはこれを実現しようという意図はないのだ、いやそれどころか、このNCAを通じて非ビルマ民族地域に対する更なる侵略と弾圧をたくらんでいるのだ、という見解である。

過去の経験に照らし合わせてみればこれは実際に間違っていない。

これまでのビルマ軍事政権の停戦協定は一方的なものであり、実現の保証のないものばかりであった。カチン独立機構(KIO)は1992年の停戦によって、政治的対話が始まり、カチン人の生活が向上すると期待したが、それらはまったく裏切られた。

カチン政府とビルマ政府との停戦は、カチン州に対するビルマ軍事政権の軍事的支配と経済的支配をかえって強めるばかりであった。そして17年の停戦の後に残されたのはカチン州と民族の荒廃だったのである。

となると、もはやビルマ政府との停戦交渉など信じることはできない。

いや、そもそもビルマ人がどれだけ非ビルマ民族を欺いてきたことか。ビルマ民族に対する積年の恨みと不信感は、お互いの簡単な約束すら成立させぬほど増大してしまっている(もっとも、ビルマ人はほとんど気がついてはいないが)。いわんや協定をや、というわけだ。

2016/02/10

BRSA活動日記(2016年2月3日入国管理局訪問)

以下は、在日ビルマ難民たすけあいの会のHPの活動日記向けに書いたもの。

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この日は収容されている会員の仮放免手続のために品川の入国管理局に行きました。彼は約1年の収容、4回の申請の後に、仮放免許可が出ました。本当にうれしいことです。もっともこれは最近の収容では短いほうです。

またこの日は、収容中の男性会員2人にも面会しました。ひとりは仮放免の申請中です。もうひとりは先週収容されたばかりです(この時は知らなかったので面会はしませんでしたが、もうひとり先週収容された女性会員がいます)。

ビルマ人難民申請者の収容はこれまでは減っていたのですが、最近徐々に増えているようです。

BRSA活動日記(2016年1月31日 BRSAセミナー)

以下は、在日ビルマ難民たすけあいの会のHPの活動日記向けに書いたもの。

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BRSAでは、BRSAセミナーと題して、ビルマを中心としたトピックについて報告したり、語り合ったりする楽しい集いを毎月1回開催しています。

2016年1月31日のBRSAセミナーは、旅人の名和靖将さんをお招きして、昨年の3月、熊切とともに中国雲南省のカチン民族を訪問した時のお話を伺いました。

この時の旅は、在日カチン人政治活動家のピーター・ブランセンさんのご支援によって実現したもので、名和さんもわたしも彼を通じて雲南省のインジャンではじめて出合ったのでした。

インジャンのマナウ祭に参加したことも素晴らしい体験でしたが、祭の後、名和さんと2人で訪問したカチンの村での経験も特別なものでした。

この旅はタイにあるカチン村(バンマイサマキ村)のリーダーが計画したもので、その目的はあるカチン老人の里帰りを実現させることにありました。

聞けば、この老人は、現在タイ国籍を得てバンマイサマキ村に暮らしていますが、もともとはこの雲南省のカチン村の出身で、若い頃に国民党に加わって以来、60年も故郷に帰らなかったそうです。

彼の帰郷は、涙々の再会によって始まりましたが、同時に村総出のお祭りとなり、わたしも名和さんも一晩中村の人々と飲み明かす忘れられない体験となりました。

わたしはこの後すぐに帰国しましたが、名和さんは雲南省、ビルマ、アフリカ、イスラエルと長い旅を続けられ、その間に経験されたさまざまなお話も興味深いものでした。

今回は名和さんが一時帰国されたこの機会を捉えてセミナーにお招きしたわけですが、この2月から再び雲南省やビルマなどを含む長い旅に出られるということで、旅の安全をお祈りするとともに、今度帰国された時にまた再会できることを楽しみにしております。



BRSA活動日記(2016年1月31日 月例会議)

以下は、在日ビルマ難民たすけあいの会のHPの活動日記向けに書いたもの。

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大塚の南大塚地域文化創造館の第1会議室でBRSAの月例会議が開催されました(午後2時前に始まって5時終了)。いつもよりたくさんの会員が参加してくださいました(40人ぐらい)。筑波大学で難民について調査している大学院生の方も来てくださいました。

会議の内容は、以下の通り。

《報告》
①お正月日帰りバス旅行:100人近くの参加者。貸し切りバス2台で。静岡のスノータウン・イエティ。約225000円の黒字。
②渡邉彰悟弁護士講演会(1月10日豊島区民ホール)。参加者約50名。約20000円のマイナスだが、成果あり。
③各役員報告。

《主な議題》
①BRSAのNPO法人化について。会場の参加者の多数が賛成。タスク・フォース設置して検討。
②今後の役員体制について。NPO法人化した場合の役員体制を検討する必要。
③ビルマに関する最近の新聞記事に関して解説。
④在日ビルマ政治団体が最近次々と入管に呼び出されてインタビューを受けているとのこと。BRSAとしての対応についての質問があった。BRSAとしては今後も活動の基本方針(難民支援・民主化支援)は変わらないことを確認。
⑤渡邉彰悟弁護士講演会のビデオの上映。

《次回会議》
2月14日 17:30から南大塚地域文化創造館で。




「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(15)

それはNCAがビルマ全土の平和に結びつくどころか、部分的停戦により撤退した部隊が、交戦の続く地域やこれまで戦闘のなかった地域に集中し、軍事的攻撃が激化するのではないかという危惧である。

この恐れこそ、非ビルマ民族諸組織の主張する「全土停戦」の根拠をなすものであり、真剣な考慮に値する。というのも、1990年代半ばのカレン民族同盟とカレン民族解放軍の弱体化の原因は、1992年のカチン独立機構とビルマ政府との停戦にあるという見方も存在するからである。つまり、停戦によりビルマ軍は軍事力をカチン地域からカレン地域に回すことができたためだというのである。

そして、現在皮肉にもカレンとカチンの立場は入れ替わったわけであり、今回の停戦がカチン側を苦境に追い込むとしても「カチンはNCAに関して何も言う資格はない」と厳しいことを言う者もいる。

しかし、わたしの見るところでは、KIOとビルマ政府との停戦はKNUの弱体化のひとつの理由であったかも知れないが、それがすべてではない。国際関係の変化、カレン人内部の意見の相違などさまざまな要因が関わっていると見るべきであろう。


2016/02/09

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(14)

結局のところ、合意参加組織と不参加の組織のどちらが多数派かであるかという問題は、何を基準とするかという観点によって変わるとしか言いようがない。つまり、合意に加わった一部の組織を少数派と断ずることは必ずしもできないということだ。

そもそも平和の問題、しかも様々な民族の政治・軍事組織が関係する問題を、純粋に多数か少数かという数の観点だけで判定することはふさわしいことだろうか。そうした態度こそ、マイノリティの権利を損なうものではないだろうか。

重要なのは、単なる数の問題に還元するのではなく、個々の民族の状況を考慮に入れた実質に着目することと、この停戦合意が今後文字通りの「全土」に拡大し、永続的な平和の基盤となるだけの実質を備えているかである。

その答え自体は、この合意の成立そのものに求められよう。すなわち、そのように多くの人々が判断したから署名式典が行われたのである。この点に関しては後に触れるが、もうひとつここでとりあげるべき重大な異義について概観しておこう。



2016/02/08

店の名前

過ぎにし薔薇はただ名のみ、虚しきその名が今に残れり。
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』


チェスタトンの『ポンド氏の逆説』ではないが、正解したのに間違っていたという話をさせていただきたい。

昨年のことだが、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の忘年会を12月20日にすることになった。

その会場となる居酒屋はビルマ人役員が高田馬場で見つけてくれたという。

どこかと尋ねたら、店の名前はわからないと答える。何度聞いても教えてくれない。店の名称というのはけっこう難しいのでしょうがない。ビルマの人の中には、とにかくどこにあるかわかればこと足りるので、自分が働いている店の名前も言えないことすらある。

別にそれでもかまわない。だが、わたしは店を他の日本人会員に伝えなければならないので困った。

役員が言うにはその店には次のような特徴があるという。

①魚がメイン。
②安い。
③沖縄の店だ。

これだけで店の名前が当てられる人はいるだろうか。ビルマ人との付き合いが長く、高田馬場もそれなりに知っているわたしは、この学生街の数ある居酒屋の中から見事に当ててみせた。

ヒント:ビルマの人にとってチェーン店のほうが入りやすい、というのが分かるとぐっと範囲が狭まるだろう。

さらにもうひとつヒントを出そう。いくら外国人でも日本暮らしが長ければ仮名ぐらいは読める。つまり店名はおそらく漢字だけからなるのだ。

賢明なる読者諸君はもうおわかりだろうか(BRSA会長からの挑戦状だ)。

答えは、










最近やたらとよく見かける磯丸水産だ。

磯丸水産の店の外装を特徴づける青が沖縄を連想させるに違いないという推理と、高田馬場で磯丸水産の前を通り過ぎたことがあるという記憶がわたしを正答に辿り着かせたのだ。

だが、にもかかわらずわたしは間違った。

なぜか。

BRSAのメンバーたちが連れて行ってくれたのはわたしが通りかかったことのないほうの磯丸水産……つまり高田馬場には2店舗あったのである。

過ぎにし店はただ名のみ……

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(13)

ところで多数派少数派の問題でもう一つ考慮すべき点がある。今回の合意では、シャン民族を代表する2つの政治組織のうち1つ、アラカン民族を代表する3つの政治組織のうち1つしか参加していない。それゆえ、これを持って、NCAが少数の組織によるものだと判定することも可能である。

しかし、これには2つの点から異論を提出することができる。

1つはすでに述べたように、合意に参加したシャン州復興評議会(RCSS)とそうでないシャン州進歩党(SSPP)のどちらが、あるいは合意に参加したアラカン解放党(ALP)とそうでない残りの2つ、アラカン民族評議会(ANC)とアラカン軍(AA)のどちらが「多数」なのかを決めるのは簡単ではないというものである。

もう1つはより根本的な反論だ。それはある民族にそれを代表とする複数の政治組織がある場合、この政治組織間に協力関係を生み出したり、あるいはその内のいずれかに正当性を与えたりするのは、他の民族やビルマ政府の役割ではなく、その民族自身がすべきことだという考えである。つまり、この問題は、個々の民族のレベルで解決すべき部分も大きく、必ずしもNCAそのものの評価に関わるものではないのである。

もっとも、この点に関しては、かつては敵同士でもあったカレン民族同盟と民主カレン寛容軍がともに合意に参加した経緯なども含めてより詳細に検討する必要があろう。

2016/02/06

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(12)

人口についても同様にビルマ民族全体を含めれば、停戦合意の恩恵を受ける人々の数は、合意に加わっていない人々の数よりもずっと多いということになろう。もっとも、非ビルマ民族内に限った場合、多数派がどちらかは容易には決しがたい。

さて、これまでNCCT内の組織、民族、州、地域、人口を基準に比較をしてきたが、さらに軍事力の点からも比較することができる。とはいえ、わたしはこの点に関しては十分な情報はない。カチン人に言わせれば、今回の合意に参加した軍事組織は戦力的には少数勢力だという。確かにわたしが実際に見た経験からすると、カチン軍(KIA)は軍備の点では少なくともカレン軍よりも勝っているように見受けられたが、全体としてどうなのかは不明である。

しかし、たとえそうであっても、ビルマ政府ともっとも最初に戦火を交え、さらにカチン人とは違ってこれまで一度も停戦合意を行ったことのないカレン民族が、しかもその主力となるKNUとDKBAがともに合意に加わったことの意義は大きい。軍事的にはもしかしたらカチンよりも劣るかもしれないが、歴史的意義、あるいは影響力の強さという観点から見るならば、その不足を補って余りあるといえるだろう。

2016/02/05

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(11)

ここで民族の数という観点からNCA署名団体を捉えてみると、ビルマの7大民族(カレン、カチン、シャン、アラカン、モン、チン、ビルマ)のうち、ビルマを除けば4つの民族が参加している。

次に民族州ではどうかというと、ビルマにはカチン州、カヤー州、カレン州、シャン州、チン州、モン州、アラカン州の7つの民族州があるが、このうち合意と全く無関係なのは、カチン州、カヤー州、モン州の3つである。

では、停戦合意が及ぶ地域の広さはどうだろうか。これは停戦が達成されていない地域のほうが領域的には小さいと考えることができる。合意とは関わりのないカチン州、カヤー州、モン州に合意に達していない政治軍事組織が存在するシャン州・アラカン州のある部分(それは不明だが)を加えても、ビルマの残りの地域のほうが広いからである。すなわち、わたしはヤンゴンやネーピードー、マンダレーなどのビルマ民族中心の地域(地方域)も含めて考えているわけだが、ただしこれには異論もあろう。というのも、全土和平が達成されていない状況でこれらの地域が平和であると言い切ることは少々難しいだろうから。

しかし、それでも民族州以外で非ビルマ民族が住む地域、特にカレン民族の多く住むエーヤーワディ地方やチン民族の多く住むザガイン地方にもこの合意の影響が及んでいることは間違いない。

2016/02/04

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(10)

それゆえ、名称の問題からこの合意を捉えることは必ずしも生産的とは言えないのだが、一つ重要なことがある。全土ではないのに全土と称するこの不正確さが、非ビルマ民族のみならずすべてのビルマ国民に換気するあるイメージのことだ。それは軍事政権が繰り返し行ってきたゴマカシと詐術を人々に想起させるのであり、その点からいえばNCAとはまったくの羊頭狗肉に他ならない。しかし、これはビルマ政府に対する不信に関わる問題であり、後で扱うこととする。

いずれにせよ、そしてその背景にどんな理由があるにせよ、NCAは端的にいって「看板に偽りあり」であることは間違いないが、それはむしろ皮相的な批判に過ぎない。より重要な批判は、合意した政治団体が「一部」に過ぎぬゆえにこの合意は平和をもたらさないというものであろう。つまり「一部」が全体において何を意味しているかが問われているのである。次にこの点に関して議論しよう。

NCAの署名に参加したのは確かに一部である。上に挙げたNCCTの16の参加組織のうち、合意に署名したのは6組織にすぎない(シャン州復興評議会はNCCTに含まれていない)。すなわち、NCAは少数派による協定なのであり、大多数には平和をもたらさない、ゆえに協定の意味は非常に小さいということになる。だが、果たしてそうだろうか。


2016/02/03

KNU記念日

1月31日午前、豊島区の高田第二区民集会室(高田馬場)で、日本のカレン民族同盟(KNU-Japan)による第69回カレン民族同盟記念日(KNUの創立記念日)と第67回カレン革命記念日(KNUの武装蜂起記念日)の式典が開催された。

KNUは昨年10月15日ビルマ政府と停戦合意を結んだが、国外のカレン人はほとんどがこれを批判し反対している。日本のカレン人もそうで、KNU-JapanもまたKNU内の合意反対派に近い立場だ。

国外のカレン人にとっては難しい時期というわけで、そのせいかどうか分からないが、今回の式典はカレン人だけで小規模に開催された(そのためわたしはこの式典をブログなどで案内はしなかった)。

内容もシンプルで、2つの記念日の由来の説明と、KNU日本代表のモウニーさんの演説、わたしを含むゲストやKNU-Japanメンバーの挨拶だけだった。全部で1時間ちょっとだ。

挨拶としてわたしは、去年、停戦合意の場でKNUのスポークスマンであるソウ・クエトゥーウィンにインタビューして、彼が「合意したとはいえ難民の帰還には相当長い時間がかかる」と言っていたことについて短く話した。

わたしの後に、あるカレン人のゲストが挨拶したが、その人は滔々と30分も話し続けた。ビルマ語がわからないので退屈したが、そうでなくても退屈するような内容だったろうと思う。




69周年シャン民族の日

シャン民族の日のお祝いが2月14日に開催されるとのこと。


「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(9)

4. NCAの評価

このNCAについては主に3つの観点から否定的評価がなされている。一つはこの合意が全面的な平和をもたらさないというもの、二つ目は合意には実効性がないというもの、もう一つは署名に応じた代表の正当性に関わるものだ。つまり、NCAは見る人が見れば、それぞれの民族を代表しない人々が勝手に作り上げた無効な合意であり、それゆえビルマの平和という問題を本質的に解決するものではないというのである。

まず、最初の点、すなわち全面的な和平ではないという点から見ると、誰でも気がつくことだが、NCAが決してNationwide「全土」ではないということが挙げられる。つまり、停戦合意に署名したのはあくまでも一部なのだから、全土とは呼べないのであり、これを持ってビルマに全面的平和が確立されたとみなすことはできないというものである。

それは確かにその通りであるが、これはただ単に名称の問題に過ぎない。重要なのは、この合意が事態を平和に向けてどのように動かすかであり、その意味においては「全土」が将来的目標であっても構わないわけだ。もちろん例えば「限定的全土停戦合意」などと名付けた方が正確(あくまでも相対的には)かもしれないが、そのような名付け事態が、平和への動きに制限をつけるかもしれないのである。もしNCAがこのような名称であったら、おそらくどの組織も合意に署名することはなかったろう。


2016/02/02

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(8)

3.2. NCA署名式典

署名式典のあった10月15日をCNFの動きを中心にまとめる。

06:30 ホテルで各自朝食。ビュッフェ形式。

07:00 祈祷集会。チン民族のほとんどはクリスチャン。集会終了後、入場許可証が配られる。

07:30 バスに乗り込む。30分以上待ってから出発。

08:15 会場に到着。Myanmar International Convention Centre 2 (MICC-2)。

08:57 テインセイン大統領到着。

09:00 式典開始。

09:40 組織代表による署名。引き続いて、政治家、各国の大使、国際機関代表の署名。

10:25 式典終了。ホールで記念撮影。

11:00 大統領の隣席する午餐会。

11:45 別のホールで大統領から合意団体代表に記念品が贈呈される。

12:00 合同記者会見。〜13:40。この頃にはチンの代表団は会場を後にしていた。

19:00 ホテルでチンの代表団全員で夕食会。


2016/02/01

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(7)

3. NCA署名式典

さて、ここからわたし自身のNCA署名式典に関する経験に移るが、10月7日、エーヤーワディのボーガレーにいたわたしはタンさんからメールをもらい、10月9日、ヤンゴンに戻り、タンさんに合流した。なお、タンさんは亡命以来24年ぶりに踏むビルマの地であった。

その翌日、10日、ヤンゴンのホテルで開催されたCNFのワークショップに参加した。このセミナーは、各地のチン民族の代表を対象としたもので、停戦合意署名への経緯が説明と質疑応答が行われた。

最初の1時間はメディアにも開かれており、その様子はテレビや新聞などでも報じられたようだ。

CNF代表団がネーピードーに向けて出発したのは、10月13日のことで、わたしは1日遅れて、他のチン民族代表団、カレン民族代表団とともにネーピードー入りした。わたしが宿泊したのは、CNF代表団の宿泊するグランド・アマラ・ホテルであった。


2016/01/31

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(6)

2.3. 全土停戦合意(NCA)
全土停戦合意(Nationwide Ceasefire Agreement, NCA)は、ビルマ政府と非ビルマ民族所組織が進めてきた和平プロセスの最終段階をなすものであるが、ビルマ軍の攻撃、ビルマ政府への不信などから、いくつかの非ビルマ民族組織は合意に参加せず、「全土」というわけではなくなった。

合意に参加した組織は、ビルマ政府を除けば、チン民族戦線(CNF)、民主カレン寛容軍(DKBA)、カレン民族同盟(KNU)、KNU/KNLA平和評議会(KPC)、パオ民族解放機構(PNLO)、シャン州復興評議会(RCSS)、アラカン解放党(ALP)、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)。ABSDF以外の7組織が非ビルマ民族組織。

参加していない主な組織はカチン民族、パラウン民族、シャン民族、アラカン民族、モン民族などである。



2016/01/30

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(5)

2.2. 全土停戦コーディネーション・チーム(NCCT)

以下は全土停戦コーディネーション・チーム(NCCT)を構成する16の組織であり、このうち*印を付した6組織が今回の合意に参加した。

アラカン解放党(Arakan Liberation Party)*
アラカン民族評議会(Arakan National Council)
アラカン軍(Arakan Army)
チン民族戦線(Chin National Front)*
民主カレン寛容軍(Democratic Karen Benevolent Army)*
カレンニー民族進歩党(Karenni National Progressive Party)
カレン民族同盟(Karen National Union)*
KNU/KNLA平和評議会(KNU/KNLA Peace Council)*
ラフ民主同盟(Lahu Democratic Union)
ミャンマー国民民主同盟軍(Myanmar National Democratic Alliance Army)
新モン州党(New Mon State Party)
パオ民族解放機構(Pa-Oh National Liberation Organization)*
パラウン州解放戦線(Palaung State Liberation Front)
シャン州進歩党(Shan State Progress Party)
ワ民族機構(Wa National Organiztion)
カチン独立機構(Kachin Independence Organization)


2016/01/29

地獄の施設(Une Maison en Enfer)

『シーズンズ 2万年の地球旅行』を見にいった。これはフランスの映画で、原題は”Les Saisons”だ。

狼やら熊やらバイソンやらを撮影したドキュメンタリーで、その映像には驚かされたが、それはともかくある場面で「昔は人間は自然とともに暮らしていた」というようなナレーションが入った。

それは現在のような人工的生活環境との対比での言葉だが、人間も自然の一部なのだから、人工的といえども人間が作ったものであるかぎり、自然であるのは言うまでもない。蟻塚や蜂の巣が自然の一部であるのと同じだ。

映画は野生の動物を扱ったものであるが、野生というのが家畜化されていないことや、動物園の檻の中で飼育されていないということを意味するのであるならば、われわれもやはり野生である。

ということは人間のあらゆる文化は野生であり、わたしがやむなく関わりを持っている入管の収容もやはり野生の事柄である。

だが、そこに収容されている人々はどうだろうか?

檻の中に閉じ込められているこれらの人々は、野生ではなく、ゆえに自然でもない。非自然的存在だ。となると被収容者はわれわれ野放しの野良動物とは異なることとなる。

おそらく入管に収容されている人々の目には、外にいるわれわれが野蛮に映っていることだろう。

そんなことを考えていたら昔のフランスの作家バルベー・ドールヴィイの言葉を思い出した。

「思うに、地獄は、地下室の窓から覗き見たときのほうが、地獄全体を上空から一望したときより、はるかに恐ろしいすがたをあらわすことでしょう。」
「ホイスト勝負の札の裏側」より(中条省平訳)

タイトルは駄洒落。

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(4)

2. 全土停戦合意に至るまで
2.1. 停戦交渉の過程

ビルマ政府の非ビルマ民族に対する抑圧的政策、迫害は、チン民族のみならず多くの非ビルマ民族の反発と不信を生み、1949年のカレン民族による武装蜂起以降、多くの非ビルマ民族がビルマ政府・軍に対する「防衛戦争」に突入していった。停戦の試みは幾度かなされたが、相互不信により実現せず、実現した場合でも非ビルマ民族全体ではなく単独の民族との協定であること、そしてビルマ政府が協定を不履行・破棄した結果、永続的なものでも、また全国的なものでもなかった。

しかし、2011年3月に成立したテインセイン大統領政府は、ビルマ国内の平和を課題の一つとして掲げ、各民族政治組織・軍事組織との停戦交渉を進めることになった。ただしシャン州北部とカチン州では戦争が続いている。

CNFは2011年11月にビルマ政府との交渉を開始。2012年にかけて2度の交渉が行われ、停戦合意の前段階となる合意が結ばれた。一方、交戦中の非ビルマ民族政治組織からなる全土停戦コーディネーション・チーム(NCCT)とビルマ政府による包括的な交渉も2013年以降、たびたび行われてきた。


2016/01/28

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(3)

1.2. 在日チン民族協会とタン・ナンリヤンタン氏

日本にチン民族難民がやってきたのは1990年代始め。教会を中心に徐々にコミュニティを形成し、政治活動を含む支援活動を行う。在日チン民族協会(Chin National Community in Japan, CNC-Japan)という政治団体として公式に活動を始めたのは2001年から。2004年に公式に結成される在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN-Japan)の創立団体の一つとなる。現在は100人以上のチン人会員が所属している。

CNC-Japanの初代会長を務めたのがタン・ナンリヤンタン氏(Thang Nang Lian Thang、以下タンさん)。彼は1988年の民主化活動においてチン民族の政治的リーダーとして活動し、その後、来日。日本においては、在日チン・コミュニティの指導者として活動し、非常に早い段階から、非ビルマ民族の政治活動と難民認定申請の重要性を認識し、チン民族の政治活動・難民申請支援を行う。

さらに、AUN-Japanの創立者の一人として、日本における非ビルマ民族政治運動を牽引する。また、認定難民の一人として、UNHCRなどと協力して難民委員会を運営。のちにアメリカに移り、難民認定後、市民権を得る。現在はアメリカ、タイ、ビルマ国内でチン民族のための政治活動を行っている。現CNFの議長である。


2016/01/27

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(2)

このようなチン民族の状況は、2つの帰結を引き起こした。ひとつは1988年のチン民族戦線(Chin National Front, CNF)の結成である。1988年8月の大規模な民主化要求運動のきっかけとなった学生デモの直後3月20日に結成されたこの政治・軍事組織は、チン民族の自己決定権の獲得とビルマの民主主義と連邦制の確立を目的として掲げ、チン民族としては初めてビルマ政府に対する組織的武装抵抗を行った。CNFは現在、チン民族を代表する政治組織としてビルマ政府との交渉に当たっている。

もうひとつの帰結は、ビルマ国外へのチン民族の難民の流出である。チン州と国境を接するインドばかりでなく、マレーシア、シンガポール、タイ、オーストラリア、欧米諸国、そして日本にチン難民のコミュニティが存在する。これらの亡命チン民族は、それぞれの居住国でチン民族のための政治活動や人権支援活動を行っており、その影響力は非常に大きい。

今回、停戦合意式典に出席したチン民族代表でも、国外で政治活動を続けてきた人々が重要な役割を果たしている。

例えば、サライ・リヤンムンサコン博士(Dr. Salai Lian Hmung Sakhong)はチン民族随一の政治学者であり、またヴィクター・ビヤックリアン氏(Victor Biak Lian)さんは、国際的なNGOであるチン人権機構(CHRO)のディレクターである。

そして、今回の式典でCNFを議長として率いるタン・ナンリヤンタンさんは、日本で難民として認定され、また日本の非ビルマ民族運動を作った一人ともいえる政治活動家である。


2016/01/26

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(1)

1. チン民族の政治運動
1.1. チン民族とチン民族戦線
ビルマ西部のチン州、北東インド(ミゾラム州など)を中心に居住する民族グループ。多様な民族集団に分かれ、同系の言語を話すものの「村が違えば通じない」と言われるほど異なっている。キリスト教徒がほとんどだが、仏教徒もいる。

チン民族は1947年2月にビルマ民族、カチン民族、シャン民族などとともにピンロン協定に署名し、ビルマ連邦の一部としてイギリス領からの独立を果たした。しかし、ビルマ連邦政府においては、ピンロン協定で保障されたチン民族としての自己決定権は否定され、実質的には中央ビルマ政府の「植民地」となり、チン民族は他の非ビルマ民族と同じく、ビルマ政府、そしてその後の軍事政権からのさまざまな差別や迫害に苦しむこととなった。チン州内においては駐留するビルマ軍による人権侵害や女性に対する性暴力などが報告されている。

チン州はカチン州などに比べて資源に乏しく、非常に貧しい。また、長年にわたって政府からないがしろにされてきたため、教育やインフラの点でもっとも開発が進んでいない州とみなされている。

式典の会場

2016/01/25

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」報告

在日チン民族協会(CNC-Japan)主催で、わたしが報告者を務める報告会「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」が2016年1月17日の夜、品川区きゅりあんの会議室で開催された。

日本人の方は5人来てくださった。最初はチンの人も少なく、若干悲しい気持ちになったが、始まってしばらくすると、たくさん来てくれた。教会のほうで会議があったとのことだった。

プログラムは会長のニンザルンさんの挨拶と、わたしの報告のふたつだけで、2時間半のうち、ほとんどを報告に当てることができた。署名式典に先立ってヤンゴンでチン民族を対象としたワークショップが行われたが、そこでのタンさんの演説を全部上映できたのも良かった。みんな久しぶりに見るタンさん節に懐かしそうでもあった。

わたしがこうした報告をできるのもCNC-Japanのみなさんのおかげなので、多少の恩返しできたかと思う。ところがだ。会の終わりにニンザルンさんが感謝の気持ちということで、1万円の謝礼の入った封筒をくれた。

これでまた借りができてしまったというわけで、CNC-Japanのみなさんとまたよい活動ができたらと思う。

タンさんの演説


CNC-Japanメンバーと参加者の意見交換