2016/04/27

子不語

自分では気がつかないでいたがわたしの書くものは読む人にきつい印象を与えるそうで、そこである方が「ですます調」にして柔らかくしたほうがいいと助言をしてくださった。ソフトな語り口で、みんなが楽しめる親しみやすいブログを目指してがんばりたいと思います。

#########

入管に収容されている人のためにしばしば仮放免許可申請をするのですが、たいていは不許可通知が送られてきて残念な思いをします。またわたしの所属している在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の会員には再度の難民認定申請を行っている人も多くいます。つまり1度は、いや2度3度と不認定となったというわけで、これらの人の苦境を思うとまた残念至極です。

ところでなのですが、わたしの友人で妻子持ちの男が、ある女性とひそかに旅に出かけることにしました。

これが今はやりの不倫かどうか、本人たちの見方はわかりませんが、周囲はそう見るでしょうし、わたしもそう思っています。

その彼がいうには、家の者にはわたしといっしょに旅行に行くと告げてあるのだということです。きっとわたしが始終ヒマにしているからうってつけだと考えたのでしょう。

「すきにするがいいが、俺のところに奥さんから直接電話がかかってきたら、ウソはつけないよ」と言ったのですが、それでもいいのだそうです。

彼はわたしと同い年で、同じ大学の出身です。同じ学部、同じクラスで学んだのですが、ずいぶんと暮らしぶりが違いますね。

彼は不倫旅行で楽しいこといっぱいですが、わたしはといえば仮放免不許可に難民不認定と悲しいことばかりです。

同じ「不」なのになんと違うことでしょうか。わたしはこれまで不許可とか不認定とか不可とか不採用通知とかの狭い世界に生きてきたので、この世にこんな楽しげな「不」があるなど思いも寄らぬことでした。

そこでわたしは考えました。どうして自分はそっちの方の「不」と縁がないのだろうか、と。これはまったくの推測ですが、わたしの周囲には不認定と不許可などの「不」がひしめき合っていて、かの楽しそうな「不」が遠慮して近寄ることができないのではないでしょうか?

「不」が「不」を邪魔しているのです。となると、なんとかそっちの方の残念な「不」を追い払いたいところですが、これは入管の難民政策、いやそれどころか日本の移民政策が大変換を遂げなければとても無理なことなのであります。

では、たとえば、不許可とか不認定とかの悲しい「不」を楽しいほうの「不」に変えることはできないのでしょうか?

考えてみましたが、思い浮かびませんでした。

ですが、わたしは同時に気がつきました。ほんの気分だけにしてもなのですが、悲しい「不」を楽しい「不」に近づけようとしてきたのが、わたしを含むBRSAの会員たちがしてきたことではないかということです。

入管での収容を続行させる仮放免不許可についてはわたしたちはどうすることもできません。ですが、面会や仮放免の申請をすることによって、被収容者は希望を持ったり、人間としての尊厳を維持したりすることはできます。

あるいは、たしかにBRSAは「不認定」の難民の集まりですが、この集まり自体を通じて、自分の力を発揮したり、人生に意義付けしたり、生活を豊かにしたり、ビルマをよくするために働き掛けたりすること、つまり、なんらかの希望を生み出すことができるのです。

不倫の具体的・実用的な楽しみに比べて、希望などというとなんとも霞や屁のようで恐縮ですが、議員でもタレントでも乙武クンでもないわたしたちにはこれしかないのですから、この道をひたすら進むべきなのです。人間に希望を与える活動を続けることで、悲しい「不」を希望の「不」に変える「不」断の努力を続けるほかないのです。

そうすれば、楽しいほうの「不」がいつか……それもやはり希望と言うほかありますまい。

その希望が訪れるまでの間は、わたしたちは人間のための着実な働きを続けるべきでしょう。そして、ときおり休んでは静かに本でも読もうではありませんか。























『死の棘』とか……。