2016/01/31

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(6)

2.3. 全土停戦合意(NCA)
全土停戦合意(Nationwide Ceasefire Agreement, NCA)は、ビルマ政府と非ビルマ民族所組織が進めてきた和平プロセスの最終段階をなすものであるが、ビルマ軍の攻撃、ビルマ政府への不信などから、いくつかの非ビルマ民族組織は合意に参加せず、「全土」というわけではなくなった。

合意に参加した組織は、ビルマ政府を除けば、チン民族戦線(CNF)、民主カレン寛容軍(DKBA)、カレン民族同盟(KNU)、KNU/KNLA平和評議会(KPC)、パオ民族解放機構(PNLO)、シャン州復興評議会(RCSS)、アラカン解放党(ALP)、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)。ABSDF以外の7組織が非ビルマ民族組織。

参加していない主な組織はカチン民族、パラウン民族、シャン民族、アラカン民族、モン民族などである。



2016/01/30

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(5)

2.2. 全土停戦コーディネーション・チーム(NCCT)

以下は全土停戦コーディネーション・チーム(NCCT)を構成する16の組織であり、このうち*印を付した6組織が今回の合意に参加した。

アラカン解放党(Arakan Liberation Party)*
アラカン民族評議会(Arakan National Council)
アラカン軍(Arakan Army)
チン民族戦線(Chin National Front)*
民主カレン寛容軍(Democratic Karen Benevolent Army)*
カレンニー民族進歩党(Karenni National Progressive Party)
カレン民族同盟(Karen National Union)*
KNU/KNLA平和評議会(KNU/KNLA Peace Council)*
ラフ民主同盟(Lahu Democratic Union)
ミャンマー国民民主同盟軍(Myanmar National Democratic Alliance Army)
新モン州党(New Mon State Party)
パオ民族解放機構(Pa-Oh National Liberation Organization)*
パラウン州解放戦線(Palaung State Liberation Front)
シャン州進歩党(Shan State Progress Party)
ワ民族機構(Wa National Organiztion)
カチン独立機構(Kachin Independence Organization)


2016/01/29

地獄の施設(Une Maison en Enfer)

『シーズンズ 2万年の地球旅行』を見にいった。これはフランスの映画で、原題は”Les Saisons”だ。

狼やら熊やらバイソンやらを撮影したドキュメンタリーで、その映像には驚かされたが、それはともかくある場面で「昔は人間は自然とともに暮らしていた」というようなナレーションが入った。

それは現在のような人工的生活環境との対比での言葉だが、人間も自然の一部なのだから、人工的といえども人間が作ったものであるかぎり、自然であるのは言うまでもない。蟻塚や蜂の巣が自然の一部であるのと同じだ。

映画は野生の動物を扱ったものであるが、野生というのが家畜化されていないことや、動物園の檻の中で飼育されていないということを意味するのであるならば、われわれもやはり野生である。

ということは人間のあらゆる文化は野生であり、わたしがやむなく関わりを持っている入管の収容もやはり野生の事柄である。

だが、そこに収容されている人々はどうだろうか?

檻の中に閉じ込められているこれらの人々は、野生ではなく、ゆえに自然でもない。非自然的存在だ。となると被収容者はわれわれ野放しの野良動物とは異なることとなる。

おそらく入管に収容されている人々の目には、外にいるわれわれが野蛮に映っていることだろう。

そんなことを考えていたら昔のフランスの作家バルベー・ドールヴィイの言葉を思い出した。

「思うに、地獄は、地下室の窓から覗き見たときのほうが、地獄全体を上空から一望したときより、はるかに恐ろしいすがたをあらわすことでしょう。」
「ホイスト勝負の札の裏側」より(中条省平訳)

タイトルは駄洒落。

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(4)

2. 全土停戦合意に至るまで
2.1. 停戦交渉の過程

ビルマ政府の非ビルマ民族に対する抑圧的政策、迫害は、チン民族のみならず多くの非ビルマ民族の反発と不信を生み、1949年のカレン民族による武装蜂起以降、多くの非ビルマ民族がビルマ政府・軍に対する「防衛戦争」に突入していった。停戦の試みは幾度かなされたが、相互不信により実現せず、実現した場合でも非ビルマ民族全体ではなく単独の民族との協定であること、そしてビルマ政府が協定を不履行・破棄した結果、永続的なものでも、また全国的なものでもなかった。

しかし、2011年3月に成立したテインセイン大統領政府は、ビルマ国内の平和を課題の一つとして掲げ、各民族政治組織・軍事組織との停戦交渉を進めることになった。ただしシャン州北部とカチン州では戦争が続いている。

CNFは2011年11月にビルマ政府との交渉を開始。2012年にかけて2度の交渉が行われ、停戦合意の前段階となる合意が結ばれた。一方、交戦中の非ビルマ民族政治組織からなる全土停戦コーディネーション・チーム(NCCT)とビルマ政府による包括的な交渉も2013年以降、たびたび行われてきた。


2016/01/28

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(3)

1.2. 在日チン民族協会とタン・ナンリヤンタン氏

日本にチン民族難民がやってきたのは1990年代始め。教会を中心に徐々にコミュニティを形成し、政治活動を含む支援活動を行う。在日チン民族協会(Chin National Community in Japan, CNC-Japan)という政治団体として公式に活動を始めたのは2001年から。2004年に公式に結成される在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN-Japan)の創立団体の一つとなる。現在は100人以上のチン人会員が所属している。

CNC-Japanの初代会長を務めたのがタン・ナンリヤンタン氏(Thang Nang Lian Thang、以下タンさん)。彼は1988年の民主化活動においてチン民族の政治的リーダーとして活動し、その後、来日。日本においては、在日チン・コミュニティの指導者として活動し、非常に早い段階から、非ビルマ民族の政治活動と難民認定申請の重要性を認識し、チン民族の政治活動・難民申請支援を行う。

さらに、AUN-Japanの創立者の一人として、日本における非ビルマ民族政治運動を牽引する。また、認定難民の一人として、UNHCRなどと協力して難民委員会を運営。のちにアメリカに移り、難民認定後、市民権を得る。現在はアメリカ、タイ、ビルマ国内でチン民族のための政治活動を行っている。現CNFの議長である。


2016/01/27

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(2)

このようなチン民族の状況は、2つの帰結を引き起こした。ひとつは1988年のチン民族戦線(Chin National Front, CNF)の結成である。1988年8月の大規模な民主化要求運動のきっかけとなった学生デモの直後3月20日に結成されたこの政治・軍事組織は、チン民族の自己決定権の獲得とビルマの民主主義と連邦制の確立を目的として掲げ、チン民族としては初めてビルマ政府に対する組織的武装抵抗を行った。CNFは現在、チン民族を代表する政治組織としてビルマ政府との交渉に当たっている。

もうひとつの帰結は、ビルマ国外へのチン民族の難民の流出である。チン州と国境を接するインドばかりでなく、マレーシア、シンガポール、タイ、オーストラリア、欧米諸国、そして日本にチン難民のコミュニティが存在する。これらの亡命チン民族は、それぞれの居住国でチン民族のための政治活動や人権支援活動を行っており、その影響力は非常に大きい。

今回、停戦合意式典に出席したチン民族代表でも、国外で政治活動を続けてきた人々が重要な役割を果たしている。

例えば、サライ・リヤンムンサコン博士(Dr. Salai Lian Hmung Sakhong)はチン民族随一の政治学者であり、またヴィクター・ビヤックリアン氏(Victor Biak Lian)さんは、国際的なNGOであるチン人権機構(CHRO)のディレクターである。

そして、今回の式典でCNFを議長として率いるタン・ナンリヤンタンさんは、日本で難民として認定され、また日本の非ビルマ民族運動を作った一人ともいえる政治活動家である。


2016/01/26

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(1)

1. チン民族の政治運動
1.1. チン民族とチン民族戦線
ビルマ西部のチン州、北東インド(ミゾラム州など)を中心に居住する民族グループ。多様な民族集団に分かれ、同系の言語を話すものの「村が違えば通じない」と言われるほど異なっている。キリスト教徒がほとんどだが、仏教徒もいる。

チン民族は1947年2月にビルマ民族、カチン民族、シャン民族などとともにピンロン協定に署名し、ビルマ連邦の一部としてイギリス領からの独立を果たした。しかし、ビルマ連邦政府においては、ピンロン協定で保障されたチン民族としての自己決定権は否定され、実質的には中央ビルマ政府の「植民地」となり、チン民族は他の非ビルマ民族と同じく、ビルマ政府、そしてその後の軍事政権からのさまざまな差別や迫害に苦しむこととなった。チン州内においては駐留するビルマ軍による人権侵害や女性に対する性暴力などが報告されている。

チン州はカチン州などに比べて資源に乏しく、非常に貧しい。また、長年にわたって政府からないがしろにされてきたため、教育やインフラの点でもっとも開発が進んでいない州とみなされている。

式典の会場

2016/01/25

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」報告

在日チン民族協会(CNC-Japan)主催で、わたしが報告者を務める報告会「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」が2016年1月17日の夜、品川区きゅりあんの会議室で開催された。

日本人の方は5人来てくださった。最初はチンの人も少なく、若干悲しい気持ちになったが、始まってしばらくすると、たくさん来てくれた。教会のほうで会議があったとのことだった。

プログラムは会長のニンザルンさんの挨拶と、わたしの報告のふたつだけで、2時間半のうち、ほとんどを報告に当てることができた。署名式典に先立ってヤンゴンでチン民族を対象としたワークショップが行われたが、そこでのタンさんの演説を全部上映できたのも良かった。みんな久しぶりに見るタンさん節に懐かしそうでもあった。

わたしがこうした報告をできるのもCNC-Japanのみなさんのおかげなので、多少の恩返しできたかと思う。ところがだ。会の終わりにニンザルンさんが感謝の気持ちということで、1万円の謝礼の入った封筒をくれた。

これでまた借りができてしまったというわけで、CNC-Japanのみなさんとまたよい活動ができたらと思う。

タンさんの演説


CNC-Japanメンバーと参加者の意見交換

死者の名前(6)

彼は独身で、結婚歴もない。ただ、ビルマに母と姉がいるきりだということだ。

遺体が発見された当日、同僚がビルマに電話すると姉が出て、弟の死のことは母には知らせないようにしてくれと頼まれたそうだ。

というのも、彼の母には心臓の持病があり、また、つい最近もう一人の息子を亡くしたばかりだという。たった一人残された息子の訃報が最後の一押しをするのではないかと慮ってのことだ。

そのようなわけで彼の葬儀は行わないということになった。どのような経路で母に伝わるかわからないからだ。今頃彼の骨は東京のどこかに落ち着いていることだろう。

彼の死を知らせてくれた人はわたしにも念押しした。「このことは絶対に話さないでくれ」と。

だが、わたしはここに彼のことを書いた。なぜなら、わたししか彼のことを書く人はいないように思えたから。そして、こうしたことはすぐに書かないと忘れてしまうものだ。しかし、名前を含めて特定されうるようなことには触れなかったつもりだ。

彼は背が高く、長髪で、黒い革ジャンに革のズボン、しかも鋲や鎖が付いてるごついものが好みだった。まるでロックミュージシャンのようだったが、身のこなしはヒョロヒョロとして乱暴なところはなかった。同様に性格も温和で、怒りとは無縁だった。少々頼りないところはあったが、人々はそれを大目に見ていた。それを補うだけの人柄の良さがあったからだ。

斟酌すべき事情のために失われた死者の名前の代わりに、彼についてわたしの知るところをここに書き記した。

去年の8888デモ。

死者の名前(5)

それから、ずっと前のことだが、やはり署名のために御徒町で待ち合わせをしたことがあった。彼から御徒町駅についたとの連絡が入ったので、BRSAの事務所から駅に向かう。しかし、着いてみると彼の姿はどこにもない。

イライラしながら彼を探す。電話をしても出ない。いまいましく思いながら駅前に立っていると、彼が駅とは違う方向からやってきた。手に提げていた袋をわたしに差し出す。中身はケーキで、すぐ近くのコージーコーナーで買ったものだった。

彼がこれを買いに行っている間待たされていたかと思うと釈然としなかったが、家で子どもと食べた。

今となっては遅いのだが、わたしはもう少し彼に親切にできたのではないかと思う。病院に連れて行ったり、医療費を負担したり、電話が入ったらすぐに駆けつけて署名したり……は無理としても、いつものように乱雑な字ではなく丁寧な字でサインすることぐらいはできたはずだ(意味ないか)。

去年の8888デモ。

2016/01/24

死者の名前(4)

2015年8月23日の日曜日、池袋で開催されたNLD日本支部の20周年記念式典に出席していると、例のごとく彼がサインが欲しいといきなり電話してきた。

「今池袋にいるんですけど、いつ終わるかわからないので、8時ごろ池袋駅から電話してもらえますか?」

8時になった。彼から電話がかかってくる。「駅で待っていてもらえませんか」とわたし。というのも、会場では食事が振舞われていたから。

式典が終わってもすぐには行かなかった。みんなと飲みに行くことになったのだ。わたしは居酒屋に身を落ち着けてから、ようやく彼に電話して、池袋駅に向かった。

しかし、いったい彼がどこにいるかわからないのだ。電話をかけても通じない。通じても要領を得ない。彼を待たせて意趣返ししたつもりだったが、そのバチが当たった格好だ。

あちこち歩き回った挙句、北口の改札口前で彼を見つけ、署名を済ますことができた。そして、これが彼と会った最後となった。

NLD日本支部結成20周年式典

2016/01/23

死者の名前(3)

とはいえ、彼が単なる酒飲みで、難民ではなかったというわけではない。彼はその両方であった。ただし、酒のせいで難民どころではなかった。

というのも、わたしは彼が自分の難民性を証明するために必要とされていること、例えば政治問題について学んだり、政治集会に参加したり、反政府デモで汗をかいたりすることに熱心であったとはどうも思えないからだ。

そのような積極性を妨げる何物かが心の内にあり、彼はそれを酒でなだめるしかなかったのだ。その何物かと、彼が難民であることとはどのような関係にあったのだろうか? その答えはもはやわからない。

署名をもらいに来る時、彼はたいていその前日に連絡してきた。いくらわたしが暇な人間でもたまには用事が入る。急に言われても困る。しかし、サインするのは身元保証人としてのわたしの義務だ。やりくりして対応しなくてはならない。「入管に明日行かなくてはならなくて」というが、仮放免許可書には前もって次の出頭日が記されているはずだ。ひどい時には当日に電話してきたこともあった。

そんなわけで、いきなりサインが欲しいと言ってきても、簡単には応じるもんかという気もしてきた。彼の都合に振り回されるのがシャクに触ったのだ。

品川入管のバス停

2016/01/22

死者の名前(2)

その死因についてはわたしは、自殺でも他殺でもないこと以外はわからない。昨日(21日)、警察から彼の遺留品が返されたというから、その死に関してはケリがついたのだろう。

彼のことをよく知る人は、ずいぶん前から体調が悪かったようだという。病院に早く連れて行ってあげればよかったとその人は悔やんでいたが、それはなかなかできることではなかった。難民認定申請中の彼には保険がなかったから。

無保険でも病院は診てくれる。支払いに関しても、分割払いなどで対処してくれることもある。だが、その交渉そのものに非常なエネルギーが費やされる。ある程度の金銭的余裕か精神的余裕がなければ無保険者は病院には行けないのだ。

もっとも、彼が難民として認められて、十分に医療を受けていたら死ななかったかというと、わたしには何とも言えない。

というのも保険があったとしても飲酒が止められるとは限らないから。

わたしには彼がアルコール依存であったかどうかは判断できないが、仮放免延長のため、身元保証人の署名をもらいに数ヶ月ごとにやってくる彼には酒の匂い、そして酒を隠れ家とする人がしばしば見せる気弱な感じがまとわりついていた。

身元保証している別の難民がくれたお酒

死者の名前(1)

1月10日日曜日、カチン州記念日式典の始まる前、ある在日ビルマ難民から留守電が入った。メッセージを聞いてみるが音が悪く何を言っているかよくわからない。「また電話します」とかろうじて聞き取れた。かけ直してみるが不通。そのうちまたかかってくるだろうとそのままにしておいたら、1月14日木曜日にもう一度かかってきた。

そこで、身元保証している難民認定申請者が死んだことを知った。

遺体が発見されたのは10日、わたしに電話があった日だ。

死者はある職場の寮に暮らしていて、人手が足りない時に仕事を手伝い、それでもらうお金で暮らしていた。1月7日木曜日は仕事に出てきたが、金曜日は呼びに行っても出てこない。おおかたどこかに出かけているのだろう、と同僚は思い、鍵のかかった部屋を後にした。

ところが、土曜日も日曜日も姿を見せない。彼には飲酒の癖があり、あてにならないところがあったようだが、これはなにかあったに違いない。

心配した仲間が部屋の鍵を開ける。と、そこには死者がいた。

カチン州記念日の踊り

2016/01/20

すぐやらない人、すべてを失いかける(3)(ネーピードーの虹 序章:5)

確かバンコクのビルマ大使館では午前に申請して午後にビザが取れたはずだ。何年も前に一度やったことがある。インターネットで調べるとどうやらまだやってるらしい。

ならば、とわたしは考えた、10月1日(木)にパスポートを取って、その夜の便でバンコクに向かう。そうすればその翌日金曜日にバンコクのビルマ大使館でビザが取れるから、その次の日、つまり3日にはヤンゴンに入れる。念のため調べてみると、10月2日はタイの祝日やなんかではなかった。

だが、もし書類の不備で1日にパスポートが出なかったら? あるいはバンコクの大使館がビザの即日発給を停止していたら? 旅行代理店の人が言うには、バンコクでヤンゴン行きに乗れなかった時点で、帰国の便の予約も無駄になるという。ひとつでも狂えばすべてがパーになるのだ。

おお、すぐやらなかったばかりに、こんな窮地に陥るとは。

しかし、すぐやらない人であると同時にバカな人でもあるわたしは、もう何も考えずに10月1日深夜発のバンコク経由ヤンゴン往復航空券を購入した。

ミャウンミャに到着するバス

2016/01/19

すぐやらない人、すべてを失いかける(2)(ネーピードーの虹 序章:4)

しかし、もう9月の半ばだ。このまま待っていたら、旅行期間そのものが短くなってしまう。そんなわけで、9月19日に近所の旅行代理店にチケットを買いに行った。10月4日に日本を出て18日に帰国するという旅程を告げ便を調べてもらうと、良さそうな便があった。そこはいつも利用するところなので、わたしのパスポート情報なども登録されている。そのまま予約しようとすると、担当の人が言った。

「パスポートの有効期限が6ヶ月ないので予約できませんよ」

パスポートの取得には通常1週間かかる。だが、その日はシルバーウィークの最初の日。来週の木曜日まで旅券事務所は開かない。てことは、どんなに早くても、新しい旅券が手に入るのは、その1週間後、10月1日だ。それからすぐにビルマのビザを申請しても受け取るのは翌週の10月5日月曜日。どう考えても、日本を出られるのはその日の午後以降だ。順調にいってもミャウンミャに着くのは7日午後になるだろう。

サムソンさんにそう予定を送るとすぐ返事が返ってきた。

10月5日午前に選挙の事務所開きを行うのでそれまでに来られたし。

7日に着いたのでは遅いのだ。

10月1日にパスポートを手に入れて、5日にミャウンミャにいるにはどうしたらいいか。密入国を除けば、わたしの知るかぎりひとつしか方法はなかった。

ミャウンミャの風景

2016/01/18

すぐやらない人、すべてを失いかける(1)(ネーピードーの虹 序章:3)

『結局、「すぐやる人」がすべてを手に入れる』とはBRSAの副会長の藤由達蔵さんの本のタイトルで、非常な好評を博しているとのことだが、それもそのはず、この言葉ほど真実であるものはないからだ。このわたしが保証する。というのも、わたしはすぐやらなかったばかりにすべてを失いかけたのである。

サムソンさんからのメールを受け取った後、早速9月末のスケジュールを調べた。うまい具合に空いている! と確認したわたしは、心安らかに手帳を閉じたのだ……おお、それにしても、出発日の設定とはなんと難しい作業だろうか! わたしは旅行するに先立ち、出発日だけはできるだけ最後に決めたい。なぜなら、出発日がその旅のすべてを決めるような気がするからだ。むしろ旅が終わってから決定したいくらいだ。

そんなわけで、わたしは出発日を決めるのを先延ばしにしていた。それはわたしのすぐやらない性質によることもあるが、状況が不確定であったためでもある。

サムソンさんのメールによれば、9月8日から選挙運動が解禁されるとのことだったが、Facebookを見る限り、彼自身は始めた様子でもなかった。7月末にメッセージでボーガレー行きの10日前に連絡すると伝えてきたから、もしかしたら遊説計画がずれ込む可能性だってないわけではない。わたしとしてはミャウンミャで無駄に待たされるのはいやだったので、ギリギリまで旅程を決めないでいようと考えていたのだった。

藤由さんとこの本については別に書きます。

2016/01/16

第68回カチン州記念日式典

1月10日、第68回カチン州記念日式典が池袋の豊島区民センターで開催された。

カレン新年祭の後で、少々酔っ払っていたが、そんなことには構わず、出席した。

座って、カチンの人々が準備しているのを眺めていると、先ほどBRSAの講演会でお世話になった渡邊彰悟弁護士と田辺寿夫さんがやってきた。

田辺さんはカチン民族の服を着ている。そして式典が始まると、通訳として壇上に立ったのであった。まったくすごい人だ。

式典の内容は特に新しいものはないが、総選挙の結果を受けてスーチーさんにカチン民族としても期待しているとのスピーチがあった。

また、恒例の表彰式があり、今度は渡邊先生が壇上に呼ばれて記念品を受け取っていた。

式典の後の第2部は、いつものように歌、踊り、寸劇。

日本で生まれ育ったカチンの女の子がいて、普段カチン語を話しているのを見たことはなかったが、ステージでソロでカチン語の歌を歌っていたのは感心した。






カレンニューイヤー

カレンニューイヤーのお祭りが、1月10日午後、池袋アカデミーホールで開催された。

ちょうどBRSAの渡邊先生の講演会と重なっていてはじめからは出られなかったが、会場がすぐ後ろなので、終わるとすぐにみんなと行って少しだけ参加できた。カレン料理とビルマ料理もありがたいことにまだ残ってた。

今年はとにかく来場者が多く、おそらくこれまでで一番ではないかと思う。

また、カレンの踊りもはじめて見るもので、聞けばより伝統的なものに近いのだという。

日本社会とのつながり、そしてカレン文化の表現がさらに深まったようで、在日カレン人コミュニティがより成熟していると感じられた今年のカレン新年祭であった。

以下に写真をいくつか。







渡邊彰悟弁護士講演会(5)

出席者たちはまだまだ渡邊先生に聞きたいこと、言いたいこと、訴えたいことがあるようだった。だが、時間の関係で打ちきらざるをえなかった。

最後に感想を若干述べさせてもらえば、今回の講演会はわたしにとって非常に励まされるものだった。

渡邊先生が話されたように、現在のビルマ難民申請者の状況は非常に厳しい。

わたしもその厳しさを十分承知しているだけに、どうしても悲観的にならざるをえなかった。あたかも沈没船の船長のような気持ちでBRSAの会長をしていたのだった。だが、実は違うのだ。状況は厳しいけれど、だからと言って入管が正しいというわけではないのだ。入管が不正を行い続ける限り、われわれにはそれをより良きものにする機会、つまり、状況を変えるチャンスはまだ残っているのだ。

よかった! 入管が不公正で!

おお、それに渡邊先生の「ふざけるな!」。

わたしだって同じことを感じてはいたが、渡邊先生のような経験のある人から言われると余計に響く。気分が晴れる。もうやみつきだ。

またぜひ渡邊先生に講演においでいただいて、入管の問題に困っている人々とともに「ふざけるな!」を聞きたいものだ。


2016/01/14

渡邊彰悟弁護士講演会(4)

講演会では入管の「ふざけるな!」行為が次から次へと取り上げられていった。

例えば、難民認定申請者は入管のさまざまな手続きの場で、申請を取り下げて帰国するように圧力をかけられる。難民審査に関わりある職員が申請に対する判断としていうのならありうるかもしれないが、そうではない。難民審査と関係のない職員までが言うのである。一体何の権限があるのだろうか? 「ふざけるな!」だ。

また、難民認定申請者のうちある者は就労を認められていないが、実際は生きていくために働かざるをえない。入管は就労禁止を何とか徹底させようと申請者が携帯する書類のために特注でハンコを作った。「職業または報酬を受ける活動に従事できない」とのハンコがポン!

しかし、これは難民の生きる権利をないがしろにする行為ではないか? 難民認定申請者は守られねばならないのだ。「ふざけるな!」だ。

さらに出席者たちは、最近入管が不意打ちで難民認定申請者の自宅にやってくることを渡邊先生に報告する。入管は、働いていないか調べたり、部屋に入り込んで、どんなものを持っているかチェックしたりするのだ。ちょっとでも不相応なものがあれば、「仕事していないのにどうしてそんなものを持っているのか」などとイヤらしく質問するのも忘れない。一体何の意味があってこんなイヤガラセをするのだろうか。難民認定申請者には人間の尊厳などないのだろうか。「ふざけるな!」だ。

入管は申請者の家に入る時、申請者がこれに同意したことを記した紙に署名させる。これについて渡邊先生は言う。「署名などする必要はない! 家に入れる必要もない!」と。

だが、申請者たちは恐れを口にする。もし拒否したら、そのまま入管に収容されるのではないかと。そこで渡邊先生「では、私のところにいつでも電話してきてください!」


渡邊彰悟弁護士講演会(3)

さらに講演会では、難民の法的立場や手続きに関する質問も出て、これについても渡邊先生は丁寧に解説してくださった。

この点に関しては省くが、意外に思ったのは、日本で何年も暮らし、自ら難民認定申請を経験し、中には認定された人もおり、また他のビルマ難民の助言などもしている人もいるのに、日本の難民審査のシステムについて十分理解していない人が多いことであった。

日本人でさえ知らない人が多いのだから、しょうがないといえばしょうがないが、当の難民申請者本人が自分の立場や審査のプロセスについて明確なイメージを持っていないということは、現在の難民審査システムの致命的な欠陥ではないだろうか。

考えてみれば、難民申請者が入管で出会う職員は、どちらかというと申請者を怯えさせたり不安にさせることにばかり熱心で、安心して申請や審査に臨めるように配慮したり、懇切丁寧に説明するような仕組みはまったく存在しないのであるから、当然のことだ。

それを担っているのが、われわれNGOだが、こんなことは本当は国がちゃんとすべきなのだ。

「ふざけるな!」とわたしは言いたいが、この言葉こそ、渡邊先生が講演において入管に対してなんども投げかけた言葉なのであった。

2016/01/13

渡邊彰悟弁護士講演会(2)

さて講演会の内容だが、まず日本のビルマ難民の状況についての話をまとめる(渡邊先生の言葉そのままではないのに留意されたい)。

1)日本の難民認定は非常にハードルが高い。特にビルマ難民は世界的水準でいうと8割がた難民認定されているが、日本ではそうなってはいない。この状況に変化が起きる可能性は少ない。

2)現在のビルマの変化を受けて、入管はビルマ難民に対して厳しい扱いをするようになっている。特に「ビルマ民族の民主化活動家」にはビザを出さない方針で入管は動いている。非ビルマ民族でも非常に難しい。

3)入管のこの方針は間違っているが、これが変わる見込みはないだろう。

4)しかし、欧米で今なおビルマ国民が難民として認定されているように、欧米諸国では「ビルマ国内の人権状況は変わっていない」というのが共通理解となっている。

5)その根拠は、非民主的な憲法と、国内の政治囚の存在だ。

6)したがって現在難民認定申請中の人は、ビルマの人権状況に関する資料を集め、証拠として粘り強く提出していくことが重要となる。

BRSAの会員の大部分を占める「ビルマ民族の民主化活動家」の難民申請者は現在の入管の立場では認定の見込みがないというのは、わたしもそんな気がしていたが、渡邊先生の口からはっきり言われるとやはり衝撃的だ。



渡邊彰悟弁護士講演会(1)

1月10日池袋にて、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)主催の「渡邊彰悟弁護士講演会:在日ビルマ人と難民問題」が行われた。

会場の開く13時に準備のために行くと、もう渡邊先生がいらしていて、薄暗い中で待っておられた。開始時間が間違って伝わったようで責任者のわたしとしては申し訳ないかぎりだ。

どれだけ集まるか不安だったが、結局、50人はいる会議室が満員になった。ほとんどがビルマの人々で、しかも、BRSA会員以外の人々もたくさん来てくれた。その中には在日ビルマ人コミュニティの主なリーダーも含まれていた。

これだけ集まったのは、渡邊先生、そして通訳してくださった田辺寿夫さんの存在はもちろんのこと、呼びかけてくれたBRSAの幹部の努力もあったと思うが、なによりも現在の在日ビルマ難民の不安定な状況をどう向上させるかについて切実な関心をこれらの人々が抱いているからに違いない。

2時間の講演会は、出席者からの活発な質問や意見を交えながら行われ、全体として密度の濃いものであった。

マン・サムソン(2)(ネーピードーの虹 序章:2)

とはいえ、彼は頭の固い民族主義者などではない。それどころか、彼はわたしが出会ったカレン人のうちでもっとも教養を持ち、もっとも柔軟な考え方をする人のひとりだ。これは明らかに良い教育者が備えているべきものであるが、ミャウンミャのどこでも彼の教え子のカレン人に出くわして、敬意をもって遇されるのを見れば、その通りであることがうかがわれる。

ただし、わたしが知る彼は、ミャウンミャのポーカレン文化委員会で要職に就いている以外は、いかにも市井の隠者といった趣で、政治運動の気配など微塵もなかったから、彼のメールを見て驚いたのだった。

もっとも、彼がメールを寄越したのは、選挙とは別の理由からだ。わたしは数年前からボーガレー虐殺という1991年のカレン人虐殺事件について調べていて、その件でサムソンさんにも協力してもらっていたのだが、このボーガレーには一度も行ったことがなかった。それはもっとも海に近い僻地の町だということもあるが、なによりもそこにツテがなかったからだ。

わたしの関心を知るサムソンさんはありがたいことにそのことを気にかけていてくれた。それで、自分のボーガレー行きに同行したらどうかと誘ってくれたのである。

ミャウンミャの喫茶店

1月と2月のビルマ関係のイベント

以下は1月から2月にかけての在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)とビルマ関係のイベントをまとめたもの。BRSAのイベントに関しての問い合わせはcyberbbn@gmail.comまで。

【1月17日(日)】
14時〜16時 BRSA日本語教室(御徒町BRSA事務所) 

18時〜20時30分 在日チン民族協会主催「ネーピードーの虹:少数民族と停戦交渉(報告者:熊切拓)」(品川区きゅりあん4階第1グループ室・大井町)

【1月24日(日)】
14時〜16時 BRSA日本語教室(御徒町BRSA事務所)

【1月31日(日)】
13時30分〜17時 BRSA月例会議&BRSA日本語教室(南大塚地域文化創造館)

18時〜20時 BRSAセミナー(御徒町BRSA事務所)
内容:「雲南省に桃源郷を見た!」
2015年3月の雲南省で開催されたカチンのマナウ祭りの報告。

【2月14日(日)】
17時〜 ビルマ連邦記念日式典(豊島区民センター6階文化ホール
18時〜 シャン民族記念日(池袋アカデミーホール

【2月21日(日)】
18時〜 チン民族記念日(品川区立中小企業センター、東急大井町線下神明駅徒歩2分)

*1月31日はカレン民族同盟記念日が開催されるが、特に式典などは行わないとのこと。
*2月11日ごろ行われるカレン民族記念日式典については不明。
*モン民族記念日についても今のところ情報なし。

昨年のチン民族記念日式典

2016/01/12

マン・サムソン(1)(ネーピードーの虹 序章:1)

2015年7月27日、わたしのもとに一通のメールが届いた。


あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいで
んなさい。とびどぐもたないでくなさい。

間違えた。こっちだ。

「今度の選挙でカレン民族党(Karen National Party)から立候補することになりました。選挙運動を9月8日に始め、その月の終わりにはボーガレーとオンビンズを訪問する予定。同行歓迎。カレンの人々の話をもっとたくさん聞くにはうってつけの機会だと思います。 マン・サムソン。」

マン・サムソンさんというのはミャウンミャ在住のポー・カレン人で、ミャウンミャにカレン民族のことを調べに行くたびに色々お世話になっている方だ。

彼はみんなから先生と呼ばれているが、ビルマ政府の学校の先生ではなく、自宅で英語とコンピュータの私塾を経営している。カレン人としての節を曲げるにしのびず、ずいぶん昔に辞めてしまったのだという。いっぽう奥さんは学校に勤めていて、彼は一度わたしにこんなことを言ったことがある。

「妻に比べて私は社会的には失敗しているがね!」

もっともこの「失敗」はビルマ政府もしくはビルマ民族と折り合いをつけるのに失敗したということであり、それは経済的には失敗かもしれないが、カレン民族的には「成功」と言ってもいい。


ミャウンミャの道

2016/01/09

ネーピードーの虹(ビルマ政治観光旅行) 構成と旅程

【序章】
10月1日 夜、羽田を出発。

10月2日 早朝、バンコク着。ホテルにチェックイン後、ビルマ大使館に行き、ビザ申請と取得。

10月3日 朝、ヤンゴンへ。カレン人の友人と会う。ヤンゴン泊。

【第1章 ミャウンミャ】
10月4日 エーヤーワディ・デルタの町、ミャウンミャへバスで移動。ミャウンミャ泊。

10月5日 カレン民族党(KNP)出陣式に出席。KNP党首らにインタビュー。ミャウンミャ泊。

10月6日 ミャウンミャ近くのテインラー村再訪。1991年のカレン人虐殺事件の被害者へのインタビュー。ミャウンミャ泊。

10月7日 選挙運動に同行しボーガレーへ車で移動。インド系の支持者などに会う。ボーガレー泊。

10月8日 ボーガレー近隣の村訪問。ミャウンミャへ帰る。ミャウンミャ泊。

【第2章 ヤンゴン】
10月9日 朝、ヤンゴンへ移動。チン民族指導者ナンリヤンタンさんに合流。チン人の聖書翻訳者に会う。ヤンゴン泊。

10月10日 チン民族戦線(CNF)のチン民族代表を対象としたワークショップに参加。そののち、CNF会議。ヤンゴン泊。

10月11日 ヤンゴンのチン民族の教会訪問。ナンリヤンタンさんの親戚の家とチン人活動家が代表を務めるNGO訪問。ヤンゴン泊。

10月12日 チャウタダ郡裁判所でネーミョージンと面会。夜、CNFの友人とパーティ。ヤンゴン泊。

10月13日 チャウタダ郡裁判所で学生活動家と面会。ニョニョティン候補の選挙事務所訪問。ヤンゴン泊。

【第3章 ネーピードー】
10月14日 チン民族代表団・カレン民族代表団とともにネーピードーへ。ネーピードー泊。

10月15日 NCA式典出席。ネーピードー泊。

10月16日 ヤンゴンに戻る。カチン民族の教会訪問。ヤンゴン泊。

10月17日 買い物。休息の日。ヤンゴン泊。

10月18日 帰国。

ネーピードーの虹(ビルマ政治観光旅行) 序言

「ネーピードーの虹」は、2015年10月1日から18日までのビルマ観光旅行を書くシリーズで、大きく分けて3つの出来事が含まれている。ひとつはエーヤーワディ・デルタの町、ミャウンミャで、総選挙に立候補したカレン人の選挙運動に同行した時のことだ。これはあらかじめ大まかに予定されていたことであったが、二つ目のヤンゴンでの政治囚との面会は、到着した時点ではできるかどうか不明であった。そして、ほとんどその直前まで予期していなかったのが、ネーピードーで開催された全土停戦合意(NCA)の署名式典にチン人の代表団の一員として参加した出来事であり、これが三つ目のものとなる。

わたしは普通の観光客であるから、これらの経験はいわば観光コースと言っても間違いではなかろうが、このコースには特異な部分があり、それらは記録するに値するものだ。また観光コースなどにやって来ないジャーナリストにはまったく役に立たないことだろうが、ビルマという国に関心のある一般のツーリストには有益な情報も含んでいると思う。

とはいえ、わたしの関心は政治的問題や非ビルマ民族の政治活動にあるので、わたしの観光コースは結局そうした政治的観光地巡りとなってしまった。「ビルマ政治観光旅行」と副題をつけた所以である。

そもそも政治とは社会全体にかかわるものであるから、このコースに登場する人々も多様だ。政治囚もいれば、大統領もいる。ジャングルの武装勢力の議長もいれば、ヤンゴンのホームレスもいる。民族について言えば、カレン民族、チン民族、ビルマ民族、カチン民族のほか、インド系の政治活動家も姿を現す。若い娘も出てくれば、ヨボヨボの老人も出てくる。あらかじめ言っておけば、多いのは後者だ。

訪れた場所もさまざまだ。辺境の小都市から荘厳な首都、貧しい村落から賑やかな大都市、独房のごとき寝室から宮殿の一室、泥だらけの小型車からVIP専用大型バス、地方裁判所から国家の中枢……わたしはいわばビルマの社会の両端を行き来したのであり、その意味では「ネーピードーの虹」は社会全体の観光の記録である。ゆえに、これを読む者は、ビルマという社会のかなり広い領域をわたしと共に遍歴することとなろう。

2016/01/03

ゴールデン・シティ・ファー

本当に遠くにあって小さくしか見えないんだけど、すごくきれいなんだ。あらゆる大きさと形をした金の塔、どの上にも旗があって。    Gene Wolfe “Golden City Far”

ジーン・ウルフ(Gene Wolfe)の”Wizard Knight”は2部からなるファンタジー小説で、つい去年の12月、邦訳が『ウィザード・ナイト』と題されて4巻本で出版された。わたしがこれを読んだのは刊行されてそれほど経っていない頃で、細かい内容は忘れてしまっているが、この作家らしい皮肉で残酷なリアリズムに溢れている(もっとも優れたリアリズムは常にそうだが)。つまり単なるファンタジー小説ではないというわけで、第2部の”Wizard”の方はほとんど政治小説の趣すらある。

同じウルフの短編”Golden City Far”を最近読んだが、これは高校生が夢で見る異世界の冒険を扱ったもので、同様に10代の少年が異世界に紛れ込んで「英雄」となる“Wizard Knight”と似ている。発表された年もともに2004年なので、着想上の関連性はあるに違いない。

それはともかく、わたしは”Golden City Far”というタイトルを見ると、ビルマの首都ネーピードーを思い出す。

その都市にはビルマ連邦の支配機構が集約され、日本を含むさまざまな外国政府、国際機関、報道機関の使者が参上する中心地であり、権力と富につながる梯子がビルマで唯一架けられた、王者と富豪と覇者の生産地だ。

ただし、そこには古い物語を語って聞かせてくれる村人もいなければ、泥まみれになって働く活動家もいない。つまりわたしにはまったく縁のない土地柄というわけで、ただ、金色に輝く夢幻の都市という非現実的なイメージを持っていたにすぎなかった。つまりわたしにとっての”Golden City Far”であったというわけだ。

しかし、昨年10月、わたしはいくつかの偶然の連鎖により、この「遥かなる黄金の都市」を訪れることになった。そればかりではない、そこで行われた全土停戦合意式典で普段はお目にかかれぬ人々を間近に見る機会を得たのであった。これ自体、わたしにとっては一つの物語のようであり、1月17日の報告会「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」ではわたしの参加に至る経緯についても触れたいと思う。

ウルフのコメントによれば、短編”Golden City Far”で扱われた「夢、高校、愛を知ること」という3つの主題は、彼の見出した最良の物語のレシピなのだそうだ。わたしにとっての”Golden City Far”である今回の報告会は残念ながらその3つの主題のいずれも含まず、しょぼくれた限りだが、しょぼくれたなりに有意義なものにできたらと考えている。

ネーピードーの風景

報告会 「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」のご案内

在日チン民族協会(CNC-Japan)主催報告会

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」

日時:2016年1月17日18時~20時30分
場所:品川区きゅりあん4階第1グループ活動室(大井町駅から徒歩1分)
参加費無料・事前連絡不要
問い合わせ先:cyberbbn@gmail.com(熊切)

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「This is Our Victory Day(今日は私たちの勝利の日だ)」(ナンリヤンタンCNF議長)

2015年10月15日、チン民族、カレン民族などの反政府武装組織はビルマ政府とともに全土停戦合意(NCA)に署名しました。

ビルマ諸地域に平和と発展をもたらすと期待されるいっぽう、非ビルマ民族側からは「降伏だ」と厳しく批判されもするこの合意ですが、その背景には非ビルマ民族ならではの「勝利」の目算がありました。

今回の報告会では、チン民族代表団の一員としてネーピードーで開催された式典に出席した熊切拓が、各民族組織代表とテインセイン大統領を始めとするビルマ軍部が一堂に会したこの歴史的な1日を、署名の瞬間から大統領の椅子や午餐会のメニューまで貴重な映像・写真で報告するとともに、非ビルマ民族政治組織の政治的判断の論理について解説します。

【プログラム】
①在日チン民族協会からのご挨拶(ニンザルンCNC-Japan会長)
②「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(熊切拓)

【在日チン民族協会(CNC-Japan)】
2001年、在日チン民族難民により結成される。チン民族の自由と人権のための活動を続けている。会員数約100人。

【全土停戦合意(NCA)】
ビルマ政府・ビルマ軍と交戦状態にある21の政治組織・武装組織のうち8つの組織と結ばれた停戦合意。署名組織はチン民族戦線(CNF)、民主カレン寛容軍(DKBA)、カレン民族同盟(KNU)、KNU/KNLA平和評議会(KPC)、パオ民族解放機構(PNLO)、シャン州復興評議会(RCSS)、アラカン解放党(ALP)、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)。他のカチン民族、パラウン民族、シャン民族、アラカン民族、モン民族の組織は参加していない。

【チン民族戦線とナンリヤンタン氏】
チン民族戦線(Chin National Front, CNF)は1988年3月20日に結成された政治組織であり、チン民族の自己決定権とビルマの民主主義と連邦制の確立のために活動している。現議長のナンリヤンタン氏は、日本で難民認定されたチン人政治活動家であり、現在はアメリカ在住だが、日本在住時は日本の非ビルマ民族政治活動を牽引した活動家の一人であった。

【熊切拓】
ビルマ少数民族の政治と文化に関するフィールドワーカー。「第1回チンランドの友賞」受賞者。在日ビルマ難民たすけあいの会会長。ブログ:http://cyberbbn.blogspot.jp


2016/01/01

1月10日の池袋

1月10日の日曜日の午後、池袋で在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)が渡邊彰悟弁護士を招いて「在日ビルマ人と難民問題」というタイトルで講演会を開催する予定だが、この日の池袋では他にビルマ関係のイベントが2つある。

ひとつはカレン民族新年祭だ。

これはカレン民族の伝統行事で、歌と踊りの楽しいお祭りだ。場所は池袋アカデミーホール。ちょうどBRSAが講演会を行う豊島区民センターの裏にある。時間が午後1時から午後5時までと、講演会とかなり重なってしまっている。

わたしは日本でこの行事が行われるようになって以来ほぼ毎年参加しているが、今年は残念ながら遅れての参加となりそうだ。

去年はわたしはカレン人のバンドとともにThe Kinksの"You Really Got Me"を歌った。今年も歌いませんかとお誘いがあったが、これはお断りせざるをえなかった。歌う人にとっても聞かされる人にとっても幸いなことだろう。

もうひとつはカチン民族のイベント「カチン州記念日式典」だ。これはBRSAが講演会を行う豊島区民センターの6階文化ホールで18時から開催される。

ビルマにおけるカチン州の創設を記念する式典で、今年は第68回目だということだ。